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2005年03月05日2つのリアリズムカテゴリー[literature]昨日は日本SF大賞授賞式に行ってきました。文芸誌から離れて幾歳月、いまや出席するパーティは日本SF大賞授賞式ぐらいしかなくなっているのですが、最近、いろいろな事情があって、もういちど文学とか批評について考えています。 そのなかでひとつ考えたことがあります。周知のように、大塚英志は「自然主義的リアリズム」と「アニメ・まんが的リアリズム」を分けました。彼によればそれは遠く明治時代にまで遡る分割なのですが、実際にはそれは、1990年代後半の日本文学の光景を反映したものとして理解すると分かりやすいと思います。「自然主義的リアリズム」と「アニメ・まんが的リアリズム」の分割とは、要は、「J文学」と「ライトノベル」(当時はまだこの言葉では呼ばれていませんでしたが)の分割のことだと考えてかまわないでしょう。 「J文学」のブームは1998年をひとつの頂点としていました。『文藝別冊 J文学マップ』の出版が1998年です。当時は何でもかんでも「J文学」と呼ばれていたので総括は難しいですが、そのイメージの中核にあったのは、読者との共感を重視し、ほどほどに社会的な問題提起も絡めた若い世代の都市小説だったと思います。そこで求められていたのは、伝統的な「文学」から遠く離れた20代、30代の消費者が共感できる、新しい「リアル」を写し取る新しい小説技法です。つまりは、J文学の本質とは、消費社会化された日本を舞台にした、リアリズムの復興運動だったわけです。 他方、1998年というのは、清涼院流水の存在感が無視できないものに膨れあがり、上遠野浩平がデビューした年にあたります。京極夏彦・森博嗣以降の新本格や、上遠野以降のライトノベルは、そのあとも、現代社会を舞台とした荒唐無稽な物語(佐藤心のいう「現代ファンタジー」)を次々と送り出していました。公平に見てその動きは、1990年代後半の日本文学を語るうえで、「J文学」に勝るとも劣らない——マーケットの視点で見ればむしろ勝っている——重要性をもつものだったわけですが、ごく最近まで文芸誌や新聞文化欄のレベルでは完全に黙殺されてきました。そのような状況のなか、『文學界』の連載で孤独に2つのリアリズムについて語っていた大塚氏には、やはりすぐれた批評家的センスを感じます。 ところで問題は、J文学の企図ははっきりしているとして、ライトノベルの文学運動(と呼んでしまいましょう)の中核にあるものはいったいなんだったのか、ということです。大塚氏はそれを「アニメ・まんが的リアリズム」と呼び、アニメやマンガのような視聴覚的なオタク表現からの影響が決定的だと指摘しました。僕はこれは正しい見方だと思いますが、他方、そのような捉え方は、内容的な差異を影響の差異にしてしまうことで、問いをずらしてしまっているようにも思います。実際、アニメやマンガの影響を受けたJ文学作家は数多くいますし、逆にオタク的なアイテムには一切触れてこなかったけれどキャラクター小説しか書けない、という作家だっているはずです。 したがって、僕は、大塚氏が「アニメ・まんが的リアリズム」と呼んだものは、単にアニメやマンガの影響が大きいとか、メディアミックス的手法で作られている、とかいった表層的な理解で受け流すべきものではないと考えています。それはむしろ、非リアリズム的リアリズムというか、いわばオタク版のマジック・リアリズムとして、文学の伝統——「伝統」というのはまたネガティブなイメージがありますが、つまりは文学的想像力の一種の必然的展開として——のなかにきちんと位置づける必要がある。『動物化するポストモダン2』でやりたかったのは、そういうことでした。 いずれにせよ、僕は、1990年代末から2000年代にかけての日本文学(の一角)の光景は、「自然主義的リアリズム」=J文学と、「アニメ・まんが的リアリズム」=ライトノベルの二つの潮流がぶつかって作られていたのだ、と考えると、いろいろ見通しがよくなると考えています。そこで争われていたのは、市場というより、観念です。J文学とライトノベルは、おそらく、小説家志望の多くの若者の頭のなかで、ここ数年文学や小説の中心的なイメージを取り合っていたのだと思うのです。 2005年の冒頭には、阿部和重が芥川賞を、角田光代が直木賞を受賞しました。これは、上記の整理に従うと、「自然主義的リアリズム」=J文学が業界内政治的に勝利し、ついに日本文学の嫡子として認定されたことを意味します。他方、「アニメ・まんが的リアリズム」=ライトノベルは、今年はどこに行くのでしょう。僕は、ライトノベルが文学の嫡子として認められる必要などさらさら感じませんが、いまのように加速度的に消費されるだけなのも寂しい感じがしています。
投稿者:
hazuma
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現代と牧歌
概要: 東浩紀氏(hazuma;TB用文字列)が「2つのリアリズム」と題して、大塚英志氏の図式を言い換えてJ文学とライトノベルについて書いている。僕はどちらも大して(前者はほとんど)読んでいないけど、なんとなくわかってすっきりしたような気になってしまう。あまり関係ないかも...
ブログ名:akyotの日記
投稿時刻:2005年03月07日 10:28
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コメント
阿部和重さんはJ文学なのでしょうか?確かに出自はそうかもしれませんけど、いまやすっかり日本文学の正統みたいになってますけど。
投稿時刻: 2005年03月06日 00:44
いやあ、先生のレベルの高さに平伏低頭するばかりです。
個人的にちょっと関係ない?歴史的にはあるか、ですが、詩人のアポリネールが好きです。ヴェルレーヌも、いいですね。ジャン・コクトーを訳されてる、高橋洋一先生に(コクトーに関する本もあります。)お会いしたこともあります!
そういった世界文学、といった視線、で満足している人、ここでは僕ですね。も、いますねー。単に勉強不足、アンテナが立ってない、と言われればそれまでですけど、僕はアポリネールに捧げた「夢のつづきへ」という曲もつくったりしています。
僕の応援している東野翠れんちゃんの本、「Lumiere ルミエ−ル」なんか女の子の文学だし、地図作製が困難な時代、批評家の先生方が、苦労される時代だ、とは、言えると思います♪
うわ、なんか結論として、先生のような方が分類するにも、非常に困難な時代だと言えると思います。中上健次がどう、とか、あるし。(柄谷先生の大切な親友ですよねえ。)阿部さんはインディヴィジュアル・プロジェクションしか読んでないていたらくですが、(そんなもんです。今の僕は音楽中心です。思想もしてないし。ロラン・バルト教授が待機してるっていう。=エクリチュールの零度。まんがくらい。しかも特定のもの。)
いかに文学を語るのが有効なのか?そして文学を語ることが有効なのか?(すいません。諸先生方。偉そうなこと言ってます。)分類、ジャンル分けの業界的すごみは機能してると、機能不全、多様化の底、など、色々想定されてくるわけで。
結論が長くなりましたが、僕は東野翠れんちゃんや、アポリネール、などの文字列に記号化系列に反射する次第であります。
先生の立ち位置は1990年代くらいから、最早、一定の位置の確保が難しい、ということの徹底された時代、更にはインターネット化した時代なので、特定のものによる限定性、これはロラン・バルト教授が、文学を限定で語った限定性にまでたどり着くを、記号の乱反射や、系列からどれだけ読み込めるかでしょう。
投稿時刻: 2005年03月06日 04:40
>いまのように加速度的に消費されるだけ
>なのも寂しい感じがしています。
全く同感に感じます。
ライトノベルのバブル的な増大を、
他の文芸に繋げる通路がやはり、
非常に細いということがいわば離れ孤島
のようにライトノベルを感じさせ、悲しみを
感じます。
こういった場を繋げてゆくものが、
東先生のファウスト構想の試みであるのかなと
私は思い、こういった通路を繋げる試みは、
素晴らしいものだと思います。
ライトノベルともっとも通じる文学世界は
幻想文学ではないかと思うのですが、
いつか東先生がプロデュースするライトノベル
作品が世界幻想文学大賞に選ばれる日
がやってきたりすると、とても嬉しいですね。
投稿時刻: 2005年03月06日 10:38
阿部さんなんかも蓮実元総長先生との対談でポスモダからモダンをみたいな立ち位置を意識しているという発言をしていますね。阿部さんも立ち位置系なのでしょうか。北田さんが新著で展開されたロマン主義的アイロニーというのも、あえてベタ、という意味で、立ち位置系のことではないでしょうか。だとしたら、あの本は北田さんの自己批判書とも言えるのでしょう。
投稿時刻: 2005年03月06日 11:07