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『嗤う日本の「ナショナリズム」』
投稿日時:2005年03月14日19:15
今回はひさしぶりに「だ・である」調で書いてみよう。
去る12日、ised第3回倫理研が行われた。今回は北田暁大氏の講演。マスメディアのコミュニケーション環境(出版、TV、ラジオなど)とインターネットのコミュニケーション環境(CMC)の差異を形式化しつつ、後者における公共圏の成立不可能性を説くもので、倫理研の問題意識に堅固な基盤を与えてくれる刺激的な内容だった。ディレクターとして北田氏に感謝したい。議事録は1ヶ月半後に公開される予定だ。
ところで、その北田氏の新刊『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス、2005)を読んだ。興味深い本であるのは言うまでもないとして、僕は大きく2つの違和感をもった。isedの討議では触れることができなかったので、簡単に感想を記しておきたい。
■
ひとつめは、歴史認識の大枠についてである。この本は、タイトルと帯文に反して、2ちゃんねるの本でもナショナリズムの本でもない。2ちゃんねる論も一部収められてはいるが、中心は1980年代論である。そして、いまこの時期に1980年代論を出版した意図は、1960年代から2000年代にいたる日本のサブカルチャーの風景を一本の線で繋ぐことにある。
北田氏の議論を支えているのは、連合赤軍から新人類を通って2ちゃんねるまで、それぞれの行動様式は多彩ではあるけれども、実はその背後には(僕の言葉で翻案すれば)「大きな物語なき時代にいかにメタレベルを担保するか」という切実な問題意識が横たわっている、という認識である。連合赤軍の「自己否定」は形式化の果てに「総括」に、新人類の「消費社会的アイロニズム」は同じく形式化の果てに「消費社会的シニシズム」に辿り着き、2ちゃんねるは「繋がりの社会性」を基盤として同じように「ロマン主義的シニシズム」に辿り着いた、というのが彼の分析だ。つまり北田氏は、2ちゃんねるの行動様式は連合赤軍や新人類の延長線上で説明できる、と主張しているわけである。
この議論を呼んで僕が思い出したのは、3年前に笠井潔氏と行った往復書簡だ(『動物化する世界の中で』、集英社新書、2003)。あそこで笠井氏と僕はさまざまに意見が衝突しているが、その中心はまさに、笠井氏が「動物化するオタク」の分析を全共闘の問題と密接に繋げようとしていたのに対し、僕がむしろ両者の差異や切断を主張したことにあった。
笠井氏と北田氏は(さらに付け加えると——詳しい説明は省略するが——僕の「動物化」の時代を「不可能性の時代」と言い換えようと提案している大澤真幸氏も)、全共闘から新人類(とオタク第一世代)へと受け継がれたメタゲームの果てに、いまの「動物化」現象があると考える。僕は、『動物化するポストモダン』でも、またそれ以降も繰り返し主張しているように、そうは考えない。僕の主張は単純に、メタゲームはもう必要とされていないのだ、なぜならば現在のネットワーク環境は(それがいいか悪いかはともかくとして)みんながまったり動物的に生きる文化的世界を用意したから、というものである。むろん、そんな世界でもメタゲームをやりたがるプレイヤーは出てくる(80年代に妙なノスタルジアを抱く若い世代が多いのはそのせいかもしれない)。しかしそれは圧倒的に少数派であり、時代分析の要にはならない。それが僕の2000年代観だ。ここには大きな歴史認識の違いがある。
この差異は世代差による問題ではない。地域差でもない。そもそも僕と北田氏は、同じ年齢で、同じ地方で育ち、同じ大学に通っている。だから、その差異はもっと本質的なものだ。
それはおそらくは、「第三者の審級がない」ということの「ない」の意味をどう捉えるか、という世界観の違いによるものである。1995年以降の日本において、その直前まで優勢だったメタゲーム(アイロニー)が急に失効してしまった、という点では、おそらく、笠井氏も大澤氏も北田氏も僕も意見が一致している。しかし、彼ら3人はすべて、メタゲームのその端的な欠如状態に、メタゲームを存在させない、という高度なメタゲームを読み込んでしまう。その所作は、僕にはとても否定神学的なものに見える。
■
もうひとつ。上記に較べるとぼんやりした話で、したがって以下は殴り書きとして読んでもらいたいのだが、僕は北田氏の1980年代論を読んで、秋元康の名前がほとんど出てこないことが気にかかった。
北田氏の分析によれば、「ノりつつ冷め、冷めつつノる」二重性こそが新人類世代のアイロニーの要であり、その二重性が担保されなくなったところに1990年代後半以降の問題がある。これは最近の宮台真司と深く通じる時代認識だが、しかし、僕の記憶では、おニャン子クラブというのは、すでにそのようなアイロニーを食いつぶす企画だったのではないだろうか。
僕はおニャン子クラブについては、かつてファンだったというだけで、研究も何もしていない。したがって、20年近く前の記憶だけで書きとばすことしかできないのだが、おニャン子クラブという存在は意外と「ベタ」だったと思うのだ。
確かに、おニャン子のコンセプトは要は素人の女の子でもテレビが仕掛ければアイドルになれる、というものだったし、『夕焼けニャンニャン』のレギュラー、とんねるずの振る舞いはそのようなアイロニーを体現していた。しかし、では当時のファンが「僕は『あえて』新田恵利のファンだ」とか「『あえて』美奈代のファンだ」と考えていたかといえば、おそらくそんなことはない。そして、それは決して当時のファンが愚かだったからだけではない(我が身を振り返り、愚かだったことは否定しないとして)。おニャン子クラブというのは、一方でとんねるず的アイロニーに代表されるメタ企画でありながらも、他方ではけっこうベタなアイドル企画だった。そのロマンティシズム、というより少女マンガ的なリリシズムは、たとえば『じゃあね』や『ウェディングドレス』の歌詞によく表れている。
つまりは、北田氏の言葉で言い換えれば、おニャン子クラブにおいては、消費社会的アイロニズムと消費社会的シニシズム、メタとベタがほとんど区別されずぴったりとくっついていた、あるいは——さらに『動ポモ』の言葉で言えば——「解離的に共存」していたのである。そしてその要にいたのが、プロデューサーの秋元康だった。だとすれば、秋元康/おニャン子クラブの分析は、北田氏の今回の枠組みのなかで欠かすことのできないものだったはずだ。少なくとも、僕にとって、1980年代の空虚で、狂乱に満ちた、でもちょっと愛らしい時代精神を代表するのは、糸井重里でも坂本龍一でも浅田彰でも高橋源一郎でもいとうせいこうでもない、秋元康である。
とはいえ、これは(僕が上記の感想を伝えたあとに)北田氏も言っていたのだが、秋元康の全体像をつかむのは意外と難しい。秋元の本業は作詞家・プロデューサーということになっているが、その活動はあまりに多岐にわたり、よくテレビに出るわりには素顔が見えない。秋元は恋愛小説も書いているしホラーも発表している。それにそもそも、『ナースエンジェルりりかSOS』と『あずきちゃん』の原作者の「秋元康」は、本当にあの秋元康なのだろうか? だとすれば、おニャン子クラブと『あずきちゃん』が共存する感性こそが、秋元的なものだと言えなくもないだろう。
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comments
コメント
『あずきちゃん』の原作は、おニャン子の秋元康さんでOKかと存じます。
根拠は、JASRAC(著作権は大事ですYO!)のHPに掲載されている映画監督の経歴です。
http://www.jasrac.or.jp/sakka/vol_3/akimoto_in.html
yahooやgooの映画情報検索で、秋元康さんを捜すと『あずきちゃん』の原作者としてヒットします。
『りりかSOS』の原作も恐らく手がけられていると思いますが、信頼できるものは得られませんでした。
投稿時刻: 2005年03月15日 00:20
80年代というと、ラジオ番組までやってた「くりいむレモン」シリーズも、かなりベタな流行だったのではないかなぁ、とか。見出そうと思えばいくらでもアイロニーを見出せそうではありますが。
投稿時刻: 2005年03月15日 02:04
「みんながまったり動物的に生きる文化的世界」が現在のネット多数派なのでしょうか…。
宮台さんが云うところの、「終らない日常を生きるスキル」がネットに行き渡ったという意味なのかなと思うのですが…う~~ん…。
私はまったりよりも、むしろリアルでもネットでも不安定さは以前より増しているように感じるのですが…。
不安定さが継続的に蓄積されることによって、
その不安定さが見えなくなっている状態のように感じます。
まったりよりも、メンヘルみたいな…。
メンヘルが行き渡って平均化されたことで
一見まったりに見えますが、実はその正体は前よりもずっと不安定なような感覚がします。
投稿時刻: 2005年03月15日 04:57
秋元康氏がメンバーと結婚したという「コミットメント」(涙)についてはどのように評価すればいいんでしょうか?
投稿時刻: 2005年03月16日 09:55
ザンスーでこければ素晴らしいですが、メタはおかずになりませんよね。
ゆうゆはファニーフェイスですけど、ベタにかわいいですし。
投稿時刻: 2005年03月17日 22:20
>不安定さは以前より増しているように感じる
二極化してんじゃないですかねー。
不安定はより不安定に→メンヘル系
無関心はより無関心に→内在系オタク
正直自分もよくわからない。
オタクちっくにSSあさってパブロフの犬のように喜んでいるのに、
ともすれば不安定に落ち込む。
北田氏の認識の方が、安心するが(笑)
東氏の認識の方が正確なような気がする。
本当に面白い現象が起こっているのはそちらだというか、
オレのようなメンヘル系はかってに不安定になってる
だけというか、o(TヘTo) うっ
投稿時刻: 2005年03月18日 05:50
予想どおり、おニャン子ネタには食いつきがよいようで。
>kagamiさん、contさん
僕の考えでは、ファッションとしてのメンヘル系は動物化の一部です。
なぜならば、それは、人間の動物的シミュレーションだからです。
斎藤環さんふうに言えば、メンヘル系の人々の多く(すべてではないですよ)は、
実のところ「精神分的的振る舞いを演じている」にすぎないわけですね。
>ramonさん
ゆうゆをかわいいと言っていただけて光栄です(笑)。
むろん僕もまじでそう思ってました。
投稿時刻: 2005年03月21日 03:37
忘れていましたけど、http://www.jp.piko.to/に興味深い(と思われる)おニャン子論が載ってます、どうぞ
(スクロールしないと当該の文章には辿り着かないのでコピペしようかと思いましたが、止めます)
投稿時刻: 2005年04月26日 04:01