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メタと動物化と郵便的世界

こんばんは。東浩紀です。

先日、isedの設計研第3回が行われました。最初は無限に長いと思われた全14回の研究会ですが、ふと気が付くとすでに6回が終わっているんですね。波状言論といいisedといい、時の流れは速いものです。終わらないのは「情報自由論」の原稿執筆だけです(笑)。いや、笑いごとじゃないか……。

ところで、そのisedの終了後、委員の鈴木健さん、井庭崇さんと雑談を交わしました。その議論が、前にこのブログで触れた(そして、先日のトークショーでも話題になった)北田暁大さんと僕との差異にも関わっていると思うので、簡単に記しておきます。

山田正紀さんに『神狩り』という小説がありますが、そこに確か、「人間は関係代名詞を7つあたりまでしか重ねられない」という台詞があります(手元に資料なく、うろおぼえです)。これそのものは山田さんが思いつきで書いたものらしいのですが、けっこう本質をついているような気がします。実際、認知科学で似たような実験がある、という話を読んだことがあります(これも手元に資料なし。確か「チャンク」の数がどうの、という実験です)。

僕は昔からこの考えが気にかかっています。人間は、確かに情報を外部化(デリダ風に言えば、「エクリチュール」にすれば)、いくらでも階層的な思考を展開することができる。しかし、情報の適切な外部化ができない場合は、あまり複雑なメタゲーム(カギカッコの重複)には耐えられないのではないか。つまりは、「彼は……と言った」とか「彼は「彼は……と言った」と言った」とかは頭の中で再現できるのかもしれないけれど、「彼は「彼は「彼は……と言った」と言った」と言った」あたりからどうも処理できなくなってくるのではないか。そして、この限界は、僕たちの生活やコミュニケーションの様式をかなりのていど決めているのではないか。

僕の動物化論の基盤はここにあります。北田さんは、社会が複雑になってくるにつれて、メタゲームがどんどん発達すると考えている(あえて簡単に要約すると)。しかし僕は、社会があまりに複雑になると、メタゲームは有効に機能しなくなると主張しているのです。

人間社会は、もともと伝言ゲームでできています(これはデリダの哲学の中核にある教えで、僕自身の趣味としてはここからプラトンの『ティマイオス』や言語行為論の話に行きたいのですが、それはまた今度の機会にしましょう)。つまり、「彼は「彼は「彼は……と言った」と言った」と言った」といったことの繰り返しで、遠くの情報を手に入れる、というのが人間の基本的な行動様式なわけです。

近代社会が作り出した「マスメディア」は、そのような伝言ゲームを集約する機能を備えていました。つまり、Aが言った噂話、Bが言った噂話、Cが言った噂話……をすべて集約し、いちど「新聞が言った」「テレビが言った」という単一の発信者を通過させ、読者/視聴者に送り届ける機能をもったわけです。

僕の考えでは、近代社会においてアイロニズムが人々に共有されたのは、まさにこのメディアの集約過程、言い換えれば伝言ゲームの停止過程があったからです。人間は二階のメタゲームぐらいは脳内で処理できる。だから、「「……とテレビが言っていた」が、しかしそれはマユツバだ」という回路を働かすことはできるわけです。ここにこそ、メディア論者が注目してきたような、情報の送り手と受け手の相互依存関係が生まれます。

しかし、ネットワーク社会の誕生はその集約過程を内側から崩壊させてしまった。僕たちをいま取り巻いているのは、「……とテレビが言っていた」だけではなく、「「……とテレビが言っていた」が、しかしそれはマユツバだと某が言っていた」「「「……とテレビが言っていた」が、しかしそれはマユツバだと某が言っていた」という発言こそがツリでしょう」「「「「……とテレビが言っていた」が、しかしそれはマユツバだと某が言っていた」という発言こそがツリでしょう」というシニカルなのも正直どうかと思うよ」といった無限のメタゲーム/伝言ゲームの囁きであり、このような状態では、もはや何を主張してもだれかよりはメタレベルだし、他方ほかのだれかにとってはネタでしかない。そして、このような混乱した情報環境においては、結局のところひとは動物的に生きるしかないのだし、実際生きている、というのが僕の考えなのです。

したがって、僕は決して、人々がバカになって、メタゲームをしなくなったと主張しているのではない。そうではなくて、人間にはもともと生物学的に(それこそ動物的に!)世界把握の階層数に限界があり、現在の情報環境はそれを超えた複雑さを備えている、と主張しているのです。言い換えれば、メタゲームはいまでも行われているのかもしれないけど、それはもはや何の意味もない、と主張しているのです。

近代社会の「大きな物語」は、伝言ゲームの複雑性を縮減してくれる装置でした。しかし、僕たちはそれを手放し、グローバルな伝言ゲームへと足を踏み入れてしまった。この荒野においては、アイロニーはほとんど役に立たない。僕はむかし、このような荒野のことを「郵便的」と形容したことがあります。

ひとびとが動物化するのは、世界が郵便的だからです。近代社会が作り上げた巨大な郵便局(大きな物語)はいまや壊れてしまい、ひとびとは、自らの生物学的限界を超えた情報処理支援装置に囲まれて、無限の伝言ネットワークのなか、メタレベルの志向の宛先を見失ったまま、局所最適に基づいて動物的に生きるしかなくなってしまった。これが僕のすべての議論の中核にある世界認識です。


comments

コメント

仰る通りですね。
あと、私としては大きな物語が
なくなってしまったというのは、
自己を没落させる意志としての
愛がなくなってしまったということで、
電波男で本田透氏が説いているように
愛を取り戻せば、大きな物語を超えた
無限な世界(ヘラクレイトス的な世界認識)
が再び戻ってくるような
実感がひしひしと致します。

自己を愛によって滅却して世界と
一体になることで、それぞれ背反するものが
世界のなかに集大成としているという
意識が芽生えると思うのですが
どうでしょうか…?

メタもベタも所詮、世界のなかでは、
違いながらも同じものに過ぎなくて、
階層化もまたその一つに過ぎないと
感じられます…。

私はそれを彼女に教えて貰ったのです…
愛する観鈴!!!!!

観鈴…。

投稿者: kagami
投稿時刻: 2005年04月12日 10:02

北田さんの見解が、はたして東さんの要約でいいものか、わたしにははかりかねます。ただ、東さんがここで示された文脈に沿って、次のようにお2人の議論をつなぐことはできないでしょうか。
ある個別の出来事は、それが論理式で記述されただけでは情報とはならない。ここで出来事を論理化しただけのものを原情報と呼ぶ。原情報が言及されることによって、はじめて情報となる。つまり、原情報が高階化されることが情報の成立条件である。
モダンな情報システムは、現実的個人の集合の上に成立しているため、出来事に遭遇し、論理化する(原)情報発信者と、原情報に言及する情報流通者が異なる。このとき、情報発信者は、原情報が言及される、つまり流通することによってはじめて情報発信者となる。いいかえれば、情報発信者は情報流通者の存在によって事後的に生み出されるのであり、情報に関して情報流通者は情報発信者よりも経験的に優位な立場にある。
これに対して、ポストモダンな情報システムは、両者の現実的相違による契機が形式化されている。モダン情報システムは、現実的個人の遭遇と言及のうえに、原情報の高階化によって情報が誕生する弁証法的過程がある。しかしポストモダン情報システムは、現実的個人から離れて情報と高階化があるだけである。したがって、現実的個人が情報発信者であると同時に情報流通者でありうる。
そもそも原情報というのは、流通を前提にしたものではなく、理性的契機を経てないという意味で、(システム的には)感性的である。モダン情報システムにおける情報流通者の欲望は、情報において、感性ではなく理性の側に立つことで、情報システムの主体でありたいという欲望である。しかしポストモダン情報システムにおいては、情報発信者と情報流通者の現実的相違が抹消されている。いわばシステムとして悟性的情報が再生産されるのであり、現実的個人の感性や理性は二次的であり、あるいは事後的である。つまり現実的個人の感性的判断、理性的判断が、システムにおいて生産された情報の結果であることもありうる。
以上はあくまで素描ですが、こう考えてみると、(東さんが言うところの)北田さんが問題としているのは、モダン情報システムにおける情報流通者の欲望のことであり、この欲望が現実的にポストモダン情報システムを生み出す原動力になったのではないでしょうか。一方、ポストモダン情報システムにおける情報と個人的判断の乖離こそは、東さんのいう動物化に相当するのではないでしょうか。

投稿者: noname
投稿時刻: 2005年04月13日 03:40

ぼくは、「滑らかなメッセージング」でその問題を乗り越えようと思っているのですが、11月に詳しくお話ししたいと思います。「問題を乗り越える」というよりは、未来へのきっかけを与えるだけかもしれませんが。いや、そもそも問題は存在しないんですよ。

言語の起源フォーラム:運動と言語進化 池上高志
http://www.iwanami.co.jp/kagaku/KaMo200412.html
も参考に。

投稿者: Ken Suzuki
投稿時刻: 2005年04月16日 03:34

 人がものを考えるためには、「大きな物語」にしろ、何にしろ、土台になるものが必要です。
 私たちは既に「大きな物語」というシステムを失いました。
 問題は、「では、どうするか?」です。
 考えなければならないのは、古い諸土台が支えていた、理性、道徳、理想、などの言葉が指し示す、人々の人生や社会との関係をポジティブにするための道具立てを維持する理論的装置の再建がうまくいかなくなっていることです。
 純粋理論でこの問題を解決することはおそらく不可能でしょう。マルクスは上部構造と下部構造という言い方をしましたが、それぞれの時代、社会の中で、理論と「物質」が共同作業をしながら、その時代、社会にあった理性、道徳、理想のようなものを構築する必要があるのだと思います。
 しかし私たちは、「大きな物語の喪失」という表現が示すように、社会的共感の機会を奪われているわけです。共感がなければ、理性ほかの再建もおそらく不可能でしょう。
 さてどうするか、なのですが‥。

投稿者: taniguchi
投稿時刻: 2005年07月04日 16:48

>ひとびとが動物化するのは、世界が郵便的だからです。
『存在論的、郵便的』からその帰結は出ないと思います。「動物」と全く逆の「幽霊」的なものがあって、動物化論がとりこぼこす「過視的なもの」や「メタリアル」を可能にするのは誤配空間でしょう。いまだ幽霊は徘徊しています。

投稿者: しろうと
投稿時刻: 2005年12月06日 05:46

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投稿時刻:2005年05月13日 09:34

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