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解離的近代の二層構造論
投稿日時:2006年01月13日12:43
明日のisedのために鈴木健さんのblogを読んでいる。それで刺激を受け、以下メモっておく。blogは本来こういうために使うのだ、ということを久しぶりに思い出した。
■
鈴木健はblogの「XMLの文体と新しい社会契約論(4)」のなかで、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の構造がXMLに似ていることを指摘し、「ウィトゲンシュタインが生きていたら、嬉々としてアウトラインエディタを使ったことだろう」と記している。彼自身分かっていると思うが、この指摘はミスリーディングだ。なぜならウィトゲンシュタインは、周知のように、晩年『論理哲学論考』とはまったく異なったスタイルの哲学を展開するからである。したがって、鈴木の指摘は、正確には、「もしウィトゲンシュタインが若いころのままで生きていたら」となるべきである。
さて、なぜこんな細かいことを指摘しているかというと、それはここに意外と本質的な問題が隠れているからだ。ウィトゲンシュタインは、前期と後期でまったく異なったコミュニケーション観・言語観を提示した。前期の言語観がXMLに似ているとすれば、後期の言語観はむしろフランス現代思想の言語観に似ている。僕の専門だったデリダは、その代表格の哲学者である。後期ウィトゲンシュタインとデリダは、ともに、ある言明の意味の明確な確定は絶対に不可能だと結論づけた。それを信じるならば、日常言語をXML化することは原理的に不可能だということになる。
この二つの言語観、というよりコミュニケーション観は、20世紀の哲学を大きく二分してきた。直観的にはそれは理系と文系の違いのように感じられるが、必ずしもその学部的分割とぴたりと一致しているわけではない。むしろ、その二つは、20世紀の最後の30年間、世界中のあちこちで試みられてきた文理統合の基礎の座こそを競いあってきたものだと言える。たとえば、精神分析や社会学は、後期ウィトゲンシュタイン的言語観から発達心理学やシステム論を取り込もうとしてきたし(ラカンやルーマン)、逆に認知科学やゲーム理論は前期ウィトゲンシュタイン的言語観に基づいて人文的秩序を説明しようとしてきた。その争いには決着がついていない。
それで、僕がこの数年ずっと提案し続けているのは、僕たちはその両者の統合を単に諦めるべきだということである。これはばかみたいな提案に聞こえるかもしれないが、けっこう深い。
というのも、その統合への強迫は、近代の人間観の中核そのものだったからだ。近代哲学、たとえばヘーゲルにおいては、人間は即自存在から絶対精神への上昇過程の中間形態だと考えられている。ハイデガーなら、存在者と存在のあいだ(現存在)と表現する。これは簡単に言いかえれば、近代ヨーロッパ人たちは、人間とは動物的要素と精神的要素(人間的要素)が結びついた存在だと考えてきたということだ。そして近代哲学は、この共存を説明するためにいろいろ手練手管を使ってきた。しかし、それは実は無駄な努力なのではないか。僕たち人間は、ただ単純に、動物的レベルでの行動原理と人間的レベルでの行動原理の「解離」に悩まされている存在で、その両者をどちらかの論理で統合的に説明しようとするのは間違いなのではないか。これが僕の考えだ。
人間を説明するうえで、動物的レベルと人間的レベルをきっちりと分け、別々の原理で説明すること。そしてたがいの越権を許さないこと(たとえば、恋愛のディスクールをゲーム理論で説明しようとするような乱暴さを、そして逆に流行の推移に過剰な物語を付け加えるような深読みを許さないこと)。それは別に非科学的な態度ではない。物理学者は物理学の、生物学者は生物学の原理でそれぞれの対象を分析しているのであって、いたずらにその両者を統合しようとはしない。僕の提案は、人文科学や社会科学においても、それと同じレベル分けを導入しようというものだ。
さらに付け加えると、その区分は、理論的に有効だと言うだけではなく、現代社会を理解するうえで実践的にも重要だと言える。というのも、いささかややこしい話になるが、フーコーが明らかにしたように(あるいはギデンズが「再帰的」という言葉で言っているように)、人間に関わるあらゆる知的言説はその時代の社会の構造的な反映を逃れられないからだ。分かりやすくいえば、近代哲学が動物的レベルと人間的レベルの統合を目指してきたのは、近代社会がそのような統合を前提として社会秩序を組み上げてきたからだ(ポストモダニストの「人間の消滅」という言葉は、この統合の消滅という風に理解すべきだ)。そして同じように、ここで僕がその統合の廃棄を提案しているのは、現代社会がすでにそれを廃棄して動き出しているからだ、ということになる。つまり、動物的レベルと人間的レベルの解離は、すでに僕たちの社会のなかで進んでいることなのだ。というわけで、それを導入したほうが社会の理解もスムーズに進む。
そしてその理解は、僕たちがこれから社会を運営するうえで、人間の動物的原理に注目すべきなのか、人間的原理に注目すべきなのか、という問題に深く関わっている。むろん、答えはそのバランスで、ということになるのだが、問題はその具体的な境界だ。僕たちはこれから、人間の動物的管理をどこまで進めるのがいいのか(たとえばRFIDやGPSのような管理技術)、人間の人間的コミュニケーションをどこまで拡大するのがいいのか(たとえばSNS)、その仕分けをしなければならない。あらゆる社会行動をXMLで置き換えられると考えるのは間違いだし、逆に「繋がりの社会性」だけですべての現象を説明するのも誤りだから、僕たちはその両者の境界を画定しなければならない。
■
さて、以上の前提のうえで理論的な話に戻ろう。では、それら「動物的レベルでの人間理解の原理」と「人間的レベルでの人間理解の原理」には、それぞれどのようなものがあるのだろうか。
ここで、作業仮説として、僕たちの社会生活の総体を「動物的レベルの人間理解の原理が適用されるべき層」と「人間的レベルの人間理解の原理が適用されるべき層」の二つに分けることを提案しよう。それが、僕がこのエントリのタイトルにした「解離的近代の二層構造論」である。
この議論は「動物化するポストモダン」と「情報自由論」でも予告的になされているが、まだほとんどまとまって話したことがない。とはいえ、isedの議論ではしつこいほどに繰り返したので、その読者には親しまれているかもしれない(→isedキーワードでの二層構造論の解説)。いずれにせよ、その理論について多少まとまって書いてみよう、というのがこのエントリ(とこれから続くかもしれないエントリたち)の主旨だ。
……といったところで、多少投稿が長くなりすぎたようだ。このままだと明日の準備ができない。今回はここで止めて、以下、その二つの層を分けるキーワードだけ表にして記しておく。なお、「解離的近代」は僕の造語で、これから「ポストモダン」のかわりに使おうかと思っている言葉である。それについてもまた後日説明しよう。
| 動物的原理の層 | 人間的原理の層 |
| 情報 | 意味 |
| 環境管理 | 規律訓練 |
| 身体 | 主体 |
| XML | ecriture |
| 媒介の消滅 | 媒介の増殖 |
| ひきこもり | つながり |
| 参照 | 解釈 |
| 監視 | 自由 |
| secure | care |
| ゲーム | 物語 |
| ゲーム理論 | 「言語ゲーム」 |
| 計算的理性 | 討議的理性 |
| データベース | コンテクスト |
| 認知科学 | 精神分析 |
| プラットフォーム | コミュニティ |
| メタユートピア | ユートピア |
| リバタリアニズム | コミュニタリアニズム |
| 偶然性 | 必然性 |
| 可能世界 | 固有名 |
| 流動性 | 伝統 |
| 消費 | 欲望 |
| 再生産 | セクシュアリティ |
| winny | mixi |
| プログラムとデータの越境 | 解釈するものと解釈されるもの |
| 創発 | 能動と受動 |
| アフォーダンス | 用具性 |
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