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解離的近代の二層構造論2
投稿日時:2006年01月14日09:27
昨日の続きを書いてみる。
■ 二層構造論の基盤
二層構造論の背景には、二つの思想の影響がある。
ひとつは、カントのアンチノミー(二律背反)である。たとえば、「宇宙は有限である」と「宇宙は無限である」という二つの命題があるとして、『純粋理性批判』のカントはそのどちらも正しいと言う。この現象がアンチノミーだが、ではどうしてそんなことが起きるのか。それは、人間は物自体を認識できないからである。僕たちは決して現実そのものには到達できない。より正確に言えば、「宇宙」とか「無限」とか言う言葉は(悟性的なものなので)、現実と間尺が合わない。だからこのような矛盾が必然的に起きるのだ、とカントは言う。僕が「動物的人間理解の原理」と「人間的人間理解の原理」の両立を強調するのは、そこに現代のアンチノミーを見ているからである。アンチノミーの無理な統合は、理性的ではない。
もうひとつはプラグマティズムである。カントが物自体について語らなかったように、僕は「人間が本当はなんなのか」については語らない。より正確には、僕たちの科学的な水準では、人間についての言説はどうせアンチノミーに陥る、だからやめておこう、というのが僕の立場である。
むしろ僕が二層構造論で行いたいのは、現代社会を理解するために20世紀の人文・社会科学の成果を活かすとして、それらをどのように組み合わせればもっとも効率がよいのか、その言説的な地図(パラダイム)を提示することである。僕は、「宇宙は有限である(動物的人間理解の原理)」と「宇宙は無限である(人間的人間理解の原理)」の両者をうまく共存させる方法を探りたいと考える。それは大陸哲学よりも、むしろプラグマティズムに近い考え方だ。この態度は、リチャード・ローティから受け継がれた。彼は、大陸哲学と分析哲学をプラグマティズムによって接合しようとした哲学者である。
■ 二層構造論と「政治」
つぎに、二層構造と「政治」について語っておく。僕の仕事にはつねに「非政治的」という批判がつきまとってきた。おそらく、この二層構造論はその最もたるものに見えるはずである。僕が保守なのかリベラルなのか、日本という国家をどうしたいのか、リアルな政治とはまったく関係なさそうな議論だからだ。ではその批判は正しいのか。
結論から言うと正しい。二層構造論は「非政治的」、というより、もっと積極的に「反政治的」である。そしてこれは理論的な必然である。
どういうことか。それは、この二層構造論の枠組みでは、「政治」そのものが、人間的欲望の層における現象のひとつとして相対化されてしまうからだ。その理由は簡単に言うとこうだ。カール・シュミットは、政治の本質は友と敵を分けることだと言った(ここでは「政治」という言葉をこの友敵理論の意味に限って使うことにしよう、フーコー以来のミクロ権力論におけるインフレ化した意味で「政治」という言葉を使うと、もはやすべての行為が政治的ということになり、政治的と非政治的の差異を問う意味がなくなってしまう)。つまり政治の本質は、ある共同体を作り、その内側と外側を分けることにある。しかし僕の理解では、現代においては、社会的な下部構造はそのような共同体を無数に抱えておくプラットフォームとしてこそ想像される(→むかし波状言論の連載で用いた図を参照)。つまり、解離的近代の下部構造は、まさに友敵理論が適用されないところに、適用されるべきではないエリアとして拡がる(鈴木健はこれを「なめらか」と言っている)。したがって、現代で社会秩序の総体を考えるときには、政治の分析は本質的にならない。つまり、二層構造論は、政治的帰結を提案しないどころか、「政治は社会秩序の分析にとって第一のものではない」と結論する理論なのだ。
もっとかみ砕いてみよう。僕はつまりこう思っているのである。21世紀の社会秩序や権力の性質について考えるのならば、小泉について語るよりGoogleやSNSについて考えたほうがいいのではないか。なぜならば、ブッシュや小泉の話題は、もはやあるコミュニティ(ひとつの国家、ひとつのマスメディア)のなかのうわさ話でしかないからだ。いわゆる「政治」の話題の多くは、本質的にワイドショーと変わらない。「だれがこうした」「だれとだれは組んでいる」「だれが黒幕だ」……そんな話ばかりだ。これは、政治の本質が友敵理論にあることからの論理的帰結である。
それよりも僕たちが関心を向けるべきなのは、そのようなうわさ話が上部構造でのシミュラークルに変えられてしまったあと、脱政治的=脱人称的な秩序形成がどのように進化するかだ。その点から考えると、いまの技術の延長線上に、膨大な官僚組織を維持し、数年に一度の選挙で議員を選び、その「選良」たちが合議制で国家を運営するという旧態依然としたシステムそのものが、ドラスティックに変わる可能性が見えてくる。そこでは社会秩序の中核は、いま世の中で言われている「政治」なるものとは無関係に決定されていくことになるだろう。僕としては、そちらについて考えるほうが、一見「非政治的」「反政治的」に見えたとしても、はるかに政治的だと思う。
多少先走って言えば、議員もいない、選挙もない、新聞の政治欄もない、あらゆる国民は自分の関心事にしか興味がない、そのような世界で「ラジカルな民主主義」(ラクラウ+ムフ)がどのようにして可能なのかどうか、というのが僕の中心的な関心事である。そのときでも、もしかしたら「まつりごと」としての政治は残るのかもしれない。そして僕たちは相変わらず、政治家のスキャンダルや派閥争いを注視しているのかもしれない。しかしそれは、mixiで友人の日記を読み、ワイドショーで有名人のうわさ話に耳をそばだて、サッカーでナショナルチームの勝敗に一喜一憂するのとあまり変わらないレベルの現象になるだろう。というより、僕たちはそのような脱政治的な社会を目指すべきだ。社会秩序の運営をひとつの閉鎖的なコミュニティに全面的に委託してしまう(間接民主制というのはそういうものだ)のは、単純に危険だからである。これは二層構造論の積極的帰結のひとつである。
なお、以上のような意味で『動物化するポストモダン』はきわめて非政治的かつ反政治的な書物であり、僕はそこが気に入っている。他方、「情報自由論」が単行本化されなかったのはそれがあまりに政治的に見えたからである。そもそも僕が『存在論的、郵便的』を書いた動機は、1980年代の「倫理的転回」以降、政治的にばかり読解されているジャック・デリダを理論的に「救う」ことにあった。この点において、僕は一貫して「非政治的」あるいは「反政治的」な書き手である。こんなことを言うとまた批判されそうだが、これは僕の思考の基盤そのものなので仕方がない。
■ 補足:カール・シュミットについて
以上の議論に対して、「戦争」「暴力」の問題はどうなんだ、という反論がありうるかもしれない。シュミットの議論では、政治=友敵の区別は戦争(他者の存在論的否定)があるからこそ必要とされるということになっていたので、これは当然の疑問だ。
これに対する僕の答えは、今後の社会秩序は友敵の区別を必要としない環境管理型権力によって維持されるはずで、それは実際にセキュリティの全面化というかたちで試みられている、というものである。シュミットは国家間の戦争だけを意味するわけではなく、「内敵」についても語っていて、それはセキュリティの話にも近い。しかし、セキュリティは、理念的には、戦争というよりむしろ免疫システムの構築に近いものとして実現されるべきである。だとすれば、脱政治的な方法で暴力の管理はできるはずだ。
シュミットの読者はそれにも疑問を感じるかもしれない。『政治的なものの概念』の最後は、まるでいまのテロ対策やイラク戦争を指すかのように、非政治的な外見をまとった友敵区分の再来について論じている。「対抗者はもはや敵とは呼ばれず、その代わりに、平和破壊者・平和攪乱者として、法外放置され、非人間視される。[……]しかし、このいわゆる非政治的な、さらには一見反政治的でさえある体系は、既成の友・敵結束に奉仕するか、さもなければ新たな友・敵結束にいくつくものなのであって、政治的なものの帰結からのがれることなど不可能なのである」(邦訳p.102-103)。この現象は、まさにいま起きていることである。9.11以降、テロ対策は新たな友敵区分の礎として使われ続けている。だとすれば、以上の話はすでにシュミットによって反論されているのではないか。
確かに、9.11以降の現実では、セキュリティの強化は友敵区分を再興するだけのように思える。しかし、本当にそれは必然なのだろうか。シュミットは、情報技術が可能にする精緻な環境管理型権力、たとえばユビキタスやバイオメトリクスについては知らなかった。したがって、内敵の排除のためにイデオロギーを使うことしか考えられなかった。ここに出発点の差異がある。僕は、情報技術を駆使すれば、セキュリティの確保を友敵区別の再構築から引き離すことは、可能なのではないかと思う。というよりも、環境管理型権力の概念は、まさにそういうものとして考えられている。
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