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解離的近代の二層構造論3
投稿日時:2006年01月18日11:57
動物的/人間的の区別について別の観点から論じてみよう。同時にこれは、明日行われる岩井克人氏・安富歩氏・鈴木健氏との座談会(『InterCommunication』次号掲載)のためのメモでもある。
■ 創発と否定神学
僕はかつて、岩井克人の『貨幣論』を「否定神学的」と呼んだことがある。なぜならば岩井は、貨幣がなぜ成立するかについて、それを「奇跡」「空虚」という言葉でしか表現できなかったからである。ひとが貨幣を使うのは、ほかのひとが貨幣を使っているからにほかならない。ここには循環論法がある。岩井にとって重要なのは、貨幣の起源を問うことではなく、そのような試みが貨幣の奇跡=循環論法を消去してしまうことに抵抗することだ。「貨幣商品説も貨幣法制説も、結局、貨幣という存在の中核にある空虚に耐えることができずに、それをなんらかの実体で埋め尽くそうとするこころみにすぎない」(『貨幣論』、単行本版p.99)。
他方、安富歩は『貨幣の複雑性』において、この岩井の貨幣論に対する有効な反論を展開している。安富は、一対一の物々交換から一般的価値形態(いかなる商品とでも交換できる価値形態)を帯びた商品である貨幣が生成するさまを、コンピュータ・シミュレーションの技法を用いて実証している。岩井の奇跡は、実は奇跡でもなんでもなく、経済主体の効用関数のパラメータを調整することでいくらでも再現可能なのだ、というのが安富の議論である。この議論にはとても説得力がある。
では、どうしてこのような差異が生まれたのだろうか。それは、岩井の思弁があくまでも<貨幣に対する経済主体の主観>から始まるのに対して、安富のシミュレーションが<貨幣を生成させる経済主体群の客観的行動>に基礎を置いているからである。その方法論的差異は、安富自身によって自覚されている。というより、『貨幣の複雑性』はまさにその差異の重要性を訴えるために書かれた書物である。たとえば、安富は第1章でつぎのように述べている。「経済は人々の主観の内部に込められているのではなく、人々の関係に外部化されているシステムである。言いかえれば、各主体の行動原理をいくら深く緻密に観察しても、そのレベルではシステムを理解することができず、経済システムの特性はそのレベルを超えた経済主体の相互関係というレベルでしか考察しえない」(p.25)。
それでは僕たちは、岩井の主観的思弁は間違っていて安富の客観的シミュレーションこそが正しかったのだ、という結論を出すべきだろうか。「主観」「客観」という対立概念を使っていると、ますますそのように感じられる。しかし、それはあまりに単純というものだ。僕たちはむしろ、岩井と安富は相補的だと考えるべきである。もういちど岩井の『貨幣論』を読み直してみよう。そこにはつぎのような一節がある。
貨幣を手にもつ買い手は、商品を手にもつ売り手とちがって、みずからの主観を客観によって訂正するすべをもっていないのである。貨幣が無限の未来まで貨幣であるという期待とは、それゆえ、たんにそのときどきで主観的であるだけではない。それは、未来永劫にわたって客観性が確立されないという意味において、主観的であることを運命づけられているのである。すなわち、貨幣を貨幣として存立させる未来の無限性そのものが、貨幣の貨幣としての価値を支えていくひとびとの期待を必然的に主観的なものにしてしまうのである。(『貨幣論』pp.188-189)
岩井が貨幣の根拠を主体的に考えるのは、それが不可避的にそのような錯覚(主体的な貨幣認識)を生み出すものだからだ。どういうことだろうか。
安富は、貨幣の生成には「未来の無限性」は必要条件にならないことを示した。一定の条件のもとでは、貨幣は頻繁に生成し消滅する。これは岩井の議論への反論に思えるが(そして普通に読めばそうなのだが)、おそらく岩井が考えたかったこととはレベルが異なっている。岩井がこだわっているのは、上の一節で明らかなように、たとえ貨幣そのものが頻繁に生成し消滅するのだとしても、そのような貨幣を人間は「未来の無限性」において捉えてしまう、その錯覚のほうである。
そしてそれは必ずしも錯覚とは言えない。というのも、たとえ貨幣が客観的には頻繁に生成し消滅するのだとしても、それぞれのサイクルのなかにいる経済主体たちは、その貨幣を「未来の無限性」において捉えているはずだからである。つまり、その錯覚は、錯覚であるにもかかわらず、貨幣が存続するための必要条件になっている。貨幣の崩壊は、その錯覚が崩れることによって起こる(岩井が言うハイパー・インフレーション)。社会的現実がその現実の誤認によってこそ支えられる、というこのメカニズムは、ラカン派精神分析が好む説明原理である。ラカン派のマルクス主義者、スラヴォイ・ジジェクはその原理を「For they know not what they do」という一節に集約させている(この一節は彼の論文集のタイトルにもなっている)。
ここにはいささか入り組んだ関係がある。貨幣は創発する。しかし、創発した貨幣は、存続するために、各経済主体に、そのような創発課程を見えなくする否定神学的な認識を埋め込むことを必要とする。貨幣商品説や貨幣法制説が奇跡を見えなくする、というのが岩井の議論だったが、岩井のような否定神学的議論は今度は創発の通俗性を見えなくしてしまう。そして、それこそがまさに否定神学的認識の客観的な役割なのだ。ラカン風に言えば、この消去されるものこそが「trait unaire」だが、実はその痕跡はunaireでもなんでもないわけだ(ここらへんは、かつて『存在論的、郵便的』で行った「否定神学的脱構築」と「郵便的脱構築」の差異と密接に関係している、というよりそれそのものの話である。興味ある読者はそちらを見られたい)。
別の言い方ではこうなる。安富は、シミュレーションの前提として、貨幣が成立する以前には交換そのものが保証されないので、メンガーやマルクスの意味での「商品」は存在しない、すなわち、「貨幣は特殊な商品ではなく、貨幣と商品はひとつの構造の別の側面にすぎない」と述べている(p.72)。つまり、貨幣の創発は、貨幣という媒介機能の創発ではなく、貨幣を特殊な商品に見せかける構造=否定神学的認識そのものの創発を意味している。そして、いちど立ち上がったあとは、その否定神学こそが貨幣を存続させていく。以上から言えるのは、貨幣とはまさに、経済システムを導く創発的−客体的原理と、その構成要素であるエージェントを導く否定神学的−主体的原理の解離的な相互依存(ルーマンの言葉で言えば「構造的カップリング」)が生み出した媒体だということである。
さて、ここまで述べれば、このブログの読者に説明の必要はないだろうが、僕の「動物的原理」と「人間的原理」の二層化の提案は、このような議論の蓄積のうえに組み立てられている。動物的原理とは創発のことで、人間的原理とは否定神学のことだ。もういちど繰り返すが、貨幣は、経済主体が客体的−創発的−動物的原理に基づき、すなわち効用関数を所与の環境で最大化しようとしているだけでは生まれない。いや、正確にはそれでも生まれるのだが、生まれたときにはすでに、それぞれの主体に「未来の無限性」=否定神学が埋め込まれている。この意味において、貨幣は、人間の動物的原理と人間的原理の接点において考えられるべきものである。したがって、岩井と安富は相補的なのだ。
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