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時をかける少女

こんばんは。たったいま、細田守監督の『時をかける少女』を観てきました。

興奮が冷めないうちに記しておきますが、これは傑作だと思います。前評判にたがわないすばらしい作品です。いい話でもあります。心が温まりました。いろいろなひとに観てほしいと思います。

とはいえ、それだけでは能がないので、以下にちょっとしたコメントも記しておきます。評論が好きなひとは読んでください。

さて、『時かけ』の基本は、みなさんもご存知だと思います。時間を超える能力を身につけてしまった少女の恋物語です。細田版は原作および23年前の大林宣彦映画版とかなり異なった話で、主人公さえ別ですが、その基本線は変わっていません。

この作品について、僕はあるひとから、「タイムパラドックスが起こりまくりなんだけど、主人公があまりに能天気だから、なにも疑問に思わないでお気楽に話が進んでいく映画」という前情報を聞いていました。確かにタイムパラドックスはありまくりです。

しかし、その見方は不十分です。というのも、この映画で「タイムリープ」と呼ばれているものは、時間移動というより、むしろゲームのリセットに近い行為だからです。実際に「リセット」という言葉も出てきますので、監督もそれを意識しているのではないかと思います。この作品では、主人公の身体は過去に戻ることはありません。主人公は、過去に戻っても昔の自分に出会うわけではなく、その時点の自分の身体に乗り移るだけです。つまり、これは、過去へのタイムスリップというより、「この分岐だとまずい展開になってきたので、さっきのセーブポイントまで戻るか」という行為に近いものです。したがって、そこにはパラドックスが発生しようがない。

主人公は、いわば、世界全体に対してプレイヤーの位置にある。それが、途中で幾度か出てくる「私がなんとかする」という台詞の意味です。しかし、そのプレイヤーの位置は、物語が進むにつれて脅かされることになります。

そのうえで、この作品が感動的なのは、「人生はリセットできない」でも「人生はいくらでもリセットできる」でもなく、「人生はいくらでもリセットできるが、ひとつの場面はやはりいちどしか経験できない、したがって成長は無意味ではない」という、とても肯定的な、しかも力強いメッセージを伝えてくれるからです。この矛盾に満ちた表現がなにを意味しているのかは、みなさんの目で見てもらいたいので、詳しく書きません。とりあえず、僕としては、最後の川岸の夕日の場面、主人公の横を自転車が通り過ぎ、主人公が表情を変える場面に、そのメッセージを読み取った、とだけ記しておきます。

ある経験があるとして、それがたとえゲームだったとしても、またそれが幾度でもリセット可能だったとしても、ある特定のとき、特定の瞬間のフラグやパラメーターの組み合わせに戻るためには、ふたたび膨大なプレイ時間が必要となり、しかもそのときにはこのプレイヤーである僕の心理状況が変わっているので、実際にはそれは一回かぎりの経験と、すなわち人生と変わらない。僕の考えでは、アドベンチャー・ゲームの本質とはそのようなものですが、『時をかける少女』は、それを青春映画として表現した作品だと思います。反復する時間と成長する時間の相克を、このように美しく解決した作品を、僕はほかに知りません。

いずれにせよ、『時をかける少女』は傑作です。ここでは触れませんでしたが。作画も演出も高品質であり、大幅な改編にもかかわらず原作への配慮も行き届いています。細田流の演出もあちこちに観られ、アニメファンには溜まらないでしょう。坂のある町もいい。主題歌もいい。つまりは、僕としてはほとんど手放しで絶賛です。

細田氏の次回作が、いまから楽しみです。


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