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ひぐらしのなく頃に
投稿日時:2006年08月15日18:30
こんばんは。東浩紀です。
みなさん、コミケはいかがでしたでしょうか?
さて、僕のほうは、昨日と今日、仕事そっちのけで(というより「これが仕事だ」と言い聞かせて)、『ひぐらしのなく頃に』の最終話「祭囃し編」をプレイしていました。数時間前、本編の全テクストを読み終えたところです、「クリアしました」よりそちらの表現のほうが適切でしょう。
「罪滅し編」「目明し編」ですでに確信していたことですが、あらためて完結したので言うと、この作品はたいへんな傑作だと思います。アニメ化やマンガ化など、メディアミックス展開のほうは僕は追っていないので、そちらがどうなっているかまったく分からないのですが、とにかくこの原作はすばらしい。
『ひぐらしのなく頃に』は、いくつかの理由で美少女ゲームの進化(多くのひとはそれを「奇形化」と捉えるでしょうが)の先端にあると言えます。たとえば、ノベルゲームという形式を選んでおきながら、ゲーム性を徹底して放棄しているデザインがそのひとつです。しかしここでは、内容に注目したいと思います。というのも、この作品もまた、まさに、先日の『時をかける少女』のエントリーで記した「リセットできる世界の一回性」のテーマを追った作品だからです。
……といったところで細かい分析などしたいところなのですが、美少女ゲームのユーザーはネタバレに妙に敏感なので(といっても、今回はもうそんなに気をつけるべきところはない……と思いますが)、現時点ではさすがに遠慮しておこうと思います。かわりに、僕が『ひぐらし』に触発されて思いついたことを書きとばしてみます。
わからないひとはわからないと思いますが、その場合は読み飛ばしてください。これは自分向けのメモみたいなものです。
■
僕のオタク体験の出発点は、押井守の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』にあります。13歳で出会ったこの作品が忘れられなくて、僕はいままでオタクをやっているようなものです。
さて、『うる星2』の基本的なテーマは、思春期特有の世界からの疎外感というか解離感(すべては虚構かも?といった感覚)と、繰り返される時間と流れていく時間の相克でした。僕たちは学校というテーマパークのなかに閉じこめられているが、その外に出るためには、すなわち大人になるにはどうしたらいいだろうか、というわけですね。それで押井は、「外になんて出れない」と答えたわけです。
これはごく一般的なテーマですが、押井の独創はそこに、大塚英志がのち「まんが・アニメ的リアリズム」と呼ぶようなサブカルチャー的なリアリティを絡めたところにあります。その結果、押井のテーマは、僕たちは成長を拒否するキャラクターのテーマパークに閉じこめられているが、その外に出るには、すなわち現実に出会うにはどうしたらいいだろうか、というかたちへと変形されることになりました。実際、この問いは『紅い眼鏡』だか『トーキング・ヘッド』だかで明示的に語られていたと記憶しています。
僕の出発点はそのような作品にあったので、僕はオタクたちの作品を見るとき、つねに上記のテーマを念頭に置いてきました。キャラクターの世界から出発して現実に到達するにはどうすればよいのか、それが僕の作品評価の大きな基準だったわけです。この点で、実は僕には『エヴァンゲリオン』も『AIR』も『うる星2』の後継者のように見えていました。メタフィクションが好きなのもそのせいです。
それで、なにが言いたいのかというと、先日『時をかける少女』を見、今回『ひぐらしのなく頃に』の完結も見て、この両作品においては、同じ『うる星2』の問題意識が継承されながらも、その処理の方法が大きく変わりつつあるという感触を抱いたのです。
では、どう変わったのか。印象論で言うならば、閉域(繰り返される日常=悪夢)からの脱出方法が、メタフィクション的にメタレベルに向かうものではなくて、なんというか、ゲーム世界からプレイヤー世界に移行するような感じへと変わっている。「どんな選択をしても等価だ、世界は無数に並列しているんだ」というシニシズムを突破するとき、『うる星2』が最終審級を探す旅に向かうとすれば、『時をかける少女』や『ひぐらしのなく頃に』では、最初から「この世界の審級」と「プレイヤーの審級」が区別されていて、だから虚構(閉域)も現実(外部)も同時に肯定されるような、そんな世界観が導入されている。さらに言いかえれば、現実と虚構の関係を理解する枠組みとして、『うる星2』においては入れ子構造が採られていたけれど、『時をかける少女』や『ひぐらしのなく頃に』では、キャラクターレベルとプレイオヤーレベルの二層構造が採用されている、とも整理できる。その二層構造は、SFでは、P・K・ディックや神林長平の作品に先駆的に現れていたものですね。
うーん、うまく言えません。こんな印象論を並べてもなにも伝わらないと思うので、この話はもう止めます。
とにかく、『うる星2』は単なるメタフィクションでゲーム的リアリズムの作品じゃなかったけど、『時をかける少女』や『ひぐらしのなく頃に』はゲーム的リアリズムの作品で、そこにこの22年間の差が現れているとともに、なにか大きなパラダイムチェンジを感じる、この夏はそういう作品に2つも出会えてよかった、というのが僕が言いたいことです。ゲーム的リアリズムの話は、『動ポモ2』で少しは整理されるはずです。
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『ひぐらしのなく頃に』は傑作でした。僕の読者には、美少女ゲーム好きと同じくらいに、美少女ゲームに嫌悪感を示すひとが(オタクのなかにも)多いと思います。『ひぐらし』は、普通の意味でのゲーム性がまったくなく、キャラクター間の漫才会話がやたらと多いという二点で美少女ゲームの極北であり、おまけにイラストもたいへん個性的なのでとくに取っつきにくいと思いますが、そこを我慢してプレイすれば、驚きが待っているはずです。
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