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『恋空』読みました2

さて、〆切が迫った原稿を横に措いて『恋空』を読みふけり、思わずこんなエントリを書いてしまったわけですが、そのわずか数時間後に、濱野智史さんがそのエントリにリンクしながら『恋空』について書いていました。

http://d.hatena.ne.jp/shamano/20080115


『恋空』についてはあの短い感想であっさりと終えるつもりでしたが、これを読んでこちらもちょっとだけ書きたくなりました。

繰り返し言うとおり、ぼくはケータイ小説については本当にまったく知らないので、以下は単に素人読者としての深読みです。しかし、たまにはそういう深読みもやってみたいと思ったので、投稿します。

ライトノベルの批評だと、もうこういう深読みが素朴にできなくなっているので、リハビリみたいなものです。

さて、実は僕が『恋空』で「泣いた」理由はきわめて単純でした。それは、この小説全体が「届かなかった手紙」の構造になっていることによります。この理由は、あまりにぼく的、というか東浩紀の読者にはあまりにも分かりやすすぎるので気恥ずかしくて書かなかったのですが。

『恋空』には、「届かなかった手紙」のモチーフが、全体構造としても、小さなアイテムとしても、何重にも繰り返しででてきます。まず、濱野さんが指摘しているとおり(そしておそらく濱野さんは僕がそこに反応したことに気づいていたと思うのですが)、小説全体が「美嘉」の「ヒロ」への届かない手紙として書かれています。

しかし、それだけではありません。そのモチーフは実は、流産した子供が物語の中心にあることにさらに強く現れています。

流産した子供は、届かなかった手紙のような存在です(手紙=精子はデリダの『郵便葉書』の重要な隠喩です)。しかもこの小説では、そのうえで、主人公たちにいくどもその届かなかった手紙の場所(水子の墓)に立ち返らせます。主人公たちは、いくども届かなかった手紙を受け取ろうとするわけです。おまけに、その生まれなかった子供が放つ、本来は存在しないはずのメッセージが何回も挿入されて、これもまた物語上で決定的な役割を果たしている(「恋空」という変なタイトルそのものが、そのメッセージと関係しています)。そこまで重要でなくても、「届かなかった手紙」のモチーフはほかにも、図書館の黒板に記されたメッセージとか、内緒で撮影されていたインスタントカメラの映像とか、いろいろ登場します。

ついでなので、もう少し深読みを進めてみましょう。さらにデリダ的に読解すれば、この小説は「分身」をテーマにしているとも言えます。「美嘉」と「アヤ」、「ヒロ」と「優」、二人の赤ん坊がわかりやすい分身関係ですが、それだけではなく、この小説が描く人間関係の随所には、たがいの感情転移によって二重化した関係——A:B=C:Dみたいな相似形になっている人間関係——が配置されています。

かつて宮台真司は、「ギャル」たちのコミュニケーション空間を「ユミとユカの区別もつかない」匿名の空間として描き出しました。それは、裏返せば、そのような空間では、ユミとユカのあいだにつねに感情転移が起きて、ユミの行動とユカの行動が鏡像的な分身関係に入ってくることを意味します(実際、街を歩いている二人組のギャルは異様に髪型やファッションが似ていたりする)。『恋空』の作家は、そういう鏡像=分身に満たされた人間関係を、じつに生き生きと描いています。それが、Aの彼氏がいつのまにかBの彼氏にとか、Cがつきあい始めたらDもつきあい始めて、みたいなエピソードの蓄積になるわけです。

ちなみに、さらに妄想気味に突っ走れば、そういうなかで後半に唐突に登場し、ほとんど唯一上記の分身的人間関係に属していない「ウタ」の役割にはおもしろいものがあります。ウタはエヴァで言うアスカ、CLANNADで言う風子的なトリックスター的な位置にあるはずで、途中もっと活躍を期待したりもしていたのですが(語尾もヘンだったし)、ここらへんに入っていくとだれもついてこなくなると思うので、この話はここで止めておきます。

いずれにせよ、というわけで、僕的には、これはけっこうまじめに読むに値する小説なのではないかと思うわけです。少なくとも、これは泣きの条件反射で作られている物語ではない。それにしては過剰な構造があるのです。骨組だけがごろんと転がっているので、いわゆる文学が好きなひとはかえって読めないのでしょうが、その骨組そのものはけっこう複雑な構造をもっているのです。

ぼくはもともと、文体が稚拙とか、人間が描けていないとか、そういうのは小説を読むうえで気にしません。だから、その点で『恋空』を批判するひとがいても、まあそれはしかたないんだろうなと思います。しかし、そもそもケータイ小説ってそういうジャンルじゃないんだろうし、ひとが感動する理由もそういうものだけでもないでしょう。もし、この小説の魅力を、社会学的な観察に還元せず文学的に考えるなら、別の視点を取る必要があるはずです。

というわけで、濱野さんのエントリを読んだら、なんかこちらも内容について書きたくなってしまった、という話でした。

それにしても、こんな追加エントリ、彼のWIRED VISIONの連載を続きにくくしているだけかもしれません。そのときはごめん>濱野くん


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