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ここは、批評家・東浩紀が運営するブログです。東浩紀の経歴や業績については、hiroki azuma portalをご覧ください。
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探偵小説のクリティカル・ターン
投稿日時:2008年01月16日13:38
限界小説研究会(編)の『探偵小説のクリティカル・ターン』(南雲堂)が著者謹呈で届きました。
このブログの読者はご存知のとおり——いや、そうでもないかもしれないけど、とにかく、限界小説研究会のメンバーとぼくのあいだには微妙な因縁があり、そういうわけでここで紹介するのもまた微妙な問題を発動させる感じもするのですが、とにもかくにも、けっこうよい評論集だと思うので紹介しておきます。
『思想地図』に登場する福嶋亮大さんも書いています。ここでは取り上げませんが、それは清涼院流水/西尾維新論としては出色で、かつ『思想地図』の論文とも繋がっています。福嶋さんには、早いところ単行本を出してほしいものです。
■
さて、ここで取り上げたいのは、前島賢さんの『ひぐらし』論(「『ひぐらしのなく頃に』の二つの顔」)です(前島さんとぼくのあいだにこそ微妙な因縁があるので、またいろいろ深読みされそうだけれど、とにもかくにも)。この論文は間接的な『ゲーム的リアリズムの誕生』批判でもあるのですが、『ひぐらし』そのものの読解として、説得力のある理路になっていると思います。すぐれた仕事です。
ただ、同時に、その前提のうえで気がついたのは、この前島さんによる東批判が、宇野常寛さんの「ゼロ年代の想像力」とほとんど同じ論理で作られているということです。
それは、大事なのはセカイ系でなくて小さな成熟(前島さんの言う「公務員のリアリティ」)なのだ、○○はそのような成熟を描写していたから傑作なのであって、それはセカイ系の論理では捉えられないのだ、という論理です。その○○に入るものが、前島さんだと『ひぐらし』第7話で、宇野さんだとよしながふみや宮藤官九郎なわけですが、構造は同じです(余談ですが、こうなってくると、宇野さんのいう「東浩紀の劣化コピー」がどこにいるのかはますます不明です)。
これはなかなか意味深いことです。確かに最近の小説には広義の「公務員のリアリティ」を描いているものが目立つ。そして、そこには確実に現在の日本のニート的というかひきこもり的というか、そういうリアリティが反映されている。
ところが、東浩紀という批評家はそういう作品への感度が明らかに低い。つまりはぼくの文学観・世界観は根本的に浮世離れしており、そこらへんこそが、80年前後生まれの不況直撃の若い世代、別の視点で言えば前期宮台のもっとも若い読者たち(前島さんも宇野さんも宮台の熱心な読者です)から批判されつつあるという構図のようです。なるほど。
自分で言うのもなんなのですが、ぼくは、この東浩紀批判は基本的に正しいのではないかと思います。確かに、ぼくにはそういう欠点がある。
しかし、そのうえで思うのですが、では彼らは、そんな「公務員のリアリティ」の果てに、いったいどのような世界観や想像力の到来を夢見ているのでしょうか。小さな成熟が必要だと言いたいだけなら、そもそも小説なんか書く必要ないんじゃないか、評論も必要ないんじゃないか、普通に働けばいいんじゃないか、とかお気楽なぼくは思ってしまうわけですが、そんなお気楽さこそがポスト赤木世代の彼らには許せないのかもしれません。
いずれにせよ、ここには、世代の問題ではなく、けっこう本質的な差異が横たわっている感じがします。もう少し考えてみます。
あー、また長文のエントリを書いてしまった。
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