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シンポに向けてのメモ2

ま、実際、ぼくは「ノンポリ」なんだろう。しかし、政治ってなんだろう? 靖国とか格差とか言ってれば政治なのか? 選挙とか内閣とか? 本当に?

ぼくは「政治」という言葉は、個々人の立場表明を意味するのではなく、社会共通の資源のよりよい管理方法を目指す活動を広く意味するべきだと考える。だとすれば、それは必然的に、物語なき進歩主義、というか物語なき改革主義の立場になるはずだ。それなのに、物語の衝突ばかりが「政治」だと思われるのはなぜなのか。

その理由はおそらくこうだ。第一に、カール・シュミットの言うとおり、政治とは長いあいだ「友と敵を峻別する論理」だと考えられてきた。第二に、そのうえに、前世紀後半の左翼系知識人たちが、政治イコール開かれた公共的議論イコール他者の尊重、みたいなイデオロギーを加えた。アーレントにしろハーバーマスにしろ、とにかく左翼は「他者と話し合え、他者を認めろ、他者を尊重しろ」の大合唱だ。つまり、まずなにかイデオロギーがあり、それが他者とは共有不可能なんだけど、でも話し合っていろいろ同意していく、20世紀は「政治」をそういうものだとして規定していったのだ。

というわけで、いまぼくたちは、だれかが「政治的」といえば、そのひとにはなにか「ポリシー」があって(ほとんどトートロジーだが)、それを声高に叫んだり議論を交わしたりしつつ、いろいろ譲歩していく、そんなひとのことだと思いこんでいる。そして、そんなコミュニケーションの専門家が「政治家」で、ぼくたちは税金で彼らを雇っている。

しかし、政治とはそういうものだろうか。

そもそも、いまの時代、友と敵ってなんだろうか。物語ってなんだろうか。冷戦崩壊まで、政治は確かにイデオロギー=物語の衝突の場だった。そして、それには現実的意味があった。その時代は、確かにイデオロギー=物語はひとびとの資源配分の方法を規定していたからだ。そして、イデオロギー=物語の数も極端に少なかった(二つか三つだった)からだ。

しかし、1990年代以降、もはや世界はそのように動いていない(ネオリベラリズムという言葉は、多くの人文系の学者が吐き捨てるように、イデオロギーとしての実質をほとんどもっていない)。政治的な場は無数の専門領域と局所的問題に分散し、それらを貫く市民の「アソシエーション」なども空虚な掛け声でしかない。にもかかわらず、政治とは物語の衝突であるべきだ、という期待だけは亡霊のように漂っている。となると、論壇はもはや、各個人が、なんのバックグラウンドもなしに、とにかく「自分の小さな物語」を声高に叫ぶ場として生き残るほかない。おそらく、ここ20年ぐらいで起きたのはそういう変化だ。

というわけで、ポストモダニズム——というか、フーコーからカルスタを通ってポストコロニアルやらジェンダー研究やらなにやらにいたる議論も、いつのまにか(というのも、ぼくの考えではもともとフランス現代思想ってそういうものではなかったので)政治イコール「主体の立場表明」の立ち位置系議論に矮小化していった。

むろん、その変化は左翼インテリだけの問題ではない。昨年の論壇のヒーロー、赤木智弘氏が、まさにそのような論者の典型だ。おまえの立場を明らかにせよ、そのうえで弱者の代弁をしたうえでもっともらしい物語を語れ。これが、いま「論客」に寄せられる期待のすべてであり、赤木氏はまさにその類型として登場した。

しかし、そうなってくると、ぼくみたいな「インテリ」の「大学人」(まあそうなんだろう)は、「政治」的なことを話そうとすれば、もはや「現場」の「弱者」の代弁をやるくらいしかなくなることになる。そして、そんな振る舞いは、むろん赤木氏にはかなわないし、あまりやる気もない。というわけで、居場所はなくなる。

おまけに言えば、そういうとき「弱者」ってなんなのか、それは大いに疑問だ。ぼくの考えでは、赤木氏の議論の根幹には、「左翼は弱者を救済するというが、本当の弱者は弱者として定義すらされていないという左翼的な定義を拡張するならば、おれたちのように弱者だと言われてこなかった連中こそ本当の弱者なんだから、いますぐ女性でも外国人でも障害者でもない中年男性フリーターに注目しろ」的な論理のアクロバットがあり、おそらくはそれが一部の男性読者のルサンチマンに受けたのだと思う。いまの日本の「弱者」の定義は、それぐらい可塑性が高い(これは救うべき弱者がいないと言っているのではないし、またフリーターを無視しているのでもない。ぼくがここで標的にしているのは、赤木氏の議論構成である)。

まあ、ともかく、ぼくの思うに、ぼくたちはまず、「政治的であること」とはなんなのか、そこから根本的に考え直さねばならないのだ。ぼくは『思想地図』は「政治的」な雑誌にしたいと思うが、それは、この世界のよりよい資源配分について語りたいからであり、物語=イデオロギー闘争をやりたいからでも、また弱者代弁競争をやりたいからでもない。

友と敵を作って、そのうえで他者を尊重したりなんだりする。それはとても「人間的」であり、高級な話ではある。実際、それはある範囲ではますますやるべきだ。たとえばブログとか。ぼくはそう思っている。この点を誤解してほしくない。

しかし、政治の本来の目的が共通資源のよりよい管理にあるのであれば、その過程が必ずしもそういう人間的で高級なコミュニケーションに結びつく必要はない。ポリシーなき政治、討議なき政治だってありうるはずだ。アーレントの言葉で言えば、政治を、「活動」の場ではなく、「労働」(=消費)の場に落とすこともできるはずだ。つまり、無意識で工学的な意志決定の場所に(なお、「よりよい」という価値設定にこそが問題で、その部分にこそ実際は功利主義的イデオロギーが入りこんでいるだからだめだ、的な反論が容易に思いつくが、それについてはここで再反論するのはやめておく)。

ここで「資源」というのは、むろん経済的なことだけではない。たとえば、ぼくは、Googleの出現はとても「政治的」なことだと考える。なぜなら、それはぼくたちの世界の知的資源の配分を変えたからだ。あるいは、9.11以降のテロの問題も「政治的」だと考える。しかしその理由は、そこで資本主義とイスラムが戦っているとか、アメリカの地政学的野望がどうとか、そういうことではない。世界のセキュリティ化は、リスクという資源の配分を大きく変えたからだ。格差問題も環境問題も同じだ。要はぼくたちは、「政治」としては資源配分のより巧妙な方法だけを考えていればいいのだ。

だから、誤解と反発を受けるのを覚悟でいうが、ひとりひとりのアイデンティティとか承認欲求とか、そんなものは基本的には政治の話ではない(ここにケイパビリティの話が入ってくるのは知ってる、しかし基本的にはそういう前提で出発すべきだと考える)。「美しい国」とかなんとかも政治ではない。「政治」は市場とは異なった意味で、しかし同じように冷徹で、ひとりひとりの自意識や美学に関わっているひまはないのだ。

ぼくはそんなふうに思うので、総選挙とか内閣支持率とか派閥とか、そういう話にまったく関心がもてない。ずいぶん金使ってお祭りやっているなあ、としか思わない(そういうシニカルさこそが問題なのだというひとがいるのは知っているが、しかし、なぜひとはある時代ある場所に生まれたというだけで、その時代の「政治」的参加のコードを全面的に受け入れねばならないのか、それもよくわからない)。したがって、ノンポリということになる。

ひとはよく、人間は物語がないと生きていけないと言う。そうかもしれない。しかし、ついこのあいだまで、よく「戦争は人間の本能だ」とか言われていたのだ。じゃあ、ぼくたちは戦争に頼るべきか。そういう話にはならない。同じように、たとえ、人間ひとりひとりは物語がなくて生きていけなかったのだとしても、社会全体の資源配分の方法はそこから切り離されていいはずだ。

たとえば、ぼくは富の再配分はがんがんすべきだと思う。しかし、そのメディア(媒介)として、国家単位の議会制民主主義と官僚制は原理的にそぐわないと考える。ぼくたちは、市場=動物=自然状態=無意識的創発=格差拡大、vs、民主的討議=人間=イデオロギー=意識的管理=平等志向みたいな対立図式にいつのまにか囚われているが、ほんとうにそれしかないのか?

物語なき政治。討議なき公共性。友も敵も作らない環境管理。政治を動物的なものに変えること。

それは具体的にはなにを意味するのか。ぼくにとっての「政治」とは、そういう話だ。


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