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マンガ会議講演概要

こんなことを話します。急いで書き殴った翻訳者用の概要です。ふだんはこういうのは作らない(聴衆の反応を見て話すのが好きなので)のですが、今回は翻訳が挟まるので作りました。

講演記録は別に出版される予定らしいので、正式にはそちらを参照してください。


■■■

Le manga, 60 ans apres...
The otaku phenomenon and Japanese postmodernity
講演概要
全40分


自己紹介そのほか

0:00

僕は批評家であり、マンガ研究者ではない。社会学者でもない。大学院では哲学を専攻していた。だからオタクについてこれから語ることも、抽象的で思弁的な話である。そのことを念頭に置いてもらいたい。

今日の講演の中心は、おもに、『動物化するポストモダン』(Generation Otaku)という、最近フランス語訳が出版された著作の紹介となる。この著作は2001年に日本で出版され、よく売れた。2007年に韓国語訳が出版され、また今年中かあるいは来年に英訳が出版される予定である。
『動物化するポストモダン』はフランス語訳では「オタク世代」と翻訳されたが、もともとのタイトルは、「動物化するポストモダン オタクから見た日本社会」というものだった。つまり、主題はあくまでも、「ポストモダン」「日本社会の変化」、そしてこの本で新たに提示された「動物化」という概念で、「オタク」はそれらの変化を実証するためのひとつの例だった。しかし、日本でも、この本はまず「オタク」についての本だと読まれた。
また、この本を契機として、日本では、若いオタクたちのあいだに、批評的言説を好む読者が一定数現れた。10年前の日本では、現代思想的用語とともに語られるのは文学であり映画であり美術だったが、いまではその半分ぐらいが、マンガでありアニメであり美少女ゲーム(この特異なジャンルについてはのち語る)になっている。


物語消費とデータベース消費

5:00

それでは、『動物化するポストモダン』の内容を紹介しよう。

まずぼくはこの本で、オタクという言葉をほとんど定義していない。オタクとは、マンガやアニメやゲームやそのほかもろもろ、たがいに結びついた一群のサブカルチャーを熱心に受容する人間、といったていどの意味である。
なぜそのような単位に注目するべきかというと、今日の会議のテーマはマンガだが、マンガに限らず日本のサブカルチャーについて考える場合、その「オタク」というまとまりに注目するのはとても大事だからである。オタクたちは人種的集団でも経済的階層でもないが、日本では、独特の固有性をもち、ひとつのまとまりとして捉えられている。同じマンガでも、オタク向けに書かれているものと、オタク以外に向けて書かれているものは、かなり異なったジャンル的文法で書かれているように思われる。オタクたちは、彼ら固有のルールで文化を消費している。そのルールを理解しないで、単独に作品だけを学問的な擁護で分析しても、日本では有効な分析と見なされない。

さて、そのような前提のうえで、僕が主張したのは、オタク文化はかくも独自の世界だと思われているが、しかしそれでも、やはりそこには「ポストモダン的」な要素があり、また戦後日本の精神史が反映されているのだ、ということである。

ここにいるみなさんは、そんなのは明らかだと思われるかもしれない。たとえば、オタク文化のポストモダン的性質については、二次創作の存在を見れば明らかだ。そこでは、オリジナルとコピーの関係が崩れている。「シミュラークル」の世界だ。また、マンガやアニメが、戦後日本の諸問題を反映しているのも当然のことだ。
しかし、ぼくが言いたいのはそのようなことではない。

筆者はまず、この本で、1990年代、オタクたちの消費行動には大きな変化があったと主張している。それはどのようなものかというと、「物語消費」から「データベース消費」への変化である。いまならば「キャラクター消費」と呼んだほうが適切かもしれない。オタク文化での消費の単位が、物語から、その物語を構成する「要素」のほうへ移動したのである。
それはたとえば……。
<例 『ガンダム』vs『エヴァンゲリオン』>
<『動物化するポストモダン』の図>
ちなみに、「オタク第1世代」と「オタク第3世代」——この区別もいまや日本では一般的になっているが、はじめてそう区分したのはじつはぼくである——のこの差異は、ぼくが2001年に本を出版したときにはまだ不明確で萌芽的なものだった。
<例 萌え要素、美少女ゲームの説明、『動ポモ』の図版を見せながら、このときはこのような例しかなかった……というような話>
しかし、そのあと、美少女ゲームやライトノベル(キャラクター小説)の台頭、「萌え」の流行語化、そしてインターネットを中心としたオタクコミュニティの成長によって、ますますはっきりとしてきている。
<ここで美少女ゲームやキャラクター小説について説明:時間があれば>
なお、さらに註釈を加えれば、1980年代現在、若い世代のオタクたちの消費行動は「データベース消費」というより、むしろ「データベースを媒介としたコミュニケーション消費」とでもいうべきものが主流になっている。なにかを話題(「ネタ」)としてとにかくユーザーが繋がればいい、というのが、いまの日本での大きな流れである。
<例:らき☆すた ニコニコ動画とYouTubeの違いなど>
このような変化の意味については、『動物化するポストモダン』の続編で、日本では昨年出版された『ゲーム的リアリズムの誕生』に記されている。


動物化

23:00

さて、オタク第1世代と第3世代のあいだでは、このように消費行動に大きな差異があるわけだが、しかしこれはなにを意味するだろうか。そこで筆者は、大澤真幸という社会学者の戦後日本社会の精神史区分と、Lyotardの「大きな物語の崩壊」論(『ポストモダンの条件』)、そして、Kojeveの『ヘーゲル精神現象学講義』への小さな註釈に注目した。

<ここからさきしばらくは『動物化するポストモダン』の話>
<理想の時代→虚構の時代→?>
<1995年オウム真理教事件の意味;虚構の時代の終わり>
<それでは虚構の時代のあとは?>
<大きな物語の崩壊、という観点から大澤の議論を整理する>
<大きな物語がある時代(理想の時代)
→物語は崩壊したがフェイクが求められた時代(虚構の時代)
→もはや物語のフェイクすら必要なくなり、ただデータだけを消費する時代(現在)>
<大きな物語→物語のフェイク→大きなデータベース>
<近代的人間→スノビズム→動物化>
 
以上のように、1990年代のオタクたちの消費行動の変化は、「物語消費からデータベース消費へ」「スノビズムから動物へ」という言葉でまとめられる。そしてそれは、戦後日本の精神史の展開をみごとに反映しているとともに、またポストモダニティの深化とも捉えられる。
それが『動物化するポストモダン』の結論である。


追記
33:00

なお、今日の講演はたいへんに短いので、本来はこれにはさまざまな註釈を加える必要がある。短めにふたつだけ。

ひとつは「動物化」というキーワードの意味である。
ぼくは『動物化するポストモダン』で、オタクは「動物化している」と主張している。しかし、それには肯定の意味も否定の意味も込めていない。このことは重要である。なぜならば、ぼくは、動物的消費を前提とした人間的社会、人間的コミュニケーションの構築も可能だと考えているからだ。さきほど見せたニコニコ動画のようなコミュニケーションを考えてもらいたい。そのようなコミュニケーションは、従来の常識ではまったく人間的なものではない(日本でも一般にはそう思われている)。しかし、ぼくは、そこにしか新しい人間性の可能性はないと思う。
今日はまったく触れられなかったが、動物性を前提としながら、従来のありかたとは違ったかたちで人間性を再構築するオタクたちの試みを、『動物化するポストモダン』では「解離」という言葉で読んでいる。出版してから気がついたのだが、解離、つまり dissociationとは、また脱社会化(associationの逆)という意味でもある。解離的で脱社会的な人間的コミュニケーションの世界。これがオタクたちが目指すべき新しいコミュニケーションのすがただろう。本当はここに、日本社会論、都市論なども関係していて、実際にぼくは『東京から考える』などという都市論を出版しており、そこではショッピングモールにこそ新しい文化の萌芽があると主張している。その主張と、『動物化するポストモダン』の動物性の議論は深く関係している。
マンガの話と離れてしまったが、ぼくがここで言いたいのは、ひとことで言えば、オタク文化とはライフスタイルの問題であり、その意味を捉えることなしに作品分析だけしてもその射程は限られているということである。

もうひとつは、この『動物化するポストモダン』が、日本の批評的文脈でもった価値転倒についてである。オタク文化を思想用語で捉える、というその企図そのものがすでに十分に価値転倒的ではあるが、しかしそれだけではない。ぼくはこの本で、日本のポストモダン論がもっていたナルシシズムを転倒しようと試みた。
フランスの方々であれば、ぼくがさきほど参照したKojeveの議論がきわめてマイナーであることはご存知だろう。にもかかわらずぼくがそれを引用したのは、その議論が日本ではメジャーだったからである。アメリカ的動物性よりも日本的スノビズムのほうがすぐれており、そこにこそポスト歴史の進むべき道がある、というこの議論は、1980年代から90年代初期にかけての日本ではたいへんに好まれた。そして彼ら、「スノッブでシニカルな日本的ポストモダニスト」たちは、そのようなナルシシズムに酔っているあいだに、そのとき彼らの足下で起きていた草の根のポストモダン化を完全に無視していたのである。
その結果、1990年代も後半に入ると、日本のポストモダニズムは急速に影響力を失った(いまでも失っている)。むろん、ポストモダニズムの影響力低下には、冷戦崩壊や9.11も関係していて、国際的に不可避の部分がある。しかし、それを考慮しても、日本での打ち捨てられかたには行きすぎの面がある。ぼくは『動物化するポストモダン』で、その状況を転倒しようと試みた。したがって、この書物には、日本における批評的言説の再構築、再活性化をという目的があり、そして実際に2001年以降、日本の批評的光景はかなり大きく変わったと思っているが、その点についてはこの講演の主旨と離れるので省略しよう。

とにかく、ぼくがここで言いたかったのは、マンガ論はオタク論に必然的に繋がり、オタク論は現代社会論や日本論に必然的に繋がり、したがって有効なマンガ論やオタク論を構築することは、必然的に現代社会論や日本論での価値転倒を含まざるをえないということである。
今日はほとんど作品の話をしなかったが、みなさんの参考になれば幸いだ。

ご静聴、ありがとうございました。


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