kajougenron : hiroki azuma blog
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ここは、批評家・東浩紀が運営するブログです。東浩紀の経歴や業績については、hiroki azuma portalをご覧ください。
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ちょっとひとこと。
投稿日時:2008年04月03日23:02
宇野常寛さんの下記の文章を読んで。
http://www.sbcr.jp/bisista/mail/art.asp?newsid=3305
さすがにこれは幼稚な話では。宮台ー東ー宇野という架空のラインを作りたいがために、「批評」全体を落としめすぎだと思う。
そもそも批評や現代思想の読者の中心が性愛コンプレックスで動員されている連中だ、という状況認識がおかしい。
第一に、1990年代以降、批評や現代思想の中心が宮台真司ー東浩紀のラインだったことなどない。宮台さんはメジャーでぼくもちょっとだけメジャーかもしれないけど、そんなラインは傍流の傍流で(だからこそそんな傍流が『論座』の特集になったことに驚くべきであって)、その外にはアカデミズムでもジャーナリズムでも大きな世界がある。
たとえば(『論座』でたまたま名前が挙がったので出すけど)立岩真也の著作の読者はモテなのか非モテなのか? あるいは(たまたま同じメルマガに掲載されているので出すけど)山形浩生の読者はモテなのか非モテなのか? 性的承認以外にも、この世界には考えるべきことはやまほどあり、批評や思想の多くの読者はむしろそっちに興味がある。宇野さんが入れ替える以前に、そういうひとのほうが多いのだ。宇野さんは、もしかして、批評の読者はみな10代から20代で独身で男性だと思っているのか?
第二に、こちらはもう少しどうでもいい反論だけど、宮台さんの読者もぼくの読者も、彼が思うようなひとが中心だったことなどないと思う。そりゃそういうひとはいるだろうし、ネットで目立ちはするだろうけど、実際にはそういうひとに限って本は読んでなかったりする。彼が言っている「宮台読者」「東読者」というのは、実際には読んでないのに宮台真司や僕の名前を使って部室でクダを巻いていい気になっているような、イタい学生のことなのでは? 確かにそういうやつの動機は性愛コンプレックスだろうけど、そんなやつはそれこそいつの時代にでもいるわけで、20年前なら浅田彰がそう使われただろうし、40年前なら吉本隆明が使われたのだろう。だから、そんな観察からはなにも出てこない。
僕は宇野さんを知っているし、またポジション的に応援したいのであまり悪口は書きたくないのだけど、こういう文章を読むと、「それはあなたが批評を性的承認の道具としてしか理解できなかったからなのでは?」と言いたくなる。むろん、それはそれで彼にとって切実な問題なのだろうし、その切実さそのものはそれなりに時代を反映しているだろうから貴重なのだろうけど、そんな個人的な読書経験を過剰に一般化し、「だから批評の読者の刷新が必要だ」と訴えられても困る。
とにかく、宇野さんが批評は性愛コンプレックスの解消手段にすぎないと個人的に考えるのは自由だけど、みんながみんなそんなことばっかりに興味をもっているわけじゃない。というか、そっちのほうが、それこそ「小さな成熟」を経た「普通」の見方でしょう。
困ったことに、日本ではこういうことを書くと必ず「上の世代が下の世代を潰しに入った」と言うひとがいる。だからあまりやりたくなかったのだけど、ちょっとこれは『論座』で新世代の論客と褒められたひとにしてはあまりに幼稚な文章だと思ったので、書きました。宇野さんと同世代でも期待できるひとがたくさんいるのは別に知っているし、そっちはがしがし応援しています。いや、宇野さんもこれからも応援したいのだけど(『ゼロ年代の想像力』はよかったのだし)、だからこその苦言と受け取ってください。
PS
宮台ー東ラインという批評の流れがあることは事実で、それはそれで批判し乗り越えられるべき問題を孕んでいるだろうけど、その支点になるのはモテとか非モテとかの問題ではないと思う。
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