kajougenron : hiroki azuma blog
about
ここは、批評家・東浩紀が運営するブログです。東浩紀の経歴や業績については、hiroki azuma portalをご覧ください。
navigation
カテゴリー
critique [169 items]glocom [17 items]
hajou [22 items]
misc [106 items]
moblog [30 items]
recent works [27 items]
zatsudan [1 items]
entry navigation
blog entry
信頼社会は不安社会よりいいのか?
投稿日時:2008年04月20日18:48
信頼ベースの社会と不安ベースの社会だったら信頼ベースのほうがいいのは自明で、そして日本の現状では信頼を再構築するために愛国教育とか社会奉仕が必要なのだ、という議論があります。
しかし、それって本当でしょうか。人間は境界を決める動物です。信頼ベースの社会も「信頼できる人間」と「信頼できない人間」をまず区別するはずです。つまりは、信頼ベースの社会というのは、基本的に信頼の適用範囲を限定した社会にならざるえません。そしてその境界にこそ、普通はナショナリズムだとかヨーロッパ中心主義だとかが入りこみます(むろん、ポストモダンなリベラリズムはその信頼の範囲を無限定に拡張しようと提案していたわけですが——デリダの「歓待の論理」とか——、いまや明らかなようにそれはきわめて文学的で理念的な提案でしかありません、理念は理念で必要なのですがここでの話とは水準がかわってしまいます)。ローティやロールズでさえ、アメリカ中心主義とか一国リベラリズムとか批判されているのは、みなさんご存知のとおり。
他方で不安ベースの社会ってなにか。それは取引の相手を人間と見なさない社会です。だから非人間的な社会です。でもそのかわり不安には境界がない。不安ベースの社会は、「信頼できる人間」と「信頼できない人間」の区別などという曖昧なものは信頼せず、むしろ相手はつねに「信頼できない相手」だと考えて、その前提のうえでリスクを計算します。むろん、そういう社会設計にはコストがかかる(それに計算外のことも起こる——でもそれは信頼ベースの社会でも同じですね)。しかし、そのコストがIT社会の到来で激減しているのもご存知のとおり。ぼくたちは、歴史上はじめて、不安ベースのテクノリバタリアンな社会を実現できる、少なくともその実現を想像できる時代に生きているのです。
(注:一部で混乱を呼んだようですが、この議論は山岸俊男氏の話とはとりあえず関係がありません。最後に記してあるとおり、これは宮台氏への反論です。山岸氏だと、非信頼社会=安心社会のほうがむしろムラ的な論理という用語法になっています(『日本の「安心」はなぜ消えたのか』ほか)。そして「安心」は普通には「不安」の対義語です。したがって、なんかぼくの話と用語の使用法が正反対のような気がすると思いますが、じつはちょっと工夫すればぼくの話もその山岸氏の用法と繋げることができないわけではない——前近代的でムラ的な安心社会→近代的な信頼社会→ポストモダンでグローバルな不安社会の三段階を分ければいいだけ——のですが、ここではとりあえず切り離して論旨を追ってください)
さて、この両者のどちらがいいか。
イメージで語ると、それってこういう比較だと思うわけです。信頼ベースの社会では、社会設計が信頼(主観的な安全保障)と技術(客観的な安全保障)に頼る比率が7:3だとする。他方で不安ベースの社会では、その比率が3:7だとする(信頼が主観的で技術が客観的と言えるのかとか、それってなんの数字かとかは問わないでください。あくまでも比喩です)。信頼の醸成には特別のコストはかからないが監視社会のインフラにはコストがかかるのだとすれば、前者のほうが社会投資が半分で済むのでいいということになる。それに、なによりも「人間」を見ている感じがする。
しかし別の見方もできる。たとえばここに、ある日本人がいて、彼は同じ日本人は信頼度が1だけど、アメリカ人は0.7ぐらいで、中国人ともなれば0.3がせいぜいだと考えているとする。信頼ベースの社会では、彼にとって日本人の総合安全値は10(7+3)だけど、アメリカ人は8(7×0.7+3)、そして中国人はわずか5(7×0.3+3)で、これじゃ中国人とはとても取引できないという話になる。他方で不安ベースの社会では、その数字はそれぞれ10(3+7)、9(3×0.7+7)、8(3×0.3+7)であって、まあ中国人と取引してもいいかという話になる。つまりは、セキュリティのインフラがしっかりしているから、信頼できない相手と取引してもそれほどリスクが増えないという計算になる。こういう見方をすれば、不安ベースの社会だって悪くないという話になる。それはある点では、信頼ベースの社会より「平等」だからです。
ぼくは信頼が不必要だと考えているわけではありません。人間が生物学的条件として半ば不可避的に境界を定めてしまう最小単位、たとえば「家族」のなかでは信頼は最大限に醸成するべきです。自分の妻や娘を、他人と同じぐらい警戒してリスクヘッジを組み立てるような家族関係は端的に間違っている。というか、それはもはや家族ではない。同じことは家族に類する小型の親密圏にもあてはまる。小規模な企業や趣味のサークルなどは、信頼ベースで運営されるべきです(オンラインオフライン関係なく)。それは言うまでもない。「小さな公共圏」は林立するべきです。ただ、ぼくはそれを、国家単位の社会運営の話に拡げるのがおかしいと考えるのです。
また、ぼくは不安ベースの社会が引き起こす諸問題を無視しているわけでもない。たとえば排除型権力の拡張などがそれです。実際、性犯罪者へのGPS常時着用などは本当に現実化しそうです(あまりネットでも騒がれてないけど)。しかし、たとえば排除型権力より包摂型権力のほうがいいと言うときに、「ではだれを包摂するのか」が消えない問題として残るのを忘れてはならない(『思想地図』のシンポジウムや鼎談ではその点でぼくと萱野さんが対立しています)。不安ベースの社会は、人間を人間扱いしない、ぼく風の言い方をすれば「動物」扱いする社会です。だからひどい社会といえばひどい社会です。しかし、社会の構成員全体をひとしなみに動物扱いするのであれば、それはそれで人間的な社会とも言えないことはない。最悪なのは、だれが人間でだれが人間でないのか、恣意的に線を引く権力です。大袈裟に言えばアウシュヴィッツの教訓はそこにつきるわけで、だからぼくは、日本に対する愛とかなんとか以前に、ナショナリズムの論理が嫌いなのです。
最近はそんなことを考えています。ちなみに、小説『ファントム、クォンタム』第1章のテーマは、まさにそんな話になる予定。
■
ところで、なぜこんなエントリをいきなり書いたかというと、風の便りで、最近宮台真司さんが某所でのトークショーでぼくをけっこう激しく批判し、その絡みで宇野さんを擁護したという話を聞いたからです。その場にいなかったので実際にどういう発言があったのかは知りませんし、ぼくはそれこそ宮台さんを「信頼」しているのでそんなに単純な話でもなかったのだろうと考えますが、とりあえず批判されっぱなしも問題なので書いてみました。的外れの反論だったら申し訳ない。
いずれにせよ、日本社会の復活のために信頼の復権を!というのは、宮台さんや萱野さんや宇野さんに限らず、いまの言論界の流れでは主流でしょう。なんといってもそれは常識的主張です。それに較べれば、ぼくの発想は幼稚というかSF的というか、現時点でそう見えても仕方ないとは思うので、あるていどの批判は甘受します。しかし、ぼくもちょっとはものを考えているので、気長に付き合ってくだされば幸いです。
comments
コメント