kajougenron : hiroki azuma blog
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ここは、批評家・東浩紀が運営するブログです。東浩紀の経歴や業績については、hiroki azuma portalをご覧ください。
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finalvent氏への応答(追記3つあり)
投稿日時:2008年04月21日09:56
さきの投稿に関して、有名ブロガーのfinalvent氏より批判的なレスをいただきました。ありがとうございます。
ぼくとfinalventさんでは、関心領域も文脈も大きく異なり、個々の言葉の使いかたから調整しなければならないので、反論はしません。けれどもひとつだけ。
ここもついてけない部分、アウシュヴィッツとナショナリズムは別の問題だとしか私には思えない。
この発言には「え?」と思ってしまいました。ナショナリズムの歴史が全体主義の歴史と密接に繋がっていること、そしてその臨界点がナチスドイツの強制収容所であることは、思想史的にはよく言われていることなのではないでしょうか。そもそもナチスの「ナチ」は、ナチオン(ネイション)のナチですし。
世界は複雑であり、学問は専門領域に分割されていて、いちいち文脈を押さえないと議論に参加できないのではあまりに不自由で、したがってすべての反論可能性に開かれているブログはすばらしい場所です。しかし、やはりそれでも、コミュニケーションのコストを低くするためには、他人の主張を批判するときにはあるていど前提を読んでほしいと思います(それこそ信頼社会として?)。
たとえばぼくが「ナショナリズム」というときには、当然人文系のさまざまなナショナリズム批判を念頭に置いているし、それはぼくのプロフィールからも明らかなはずなので(といってもfinalventさんはぼくのプロフはご存知なかったようだけど)、その意味で読んでほしいです(ちなみに、そこらへんさらいたいかたには大澤真幸の大著『ナショナリズムの由来』をお勧めします。その補論3が強制収容所論です。そこでは人間の定義の境界についても書かれています)。また「動物」という言葉も、ハイデガーの(というよりもデリダが読んだハイデガーの)「動物」だとか、アーレントの「人間の条件」だとか、そういう文脈のうえで使っています。アウシュヴィッツとネイションの繋がりとか、公共性と「人間」の定義だとか、そういう話はべつに俺流理解でやっているのではなくて、少なくともそういう議論がされている場はあるのです。
さらに付け加えれば、「信頼」は英語の「trust」で、こちらは微妙にフランシス・フクヤマなんかを意識しています。『人間の終わり』を読めばわかりますが、フクヤマの議論でも信頼と人間の定義(というかヘーゲル的「歴史」の定義)は密接に繋がっています(ところで肝心の宮台さんはルーマン的な意味で「信頼」を使っているはずでそれならむしろナショナリズムには繋がらないと思うのですが——といってもぼくはルーマンは詳しくないのですが——、最近の宮台さんの議論ではそこが短絡されているような気がしていて、そこもぼくのエントリのひとつのコンテクストを形成しています)。あと、信頼という言葉を使っていたかどうか記憶にないですが、信頼の論理が信頼できる人間と信頼できない人間を峻別しないと成立しないことは、ロールズが『万民の法』でリベラルにつきあえる国家とそうでない国家を分けざるをえなかったことにも現れていると思います。
というわけで「問題の背景」の説明まで。finalventさんの記事は影響力があると思うので、追記させてもらいました。
【追記】
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20080421
これは困ったなあ。
ぼくは上の文章で確かに「そもそもナチスの「ナチ」は、ナチオン(ネイション)のナチですし」と書いたけど、これは補足みたいなもので、それを根拠にナチスとナショナリズムの関係を論じているわけではないです。それは自明だと思うのだけど。こんなの書かなきゃよかった。気が利いてるとか思って筆が滑ってしまった。
ナチスが「国家社会主義ドイツ労働者党」の略だって、そんなのウィキペディアを出されなくてもぼくも知ってます。finalventさん、もう少し他人を「信頼」していただけませんか?
いずれにせよ、かりにナチがナチオンのナチではなく国家社会主義(ナチオナルゾチアリスムス——で発音合ってたっけ?)のナチだったとしても、国家社会主義とナショナリズムは無関係じゃないと思います。どうしよう、アーレントとかラクー=ラバルトとか参考文献に上げるべきなのか? とりあえずはfinalventさんが信頼するウィキペディアにも、「ナチズムの特色は、特にその民族の概念にみられる。ナチ党の「血と大地」「血の純潔」「ゲルマン民族の優秀性」という民族概念は、国内的にはユダヤ人排撃の思想となり、対外的には他民族を侵略してその支配下に置かんとする軍国主義を正当化する思想となった」って書いてあります。そんなこと言っても、また揚げ足とられるのかな。国家と民族とネイションは違うとか? そりゃ違うけど繋がってもいます。大澤さんの本でもなんでも読んでください。
とにかく、人文系や思想系にもそれなりの蓄積があるんです。それにも常識的な敬意と関心を払ってください。心からお願いする次第です。
といったところで、泥沼の予感がするのでここで終了します。
【追記の追記】
上記すべてを書いたあとに気がついたのだけど(つまり、もっと難しい指摘だと思って考えていたのだけど)、もしかしてfinalventさんは、「ナチ」のもとが「ナチオン」ではなくて「国家社会主義」だから東は間違えている、ナチの語感だけで適当なことを言った、と指摘したいのでしょうか?
まさかとは思いますが、それなら意味がない指摘です。だって、「国家社会主義」の「国家」はnational(ナチオナル)で、つまりnationと同じ言葉です。そのかぎりでは、ナチはナチオンのナチで、誤りでもなんでもありません(いや、しかしまさか、そんな指摘を?)。
国家社会主義は原語では(英訳で対応させると)national socialismで、ここには厳然とnationという言葉が入っています。そのnationalはfinalventさんが考えるナショナリズムと関係がないという議論は立てられるかもしれないけど、そのためにはまずナショナリズムを定義したうえで、ナチはそれと無関係にnationという言葉を用いていたと主張しなければならない。しかし、それはけっこうアクロバティックです。そもそも国家社会主義って、国際運動化する社会主義との対抗関係で作られたものでもあります(またソースがないとか言われるとイヤなのでネット上で探しました、フランス語版ウィキペディアの「nazisme」の項目にありました)。国際主義に対抗した国家主義の運動って、これをナショナリズムと呼ばずになにをナショナリズムと呼べばいいのでしょう。それに、ナショナリズムって明確な定義がなく(不可能で)、nationという曖昧な言葉をフックにあらゆるところに忍び込むイデオロギーの総体を意味する言葉でもあるはずです。こういう論理は、いかにもフランス現代思想っぽいと思うかもしれないけど。
こういった説明では納得しないのならば、ブログ流に単純に英語版ウィキペディア「nazism」を参照してもいいです。そこでは、「Among the key elements of Nazism were anti-parliamentarism, ethnic nationalism, racism, collectivism, eugenics, antisemitism, opposition to economic liberalism and political liberalism, a racially-defined and conspiratorial view of finance capitalism,anti-communism, and totalitarianism.」と書かれていて、ナチズム(国家社会主義)の重要な特徴として「nationalism」が明記されています。つまり、まず前提としてたとえかりにナチズムのナチはナチオンのナチだと言ってもべつに間違いというわけではなく、それに国家社会主義とナショナリズムも常識的に考えて深い関係にあるのです。ぼくのミスはといえば、ただ、原語で「nation」単独ではなく「nationalsozialistisch」という言葉が使われていることを明記しなかっただけで……。しかし、本当に、ぼくはこんなくだらないことで絡まれているのだろうか?
【おまけの追記】
まあ、しかし、こんな議論はすべて意味がないのです。なぜなら、いまのブログ環境においては、あることを主張したいときに、検索エンジンを駆使して自分に都合のいいようにデータを並べ、本の一節とかをどっかから取ってきて、「ほらAはBだ」「AはBじゃない」と言うことはいくらでもできるからです(ぼくがやったのがまさにそういうことですw)。よく考えたら、そんなことは自明でした。
にもかかわらず、こんな「論争」に巻き込まれて何時間も使ってしまったのは、じつはぼくが古くからアウシュヴィッツやナチズムの問題に興味があって、『ショアー』も6時間上映で見て『スペシャリスト』も深夜上映で見て、学生のころは収容所跡をめぐる旅行までしたことがあるため(アウシュヴィッツ=オシヴィエンチムも当然行っています)、アウシュヴィッツはナショナリズムと関係がないんだ、というあっさりとした発言に、感情的にカチンと来るものがあったからにほかなりません。ぼくもまだまだ修行が足りませんね……。
いずれにせよ、「アウシュヴィッツはナショナリズムとは別の話だ」というのがfinalventさんの主張で、その両者は深く関係しているというのがぼくの主張で、そここそが大事な相違点です。そしてこのことは、事実認識の差異というよりは、むしろ、ナショナリズムの概念や歴史をめぐってのぼくとfinalventさんの知的背景の差異を示しているのでしょう。ほかは枝葉末節にすぎません。そして、そのどちらが「好み」なのかは、読者ひとりひとりが判断し、必要があればはてなブックマークかなんかで表明すればよいことです。というか、ネットでは、原理的にそういう論争しかありえないわけです……。
まずい、これで本当に終わりとか書いておいて、また追記をしてしまった! もう本当に仕事に戻るぞ!
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