kajougenron : hiroki azuma blog
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ここは、批評家・東浩紀が運営するブログです。東浩紀の経歴や業績については、hiroki azuma portalをご覧ください。
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新井素子論@ミステリーズ!の一部公開
投稿日時:2008年05月24日00:57
こんばんは。東浩紀です。娘はぶじ退院しました。
さて、ロスジェネへの出席とか宇野常寬さんによる東読者批判@サイゾーとかいろいろ考えるなかで、ぼくは唐突に開き直りました。ぼくは確かに、なにか空想的なことを語っている。
しかし、空想がない思想ってなんでしょう? もし空想が認められないなら、つまりは「それって現実的に不可能じゃん」みたいなことで思想の可能性がなくなるのであれば、最初から思想なんて要らないと思うのです。思想の読者は、本当に現実について読みたいのでしょうか? 少なくとも、ぼくにわかっているのは、ぼくの夢想を支持する読者は一定数いて、ぼくは彼らを大切にしたいということです。いや、それも違う、ぼくにわかっているのは、むしろ単純に、若いころのぼくは、退屈な現実について語る思想など読みたくなかったということです。
とまあ、そんなことを考えながら、『ミステリーズ!』連載の新井素子論の最後でつぎのようなことを書きました。ご笑覧ください(というか、これは原稿のごく一部なので、全体をぜひ雑誌でご覧ください)。
■
(……)
ぼくはこの連載を、宇野常寛の評論「ゼロ年代の想像力」へのコメントから始めた。問題の評論を一読すれば明らかなように、彼はセカイ系やその周辺の作品にきわめて冷淡である。にもかかわらず、宇野がまずセカイ系について論じるところから始めたのは、セカイ系の構造が、あるタイプの現実認識をきれいに反映していると広く考えられているからだ。
繰り返すが、ぼくたちは社会の全体性を想像しにくい時代に生きている。実存的に言いかえれば、それぞれのアイデンティティ、生きる拠りどころが発見しにくい時代に生きている。地域が崩壊し、家庭が崩壊し、学校が崩壊し、社会のあらゆる場面で流動性が高まるなか、ぼくたちは、どうせ自分がいなくても自分の場所はだれかが占めるし、人生に決まった目的はないのだからその場その場の快楽にしたがって判断を下すのが正しい、といういささかシニカルな感覚に慣れ親しんでいる。抽象的なキャラクターと「純愛」すなわち非現実的な運命論の組み合わせからなるセカイ系の作品は、そのような具体的で現実的な認識に裏打ちされて支持を拡げている。
このことは裏返せば、セカイ系へのあるいはキャラクター小説への態度が、ある言論空間では独特の政治性を帯びることを意味している。実際に宇野が二〇〇七年に注目を集めたのは、そのような言論空間が実在するからである。その空間、つまり若い世代がネットを中心に作り出している「ゼロ年代の言論」においては、現在、以上のような現実認識のうえで、流動性の拡大に歯止めを掛け、ふたたび社会の全体性を回復すべきだという立場と、それは無理だからせめて「小さな成熟」を目指そうという立場が現れ、それなりに活発な議論が交わされている。
その議論の多くは若者特有のジャーゴンに満たされており(「非モテ」や「リア充」など)、必ずしも一般の読者に開かれたものではない。したがって過大に評価する必要はないが、しかしそれでも、その対立そのものは、反市場主義、反グローバリズムに支えられたナショナリズムや労働運動への傾きと、市場の現実をいったん受け入れたうえで、その荒々しさをせめてコミュニタリアンなセーフティネットで補完しようとする立場のあいだの対立を反映しており、そのかぎりで考察に値する。そしてまた、ここでは詳しく解説しないが、その対立はそれぞれ、文学の話に置き換えるならば、セカイ系の方法論ではさすがにあまりにも人間が描けないので、自然主義的リアリズムを再構築すべきだという立場(プレカリアート文学?)と、まんが・アニメ的リアリズムの隆盛はもはや止めようがないのだから、せめてそこでは意味のある物語を語るべきだという立場(決断主義?)にも重なっている。「ゼロ年代の言論」において、マンガやアニメやライトノベルがしばしば熱心に語られるのは、それが単純に若い世代にとってポピュラーな商品であるからというだけではなく、それなりの必然性に基づいているのだ。
ぼくはいまこのような文脈で原稿を記している。そのうえで新井とセカイ系の距離を測り、家族的な想像力を、より正確にはキャラクターの家族化という想像力を、セカイ系の困難への新井からの応答として取り出そうとしている。
セカイ系は社会を描かない。そして人間を描かない。かわりにキャラクターの群れを描く。その流れに抗して、ある人々は文学はやはり社会と人間を描くべきだといい(純文学+ニート論壇)、別の人々はキャラクターを用いてでもせめて社会を描くべきだと主張する(「小さな成熟」派)(注6)。もしかりに「ゼロ年代の言論」の光景がそのように整理できるのならば、さきほどまで記してきたような新井的で家族的なキャラクターの想像力は、また別の可能性を、抽象性との別のつきあいかたを指し示しているのかもしれない。
ぼくたちは社会も人間も掴むことができない。ぼくたちは具体的で社会的な人間とは連帯できず、抽象的で空想的なキャラクターにしか感情を向けることができない。しかしそれは必ずしも、ひとがセカイに孤独に向き合い、無力になることを意味しない。なぜならば、それらのキャラクターたちは、決して実在はしないのだけれど、彼らは彼らで連帯し、彼らは彼らでネットワークを形作り、そして彼ら自身の論理に基づいてぼくたちを孤独のなかから連れ出し、世界への感情に目覚めさせてくれるからだ。『……絶句』で、記憶をなくし、半ば解離に陥った主人公の素子は、現実への関心を取り戻すときまさにつぎのように叫んでいる。「何よお!何よ何よ何よ、本当にみんなして勝手に思いやってみたり健気になってみたりして何よ! あ、あたしなんか、あたしなんか、あんた達[キャラクターたち]のこと……。/だいっすきだかんねっ!」(注7)
キャラクターは無生物である。だからぼくたちはしばしば、人間への愛には他者性があるけれど、キャラクターへの愛にはそれがないと考える。そして、その他者性の欠如を非難したり、逆にそこに開き直ったりする。
しかしぼくには、新井の小説は、キャラクターの別の利用法を提案しているように思われるのだ。彼女は、人間を愛せ(他者に直面せよ)とも、キャラクターを愛せ(自分のなかに閉じこもれ)とも述べていない。彼女はむしろ、キャラクターから愛されることで世界への愛を取り戻せ、と訴えているように見える。そして新井は、そのような受動的な感情のありかたをつねに家族の表象で捉えている。
(……)
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