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北海道新聞7月25日夕刊付記事
投稿日時:2008年08月06日21:21
こんばんは。
秋葉原事件について、6月12日の朝日新聞朝刊、6月21日の産経新聞、洋泉社のムック『アキバ通り魔事件をどう読むか?!』に続いて、7月25日の北海道新聞夕刊に文章を書きました。掲載日から2週間近く経ちましたので、以下に記事を転載します。
なお、秋葉原事件については、来週8月10日のテレビ朝日・サンデープロジェクトに出演するほか、来月に岩波書店から刊行予定の論集『アキハバラ発 〈00年代〉への問い』(大澤真幸編)でもインタビューに答えています。また、今月末発売の大塚英志さんとの対談集、『リアルのゆくえ』(講談社現代新書)でも、語り下ろし対談で同事件について語っています。
■
死者七人を出した衝撃的な秋葉原無差別殺傷事件から、ひと月以上が過ぎた。
秋葉原はアニメ・ゲーム文化を象徴する街である。しかも逮捕された容疑者は二十五歳の男性だった。そのためか、発生直後には、事件を若者文化と結びつける論調があちこちに見られた。
しかし、事件の全貌が明らかになるにつれ、ことの本質はオタクやゲームのような文化論的な問題にではなく、容疑者の教育環境や雇用環境といった社会学的な問題にあるという見方が有力になっていった。奇しくも、若者の雇用問題に取り組む「ロスジェネ」の創刊や「蟹工船」ブームなど、論壇では若年層の貧困に焦点が当たっていた。少なからぬ若者が容疑者に同情したことも、年長世代には驚きをもって受け止められた。
言うまでもなく、犯罪の残酷さは看過されるべきものではない。容疑者には厳罰が与えられるべきだ。だがその前提のうえで、いまや一部の人々によって、事件を個人の「心の闇」に押し込めるのではなく、格差社会に対する若者の怒りの現れとして、正面から理解しようという試みが始まっている。
犯罪を許さないことと、犯罪の背景を無視することは異なる。世論もメディアも、事件から一カ月の時間を経て、少しずつ余裕を取り戻しているようだ。
さて、筆者もその流れに逆らうつもりはない。事件直後には、筆者自身も同じことを訴えた。
しかし、世間が落ち着きを取り戻したいまは、また別の視点も必要だと考えている。
というのも、筆者には、事件の本質が労働問題に還元されるとは思えないからである。
確かに容疑者がネットに残した書き込みには、深い絶望と屈辱感が記されている。しかし、じつは彼の生活はそれほど悲惨とは言えない。彼は派遣社員だったが、収入は標準的で解雇が迫っていたわけでもなかった。女性との交際経験もあった。それなのになぜ彼は、自分の人生は失敗で、逆転のためには罪を犯すしかないとまで思い詰めてしまったのか。真の謎はそこにある。
むろん、容疑者の心の内がわからない以上、明確な答えを出すことはできない。しかし、ネットの書き込みや同世代の共感の声をもとに大胆に推測すれば、こう言えるかもしれない。
容疑者は、生活が苦しいことにではなく、むしろ彼の「負け組」人生をだれも承認してくれないことに対して苛立ちを募らせていたのではないか。つまり彼の屈辱感は、富の問題というより尊厳の問題に関わっていたのではないか。
一般通念からすれば、富の分配は社会の責任だが、尊厳の獲得は個人の責任ということになる。貧困には救いの手を差し伸べるが、個人の屈辱感までは面倒を見れない。そのような立場からすれば、容疑者の苛立ちに同情の余地はないだろう。
しかし、私たちが他方で、そのような屈辱感を構造的に生み出す社会に生きていることも確かである。現代の若者には大きな自由が与えられている。彼らはなにものになってもいいと言われる。しかし逆に失敗したとき、リスクはすべて彼らに降りかかる。しかも人生の成否はしばしば運で左右される。実力が評価されるとは限らない。
そのような世界では、どんな人生を選んだとしても、「ほかの人生もありえたかもしれない」という苛立ちに苛まれるはずだ。少なくとも、いちど「失敗した」と思いこんだとき、「自分の人生にはこれしかなかった」と納得するのはきわめて難しいだろう。おそらく、容疑者が陥ったのはそのような心理の袋小路だったのではないか。
現代社会は、ひとりひとりの人生に、偶然に左右されない承認を与える機能(大きな物語)を失いつつある。言いかえれば、「負け組」に居場所を与える緩衝材的な機能を失いつつある。事件の背後には、労働問題だけではなく、社会の質のそのような大きな転換があるのかもしれない。
もしそうだとすれば、じつは秋葉原事件の対策はきわめて難しい。もしかしたら対策などないのかもしれない。
しかしそれでも、現在の「競争社会」が、「負け組」にそのような強い負荷を掛け続けてかろうじて成立していることに対しては、多くのひとが自覚的であるべきだ。いまの日本では、じつに多くの若者が承認と尊厳の不在に苦しんでいるのである。(了)
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