kajougenron : hiroki azuma blog

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渦状言論へようこそ。

ここは、批評家・東浩紀が運営するブログです。東浩紀の経歴や業績については、hiroki azuma portalをご覧ください。

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6年前の文章を再録してみた

こんにちは。

巷では、というかブログ論壇の一部では、いやむしろ、単純にゼロアカ道場門下生まわりでは、いま「インタビュー動画」アップなるものが流行していて、20歳代の文芸評論家、福嶋亮大さんへのインタビューがここで公開されています。

この動画に限らず、最近はまだ本格的にデビューしていないひとの「インタビュー」や「対談」なるものが流行していて、おそらくある世代よりうえの読み手はなんだかなあと思っているのではないかと不安です。ぼくとしても、じつはひそかに、一月ほどまえに黒瀬陽平さんが荻上チキさんにインタビューされて人生語りをしているのを見て、おいおいおまえ、人生語るまえにまず実績あげろや、まだ思想地図で一本論文書いただけじゃんか、とか大塚英志ばりに教育的指導を発動しかけたりもしていたわけですが、しかし、ふと自分を思い返すと、ぼく自身が26歳ぐらいのときに「オタクから遠く離れて」とかいうインタビューをQuickJapanで受けていて(インタビューアーは伊藤剛氏、「郵便的不安たち」所収)、なぜオタクの自分が批評を志すようになったか蕩々と自分語りをしたあげく、唐沢俊一氏にどこかでイヤミを書かれ「なんでこのオヤジはこんなとこに過剰反応するんだ」と鼻白んだりしていたので、まったく他人のことは言えません。というか、やっていることは完璧に同じです。

したがって、おそらくはこれでいいのでしょう。こんな雰囲気が拡大すれば、そのうち、ただの高校生同士が「対談」とか銘打って、リアリティショー的な動画をばしばしアップする時代がやってくるでしょう。それはもはや批評でもなんでもないような気がしますし、その展開は単純に批評の弱体化を、つまりは、批評がもはや世代的共感のためのコミュニケーションツールとしてしか生き残っていない現実を表しているだけのような気もしますが、それが現実ならばしかたない。ぼくたちには、その現実のなかで生きていくしか選択肢がないのです。いやまじで。

というわけで、どんどんやってくれw。

ちなみに、やずやさん(福嶋インタビューの撮影者)が使っている機材はxactiです。藤田直哉さんもそれを使っています。ザ☆ネットスター!のウェブ動画もそれで撮られています。ぼくももっています。もはや論壇動画の公式アイテム化しています。ぼくもそのうち自分で撮って動画配信でもするかもしれません。2ちゃんに降臨するとかは古いのかもしれません。アツい時代がやってきました。

さて、それで本題ですが、その動画に絡めて福嶋さんのブログで、ぼくの6年半まえの文章が彼のフェイバリットとしてあげられていました。福嶋さんのところからのリンクだと探すのが難しいので(まだエントリの単位がない時代の文章なので)、ブログに全文貼り付けておきます。

ちなみに、これは『動物化するポストモダン』の出版2ヶ月後くらいに書かれた文章ですが、これを読むと、ぼくが当時の時点で、すでに単純な動物化肯定論やコミュニケーション排除論をダメだと思い、だからこそ『動ポモ』を書いたことがよくわかります。ぼくは、人間やコミュニケーションについてもう少し繊細なことを考えていました。

そういえば、じつは今日ちょうど対談収録なのでメモがわりに書いておけば、宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』は、『動ポモ』批判にあたってそこらへんを(「解離的人間」についての章を)完全に無視しています。実際、彼の当時(2000-2年ごろ?)の論壇ウォッチはかなり荒っぽいものだったと記憶しています。みなさんご存知のとおり、ぼくはいままでは戦略的に宇野さん擁護の立場に立ってきたし、またこれからももっと大きな敵がいるときにはその立場は揺らぎませんが、彼の東浩紀批判が単行本として公刊された以上、その部分には著者としてきっちりと応対してくるつもりです。

ところで、ひとつトリビアを言えば、この当時(そしてそのあともけっこう長いあいだ)、ぼくが「ぼく」ではなく「私」を使っていたのは、デビュー当時に斎藤美奈子氏に「東浩紀はぼくぼく言ってぼくちゃん批評でキモい」とか意味不明のイヤミを言われて、微妙に傷ついていたからです(笑——実際には「ぼく」という言葉には団塊世代から大塚英志に至る「ぼくら」語りの伝統が透けてみえて、そういう一人称を選択することの政治性がどうの、みたいな話だったような気もしますが、詳細は忘れました)。いまはすっかり傷も癒えて、というかだれになに言われてもとくに気にしなくなったので、「ぼく」を使っています。以下の文章は、セカイ系の話にもつながりますし、本来は「ぼく」で語るべきだった内容です。

ではでは。


なお、以下の文章でささやかな引用のタイプミスがあったと記憶していますが、当時の文章そのまま再掲載が主旨なので直していません。内容には影響しません。


(以下2002年1月17日の文章)

近況 2002.1.17

謹賀新年。今年もこのサイトをよろしく。

---以下『未来にキスを』のネタバレあり--

さて、新年からいきなりオタク系の、しかも時期外れの話題で失礼するが、ここのところの休みを使って、ようやく昨年9月に発売された『未来にキスを』(otherwise)をプレイすることができた。知るひとぞ知るように、このギャルゲーについては、発売当初から、ウェブの一部で、私の『動物化するポストモダン』(より正確にはその『ユリイカ』連載版)の明らかな影響があるという噂が流れていた。そもそもこのゲームのシナリオ担当である元長柾木氏は、前作『Sense Off』でも、ライプニッツやらサイバネティクスやらを匂わせて奇妙な世界を作りあげていた人物だった。というわけで以前から気にかかっていたのだが、どうも時間が取れず、年が明けてようやく現物にあたれたというわけだ。

それで感想だが、このギャルゲー、というより「メタギャルゲー」(としか思えないくらいにシナリオの方向性と乖離したイラストが採用されているだが)にどれほど私の本が影響を与えたのか、率直に言って判断できない。だれもが分かるような引用があるわけではないからだ。ただ、ラストエピソード「Genesis」に登場する抽象的な会話の言い回しが私の言葉使いにとても似ていることは確かで、そういう意味で、このゲームの「元ネタ」として私の本が話題になったのは納得がいった。元長氏は私の連載をゲーム制作前に読んだのかもしれないし、読んでいないのかもしれない。そのどちらであったとしても、このゲームの最後で語られているような世界観、というかコミュニケーション観が、私自身のものと近いのは確かだ。

たとえばこの作品のエンディングには、つぎのような「ポエム」(元長氏自身があるキャラの台詞に託してそう呼ぶのだが)がスクリーン上を流れる。
 

 俺たちは今、現実と歴史が混じり合う場所に立っている
 未来へのスタートラインに立っている
 この先は、論理も何もない世界だ
 文脈も物語もない
 あるのはただ、ばらばらで、互いに関連づけられていない
 存在しないものたちだけ
 その世界に、人間なんていない
 彼らは、もう滅び去ってしまった
 俺たちもまた、もう人間ではない何かへと変化してしまった
 そこは、欲望あふれる荒野だ
 ただキャラクターがいて、ゲームがあるだけ
 キャラクターたちがゲームを繰り広げる、この新しい世界
 そんな世界へと、俺たちは今、足を踏み出そうとしている
 そう
 圧倒的な楽園に向けて
 

この文章は、もし私がもう少し怖いもの知らずだったとしたら(笑)、『動物化するポストモダン』の末尾に書き記していたとしても決して不自然ではない。それくらい言葉使いが似ている。だから私は、このエンディングロールを眺めて、嬉しいような気恥ずかしいような、少し奇妙な経験を味わった。

というのが元ネタ問題についての私自身の見解だが、それとは別に、この作品をプレイして感じたことがある。上に引用したように、『未来にキスを』は、「ギャルゲー新世紀宣言」とでも言うべき一種の予言、というか、世界観をブチ上げて終わっている。つまりこのゲームは、新しい時代の到来を告げて派手に終わっている。それは一見、新人類/80年代的な振る舞いにも見える。新人類は「新しい時代」が好きだった。実際、当時は「アニメ新世紀宣言」なるものもあった。

しかし同時に、この作品はギャルゲーでもある。つまり、あくまでも主人公とキャラのあいだの疑似恋愛を(そしてそれだけを)描く、閉鎖的で虚構的な箱庭的世界を舞台としたゲームでもある。『未来にキスを』の世界には、国家も政治も歴史も社会もない。したがって、当然のことながら、そこで交わされる「哲学的」な会話のなかにも、国家も政治も歴史も社会も入る余地がない。そこで語られるのは、ただ、「私」と「あなた」のコミュニケーションの性質という抽象的な問題だけだ。

それゆえ『未来にキスを』で「新しい世界」の到来が宣言されることには、ギャルゲーという箱庭の外の世界、いわゆる「現実社会」の動きはまったく関係しない。つまり、元長氏がここで「新しい時代が来る」と叫んでいることには、かつて新人類世代を支えたような、資本主義の段階がどうとか、情報化社会がどうとか、そういう大きな物語=問題意識がほとんど関係していない(携帯ゲームの普及が少し語られるだけだ)。かわりに彼が描くのは、「私」と「あなた」のコミュニケーションという小さな物語のみである。そして、その問題についてグルグルと考察した結果として、あくまでも抽象的に、もはや私たち人間にはゲーム的なコミュニケーションしか残されておらず、それを肯定しなければ生きていけないのだ、という宣言が出てくる。『未来にキスを』のエンディングは、そのような実存的な動機に支えられている。

だから『未来にキスを』の宣言は、80年代的な脳天気さに近いようでいて、限りなく遠い。そこでは、ゲーム的(お望みならばそれをポストモダン的あるいは動物的と言ってもいい)な「新しい世界」が肯定されるのは、それが自明に素晴らしい未来だからではない。むしろ、それを素晴らしいと思わなければならないくらい、私たち自身の能力が貧しいからなのだ。言い換えれば、「私」という人間と「あなた」という人間のコミュニケーションなど、最終的には無理に決まっているからだ。そして、にもかかわらず、たいていの人間にとって、そのギャルゲー的=対幻想的な箱庭を超えるものなどなにもなくなってしまっているからだ。つまり、この21世紀を迎えた日本に住む私たちには、小さな人間的なコミュニケーションも、大きな世界観も、ともに与えられていないからだ。『未来にキスを』がギャルゲー的なコミュニケーションのありかた(お互いがお互いの内面=属性だけを見つめ続けるコミュニケーション)を肯定するのは、それが、この不可能性を迂回する唯一の現実的な方法だからである。この作品の箱庭的世界は、その一点で現実と接している。

おそらくこのような実存的、というか疑似実存的(何と言ってもそれはギャルゲーに仮託しなければ話せないような実存なのだから、「疑似」と付けておくしかない)な思考の道すじは、80年代的な「逃げろや、逃げろ」を知る人々からすれば、ウザくて鈍重なだけに見えるだろう。また見方によっては、古くさい文学性への回帰にすら映るかもしれない。しかし、その鈍重さにはやはり何らかの切実さが宿っている。そこで見えてくる世界がどれほど自閉的で悲惨であろうとも、あえて「圧倒的な楽園」と言い、その「未来」に「キス」をしてしまうぐらいには。そしてその切実さに対しては、この作品がゲームとしてよくできているかどうかといった問題(実のところそういう評価基準は私にはどうでもよい)とは関係なく、私自身は強く共感する。

あと少しだけ筆を滑らせよう。私はいままで実質的に2冊の本しか出していない。『存在論的、郵便的』と『動物化するポストモダン』である。この2冊は題材もスタイルもずいぶんと違うので、普通は連続的に読まれないし、また私もそれを期待していない。実際、いまや、私自身ですら、『存在論的、郵便的』で何を書いたのか、かなりの部分を忘れかけているくらいだ。

しかし思えば、その『存在論的』よりさらに以前、デリダはおろか、まだ柄谷行人や浅田彰の名前すら知らなかった高校生のころ、私もまた、「私とあなたのコミュニケーションという小さな物語」ばかりを突き詰めて考えていたのだった。恋愛対象を探すのすら難しい男子校の教室の片隅で、私はただ、「私」はあなたを愛することができるか、私はあなたに「愛」を伝えることができるのか、そもそも「あなた」の唯一性とは何なのか、そんなことばかり抽象的に考えていたような気がする。思えばアブない高校生だが、哲学者なんて志すのはそういうヤツに決まっている。

そしてそのモチーフは、『存在論的』と『動物化』を貫いてずっと生きている。私とあなたは分かりあえるのか。伝統的にこの問いに対しては、2種類の回答しかない。いつか分かりあえるという答えと、絶対に分かりあえないという答えだ。『存在論的』の言葉で言えば、前者が「形而上学的」回答で、後者が「否定神学的」回答ということになる。そして、否定神学的な、つまり「絶対に分かりあえない」という答えには、実はオマケがついている。私たち人間にとってはその「絶対に分かりあえない」ということこそが大事なのだから、その不可能性を正面から見据えて生きて行け、という倫理的な要請だ。別の言葉で言えば、人間間のコミュニケーションは不可能だから、神とのコミュニケーション(内面にしかないコミュニケーション)だけを信じろ、という要請である。

しかし私はその両者とも気にいらなかった。そこで私が『存在論的』で「郵便的」という言葉で高らかに宣言しようとしたのは(当時の私自身の自意識としては、これはもう革命的なアイディアのはずだった)、そのどちらでもない別のコミュニケーションのモデルである。

私とあなたは絶対に分かりえない。したがって、私は私の内面を、あなたはあなたの内面を見つめることしかできない。しかし、にもかかわらず、私の内面に見えるものはひとつではない。つまり神はひとつではない。私のなかには、たくさんの「神々」が、コミュニケーションのモジュール(『未来にキスを』で言う「属性」)が詰め込まれていて、あなたのなかにもまたたくさんのモジュールがあり、それらが勝手に衝突しあうことで、「私」と「あなた」のコミュニケーションは成立している。「私」というひとりの人間、「あなた」というひとりの人間、その両者は決して出会うことがないけれど、しかし、私の手とあなたの手が、あるいは私の唇とあなたの唇が、あるいは(あえてオタク用語を使うならば)私の「萌え要素」とあなたの「萌え要素」が、ほかにもさまざまな局所的で部分的なものたちが勝手に出会い、勝手に離散することで、私たちのコミュニケーションは成立している(ように見える)。私が考え続けているのはそういう問題だ。

オタクたちのジャンクで奇妙な想像力は、ときに、その郵便的なコミュニケーションの本質に肉薄する迫力を見せる。私たちは、ギャルゲーのキャラクターに対するようにしか、ひとと接することができない。肯定するにせよ、否定するのせよ、それが人間の条件なのだ。それは世代とも時代とも関係ない。『動物化するポストモダン』は、徹底してマニュアル的で社会学的で世代論的な分かりやすさを目指して書いたのだが、本当のところ、そういうことが言いたくて書いたような気がする。久しぶりにギャルゲーをきちんと攻略して、そんなことを思い出した。(1.19「ネタバレ」表記加筆)


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