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ここは、批評家・東浩紀が運営するブログです。東浩紀の経歴や業績については、hiroki azuma portalをご覧ください。
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批評とかゼロアカとか成熟とか
投稿日時:2008年11月03日17:21
こんにちは。『存在論的、郵便的』の出版から10年を迎えた東浩紀です。
いまの読者はだれもあんな本は読んでいないだろう、と思いきや、東スレではしっかり10周年記念読書会が行われていたりして、微妙に安心しています。とはいえ、しょせんは東スレなので自然消滅しましたが……。
■
さて、そんなゼロアカですが、11月9日についに第四回関門決戦が文学フリマ会場で行われます。
その第四回関門、門下生・道場破りあわせて8冊の同人誌がようやく手元に揃いました。そしてほぼ目を通しました。
まえにも書きましたが、今回、採点基準についてはおそろしく悩みました。第三回までは単純に合否を判定すればよかったのですが、今回は、彼らのこの数ヶ月の苦しみと意気込みを肌で感じてしまっている。冗談ではなく、この合否で人生が変わるひともいるでしょう。そう淡々と採点することはできない。正直、選考がこんなに苦痛になるとは思っていませんでした。逃げ出したいくらいです。
だからいろいろと思い悩みました。邪念もいろいろ聞こえてきました。第五回のこと、最終的な出版のことを考えるとこのチームは外せないのではないかとか、このひとにインタビューしている以上失礼はできないんではないかとか、男女比を考えるべきではないかとか、このチームを推すとあまりに意外感がないから逆張りでむしろ点数を抑えるべきではないかとか、そのほかもろもろ、もろもろです。
しかし、最終的には、それらをすべての配慮を忘れて、純粋に、東浩紀という<個人>が<読者>として対象の同人誌から刺激を受けたかどうか、それだけで採点を行うことにしました。批評の未来とか、全体のバランスとかはとりあえず忘れて、ぼくの趣味だけで判断します。
そう決めました。
■
ここからさきは、ちょっとだけゼロアカとは関係ない話、というか私的な話です。
多くの読者がなんとなく気づいていると思うのですが、1年ぐらいまえから、東浩紀という批評家の位置はかなり急速に変わっています。それは、ひとことでいえば、業界最若手で、半人前扱いで、一部で注目されているものの基本無視されるよそ者だった状態から、むしろ批評業界の中心で、次世代を担うグループのリーダーとさえ見なされるような状態への変化です。「和解イヤー」なんて冗談が成立し、実際につぎつぎと和解が成立しているのは、その位置移動のおかげにほかなりません。
正直、この変化の原因は、ぼくにはよくわかりません。ぼくはそのあいだに賞を取ったわけでもないし、ベストセラーを出版したわけでもないからです。こういうのが時代の潮目というものかもしれないし、じつはすべてがぼくのカンチガイなのかもしれない。とにもかくにも、ぼく個人にはそのような実感があります。
さて、そういう状況には、いい面と悪い面があります。いい面は説明する必要がないとして、悪い面というのは、周囲の風当たりがよくなり、ぼく自身も「成熟」を装えるようになるにしがたい、批評家としての攻撃性や先鋭性も確実に落ちていく、そんな効果です。
具体的にゼロアカに即していえば、こういうことです。以前のぼくならば、「東浩紀のゼロアカ道場」と冠している以上、自分の好きなものだけをわがままに推した、というかそれしかできなかったはずです。しかし、いまはもっと「空気が読める」ようになっている。また、周囲が「空気が読める東さんに期待している」こともわかるようになってしまっている。だから、そんなところでガチで「こいつは優秀だからよし、こいつはバカだから終了」とか言い出したら、周囲が引くことが理解できる。これはおそらくゼロアカに限らない。もし、ぼくがいま妙に若手批評家/批評家志望者に「やさしい」ように見えるとしたら、それはたぶん、ぼくがそういう諦めを抱えてしまっている、というか、そういう諦めを抱えざるをえない年齢に突入してしまっているからです。
おそらくは、ひとは、こういう心理を「成熟」と呼ぶのでしょう。ぼくはべつに、その成熟を嘆くつもりもないし、逆にそれを過剰に肯定する気もありません。ぼくには、そういう成熟は、良い面も悪い面も含めて避けがたい自然現象のように思えるからです。老化と同じように。
しかし、そんな「成熟した」、すなわち腐りきったぼくでも、ときどき、自分の内部から、なにか批評家としての魂というか、むかしの情熱と興奮の名残みたいなものが戻ってくることがあるわけです。
それは、たいていの場合は、対人的な対抗意識に駆動されるものです。自己批判を込めて言いますが、どうも批評家には、「あいつすげー」というよりも「あいつばかじゃん」と思うときにこそもっとも生き生きする、そういう性質がある(笑)。ぼくの場合、そういう意識の源泉としては、むかしは上の世代への憤りが多かった。しかし、相対的に年長者となったいまでは、むしろ若い世代からの挑発を待っているところがある。つまりは、若い書き手の文章を読んで、、「おいおいなんだよこのバカ、こいつこんなんで一人前のつもりかよ、それならおれの実力見せてやんよ」と、素朴な、というか幼稚な対抗意識が燃え上がり、鼓動が高鳴って思わずキーボードに向かってしまうような経験が、いまのぼくにとっては、とても必要なものになっている。
そしてぼくは、今度のゼロアカ同人誌を読むなかで、意外にも、いくどかそのような経験、あるいはそれに近い刺激を感じました。
それは純粋に「私的」な経験です。だからこのブログを読んで、「え、そんなすごい文章が掲載されているのか」と思っても、肩すかしに終わるかもしれない。そういうフックは、本当に些細なものだったりするからです。しかし、その私的なフックを手放してしまえば、ぼくにはあらゆる基準がなくなってしまう。ぼくはもはや、太田さんと相談して、当日の文フリでの売り上げ点を先読みしたうえで、最終選考で通したいひとのところにそれとなく傾斜配分で点を入れる、ぐらいしかできなくなる。だから今度の関門では、単純に、上述のような刺激を与えてくれる同人誌に高い点数を入れて、そうではないものにはあまり点数を入れないことに決めました。
おそらくはそれは、ゼロアカ道場の全体の盛り上がりとか、批評の未来とかいう全体的な視野とはあまり関係していません。同人誌そのもののクオリティとも関係がないかもしれない。全体として雑誌としてはよくできているけれど、ぼくの点は低いというチームが、申しわけないのですがいくつかあります。そういう点では、今回のぼくの採点はまったく「公的」ではない。きっと、結果発表のあと、「なんだよ、この採点」と思う読者もいるでしょう。
けれども、挑戦者の真剣さをあまりに知っているからこそ、ぼくとしても、今回は公平性を偽装することができなくなった。
そういうことなのです。
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なんだか、妙に長い投稿になってしまいした。おまけに情報量ゼロです。告知もなにもしていません。『存在論的』10周年ということもあり、ぼくも少し内省的になっているのかもしれませんね。
では文フリ当日会場で!
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