kajougenron : hiroki azuma blog
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ここは、批評家・東浩紀が運営するブログサイトです。東浩紀の経歴や業績については、当ブログの親サイトに情報があります。hiroki azuma portalをご覧ください。
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Kusamatrix
カテゴリー[moblog]投稿日時: 2004年02月21日17:36

北田・鈴木鼎談
カテゴリー[hajou]投稿日時: 2004年02月15日06:35
東浩紀です。おはようございます。
下のエントリーにmoblogで写真を載せたように、昨晩、北田暁大さん、鈴木謙介さんと波状言論用の鼎談を行いました(上が鈴木さん、下が北田さんですね)。以下、hirokiazuma.com/hajou@はてなに掲載した投稿を全文引用します。イレギュラーですが、それぐらい面白かったので……。
東浩紀です。正直、ここで書いても記事だが広告だか区別できないので信用されないと思うのですが(そして、そんな言及そのものが北田暁大著『広告の誕生』へのネタフリだったりするのですが)、今日行った北田暁大(id:gyodaikt)さん、鈴木謙介さんとの鼎談は大成功でした。ポストモダニズムの追憶から「降りる自由」論まで、リベラリズムから2ちゃん論まで、きわめてテンションの高い理論的な話ができました。参照項は、ギデンズ、ルーマン、ノージック、デリダ、宮台真司、稲葉振一郎、などなど。本当に面白いです。ありがとうございました!>北田さん、鈴木さん
こんな内容の鼎談が、『現代思想』でも『情況』でも『ユリイカ』でも『文學界』でもなく、メルマガで配信されるということに、僕自身驚くばかりです。これに匹敵する感覚を得たのは(少なくともその理論志向と量的迫力の点で)往時の『批評空間』の座談会以来です。そんなバカな、東ちょっと自画自賛しすぎだろう、と思うひとはとにかく読んでください。2月号は宮台真司さん、鈴木謙介さんとの鼎談で、こっちも信じられない大容量(2月A号は60000字らしい!)なのですが、それに負けないものだと確信しています。あとは、テープ起こし部隊の体力と能力がついてきてくれることを期待するばかりです。
ところで、余談ですが、北田さんは、ある意味予想どおり国生さゆりさんのファンでした。むろん、ゆうゆ原理主義((c)KGVさん、だったか?)の僕はそんなの認めませんが、まあ、ここは大人の対応ということで……。東浩紀と北田暁大のそんな熱いおニャン子トーク@打ち上げ@西荻窪上海料理ジョカサーは、Klusterのおまけにくっつくか、さもなければ僕の事務所に来たひとのみ聞ける秘蔵テープになる予定です。
ということでした。いや、この鼎談はマジでヤバいです……。本当に、なんでこういう座談会が商業誌ではできなくなったのだろう、と思うと同時に、でもこんな風に個人出版でできるのだから、すごい時代になったものだ、とも思います。波状言論は、本当に、掛け値なしにみなさんに読んでもらいたいし、その価値があると信じてます。少なくとも、僕は作っていてめちゃめちゃ面白いです。批評はこういう形式でやるべきなのだ、と日々確信を深めてます。能天気すぎるかな(笑)。
カテゴリー[moblog]
投稿日時: 2004年02月14日21:42

はてな続報
カテゴリー[critique]投稿日時: 2004年02月11日19:15
たまったネタ第2弾です。
moblogで写真だけ上げておきましたが、先週の金曜日、AMD Awardの授賞式ではてなの創業者である近藤淳也氏にはじめて(そしてようやく!)お会いすることができました。僕が熱心なはてなユーザであるのはみなさんご承知だと思いますが、詳しくない読者のため説明しておくと、「はてな」は、Niftyのココログと並び、日本のブログ界を二分する巨大なコミュニティの名前であり、「有限会社はてな」はそのサービスを提供している京都のベンチャー企業です。その独特のシステムが評価され、最近は受賞が相次いでいます。
近藤氏はとても聡明でかつ気持ちのよいかたで、思わず意気投合してしまい、パーティのあと2時間もサシで飲んでしまいました。来月には波状言論でインタビューをさせていただくというのに、面白い話をたくさん聞いてしまったように思います。お忙しいところ、ありがとうございました。>近藤さん
そのときお聞きしたさまざまな楽しい話(ツール・ド・信州とか……。といっても、このページに飛べばネタはすぐ割れます)はインタビューにとっておくとして、ここでみなさんにお知らせしておきたいのは、近藤氏は、はてなポイントの地域通貨的な流通をますます促進したいと考えているということ。その点で波状言論の試みを高く評価してくれており、恐縮しました。最近では「このあいだの飲み代ポイントで送信するけど、いい?」なんて事例も出てきているようで、ネットの外を巻き込んだポイントの流通が始まっているようですが、近藤氏の頭のなかにはまだまだ大きな構想があるようです。
みなさんもご存じのとおり、はてなの規約を厳密に読むと、はてなポイントを使っての個人事業は難しそうに見えます。しかし、近藤氏自身としては、そのような試みを応援していきたいとのことでした。文章や音楽や映像を作っていて、ネットで出版や配信を考えているかたは、いちどはてなに連絡を取ってみてはいかがでしょうか。
なお、僕自身の経験をお話すると、はてなポイントでの入金受付は大成功です。詳しい統計は出してないのですが、最近は1割ぐらいがポイントでの入金になっています。そして、不思議なことに、はてなポイントのほうが払いがいいようです(笑)。
セカイ系
カテゴリー[critique]投稿日時: 2004年02月09日11:01
おはようございます。というわけで、つぎの話題に移ります。実はこの1週間で、かなりネタが溜まっていたのでした。
まずはセカイ系。このあいだゲーラボの座談会に出席したところ、セカイ系っていま来てるらしいですね、と斎藤環氏に尋ねられました。そんな質問に的確に答えることができるほどライトノベルを読み込んでいるわけではないのですが、この僕も、波状言論の連載で予告したように(といってもそれはあと5日後に配信されるのですが)、「メタリアル・フィクションの誕生」第2章はそこらへんの動きに触れざるをえないかな、という気がしています。
そんななか、出版されたばかりの神林長平氏の新刊*『天国にそっくりな星』(ハヤカワSF文庫)の解説で、元長柾木氏が、セカイ系について、短いながらもきわめて鋭い考察を行っているのを発見しました(本体の小説もむろん面白いのですが、僕が神林ファンであることは知れわたっていると思うので特に触れません)。僕が興味をもったのは、具体的にはp.389あたりの考察です。詳しくは触れませんが、
しかし大尽によって説明され天界も経験する死後の世界、ヴァルボスの謎はやがて覆される運命にある。その後に立ち現れる「真の真相」も最終的な解答として安定せず、それもまた一つの独断ではないかという疑いが残る。世界の真相は保障されない。そこで天界がとるのは、ここがどこであろうが、何であろうが知ったことではない、自分にとってただ一つの現実であるこの世界を生きる、という立場だ。とかいう文章を読むと、むかし『未来にキスを』のプレイ後の感想でも書いたように(ここの1月17日の項目)、まるでこれは自分が書いたのではないか、といった変なクラクラした感覚に襲われます。失礼な言い方かもしれませんが、それくらい発想が似ているのです。実際、途中で力が尽きて書けなかったのですが、僕は今号の「メタリアル……」連載では『九十九十九』についてほとんど同じ文章を書こうとしていました。元長さんと僕はぜんぜん違う性格と嗜好の持ち主なのに、なんでこんなことが起こるんでしょう。
とにかく、僕にはたいへん参考になりました。セカイ系に関心のあるひとにはお勧めです。
*
この「新刊」という言葉に「?」と思ったひとがいるようなので、追記。この小説はむかし単行本で出たものの文庫化です。でもそれも「新刊」といいます。よく広告で「〜文庫、今月の新刊」とかやってますよね。あれです。
降りてみる
カテゴリー[critique]投稿日時: 2004年02月08日22:17
こんばんは。ご無沙汰してます。はてな最大のポイント保持者だったことが明らかになり、はてなブルジョアとして質問をしまくろうか、とか考えている東浩紀です。
それはそれとして、「降りる自由」についての投稿への反響が大きく、返答に戸惑ったままblogの更新も滞っていました。みなさんのコメントは、澁川さんの丁寧な返信に始まり、たいへん参考になりました。とはいえ、そのひとつひとつに答えを返すのはすでに僕の能力の限界を超えているので、とりあえずここではそのコメントの連鎖から「降りる自由」を行使させていただこうと思います。すみません。*注
というわけで、つぎからは別の話題でさくさく行きます。
*注
……というのは意外と冗談ではありません。「降りる自由」とは、すなわち無限の責任=応答可能性の連鎖から外れるということでもあり(これはもしかして、デリダ=高橋哲哉氏の責任論や北田暁大氏の『責任と正義』への異論になっているかもしれません)、ではなぜそれが必要かというと、「降りない」ことを貫くとひとはしばしば活動停止に陥るからです。
たとえば、今回の場合で見てみましょう。僕が投稿への返信や、ウェブ上でのさまざまな反論に誠実に答えようとした場合、このブログサイトが成立しなくなるのは自明です。つまり、あるレベルで責任=応答可能性を貫くことは、別のレベルでたいへん無責任な事態を招きかねない。デリディアンっぽく逆説的な表現を使ってみれば、責任=応答可能性の連鎖とは、それが無限に続くためにこそ、毎回毎回局所的には切断される必要がある(誤配される必要がある)、そういう矛盾したものなわけです。これは、もしかすると、ネットで最近話題の儀礼的無関心問題あるいはリンクフリー問題とも繋がるのかもしれません。
というわけで、僕が前回の投稿で考えていたのは、要は、「社会」という全体性は存在せず、社会とは原理的にさまざまな責任=応答可能性の連鎖の重ね合わせでしかないのだから、そのうちの特定の連鎖に対してはつねに「降りる自由」を保持していなければならない、ということでした。社会という全体はない、というこの言葉は、前回の「社会全体から降りる権利、社会に無関心である権利、社会全体の決定を無視する権利」という表現と矛盾しているように見えると思いますが(この点で僕の書き方は不注意でしたが)、僕がそこで言いたかったのは、「社会全体を僭称する審級から降りる権利」のことにほかなりません。
これは別にそんなにラジカルな主張ではないように思います。オタクにしろひきこもりにしろ、社会の一員ではあるに違いない。それが「社会から降りている」ように見えるのは、そのとき「社会」という言葉がある特定の集団によって乗っ取られているからです。スピヴァックのいう「サバルタン」の問題ですね。そして、僕はそういう集団に与したくないのです。
もうひとつ。せっかく「降りる」と言ったのだから簡単に済ませますが、数多く寄せられたコメントのなかで、「フリーライダーがよくない」という意見には僕はどうしても馴染めません。確かに、僕自身、自分が一所懸命に努力して作り上げたものを何の努力もしない連中に奪われ利用されたら頭に来ないではない(みんな、波状言論は正式版を買いましょう!)。そして、その場合には、相手を説得しようと局所的に試みる。しかし、そのことと、一般的にフリーライダーはよくない、と普遍的な命題を主張するのはレベルが異なる。その理由は、そもそもフリーライダーとか言い出したら、この世界に生きている人間は全員が過去の遺産と自然の恵みへのフリーライダーにほかならないからです。この問題は結局、だれが「まともな」フリーライダーでだれが「まともじゃない」フリーライダーなのか、法あるいは慣習によって決定しようということになるだけであり、議論はとくに進みません。
僕はおそらく日本国へのフリーライダーでしょう。国家の話を横に置くとしても、日本語にも日本社会にも日本文化にも大きな恵みを受けており、その巨大な負債はどうしても返済しようがない。裏返せば、戦争で武器をとったからといって返済できるわけでもない。
だから僕は、たとえフリーライダーと罵られようとも、僕自身のなかで、個々の場面において、「社会全体」を僭称する連中に対してどこまでなら協力し、どこまでなら協力しないかを決定するしかない。そういう困難な決定を避けておいて、「みんながやれと言っているんだから、やるのが当然でしょ」という同調圧力に従うのが社会性だと考えるのなら、それは単に愚かなだけだ、と僕は考えます。選挙に行くべきだ、年金を払い続けるべきだ、地域の安全を保つために自治会に入るべきだ、自衛隊のイラク派遣を支援するべきだ、と考えるひとは、それらを粛々と実践すればいい。僕だってそのいつくかはやっています。しかし、そのことを根拠に「だからそれをやらないのは非社会的だ」と声高に叫ぶのはおかしい。僕が言いたいのはそういう簡単なことです。これはアナーキズムともリバタリアニズムとも違うと思います。
あと最後に。「超越性」。超越性(柄谷行人的にいえば「超越論性」? 僕はこの両者の区別はあまり意味があると思えませんが)が必要だ、という僕の発言に驚きを表明されたひとたちが何人かいらっしゃいましたが、むしろ僕にはそちらのほうが驚きです。人間の生活には超越性なんていらないんだ、すべて世俗的で即物的でいいんだ、ともし僕が考えているとして、そういうひとがどうして現代思想なんてやるんでしょう?
僕は骨の髄まで現代思想のひとだし、そのバックボーンがなければ、『動物化するポストモダン』もああいう本にはなってなかったと思います。『自由を考える』だって、えらく超越的で哲学的な話をしているはずで、僕の関心はつねに、世俗的問題を解決するために超越的視点が必要になる、その局面にある。そして、前回言ったのは、そこで戦略的にもちだす「超越的視点」の表現が、宮台さんと僕とではずいぶんと違うのだなあ、ということです。その戦略がネタだとかメタだとか「あえて」だとかは僕にはどうでもよくて(僕は前から思っているのだけど、「あれはネタだ」とか「あれはベタだ」とかばっかり言っているひとは、自分が頭がいいと自慢したくてしかたないだけなんじゃないだろうか)、要はその表面が違えば、それが本質だということです。
波状言論の宣伝になってしまいますが、この手の話はこれからはメルマガで続けていこうかな、と思っています。来月号の北田暁大氏・鈴木謙介氏との鼎談では、この話は出ざるをえないでしょう。
ファウストファイティングフェア
カテゴリー[moblog]投稿日時: 2004年02月05日20:44

降りる自由
カテゴリー[critique]投稿日時: 2004年02月02日16:20
韓国から帰ってきた東浩紀です。韓国では、ラグナロクオンラインのBGMを作曲していたミュージシャンの方と会ったり、「冬のソナタ」ロケ地のバーをはしごしたり、昨年大人気だった戦闘美少女アクションドラマ「茶母」のDVD-BOXをゲットしたりと、たいへん楽しい時間を過ごしてきました。仕事もあったんですがね……。
さて、それはそれとして、ひとつ真面目な話です。僕の友人であり、経済産業研究所の若き研究スタッフであり、2ちゃん研究者としても知られる澁川修一さんが、つぎのような文章を書かれている。
朝日新聞のそのイラスト、僕は現物を見ていません。だから朝日新聞云々は語れません。しかし、そのような情緒的な「反戦」が問題であることには全面的に同意します。実際、理屈じゃないんだ、人が死ぬのがいやなんだ、というような態度のほうがよっぽど悪質な大衆動員だったりする。北朝鮮拉致被害者事件のときも感じましたが、最近のマスコミのポピュリズムぶりには目が余るところがあります。
とはいえ、澁川さんの発言にはひとつ問題がある。
しかし、国民に選ばれた国会議員たちが意思決定をして(シビリアン・コントロールの下で)武官である自衛隊員が派遣されるのですから、それは日本国の意思決定として重く受け止め、可能な限りのサポートをすべきでしょう。それに、総選挙と言う場が直前にあったのですから、そこでイラク派遣に反対する政党が多数党にならなかった時点でイラク派遣に対しての意思決定はなされたと見るのが自然でしょう。
と澁川さんは書くわけだけれど、「みんなで決めたことなんだから自分の意志が違ってもとりあえず従えよ」という議論は、やはりまずい。第一に、日本国民の総意、なるものはフィクションでしかなく、どの個人(ここではマスコミを念頭に置いているのでちょっとレベルが違いますが、しかしそうとれなくもない)も原理的にいつでも「そんなの知らねえよ」という権利を留保しているべきだと思うし、第二に、もしそんな総意が現実にあるとしても、いまの日本の政治システムがその総意を拾い上げているとはとても思えない。ここは疑問を感じました。
より一般論にもっていきましょう。僕はこういうとき必ず徴兵制の問題を考えます(韓国に行くと必ずそのことを考えます)。僕はとにかく絶対に兵士になりたくない。平和主義とか何とかではなくて、個人的に武器を手にとりたくない。そして僕は、これは、単なるわがままであると同時に、というよりも単なるわがままであるからこそ、ひとりひとりの人間が絶対に手放すべきではない権利だと考えます。したがって、もし日本国がどこかの国と交戦状態に入り、僕自身も徴兵されるときがきたら、裏切りものと罵られようと投獄されようと家族に石が投げられようと、国外逃亡か何か試みるでしょう。
そしてこれは、徴兵の問題に限らず、僕たちが日常的に迫られる選択の分かりやすい例です。社会が全体として何かを決める。その決定の手続きが完全に合理的で合法的だったとしても、ひとりひとりの人間には、必ずその全体に「否」を突きつける自由、言い替えれば、社会から降りる自由がある。少なくとも僕はそう考えます。『動物化するポストモダン』で、僕はそんなことを「解離的」という言葉で表現していたつもりでした。
しかし、そのような「降りる自由」は、いま急速に縮退しつつある。なぜか。それは、僕風に言えば「大きな物語」、もっと一般的に言えば、神、聖なるもの、救済、つまりは超越的な価値のシステムが、資本のダイナミズムのなかでつぎつぎと脱臼されてしまったからです。人類社会は、長いあいだ、一方に世俗的な価値のシステムがあり、他方には聖的あるいは超越的な価値のシステムがあり、その両者のバランスをとりながら存在し続けてきたと思います。だからこそ、徴兵制でも、宗教的理由によるならば徴兵拒否ができる。しかし、そのような超越的な拠り所をうしなった僕たちは、世俗的なシステムから逃れる場所を失ってしまっている。そこで立ち現れるのは、結局のところ、すべてを世俗的な(市場的なあるいは「民主主義」的な)価値基準でのっぺりと覆ってしまい、全員にそこへの参加を強制するきわめて窮屈な社会です。ネオリベラリズムは、この窮屈さのひとつの側面にすぎない。
話を最初に戻すと、僕は実は、澁川さんの発言のなかに、「みんなで決めたことなんだから、いつまでもうじうじ言うなよ」という同じ窮屈さを聴き取ったのです。そこはやはり、もっと寛容になるべきではないでしょうか。それは、言論の自由を最大限に認めろ、ということではない。社会全体から降りる権利、社会に無関心である権利、社会全体の決定を無視する権利を認めろ、という話です。権利、という言い方がまだ強すぎるのであれば、そういう風に「降りて」しまう人間が一定数必ず存在することを正面から見つめろ、ということでもよい。
むろん、朝日新聞はそういうことを言っているわけではないでしょうから(それどころか、朝日新聞は社会への参加を呼びかけているほうでしょうが)、これはもう澁川さんの投稿の趣旨から外れている議論です。すみません>澁川さん
さて、ところで、韓国帰りで頭がボーッとしているのに、こういうハードな話を延々と書いてしまったのは、帰国して最初にチェックしたブログ、miyadai.comで、
という投稿を読んでしまったからでもあります。
この投稿についてはいずれ長めのコメントを出さなければならないような気がします。しかし、とりあえず述べておくと、僕がそこでショックを受けたのは、別に、宮台さんの発言が右翼的だったり小林よりのり的だったり福田和也的だったりするからではありません。僕は、もう、そのことには、ずいぶん前から気がついていたような気がします。そうではなく、僕がショックを受けたのは、世俗的価値=市場的価値=グローバリズム=ネオリベラリズムというたがいに連動した動きへの抵抗根拠として超越性の再興を考えるとき、僕が「降りる自由」というのに対し、宮台氏が「亜細亜主義」「魂」「本懐」と言ってしまう、そしてそこで僕たちふたり(と並べるのは失礼にあたると思いますが)のあいだには理論的に決定的な差異があるのだ、ということを再確認してしまったからです。そして、それはいつか、政治的な立場の違いとして顕在化するのかもしれません。
確かに超越的なものは必要です。しかし僕はそれは決して伝統や国家にも(形而上学)、ニヒリズムにも(否定神学)求めない。これは『存在論的、郵便的』以来の一貫したテーマです。