kajougenron : hiroki azuma blog
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ここは、批評家・東浩紀が運営するブログサイトです。東浩紀の経歴や業績については、当ブログの親サイトに情報があります。hiroki azuma portalをご覧ください。
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blog entries at 【2004年09月】
ところで
カテゴリー[misc]投稿日時: 2004年09月22日22:01
このサイトのコメント欄、文字化けして書き込めないという苦情が来たのですが、それは一般的な症状なのでしょうか? 苦労されたかた、ローマ字でもよいので、コメント寄せてくれると幸いです。
iSession
カテゴリー[glocom]投稿日時: 2004年09月21日13:55
こんにちは。めずらしいことに3日をおかずの投稿です。
友人の、そしていつのまにかGLOCOMの同僚になっていた鈴木謙介さんが、iSesson Creativeというサイトを立ち上げました。このプロジェクトは、GLOCOMの公式のものではありますが、実質的な運営者は鈴木さんひとりです。鈴木さん自身による解説は、ここをご覧ください。
CreativeCommonsについては、一方では、GLOCOMによる公式日本語版運営や広報のまずさのせいで、他方では、「レッシグたん萌え〜」とか言って冗談半分で終わるという例のよっての日本的メンタリティのせいで、ここのところネットでの関心が落ちていく一方でした。しかし、このiSessionのオープンを期に、レッシグの受容も新しい方向に歩み出すのではないかと期待しています。
ところで、このiSessionや、僕が前に記した新研究会などは、GLOCOMの新しい顔になるプロジェクトとしてゆるやかに連動して進められています。その様子もまたいずれ報告します。
ライアンとレッシグとムーア
カテゴリー[critique]投稿日時: 2004年09月18日21:47
みなさん、こんばんは。
今日は、上智大学で行われた明石書店主催のシンポジウム、「<監視社会>と<自由>」を聴きに行きました。目的はデイヴィッド・ライアンの基調講演です。
そのライアンの講演で印象に残ったのは、9.11の前後で、監視技術の中心が「配慮(care)」から「管理(control)」に変わったという主張でした。講演全体も、テロ情報認知システム(TIA)そのほかを例に出して、9.11以降の世界で進む国家的監視の危険性を強く押し出したものになっていました。
このような話を聞くと、僕は両義的な感想をもちます。一方では、おそらくこの指摘は正しい。TIAにしろCAPPS2にしろ、また、最近報道されたASSISTにしろ、現在のアメリカの(ということは世界の)監視への意志には驚くべきものがある。
しかし、他方では、国家によるSF的監視と市民的自由を対立させるこのような図式は、あまりに単純すぎて、9.11以前に書かれた『監視社会』の射程を濁らせてしまうものでもある。ライアンは『監視社会』では、監視技術の危険性を抉り出すとともに、それが私たちの日常生活にとって不可欠なものになりつつあることも指摘しています。したがって、ライアンの議論は、本来であれば、「監視カメラ反対」「住基ネット反対」といった総論にはなじまない。その繊細さが今日の講演では消えてしまっていたわけです(ただし、僕は新著『9.11以後の監視』は未読なので、その点は分かりません。また、上記のような単純化は、通訳を介してという講演の条件と、会場の雰囲気によって定まっていたものかもしれません)。
ところで、このような単純化は僕に二つの例を思い起こさせました。
ひとつは、ローレンス・レッシグの『FREE CULTURE』。この書物も、政治的実践にあまりに近寄ったために、『CODE』の繊細さを失っています。あるいは、言論の例ではないですが、マイケル・ムーアの『華氏911』。今月の『ゲーラボ』のコラムでも書きましたが、この映画は前作『ボーリング・フォー・コロンバイン』に比較してあまりにもわかりやすく、とても後味がいい。『CODE』も『ボーリング・フォー・コロンバイン』も、深刻な社会的問題(前者では情報管理強化の、後者ではセキュリティ強化の問題)を明らかにしたものの、決して安直な解決策は与えてくれない、しかしそれだけに私たちを思考へと誘ってくれたすぐれた作品でしたが、『FREE CULTURE』と『華氏911』では悪者ははっきりしている(前者はRIAAとその仲間たち、後者はブッシュとその仲間たち)。結果として、この両者は、アジテーションとしてはすばらしいのかもしれないが、そのような「わかりやすい物語」を語ってしまう点で、別の危険性も備えている。
レッシグにしろムーアにしろライアンにしろ、彼らの言説が単純になってしまうのは、それだけ現実のほうが悪化していることの証左でしょう。それはそうなのですが、彼らと別の国にいる私たちは、少し冷静に距離をとるべきかもしれません。
ところで、最後に話が変わりますが、当日会場で配布された資料集は、A4で40枚近くある充実したものでした。スタッフの方、ご苦労さまでした。