kajougenron : hiroki azuma blog

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渦状言論へようこそ。

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blog entries at 【2005年03月】

明日トークショー

明日、3月30日、青山ブックセンター本店で行われる北田暁大さんのトークショーに、急遽出演することになりました。

情報はこちら

本来は北田さんと鈴木"charlie"謙介さんのトークショーだったのですが、charlieがインフルエンザで寝込んだため、僕が代役として借り出されることになった次第です。

水の球

tt3top.jpg

妻のイベントの告知です。

僕の妻のほしおさなえ(旧:大下さなえ)は、ミステリを書くかたわら、現代詩と電子音楽と声優さんの集い「time train」という、朗読劇シリーズを企画・運営しています。ここまで3回続いているのですが、来る4月2日に、その番外編のイベント「水の球」が開催されます。場所は東京の阿佐ヶ谷です。読まれるのは彼女自身の作品、散文詩連作の『水の球』です。

番外編というのは、前回の「time train 3」に較べ、今回はこじんまりした会場で、公演回数も1回しかないからです。tt3が大規模だったので、ちょっとひとやすみというわけですね。

time train 公式サイト
水の球
time train 3

『水の球』に収められている作品群は、彼女の作品のなかでも僕がとくに気に入っているものです。一聴に値すると思いますので、お花見がてらにでも、ぜひぜひお立ちお寄りください。

お問い合わせは、info@timetrain.orgまで。

ところで余談ですが、7年ぐらい前に出版して、一部書店で売っていたこの『水の球』の私家本は、実は僕がワープロソフトで組版制作をやっていました。奥付に僕の名前がこっそり入っています。

throughout the universe

BBCの番組のため、村上隆の作品についてインタビューを受けました。

それはそれでいいんですが、驚いたのが、そのとき最後に交わした覚え書きの文面。収録したインタビュー映像の、あらゆる媒体での編集・放映・再放映そのほかを「without time limit throughtout the universe」で全面的に許可する云々とある。直訳すると、「時間制限なく全宇宙にわたって」。宇宙? おいおい……。

これはなにを想定しているのよ(笑)、と質問するとスタッフも笑って「ほかの惑星とか太陽系とか……並行宇宙は含まないか」と冗談で流していましたが、もし英語圏でこんな奇形化した表現が必要とされるほど著作権トラブルが頻出しているのだとすれば、それはちょっと深刻な気がします。それとも、業界特有の慣用表現なのかしら。

ところで、普通は僕はこういう文面には文句をつけるのですが、演出の関係とやらで1時間以上にわたって新宿をタクシーで連れ回され、英語でインタビューを受けて疲れていたので、思わずサインしてしまいました。これで僕のインタビューは、僕の許可なく、ほかの惑星でも無制限に放映可能になったはず……。

FM世田谷

area.jpg

FM世田谷の番組でインタビューを受けました。「キャンパスRADIOカンパニー」の東京大学担当の枠です。3月21日の22:00-22:55に放送されます。

東大のラジオサークルが番組を作っているということになっているのですが、スタッフの半分以上は他大でした。何でもこの枠では、ほかに鈴木謙介や北田暁大や佐藤友哉や白田秀彰がインタビューを受けたということで、まとめてCD-ROMでも出せば文学フリマでトップサークルになれるのではないかと思いました。

公式サイトによると、「エフエム世田谷の放送電波は世田谷区全域に加え、杉並区、中野区、渋谷区、目黒区、狛江市などもカバーしています。」とのことです。

母校が……

崎山さんのblogを読んでいたら、こんな記事を発見。


2月21日付の読売新聞:
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20050221i106.htm
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050221-00000106-yom-soci
によれば、NTTデータが4月から7月にかけて横浜市立みたけ台小学校(青葉区)の児童約300人に 「ICタグから電波を常に発信する小型装置」を常時持たせて通学区域にリーダを 30箇所に設置して常時、個々の児童の位置をトレースする実験をするそうだ。 非常通報用のボタンがついているが、それとは別に常時トレースできる仕掛けと読める。

崎山伸夫のblog:冗談だよね?NTTデータさんより
元記事は消滅


これって僕の出身小学校じゃないか! いかにもそういうことをやりそうな地域だと思っていたが、やはりそうなったか……。

ちなみに僕は小学校4年生まで東京都三鷹市に住んでいて、そのあと横浜市青葉区みたけ台(当時は緑区みたけ台)に引っ越したのだった。僕の実家は、この小学校の校門のまさに正面、歩いて30秒ほどのところにあったのです。

早速有料サービスのニュース検索で元記事を読んでみたところ(著作権の問題で全文引用できないのが残念)、問題のサービスは、「同小の通学区(約一平方キロ・メートル)が対象で、ICタグから電波を常に発信する小型装置(縦六センチ、横三・一センチ、厚さ一・一センチ)を児童ら約三百人に携帯してもらう。電波の届く距離は十五メートル程度だが、受信機を三十か所に設置することで、ボタンを押さなくても、通学区内であれば児童の居場所を、親がパソコンや携帯電話のインターネットで確認できる」仕様らしい。けっこう本格的だ。僕の部屋は通学路に面していたので、自宅でまったりしててもトレースされたかも。

実験見に行くか……。

『嗤う日本の「ナショナリズム」』

 今回はひさしぶりに「だ・である」調で書いてみよう。
 
 去る12日、ised第3回倫理研が行われた。今回は北田暁大氏の講演。マスメディアのコミュニケーション環境(出版、TV、ラジオなど)とインターネットのコミュニケーション環境(CMC)の差異を形式化しつつ、後者における公共圏の成立不可能性を説くもので、倫理研の問題意識に堅固な基盤を与えてくれる刺激的な内容だった。ディレクターとして北田氏に感謝したい。議事録は1ヶ月半後に公開される予定だ。
 
 ところで、その北田氏の新刊『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス、2005)を読んだ。興味深い本であるのは言うまでもないとして、僕は大きく2つの違和感をもった。isedの討議では触れることができなかったので、簡単に感想を記しておきたい。
 
 ■
 
 ひとつめは、歴史認識の大枠についてである。この本は、タイトルと帯文に反して、2ちゃんねるの本でもナショナリズムの本でもない。2ちゃんねる論も一部収められてはいるが、中心は1980年代論である。そして、いまこの時期に1980年代論を出版した意図は、1960年代から2000年代にいたる日本のサブカルチャーの風景を一本の線で繋ぐことにある。
 
 北田氏の議論を支えているのは、連合赤軍から新人類を通って2ちゃんねるまで、それぞれの行動様式は多彩ではあるけれども、実はその背後には(僕の言葉で翻案すれば)「大きな物語なき時代にいかにメタレベルを担保するか」という切実な問題意識が横たわっている、という認識である。連合赤軍の「自己否定」は形式化の果てに「総括」に、新人類の「消費社会的アイロニズム」は同じく形式化の果てに「消費社会的シニシズム」に辿り着き、2ちゃんねるは「繋がりの社会性」を基盤として同じように「ロマン主義的シニシズム」に辿り着いた、というのが彼の分析だ。つまり北田氏は、2ちゃんねるの行動様式は連合赤軍や新人類の延長線上で説明できる、と主張しているわけである。
 
 この議論を呼んで僕が思い出したのは、3年前に笠井潔氏と行った往復書簡だ(『動物化する世界の中で』、集英社新書、2003)。あそこで笠井氏と僕はさまざまに意見が衝突しているが、その中心はまさに、笠井氏が「動物化するオタク」の分析を全共闘の問題と密接に繋げようとしていたのに対し、僕がむしろ両者の差異や切断を主張したことにあった。

 笠井氏と北田氏は(さらに付け加えると——詳しい説明は省略するが——僕の「動物化」の時代を「不可能性の時代」と言い換えようと提案している大澤真幸氏も)、全共闘から新人類(とオタク第一世代)へと受け継がれたメタゲームの果てに、いまの「動物化」現象があると考える。僕は、『動物化するポストモダン』でも、またそれ以降も繰り返し主張しているように、そうは考えない。僕の主張は単純に、メタゲームはもう必要とされていないのだ、なぜならば現在のネットワーク環境は(それがいいか悪いかはともかくとして)みんながまったり動物的に生きる文化的世界を用意したから、というものである。むろん、そんな世界でもメタゲームをやりたがるプレイヤーは出てくる(80年代に妙なノスタルジアを抱く若い世代が多いのはそのせいかもしれない)。しかしそれは圧倒的に少数派であり、時代分析の要にはならない。それが僕の2000年代観だ。ここには大きな歴史認識の違いがある。
 
 この差異は世代差による問題ではない。地域差でもない。そもそも僕と北田氏は、同じ年齢で、同じ地方で育ち、同じ大学に通っている。だから、その差異はもっと本質的なものだ。
 
 それはおそらくは、「第三者の審級がない」ということの「ない」の意味をどう捉えるか、という世界観の違いによるものである。1995年以降の日本において、その直前まで優勢だったメタゲーム(アイロニー)が急に失効してしまった、という点では、おそらく、笠井氏も大澤氏も北田氏も僕も意見が一致している。しかし、彼ら3人はすべて、メタゲームのその端的な欠如状態に、メタゲームを存在させない、という高度なメタゲームを読み込んでしまう。その所作は、僕にはとても否定神学的なものに見える。
 
 ■
 
 もうひとつ。上記に較べるとぼんやりした話で、したがって以下は殴り書きとして読んでもらいたいのだが、僕は北田氏の1980年代論を読んで、秋元康の名前がほとんど出てこないことが気にかかった。

 北田氏の分析によれば、「ノりつつ冷め、冷めつつノる」二重性こそが新人類世代のアイロニーの要であり、その二重性が担保されなくなったところに1990年代後半以降の問題がある。これは最近の宮台真司と深く通じる時代認識だが、しかし、僕の記憶では、おニャン子クラブというのは、すでにそのようなアイロニーを食いつぶす企画だったのではないだろうか。
 
 僕はおニャン子クラブについては、かつてファンだったというだけで、研究も何もしていない。したがって、20年近く前の記憶だけで書きとばすことしかできないのだが、おニャン子クラブという存在は意外と「ベタ」だったと思うのだ。

 確かに、おニャン子のコンセプトは要は素人の女の子でもテレビが仕掛ければアイドルになれる、というものだったし、『夕焼けニャンニャン』のレギュラー、とんねるずの振る舞いはそのようなアイロニーを体現していた。しかし、では当時のファンが「僕は『あえて』新田恵利のファンだ」とか「『あえて』美奈代のファンだ」と考えていたかといえば、おそらくそんなことはない。そして、それは決して当時のファンが愚かだったからだけではない(我が身を振り返り、愚かだったことは否定しないとして)。おニャン子クラブというのは、一方でとんねるず的アイロニーに代表されるメタ企画でありながらも、他方ではけっこうベタなアイドル企画だった。そのロマンティシズム、というより少女マンガ的なリリシズムは、たとえば『じゃあね』や『ウェディングドレス』の歌詞によく表れている。
 
 つまりは、北田氏の言葉で言い換えれば、おニャン子クラブにおいては、消費社会的アイロニズムと消費社会的シニシズム、メタとベタがほとんど区別されずぴったりとくっついていた、あるいは——さらに『動ポモ』の言葉で言えば——「解離的に共存」していたのである。そしてその要にいたのが、プロデューサーの秋元康だった。だとすれば、秋元康/おニャン子クラブの分析は、北田氏の今回の枠組みのなかで欠かすことのできないものだったはずだ。少なくとも、僕にとって、1980年代の空虚で、狂乱に満ちた、でもちょっと愛らしい時代精神を代表するのは、糸井重里でも坂本龍一でも浅田彰でも高橋源一郎でもいとうせいこうでもない、秋元康である。
 
 とはいえ、これは(僕が上記の感想を伝えたあとに)北田氏も言っていたのだが、秋元康の全体像をつかむのは意外と難しい。秋元の本業は作詞家・プロデューサーということになっているが、その活動はあまりに多岐にわたり、よくテレビに出るわりには素顔が見えない。秋元は恋愛小説も書いているしホラーも発表している。それにそもそも、『ナースエンジェルりりかSOS』と『あずきちゃん』の原作者の「秋元康」は、本当にあの秋元康なのだろうか? だとすれば、おニャン子クラブと『あずきちゃん』が共存する感性こそが、秋元的なものだと言えなくもないだろう。

最近の仕事200503

■印刷媒体

・「新たな「管理」の登場とその代賞で得られる「自由」を吟味せよ」
インタビュー、『バイオニクス』4月号、オーム社

・「ネットは真の言論の場になれるか」
エッセイ、『論座』4月号、朝日新聞社

■ネット

・「情報社会の二つの設計
井庭崇、楠正憲、近藤淳也、鈴木健、八田真行、村上敬亮、石橋啓一郎、鈴木謙介とのシンポジウム
ised@glocom」設計研第1回、国際大学GLOCOM

・「情報社会の保守主義と法律家の役割」(3月12日公開予定)
加野瀬未友、北田暁大、金亮都、白田秀彰、高木浩光、辻大介、石橋啓一郎、鈴木謙介とのシンポジウム
ised@glocom」倫理研第2回、国際大学GLOCOM

■講演など

・「(無題)」
インタビュー
3月21日22:00-22:55
FM世田谷
「キャンパスRADIOカンパニー」の一部

・「『嗤う日本の「ナショナリズム」』発刊記念」
北田暁大とのトークショー
3月30日19:00-
青山ブックセンター本店、東京表参道
*鈴木謙介氏急病のためピンチヒッター

■そのほか

・永江朗『メディア異人列伝』(晶文社)に登場。1998年のインタビューの再録。
・『動物化するポストモダン』フランス語版出版について著作権事務所と独占契約を交わす。

2つのリアリズム

昨日は日本SF大賞授賞式に行ってきました。文芸誌から離れて幾歳月、いまや出席するパーティは日本SF大賞授賞式ぐらいしかなくなっているのですが、最近、いろいろな事情があって、もういちど文学とか批評について考えています。

そのなかでひとつ考えたことがあります。周知のように、大塚英志は「自然主義的リアリズム」と「アニメ・まんが的リアリズム」を分けました。彼によればそれは遠く明治時代にまで遡る分割なのですが、実際にはそれは、1990年代後半の日本文学の光景を反映したものとして理解すると分かりやすいと思います。「自然主義的リアリズム」と「アニメ・まんが的リアリズム」の分割とは、要は、「J文学」と「ライトノベル」(当時はまだこの言葉では呼ばれていませんでしたが)の分割のことだと考えてかまわないでしょう。

「J文学」のブームは1998年をひとつの頂点としていました。『文藝別冊 J文学マップ』の出版が1998年です。当時は何でもかんでも「J文学」と呼ばれていたので総括は難しいですが、そのイメージの中核にあったのは、読者との共感を重視し、ほどほどに社会的な問題提起も絡めた若い世代の都市小説だったと思います。そこで求められていたのは、伝統的な「文学」から遠く離れた20代、30代の消費者が共感できる、新しい「リアル」を写し取る新しい小説技法です。つまりは、J文学の本質とは、消費社会化された日本を舞台にした、リアリズムの復興運動だったわけです。

他方、1998年というのは、清涼院流水の存在感が無視できないものに膨れあがり、上遠野浩平がデビューした年にあたります。京極夏彦・森博嗣以降の新本格や、上遠野以降のライトノベルは、そのあとも、現代社会を舞台とした荒唐無稽な物語(佐藤心のいう「現代ファンタジー」)を次々と送り出していました。公平に見てその動きは、1990年代後半の日本文学を語るうえで、「J文学」に勝るとも劣らない——マーケットの視点で見ればむしろ勝っている——重要性をもつものだったわけですが、ごく最近まで文芸誌や新聞文化欄のレベルでは完全に黙殺されてきました。そのような状況のなか、『文學界』の連載で孤独に2つのリアリズムについて語っていた大塚氏には、やはりすぐれた批評家的センスを感じます。

ところで問題は、J文学の企図ははっきりしているとして、ライトノベルの文学運動(と呼んでしまいましょう)の中核にあるものはいったいなんだったのか、ということです。大塚氏はそれを「アニメ・まんが的リアリズム」と呼び、アニメやマンガのような視聴覚的なオタク表現からの影響が決定的だと指摘しました。僕はこれは正しい見方だと思いますが、他方、そのような捉え方は、内容的な差異を影響の差異にしてしまうことで、問いをずらしてしまっているようにも思います。実際、アニメやマンガの影響を受けたJ文学作家は数多くいますし、逆にオタク的なアイテムには一切触れてこなかったけれどキャラクター小説しか書けない、という作家だっているはずです。

したがって、僕は、大塚氏が「アニメ・まんが的リアリズム」と呼んだものは、単にアニメやマンガの影響が大きいとか、メディアミックス的手法で作られている、とかいった表層的な理解で受け流すべきものではないと考えています。それはむしろ、非リアリズム的リアリズムというか、いわばオタク版のマジック・リアリズムとして、文学の伝統——「伝統」というのはまたネガティブなイメージがありますが、つまりは文学的想像力の一種の必然的展開として——のなかにきちんと位置づける必要がある。『動物化するポストモダン2』でやりたかったのは、そういうことでした。

いずれにせよ、僕は、1990年代末から2000年代にかけての日本文学(の一角)の光景は、「自然主義的リアリズム」=J文学と、「アニメ・まんが的リアリズム」=ライトノベルの二つの潮流がぶつかって作られていたのだ、と考えると、いろいろ見通しがよくなると考えています。そこで争われていたのは、市場というより、観念です。J文学とライトノベルは、おそらく、小説家志望の多くの若者の頭のなかで、ここ数年文学や小説の中心的なイメージを取り合っていたのだと思うのです。

2005年の冒頭には、阿部和重が芥川賞を、角田光代が直木賞を受賞しました。これは、上記の整理に従うと、「自然主義的リアリズム」=J文学が業界内政治的に勝利し、ついに日本文学の嫡子として認定されたことを意味します。他方、「アニメ・まんが的リアリズム」=ライトノベルは、今年はどこに行くのでしょう。僕は、ライトノベルが文学の嫡子として認められる必要などさらさら感じませんが、いまのように加速度的に消費されるだけなのも寂しい感じがしています。

「AIR」TV版

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こんばんは。

前回に引き続き『AIR』の映像版の話です。たったいま(5分前)、TV版第9話を見終わりました。今回は、原作第2部から第3部にいたる、もっとも難しい部分です。

ひとことで感想を言えば、これは本当にすごい! すごすぎる! なんか分からないけど神がかっています。もう、麻枝准がすごいのか、京都アニメーションがすごいのか、よく分からなくなってきました。むろん、第1話からこのTV版はすごかったわけですが(そして、途中ちょっと中だるみの感もあったのですが)、ここに来てテンションがぐんぐんあがってきた感じがします。とにかく、これはあらゆる手段を使って(というと何なのですが、いや、著作権は大事なのでみなさんDVDを買いましょう、僕も買います)、速攻で見てほしい作品です。

次回以降を楽しみにしています。

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