kajougenron : hiroki azuma blog

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渦状言論へようこそ。

ここは、批評家・東浩紀が運営するブログサイトです。東浩紀の経歴や業績については、当ブログの親サイトに情報があります。hiroki azuma portalをご覧ください。

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blog entries at 【2005年04月】

iSession Creative(仮称)予告

こんにちは。東浩紀です。

最近、ふたたび告知することが多くなりすぎて、更新が滞りがちです。仕事も溜まってます。思わず逃避してビデオを見まくったりしています。前回のエントリで述べた動物的飽和状態そのままですね(笑)。

さて、僕はいま国際大学グローバル・コミュニケーション・センターでisedという連続シンポジウム・プロジェクトを動かしていますが、それだけをやっているわけでもありません。本日は、続く第2のプロジェクトのお知らせです。今度は、デジタル著作権サイトの構築です。

いまから1年半ほどまえ、はてなダイアリーが妙に盛り上がっていたころ、同時にローレンス・レッシグが来日するというので、一部でCreativeCommonsの日本での展開に高い期待があったのを覚えているかたも多いと思います。そのあと、これといった動きもなく、日本でのCCの動きはなんとなく低調になっていったのですが、僕自身はそれを残念に思っていました。しかも、実はCreativeCommonsの日本サイトはGLOCOMがホストしていたので、その点でも自分の力不足を感じていました。

そこで今年1月より、その状況を変えるため、GLOCOM内外のスタッフと協力し、CreativeCommonsの普及活動を中心にしながらも、より日本の状況に沿った、実践者との距離の近いデジタル著作権運動のプラットフォームを構築する作業に着手しました。その始動の目途が立ちつつあるので、ここにお知らせします。

サイトの名称は、現在仮に「iSession Creative」と名づけられています(名称は今後変更の可能性があります)。iSessionのスタッフは、いま、CreativeCommonsライセンスの新しい選択画面の整備、SamplingLicenceの日本語化、CreativeCommons本家のblogの翻訳作業、それに、新しいソシアル・コンテンツ・ネットワーキング・サービス「iSession Connector」の開発などを進めています。

また、CreativeCommonsの紹介・普及とは別に、真紀奈17才さんと協力し、同人市場を支援する著作権ライセンスを作れないか、実験的な提案を行っています。本日真紀奈さんのサイトでも告知が行われました。詳しくは、以下をご覧ください。

Derivative Only Licenceの提案

このiSessionプロジェクトは、僕が全体のコーディネーターを務めます。しかし、僕自身はデジタルにも著作権にも法律にも門外漢であり、人事や予算管理のような裏方の仕事がおもな担当です。サイトのコンテンツの構築には、多くのスタッフが協力してあたっています。全貌は徐々に見えてくると思いますので、ご期待ください。

iSessionサイトの仕様詳細が未定のため、このプロジェクトについての問い合わせは、現在暫定的にisedのメールアドレスで引き受けています(というか、この両者のGLOCOM側スタッフは実質的に同じです)。問い合わせ先は、ised-info@glocom.ac.jpになります。取材の申込などは、こちらにどうぞ。

メタと動物化と郵便的世界

こんばんは。東浩紀です。

先日、isedの設計研第3回が行われました。最初は無限に長いと思われた全14回の研究会ですが、ふと気が付くとすでに6回が終わっているんですね。波状言論といいisedといい、時の流れは速いものです。終わらないのは「情報自由論」の原稿執筆だけです(笑)。いや、笑いごとじゃないか……。

ところで、そのisedの終了後、委員の鈴木健さん、井庭崇さんと雑談を交わしました。その議論が、前にこのブログで触れた(そして、先日のトークショーでも話題になった)北田暁大さんと僕との差異にも関わっていると思うので、簡単に記しておきます。

山田正紀さんに『神狩り』という小説がありますが、そこに確か、「人間は関係代名詞を7つあたりまでしか重ねられない」という台詞があります(手元に資料なく、うろおぼえです)。これそのものは山田さんが思いつきで書いたものらしいのですが、けっこう本質をついているような気がします。実際、認知科学で似たような実験がある、という話を読んだことがあります(これも手元に資料なし。確か「チャンク」の数がどうの、という実験です)。

僕は昔からこの考えが気にかかっています。人間は、確かに情報を外部化(デリダ風に言えば、「エクリチュール」にすれば)、いくらでも階層的な思考を展開することができる。しかし、情報の適切な外部化ができない場合は、あまり複雑なメタゲーム(カギカッコの重複)には耐えられないのではないか。つまりは、「彼は……と言った」とか「彼は「彼は……と言った」と言った」とかは頭の中で再現できるのかもしれないけれど、「彼は「彼は「彼は……と言った」と言った」と言った」あたりからどうも処理できなくなってくるのではないか。そして、この限界は、僕たちの生活やコミュニケーションの様式をかなりのていど決めているのではないか。

僕の動物化論の基盤はここにあります。北田さんは、社会が複雑になってくるにつれて、メタゲームがどんどん発達すると考えている(あえて簡単に要約すると)。しかし僕は、社会があまりに複雑になると、メタゲームは有効に機能しなくなると主張しているのです。

人間社会は、もともと伝言ゲームでできています(これはデリダの哲学の中核にある教えで、僕自身の趣味としてはここからプラトンの『ティマイオス』や言語行為論の話に行きたいのですが、それはまた今度の機会にしましょう)。つまり、「彼は「彼は「彼は……と言った」と言った」と言った」といったことの繰り返しで、遠くの情報を手に入れる、というのが人間の基本的な行動様式なわけです。

近代社会が作り出した「マスメディア」は、そのような伝言ゲームを集約する機能を備えていました。つまり、Aが言った噂話、Bが言った噂話、Cが言った噂話……をすべて集約し、いちど「新聞が言った」「テレビが言った」という単一の発信者を通過させ、読者/視聴者に送り届ける機能をもったわけです。

僕の考えでは、近代社会においてアイロニズムが人々に共有されたのは、まさにこのメディアの集約過程、言い換えれば伝言ゲームの停止過程があったからです。人間は二階のメタゲームぐらいは脳内で処理できる。だから、「「……とテレビが言っていた」が、しかしそれはマユツバだ」という回路を働かすことはできるわけです。ここにこそ、メディア論者が注目してきたような、情報の送り手と受け手の相互依存関係が生まれます。

しかし、ネットワーク社会の誕生はその集約過程を内側から崩壊させてしまった。僕たちをいま取り巻いているのは、「……とテレビが言っていた」だけではなく、「「……とテレビが言っていた」が、しかしそれはマユツバだと某が言っていた」「「「……とテレビが言っていた」が、しかしそれはマユツバだと某が言っていた」という発言こそがツリでしょう」「「「「……とテレビが言っていた」が、しかしそれはマユツバだと某が言っていた」という発言こそがツリでしょう」というシニカルなのも正直どうかと思うよ」といった無限のメタゲーム/伝言ゲームの囁きであり、このような状態では、もはや何を主張してもだれかよりはメタレベルだし、他方ほかのだれかにとってはネタでしかない。そして、このような混乱した情報環境においては、結局のところひとは動物的に生きるしかないのだし、実際生きている、というのが僕の考えなのです。

したがって、僕は決して、人々がバカになって、メタゲームをしなくなったと主張しているのではない。そうではなくて、人間にはもともと生物学的に(それこそ動物的に!)世界把握の階層数に限界があり、現在の情報環境はそれを超えた複雑さを備えている、と主張しているのです。言い換えれば、メタゲームはいまでも行われているのかもしれないけど、それはもはや何の意味もない、と主張しているのです。

近代社会の「大きな物語」は、伝言ゲームの複雑性を縮減してくれる装置でした。しかし、僕たちはそれを手放し、グローバルな伝言ゲームへと足を踏み入れてしまった。この荒野においては、アイロニーはほとんど役に立たない。僕はむかし、このような荒野のことを「郵便的」と形容したことがあります。

ひとびとが動物化するのは、世界が郵便的だからです。近代社会が作り上げた巨大な郵便局(大きな物語)はいまや壊れてしまい、ひとびとは、自らの生物学的限界を超えた情報処理支援装置に囲まれて、無限の伝言ネットワークのなか、メタレベルの志向の宛先を見失ったまま、局所最適に基づいて動物的に生きるしかなくなってしまった。これが僕のすべての議論の中核にある世界認識です。

最近の仕事200504

■印刷媒体

・「動物的幸福をめぐる断章」
巽考之ほか(編)、『幸福の逆説』、慶應義塾大学出版会、2005年。

■ネット

・「オープンソースの構造と力
井庭崇、楠正憲、近藤淳也、鈴木健、八田真行、村上敬亮、石橋啓一郎、鈴木謙介とのシンポジウム
「ised@glocom」設計研第2回、国際大学GLOCOM

■そのほか

・「修士論文と桑野ゼミ」。エッセイ。ミハイル・バフチン全著作第2巻(水声社)に挟み込まれている「月報」第3号。

見守りタグ

3月16日の記事の続報。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050402-00000000-san-bus_all

「新学期が始まる五日から児童約三百人が「見守りタグ」を携帯し、通学区内(約一平方キロメートル)の三十カ所に受信機アンテナ「見守りスポット」を設置。児童がアンテナ付近を通過すると、タグから自動的に電波が発信され、これを「見守りスポット」が受信。この情報が父母らの携帯電話やパソコンにメールで瞬時に送られ、児童の居場所や登下校状況などが確認できる」のだそうだ。

「見守りタグ」「見守りスポット」とはすごいネーミングだ。普通はこんな装置をもたされたら激怒して投げ捨てると思うが、みたけ台の連中はお行儀がいいのでまじめにもっているのかもしれない。うちの妹の情報によると、みたけ台小学校もいまや往時の面影はなく、近隣小学校に優秀な児童が流れているらしいが、一発逆転で安全を売りにしようということなのだろうか。

それにしても、これは監視社会すぎる。まじで見に行こう。

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