kajougenron : hiroki azuma blog

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渦状言論へようこそ。

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blog entries at 【2006年01月】

最近の仕事200603

■印刷媒体


・「住宅地に監視カメラは必要か」
エッセイ
「潮流06」第7回
『論座』4月号、朝日新聞社

・「ネット時代と溶解する資本主義」
鹿島茂、佐藤優、松原隆一郎との座談会
『文學界』4月号、文藝春秋

■ネット

・「なめらかな社会の制度設計
楠正憲、近藤淳也、白田秀彰、鈴木健、八田真行、村上敬亮とのシンポジウム
ised@glocom」設計研第7回(最終回)、国際大学GLOCOM

■波状言論

・特になし

■講演など

・「そして子育てだけが残った」
西島大介とのトークショー
3月11日19:00-21:00
青山ブックセンター本店、東京表参道

・「動物化する東×大」
佐藤大とのトークショー
3月13日19:00-
ロフトプラスワン、東京新宿歌舞伎町

・「『動物化するポストモダン』韓国語版出版決定記念」
講演
3月23日19:00-
ソウル大学アニメーション研究会(Noitamina)主催
ソウル大学、ソウル市

■そのほか

・『動物化するポストモダン』韓国語版出版社が決まり(Munhakdonne)、契約を交わす。

最近の仕事200602

■印刷媒体

・「ホリエモンという「夢」に頼るのは間違いだ」
エッセイ
「潮流06」第6回
『論座』3月号、朝日新聞社

・「情報社会の合意形成」
公文俊平、國領二郎、鈴木健、吉田民人とのシンポジウム(司会)
『InterCommunication』no.56、NTT出版
#2005年8月GLOCOMフォーラムで行われたシンポジウムの再録

・「貨幣・法人・バザール」
岩井克人、鈴木健、安富歩との討議
『InterCommunication』no.56、NTT出版

■ネット

・「プラグマティックに匿名/顕名問題を考える
小倉秀夫、加野瀬未友、北田暁大、白田秀彰、高木浩光、辻大介とのシンポジウム
ised@glocom」倫理研第7回(最終回)、国際大学GLOCOM

■波状言論

・特になし

■講演など

・特になし

■そのほか

・『朝日新聞』2月21日夕刊、社会面記事にコメント。
・近藤淳也、鈴木健とのトークが近藤氏のブログでPodcastingによって配信される。

友人が……

友人が急逝してしまいました。僕よりも年下のひとです。つい30時間ほど前に更新したブログが、いまも読めます。まだ信じられません。

波状言論でも少しお世話になったひとです。そのあと色々トラブルがあり、最後にお会いしたときにはまともな会話ができませんでした。それが悔やまれます。

だれでもそうだと思いますが、ひとは普通、友人と会話するとき、暗黙のうちに彼もしくは彼女があと10年ぐらい生きていることを前提にしているものです。仲違いするのも、そういう前提のうえです。その信頼がいきなり断ち切られると、厳しいものがあります。

ほとんど何の情報も伝えていないのですが、H氏の冥福をお祈りするためにアップさせていただきます。安らかにお眠りください。

ライブドアとオウム?2

堀江貴文が逮捕された。予想以上の早さに驚いたが、逮捕そのものに感慨はない。前にも言ったように(と書いて思い出したが、それは2ちゃんねる東スレの例のアレで書き込んだだけかもしれない)、僕自身は彼の言動に共感したことがない。むしろ困ったもんだ、と思い続けてきた。僕の母親は堀江支持者だったが、僕はそんな彼女を諭したものだ。むろん、息子の言葉などなんの効果もなかったが。

しかし問題は、そんな個人的意見とは別に、堀江が僕らの世代の代表と広く見なされていることである(僕は1971年生、堀江は1972年生)。たとえば昨晩のニュース23で、筑紫哲也(かあるいはその横の女性キャスター)は、「堀江逮捕については世代でくっきり反応が分かれる」と語っていた。本当か?と思ってしまうのだが、なぜかいまの日本ではそういう前提がある。堀江は団塊ジュニアのヒーローで、若い世代から支持されていることになっている。

isedも、もしかしたらそういう世代的議論だと思われているのかもしれない。実際、初期のメンバーだった鈴木謙介はmixiへの世代的連帯を隠していなかった。IT言論には、そういう世代論がまとわりついている。したがって、堀江氏の逮捕は僕の活動にも影響してこざるをえない。そういう環境になっている。

ここでも思い出すのは、11年前のオウムである。麻原彰晃は新人類世代ではなかった(1955年生)が、オウム真理教の活動に「同世代」を感じた新人類=オタク第1世代は多かった。たとえば大澤真幸や竹熊健太郎がそうだ。そして、1995年のオウム真理教の失敗は、1980年代以降の文化的シーンを先導していた新人類を大きく躓かせた。オウム以後、新人類のサブカル志向や脱社会的志向はどこかうさんくさい目で見られ、素朴な現実回帰がもてはやされた。むろん、オウムの活動は別に新人類の感性を代表していたわけではない。しかし、ある事件が「世代的」だと思われると、往々にしてそういう効果が生じる。

同じように、このライブドア事件をきっかけとして、このところようやく日本社会で盛り上がってきた世代交代への熱意は急速に冷める可能性がある。学生起業や個人投資は虚構で、手堅いのは大企業就職だ、といった保守的なメンタリティが力を強める可能性がある。団塊ジュニア〜ポスト団塊ジュニアへの風当たりは強くなるだろうし、チャレンジングな新世代を支持する知識人(たとえば宮台真司は、昨年3月の僕と北田暁大のトークショーに乱入し、当時ニッポン放送の買収劇を繰り広げていた堀江を熱烈に支持していた)は活動しにくくなるかもしれない。

しかし、それはまちがっている。世代交代は進むべきだし、日本社会はもっとアグレッシブになるべきだ。情報技術はますます社会環境に浸透していくべきだ。そしてその変化を担うのは、いまの20代、30代、すなわち団塊ジュニア以降の世代でしかありえない。これは世代論的感性の問題ではなく、単に時期の問題だ。

堀江氏は時代の申し子だが、世代の代表ではない(本当はオウムだってそうだ)。この国の言論空間は世代によって分割されており、事件が起こるとすぐ世代論が動員される。そのようななか、全共闘世代の一部は連合赤軍に肩入れし、新人類世代の一部はオウムに肩入れしてきた。しかし、今回は、そのような図式は反復する必要はない。僕は、堀江を生み出した社会構造について考えるのは大切だと思うが、彼にはまったく共感しない。みなさんはどうなのだろう? 彼に世代的共感を感じるのだろうか?

ライブドアとオウム?

二層構造論はちょっとブレイク。以下は思いつきなので、あまり深刻に捉えないように(笑)。

ライブドアショックが連日マスコミを賑わしているが、僕が勤めているGLOCOMはまさにその六本木ヒルズの近くの小さなビルにある。今日はそのGLOCOMの東研の定例ミーティングだったのだが、終了後の定例飲み会で濱野智史くんが「ライブドアショックはオウム真理教事件に相当するのではないか」と言い出した。

これはなかなかいい指摘のように思った。オウムは、1990年代前半の脱社会的存在がひきつけられたカルトとして急成長した。同じように、ライブドアと、その教祖=堀江が巻き起こした熱狂は現代のカルトだったと言えるのではないか。

R30さんが書いているように、ライブドアは、日本の保守的な株式市場からはみ出した個人投資家の欲望に適合した企業として特異な発達を遂げた。オウムが1990年代前半の脱社会的欲望を集めたように、ライブドアは2000年代前半の脱社会的欲望を集めたわけだ。そして、オウムもライブドアもそこからの革命を夢見た。麻原が選挙に出て失敗したように、堀江も選挙に出て失敗した。麻原も堀江も一部知識人に支持された。オウムがロシアから武器を買ったように、ライブドアはロシアから宇宙船を借りようとした。そして、旧世代からすれば、ともに「なぜみんなあんなのにだまされたの?」こそがもっとも大きなナゾだ。

この連想は無責任な思いつきにすぎない。あくまでも冗談だが、とはいえ、そんな連想を働かせると、今年は1995年に相当する節目の年になるという気がしてくる。

熱狂的なデイトレードは、いまの日本社会が構造的に生み出したものだ。同じように、カルトへの沈潜も日本社会が構造的に生み出した。1990年代前半のカルト信者の位置は、2000年代前半の個人投資家へと受け継がれた(誤解のないように言うが、これは別に個人投資そのものがカルトだという意味ではない)。両者はともに、大澤真幸の言葉を使えば、「アイロニカルな没入」で特徴づけられる。だとすれば、かつて宮台真司が「オウムにはまらず終わりなき日常を生きる知恵」を説いたように、今後は「個人投資による一発逆転の夢を見ずに終わりなき日常を生きる知恵」が必要になるのかもしれない。

解離的近代の二層構造論3

動物的/人間的の区別について別の観点から論じてみよう。同時にこれは、明日行われる岩井克人氏・安富歩氏・鈴木健氏との座談会(『InterCommunication』次号掲載)のためのメモでもある。

■ 創発と否定神学

僕はかつて、岩井克人の『貨幣論』を「否定神学的」と呼んだことがある。なぜならば岩井は、貨幣がなぜ成立するかについて、それを「奇跡」「空虚」という言葉でしか表現できなかったからである。ひとが貨幣を使うのは、ほかのひとが貨幣を使っているからにほかならない。ここには循環論法がある。岩井にとって重要なのは、貨幣の起源を問うことではなく、そのような試みが貨幣の奇跡=循環論法を消去してしまうことに抵抗することだ。「貨幣商品説も貨幣法制説も、結局、貨幣という存在の中核にある空虚に耐えることができずに、それをなんらかの実体で埋め尽くそうとするこころみにすぎない」(『貨幣論』、単行本版p.99)。

他方、安富歩は『貨幣の複雑性』において、この岩井の貨幣論に対する有効な反論を展開している。安富は、一対一の物々交換から一般的価値形態(いかなる商品とでも交換できる価値形態)を帯びた商品である貨幣が生成するさまを、コンピュータ・シミュレーションの技法を用いて実証している。岩井の奇跡は、実は奇跡でもなんでもなく、経済主体の効用関数のパラメータを調整することでいくらでも再現可能なのだ、というのが安富の議論である。この議論にはとても説得力がある。

では、どうしてこのような差異が生まれたのだろうか。それは、岩井の思弁があくまでも<貨幣に対する経済主体の主観>から始まるのに対して、安富のシミュレーションが<貨幣を生成させる経済主体群の客観的行動>に基礎を置いているからである。その方法論的差異は、安富自身によって自覚されている。というより、『貨幣の複雑性』はまさにその差異の重要性を訴えるために書かれた書物である。たとえば、安富は第1章でつぎのように述べている。「経済は人々の主観の内部に込められているのではなく、人々の関係に外部化されているシステムである。言いかえれば、各主体の行動原理をいくら深く緻密に観察しても、そのレベルではシステムを理解することができず、経済システムの特性はそのレベルを超えた経済主体の相互関係というレベルでしか考察しえない」(p.25)。

それでは僕たちは、岩井の主観的思弁は間違っていて安富の客観的シミュレーションこそが正しかったのだ、という結論を出すべきだろうか。「主観」「客観」という対立概念を使っていると、ますますそのように感じられる。しかし、それはあまりに単純というものだ。僕たちはむしろ、岩井と安富は相補的だと考えるべきである。もういちど岩井の『貨幣論』を読み直してみよう。そこにはつぎのような一節がある。

貨幣を手にもつ買い手は、商品を手にもつ売り手とちがって、みずからの主観を客観によって訂正するすべをもっていないのである。貨幣が無限の未来まで貨幣であるという期待とは、それゆえ、たんにそのときどきで主観的であるだけではない。それは、未来永劫にわたって客観性が確立されないという意味において、主観的であることを運命づけられているのである。すなわち、貨幣を貨幣として存立させる未来の無限性そのものが、貨幣の貨幣としての価値を支えていくひとびとの期待を必然的に主観的なものにしてしまうのである。(『貨幣論』pp.188-189)

岩井が貨幣の根拠を主体的に考えるのは、それが不可避的にそのような錯覚(主体的な貨幣認識)を生み出すものだからだ。どういうことだろうか。

安富は、貨幣の生成には「未来の無限性」は必要条件にならないことを示した。一定の条件のもとでは、貨幣は頻繁に生成し消滅する。これは岩井の議論への反論に思えるが(そして普通に読めばそうなのだが)、おそらく岩井が考えたかったこととはレベルが異なっている。岩井がこだわっているのは、上の一節で明らかなように、たとえ貨幣そのものが頻繁に生成し消滅するのだとしても、そのような貨幣を人間は「未来の無限性」において捉えてしまう、その錯覚のほうである。

そしてそれは必ずしも錯覚とは言えない。というのも、たとえ貨幣が客観的には頻繁に生成し消滅するのだとしても、それぞれのサイクルのなかにいる経済主体たちは、その貨幣を「未来の無限性」において捉えているはずだからである。つまり、その錯覚は、錯覚であるにもかかわらず、貨幣が存続するための必要条件になっている。貨幣の崩壊は、その錯覚が崩れることによって起こる(岩井が言うハイパー・インフレーション)。社会的現実がその現実の誤認によってこそ支えられる、というこのメカニズムは、ラカン派精神分析が好む説明原理である。ラカン派のマルクス主義者、スラヴォイ・ジジェクはその原理を「For they know not what they do」という一節に集約させている(この一節は彼の論文集のタイトルにもなっている)。

ここにはいささか入り組んだ関係がある。貨幣は創発する。しかし、創発した貨幣は、存続するために、各経済主体に、そのような創発課程を見えなくする否定神学的な認識を埋め込むことを必要とする。貨幣商品説や貨幣法制説が奇跡を見えなくする、というのが岩井の議論だったが、岩井のような否定神学的議論は今度は創発の通俗性を見えなくしてしまう。そして、それこそがまさに否定神学的認識の客観的な役割なのだ。ラカン風に言えば、この消去されるものこそが「trait unaire」だが、実はその痕跡はunaireでもなんでもないわけだ(ここらへんは、かつて『存在論的、郵便的』で行った「否定神学的脱構築」と「郵便的脱構築」の差異と密接に関係している、というよりそれそのものの話である。興味ある読者はそちらを見られたい)。

別の言い方ではこうなる。安富は、シミュレーションの前提として、貨幣が成立する以前には交換そのものが保証されないので、メンガーやマルクスの意味での「商品」は存在しない、すなわち、「貨幣は特殊な商品ではなく、貨幣と商品はひとつの構造の別の側面にすぎない」と述べている(p.72)。つまり、貨幣の創発は、貨幣という媒介機能の創発ではなく、貨幣を特殊な商品に見せかける構造=否定神学的認識そのものの創発を意味している。そして、いちど立ち上がったあとは、その否定神学こそが貨幣を存続させていく。以上から言えるのは、貨幣とはまさに、経済システムを導く創発的−客体的原理と、その構成要素であるエージェントを導く否定神学的−主体的原理の解離的な相互依存(ルーマンの言葉で言えば「構造的カップリング」)が生み出した媒体だということである。

さて、ここまで述べれば、このブログの読者に説明の必要はないだろうが、僕の「動物的原理」と「人間的原理」の二層化の提案は、このような議論の蓄積のうえに組み立てられている。動物的原理とは創発のことで、人間的原理とは否定神学のことだ。もういちど繰り返すが、貨幣は、経済主体が客体的−創発的−動物的原理に基づき、すなわち効用関数を所与の環境で最大化しようとしているだけでは生まれない。いや、正確にはそれでも生まれるのだが、生まれたときにはすでに、それぞれの主体に「未来の無限性」=否定神学が埋め込まれている。この意味において、貨幣は、人間の動物的原理と人間的原理の接点において考えられるべきものである。したがって、岩井と安富は相補的なのだ。

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解離的近代の二層構造論2

昨日の続きを書いてみる。

■ 二層構造論の基盤

二層構造論の背景には、二つの思想の影響がある。

ひとつは、カントのアンチノミー(二律背反)である。たとえば、「宇宙は有限である」と「宇宙は無限である」という二つの命題があるとして、『純粋理性批判』のカントはそのどちらも正しいと言う。この現象がアンチノミーだが、ではどうしてそんなことが起きるのか。それは、人間は物自体を認識できないからである。僕たちは決して現実そのものには到達できない。より正確に言えば、「宇宙」とか「無限」とか言う言葉は(悟性的なものなので)、現実と間尺が合わない。だからこのような矛盾が必然的に起きるのだ、とカントは言う。僕が「動物的人間理解の原理」と「人間的人間理解の原理」の両立を強調するのは、そこに現代のアンチノミーを見ているからである。アンチノミーの無理な統合は、理性的ではない。

もうひとつはプラグマティズムである。カントが物自体について語らなかったように、僕は「人間が本当はなんなのか」については語らない。より正確には、僕たちの科学的な水準では、人間についての言説はどうせアンチノミーに陥る、だからやめておこう、というのが僕の立場である。

むしろ僕が二層構造論で行いたいのは、現代社会を理解するために20世紀の人文・社会科学の成果を活かすとして、それらをどのように組み合わせればもっとも効率がよいのか、その言説的な地図(パラダイム)を提示することである。僕は、「宇宙は有限である(動物的人間理解の原理)」と「宇宙は無限である(人間的人間理解の原理)」の両者をうまく共存させる方法を探りたいと考える。それは大陸哲学よりも、むしろプラグマティズムに近い考え方だ。この態度は、リチャード・ローティから受け継がれた。彼は、大陸哲学と分析哲学をプラグマティズムによって接合しようとした哲学者である。

■ 二層構造論と「政治」

つぎに、二層構造と「政治」について語っておく。僕の仕事にはつねに「非政治的」という批判がつきまとってきた。おそらく、この二層構造論はその最もたるものに見えるはずである。僕が保守なのかリベラルなのか、日本という国家をどうしたいのか、リアルな政治とはまったく関係なさそうな議論だからだ。ではその批判は正しいのか。

結論から言うと正しい。二層構造論は「非政治的」、というより、もっと積極的に「反政治的」である。そしてこれは理論的な必然である。

どういうことか。それは、この二層構造論の枠組みでは、「政治」そのものが、人間的欲望の層における現象のひとつとして相対化されてしまうからだ。その理由は簡単に言うとこうだ。カール・シュミットは、政治の本質は友と敵を分けることだと言った(ここでは「政治」という言葉をこの友敵理論の意味に限って使うことにしよう、フーコー以来のミクロ権力論におけるインフレ化した意味で「政治」という言葉を使うと、もはやすべての行為が政治的ということになり、政治的と非政治的の差異を問う意味がなくなってしまう)。つまり政治の本質は、ある共同体を作り、その内側と外側を分けることにある。しかし僕の理解では、現代においては、社会的な下部構造はそのような共同体を無数に抱えておくプラットフォームとしてこそ想像される(→むかし波状言論の連載で用いた図を参照)。つまり、解離的近代の下部構造は、まさに友敵理論が適用されないところに、適用されるべきではないエリアとして拡がる(鈴木健はこれを「なめらか」と言っている)。したがって、現代で社会秩序の総体を考えるときには、政治の分析は本質的にならない。つまり、二層構造論は、政治的帰結を提案しないどころか、「政治は社会秩序の分析にとって第一のものではない」と結論する理論なのだ。

もっとかみ砕いてみよう。僕はつまりこう思っているのである。21世紀の社会秩序や権力の性質について考えるのならば、小泉について語るよりGoogleやSNSについて考えたほうがいいのではないか。なぜならば、ブッシュや小泉の話題は、もはやあるコミュニティ(ひとつの国家、ひとつのマスメディア)のなかのうわさ話でしかないからだ。いわゆる「政治」の話題の多くは、本質的にワイドショーと変わらない。「だれがこうした」「だれとだれは組んでいる」「だれが黒幕だ」……そんな話ばかりだ。これは、政治の本質が友敵理論にあることからの論理的帰結である。

それよりも僕たちが関心を向けるべきなのは、そのようなうわさ話が上部構造でのシミュラークルに変えられてしまったあと、脱政治的=脱人称的な秩序形成がどのように進化するかだ。その点から考えると、いまの技術の延長線上に、膨大な官僚組織を維持し、数年に一度の選挙で議員を選び、その「選良」たちが合議制で国家を運営するという旧態依然としたシステムそのものが、ドラスティックに変わる可能性が見えてくる。そこでは社会秩序の中核は、いま世の中で言われている「政治」なるものとは無関係に決定されていくことになるだろう。僕としては、そちらについて考えるほうが、一見「非政治的」「反政治的」に見えたとしても、はるかに政治的だと思う。

多少先走って言えば、議員もいない、選挙もない、新聞の政治欄もない、あらゆる国民は自分の関心事にしか興味がない、そのような世界で「ラジカルな民主主義」(ラクラウ+ムフ)がどのようにして可能なのかどうか、というのが僕の中心的な関心事である。そのときでも、もしかしたら「まつりごと」としての政治は残るのかもしれない。そして僕たちは相変わらず、政治家のスキャンダルや派閥争いを注視しているのかもしれない。しかしそれは、mixiで友人の日記を読み、ワイドショーで有名人のうわさ話に耳をそばだて、サッカーでナショナルチームの勝敗に一喜一憂するのとあまり変わらないレベルの現象になるだろう。というより、僕たちはそのような脱政治的な社会を目指すべきだ。社会秩序の運営をひとつの閉鎖的なコミュニティに全面的に委託してしまう(間接民主制というのはそういうものだ)のは、単純に危険だからである。これは二層構造論の積極的帰結のひとつである。

なお、以上のような意味で『動物化するポストモダン』はきわめて非政治的かつ反政治的な書物であり、僕はそこが気に入っている。他方、「情報自由論」が単行本化されなかったのはそれがあまりに政治的に見えたからである。そもそも僕が『存在論的、郵便的』を書いた動機は、1980年代の「倫理的転回」以降、政治的にばかり読解されているジャック・デリダを理論的に「救う」ことにあった。この点において、僕は一貫して「非政治的」あるいは「反政治的」な書き手である。こんなことを言うとまた批判されそうだが、これは僕の思考の基盤そのものなので仕方がない。

■ 補足:カール・シュミットについて

以上の議論に対して、「戦争」「暴力」の問題はどうなんだ、という反論がありうるかもしれない。シュミットの議論では、政治=友敵の区別は戦争(他者の存在論的否定)があるからこそ必要とされるということになっていたので、これは当然の疑問だ。

これに対する僕の答えは、今後の社会秩序は友敵の区別を必要としない環境管理型権力によって維持されるはずで、それは実際にセキュリティの全面化というかたちで試みられている、というものである。シュミットは国家間の戦争だけを意味するわけではなく、「内敵」についても語っていて、それはセキュリティの話にも近い。しかし、セキュリティは、理念的には、戦争というよりむしろ免疫システムの構築に近いものとして実現されるべきである。だとすれば、脱政治的な方法で暴力の管理はできるはずだ。

シュミットの読者はそれにも疑問を感じるかもしれない。『政治的なものの概念』の最後は、まるでいまのテロ対策やイラク戦争を指すかのように、非政治的な外見をまとった友敵区分の再来について論じている。「対抗者はもはや敵とは呼ばれず、その代わりに、平和破壊者・平和攪乱者として、法外放置され、非人間視される。[……]しかし、このいわゆる非政治的な、さらには一見反政治的でさえある体系は、既成の友・敵結束に奉仕するか、さもなければ新たな友・敵結束にいくつくものなのであって、政治的なものの帰結からのがれることなど不可能なのである」(邦訳p.102-103)。この現象は、まさにいま起きていることである。9.11以降、テロ対策は新たな友敵区分の礎として使われ続けている。だとすれば、以上の話はすでにシュミットによって反論されているのではないか。

確かに、9.11以降の現実では、セキュリティの強化は友敵区分を再興するだけのように思える。しかし、本当にそれは必然なのだろうか。シュミットは、情報技術が可能にする精緻な環境管理型権力、たとえばユビキタスやバイオメトリクスについては知らなかった。したがって、内敵の排除のためにイデオロギーを使うことしか考えられなかった。ここに出発点の差異がある。僕は、情報技術を駆使すれば、セキュリティの確保を友敵区別の再構築から引き離すことは、可能なのではないかと思う。というよりも、環境管理型権力の概念は、まさにそういうものとして考えられている。

解離的近代の二層構造論

明日のisedのために鈴木健さんのblogを読んでいる。それで刺激を受け、以下メモっておく。blogは本来こういうために使うのだ、ということを久しぶりに思い出した。

鈴木健はblogの「XMLの文体と新しい社会契約論(4)」のなかで、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の構造がXMLに似ていることを指摘し、「ウィトゲンシュタインが生きていたら、嬉々としてアウトラインエディタを使ったことだろう」と記している。彼自身分かっていると思うが、この指摘はミスリーディングだ。なぜならウィトゲンシュタインは、周知のように、晩年『論理哲学論考』とはまったく異なったスタイルの哲学を展開するからである。したがって、鈴木の指摘は、正確には、「もしウィトゲンシュタインが若いころのままで生きていたら」となるべきである。

さて、なぜこんな細かいことを指摘しているかというと、それはここに意外と本質的な問題が隠れているからだ。ウィトゲンシュタインは、前期と後期でまったく異なったコミュニケーション観・言語観を提示した。前期の言語観がXMLに似ているとすれば、後期の言語観はむしろフランス現代思想の言語観に似ている。僕の専門だったデリダは、その代表格の哲学者である。後期ウィトゲンシュタインとデリダは、ともに、ある言明の意味の明確な確定は絶対に不可能だと結論づけた。それを信じるならば、日常言語をXML化することは原理的に不可能だということになる。

この二つの言語観、というよりコミュニケーション観は、20世紀の哲学を大きく二分してきた。直観的にはそれは理系と文系の違いのように感じられるが、必ずしもその学部的分割とぴたりと一致しているわけではない。むしろ、その二つは、20世紀の最後の30年間、世界中のあちこちで試みられてきた文理統合の基礎の座こそを競いあってきたものだと言える。たとえば、精神分析や社会学は、後期ウィトゲンシュタイン的言語観から発達心理学やシステム論を取り込もうとしてきたし(ラカンやルーマン)、逆に認知科学やゲーム理論は前期ウィトゲンシュタイン的言語観に基づいて人文的秩序を説明しようとしてきた。その争いには決着がついていない。

それで、僕がこの数年ずっと提案し続けているのは、僕たちはその両者の統合を単に諦めるべきだということである。これはばかみたいな提案に聞こえるかもしれないが、けっこう深い。

というのも、その統合への強迫は、近代の人間観の中核そのものだったからだ。近代哲学、たとえばヘーゲルにおいては、人間は即自存在から絶対精神への上昇過程の中間形態だと考えられている。ハイデガーなら、存在者と存在のあいだ(現存在)と表現する。これは簡単に言いかえれば、近代ヨーロッパ人たちは、人間とは動物的要素と精神的要素(人間的要素)が結びついた存在だと考えてきたということだ。そして近代哲学は、この共存を説明するためにいろいろ手練手管を使ってきた。しかし、それは実は無駄な努力なのではないか。僕たち人間は、ただ単純に、動物的レベルでの行動原理と人間的レベルでの行動原理の「解離」に悩まされている存在で、その両者をどちらかの論理で統合的に説明しようとするのは間違いなのではないか。これが僕の考えだ。

人間を説明するうえで、動物的レベルと人間的レベルをきっちりと分け、別々の原理で説明すること。そしてたがいの越権を許さないこと(たとえば、恋愛のディスクールをゲーム理論で説明しようとするような乱暴さを、そして逆に流行の推移に過剰な物語を付け加えるような深読みを許さないこと)。それは別に非科学的な態度ではない。物理学者は物理学の、生物学者は生物学の原理でそれぞれの対象を分析しているのであって、いたずらにその両者を統合しようとはしない。僕の提案は、人文科学や社会科学においても、それと同じレベル分けを導入しようというものだ。

さらに付け加えると、その区分は、理論的に有効だと言うだけではなく、現代社会を理解するうえで実践的にも重要だと言える。というのも、いささかややこしい話になるが、フーコーが明らかにしたように(あるいはギデンズが「再帰的」という言葉で言っているように)、人間に関わるあらゆる知的言説はその時代の社会の構造的な反映を逃れられないからだ。分かりやすくいえば、近代哲学が動物的レベルと人間的レベルの統合を目指してきたのは、近代社会がそのような統合を前提として社会秩序を組み上げてきたからだ(ポストモダニストの「人間の消滅」という言葉は、この統合の消滅という風に理解すべきだ)。そして同じように、ここで僕がその統合の廃棄を提案しているのは、現代社会がすでにそれを廃棄して動き出しているからだ、ということになる。つまり、動物的レベルと人間的レベルの解離は、すでに僕たちの社会のなかで進んでいることなのだ。というわけで、それを導入したほうが社会の理解もスムーズに進む。

そしてその理解は、僕たちがこれから社会を運営するうえで、人間の動物的原理に注目すべきなのか、人間的原理に注目すべきなのか、という問題に深く関わっている。むろん、答えはそのバランスで、ということになるのだが、問題はその具体的な境界だ。僕たちはこれから、人間の動物的管理をどこまで進めるのがいいのか(たとえばRFIDやGPSのような管理技術)、人間の人間的コミュニケーションをどこまで拡大するのがいいのか(たとえばSNS)、その仕分けをしなければならない。あらゆる社会行動をXMLで置き換えられると考えるのは間違いだし、逆に「繋がりの社会性」だけですべての現象を説明するのも誤りだから、僕たちはその両者の境界を画定しなければならない。

さて、以上の前提のうえで理論的な話に戻ろう。では、それら「動物的レベルでの人間理解の原理」と「人間的レベルでの人間理解の原理」には、それぞれどのようなものがあるのだろうか。

ここで、作業仮説として、僕たちの社会生活の総体を「動物的レベルの人間理解の原理が適用されるべき層」と「人間的レベルの人間理解の原理が適用されるべき層」の二つに分けることを提案しよう。それが、僕がこのエントリのタイトルにした「解離的近代の二層構造論」である。

この議論は「動物化するポストモダン」と「情報自由論」でも予告的になされているが、まだほとんどまとまって話したことがない。とはいえ、isedの議論ではしつこいほどに繰り返したので、その読者には親しまれているかもしれない(→isedキーワードでの二層構造論の解説)。いずれにせよ、その理論について多少まとまって書いてみよう、というのがこのエントリ(とこれから続くかもしれないエントリたち)の主旨だ。

……といったところで、多少投稿が長くなりすぎたようだ。このままだと明日の準備ができない。今回はここで止めて、以下、その二つの層を分けるキーワードだけ表にして記しておく。なお、「解離的近代」は僕の造語で、これから「ポストモダン」のかわりに使おうかと思っている言葉である。それについてもまた後日説明しよう。

動物的原理の層 人間的原理の層
情報 意味
環境管理 規律訓練
身体 主体
XML ecriture
媒介の消滅 媒介の増殖
ひきこもり つながり
参照 解釈
監視 自由
secure care
ゲーム 物語
ゲーム理論 「言語ゲーム」
計算的理性 討議的理性
データベース コンテクスト
認知科学 精神分析
プラットフォーム コミュニティ
メタユートピア ユートピア
リバタリアニズム コミュニタリアニズム
偶然性 必然性
可能世界 固有名
流動性 伝統
消費 欲望
再生産 セクシュアリティ
winny mixi
プログラムとデータの越境 解釈するものと解釈されるもの
創発 能動と受動
アフォーダンス 用具性

波状サイトリニューアル

続けて告知です。波状言論のサイトをリニューアルしました。本サイトやhiroki azuma portal とデザインを統一しました。

http://www.hajou.org/

また、『波状言論』cd-romのサンプルページも作成しました。内容の一部を読むことができます。『波状言論S改』は『波状言論』のごく一部にすぎません。同書に惹かれた読者は、ぜひ本誌のほうも手にとってください!

http://www.hajou.org/hajoucd/sample/

P2Pインフラ研究会

こんにちは。ハワイから無事帰国しました。

今週末はいよいよ鈴木健講演によるisedのグランドフィナーレですが、僕の研究室ではまた別の研究会を立ち上げました。こちらは山根信二さんがディレクターです。第1回のみ公開セミナー形式で、ここでも告知しておきます。テーマはずばりWinnyです。

http://www.glocom.ac.jp/j/news/others/index.html#010224

興味のあるかたは、GLOCOM事務局までお問い合わせください。

ハワイ

hawaii.jpg

こんにちは。ひきこもり実践の第一歩として、まず家族でハワイにやって来てみました。嘘くさい写真ですが、本当に来ています。アロハも買いました。

ハワイといってもオアフ島ではなくハワイ島です。火山地形が想像以上に雄大ですばらしいところです。乳児連れなどものともせず、ドライブ、火山観光、シュノーケリングと満喫しています。娘も海に入りました。

SFM創刊号

新年の挨拶にでかけ、義父の小鷹信光氏より、SFマガジン創刊号ほか10冊ばかりをいただきました! すごすぎる!

謹賀新年:今年の抱負

あけましておめでとうございます。東浩紀です。

先日は年の瀬の押し迫るなか、コミックマーケットのブースにご来場いただき、ありがとうございました。

今回は新刊もないのでお客さんも少ないだろうと思っていたら、意外と多く、無料配布のコピー誌も午後早々に品切れになってしまいました。1時過ぎより友だちや関係者のみなさんが挨拶に来てくれたのですが、ほとんどの方にはコピー誌をお渡しできませんでした。せっかくオタクグローバリズム批判を書いたのに、更科さんにも渡せませんでした。その直前にいらっしゃた桜坂さんには、表紙に「これは見本です。コピー誌は品切れました」と書いた最後の1冊を手渡す羽目になりました。いやほんと、すみません。

さて、新年らしく抱負を語るとします。2005年は僕にとって(娘が生まれたという意味を超えて)区切りの年でした。

いま僕の仕事には3つの重心があります。ひとつは商業出版を舞台にした著作活動。ふたつめはGLOCOMで行っている情報社会研究。みっつめは波状言論の名前でやっているオルタナティブなオタク系評論です。

この3つは密接に繋がっているのですが、やはり重点の差異はあります。そして、2003年から2005年にかけての3年間、僕は商業出版での著作から身を引いて、後者2点の活動ばかりに力を入れてきました。ほぼ唯一の例外が『ファウスト』での連載ですが、それも波状言論の活動とかなり被さっていました。

2003年に僕は『網状言論F改』を出版し、GLOCOMに入り、「情報自由論」の連載を終えました。その夏にはてなの盛り上がりがあり、同時に『ファウスト』が創刊されました。そして年の終わりに『波状言論』を創刊しました。2004年の僕の仕事はオタク系に偏っており、2005年は情報社会論系に偏っているように見えるかもしれませんが、内容的には、2003年12月に始まった『波状言論』は2004年10月からの「ised」とシームレスに繋がっています。そして、片方に情報社会論/GLOCOM、もう片方にコミケやライトノベルを睨みつつ過ごしてきたその3年間の最後の総まとめのイベントが、去る12月25日に紀伊國屋ホールで行われたシンポジウムだったというわけです(正確にはisedはあと1回だけ残っているのですが)。

2003年から2005年までの3年間は、僕にとって「場作り」の期間でした。僕は1990年代半ばから、現代思想とネットとオタクの話題を統合するような新しい言説空間こそが必要だと考えていました。『批評空間』で連載を書きながら、サイバースペース論やエヴァ論を書いていたのはそのためです。そして僕は『動物化するポストモダン』以降、その目標を実現するためには商業出版に頼ることはできないと判断して、手持ちのリソースを活かし、批評家というよりもむしろ活動家として動き始めました。『波状』でも「ised」でも司会やインタビューアーばかり行ってきましたし、いくつかの雑誌の企画にも協力しました。この3年間、僕は、自分自身の仕事を発表するというよりも、こちらとあちらを繋げ、紹介し、新しい言説のネットワークを作り出す媒介者の役割ばかり担ってきたように思います。これほど社交的になったのは生まれてはじめてです。

そしてそれは一定の成果を生み出しました。ネットでの論争や文学フリマの盛況を見るかぎり、「現代思想とネットとオタクの話題を統合するような新しい言説空間」はすでにかなりの強度をもって立ち上がっており、あとは出版への進出を待つだけになっているように思えます(そのような環境の変化のなかで、僕自身、商業出版から身を引く必要を感じなくなってきました)。12月25日のシンポジウムのタイトルは「ゼロ年代の批評の地平」でしたが、僕たちはいまおそらく、1980年代のニューアカブーム以降、ほぼ20年ぶりの大きな批評的パラダイム転換に居合わせている。そしてその流れは、もう止まることはないでしょう。あと数年すれば、批評の世界は大きく塗り替えられる。僕はその転換において積極的な役割を果たせたことを、嬉しく思っています。それは、硬直した現代思想や批評的想像力を復活させるために必要なことでした。

しかし、そのような活動の結果として、僕はかなり疲れることになりました。その「新しい言論空間」のなかで見えてきた醜い人間関係にも疲れているし、それ以前に活動家や媒介者の役割にもうんざりしている。ひとことで言うと、僕はもう、年下世代の背伸びに付き合いたくないし、同世代の仕事を司会やインタビューアーとして受け流したくもないのです。時代の先端などどうでもいいし、他人がなにを考えているかもどうでもいい。僕はいま、ただ単純に、自分の言葉で、自分の思想をストレートに語りたいと感じています。12月25日には、そのような疲れと焦りがはっきり出ていたと思います。

それは『波状』や「ised」の成果を否定することを意味しません。むしろまったく逆です。12月17日に三省堂本店で行われたインタビュー形式のトークショーで、福嶋亮大氏が「東さんの思想はこの2年で大きく変わっている」と指摘してくれました(ちなみにこの対話は僕がいままで受けたインタビューのなかではずば抜けて質が高かったので、どこかで活字にするか、どこも出版してくれないのであれば夏コミまでに自費出版するつもりです)。この指摘は正しい。『波状』と「ised」での経験は、僕の思考や話し方の土台を大きく変えてしまった。だからこそ、それを世に問いたいのです。

僕はむかしから、自分はコミュニカティブになるべきだと思ってました。僕はもともと引きこもりがちで、人間嫌いだったからです。しかし、2003年から2005年までの3年間で、その強迫観念からは解き放たれたように思います。僕はこれ以上コミュニカティブになっても仕方ない。いや、むしろ最近の僕の問題は、目的もなく過度にコミュニカティブであることです。コミュニケーションが僕を蝕んでいます。

というわけで、僕は2006年は、2005年までとは異なり、どちらかというと引きこもります。そして他人の欲望の媒介者になることを止め、自分の考えを孤独に深める方向に邁進していきたいと思います。その結果、読者の一部(最先端のラノベ評論を期待しているひとや、宮台真司や大塚英志との新論壇プロレスを望んでいるひと)は離れるかもしれませんが、もうそんなのは知ったこっちゃない。そういう読者は、僕より若いひとの文章を読めばいいと思います。どうせそちらのほうが新鮮です。

僕も今年は35歳。そろそろ本気にならないとまずい。12月25日は「それで東さんはなにをやりたいの?」と斎藤環氏と切込隊長氏から繰り返し聞かれましたが、とりあえず僕がやりたいのは、ポストモダン/二層構造的現代社会の行く末を指し示す強力な理論を作ることです。そのための時間はあまり残されていません。

……というのが今年の抱負なのですが、あまりに抽象的かもしれません。具体的には、とりあえずつぎのようなプロジェクトが動いており、前半はこれらが軸になる予定です。

・「動物化するポストモダン2」(講談社現代新書)出版
・濱野智史氏と共著で「情報社会思想入門」出版
・北田暁大氏ほかと共著で「東京論」出版

このほかに、批評ではない秘密の企画もあるのですが、それはまた別の機会にお知らせします。


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