kajougenron : hiroki azuma blog
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ここは、批評家・東浩紀が運営するブログサイトです。東浩紀の経歴や業績については、当ブログの親サイトに情報があります。hiroki azuma portalをご覧ください。
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blog entries at 【2006年08月】
少し記事を訂正
カテゴリー[critique]投稿日時: 2006年08月31日09:33
こんにちは。昨日、CEDECで講演を行ってきました。
その記事がITmediaさんで出ています。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0608/30/news096.html
よくまとまっている記事なのですが、ひとつだけ訂正を。
記事中に「「『最果てのイマ』(2005年)でテキストを囲むテキストボックスが採用されたことが、ここ10年で最大の変化」と東さんは冗談交じりで語る。」という文章がありますが、むろん、みなさんご存知のとおり、テキストボックスはけっこう前より存在し、別にこの作品で発明されたものではありません。
おそらく、僕の言い方が悪かったのでしょう。「冗談まじり」あたりがよくないのですね。ライターさんに誤解を与え、すみません。
ところで、それはそれとして、CEDECのこの講演、僕的にはたいへんアウェイな雰囲気で、短いながらけっこう緊張しました。パネルディスカッションには芝村裕吏さんもいて、恐縮するばかりです。そもそも、僕は芝村さんがいらっしゃるとは聞いてなかったのです。芝村さんの前で「ゲーム性」とか言いたくないって!
【追記】
該当記事のはてブのコメント欄やそのほかの反応を見ていて、補足したくなったので追記。
該当記事でも明らかだと思うのですが、僕は「美少女ゲームはゲーム性が高い(あるいは低い)」とか、「美少女ゲームからゲーム性を捉え直すべきだ(あるいは捉え直すべきではない)」とか言っているのではなく、「一方に美少女ゲームをゲームだと思っているひとが多く、他方に美少女ゲームはゲームじゃないと言っているひとが多いみたいなので、まずその状況について考えてみよう」と言っているだけです。僕はこの講演では、ゲーム性とはなにかについて、まったくなにも語っていません。むしろ、「ゲーム性」について神学論争をしてもしかたないんじゃないか、みんながゲームだと言っているんだからそれはゲームなんじゃないか、というのが僕の暗黙のメッセージです。
ただ僕としては、そこで「みんながゲームだと言っているんだからそれはゲームなんじゃないか」は別に終着点ではなく、そういう状況こそ思考の出発点になるんだよ、と言いたかったわけです。なぜならば、言葉の定義をめぐる論争や齟齬は、一見不毛なように見えて、実は消費者共同体の分化やメディア/市場の変化を反映していることが多いからです。「ゲームとはなにか」に対する回答は無数にあるでしょうが、それは決して「ゲームとはなにか」が空しい問いであることを意味するのではなく、むしろその多様性からユーザーの状況が見えてくる。言葉の闘争は、しばしば文化のダイナミズムの指標になります。
そういう観点で見ると、ここ10年くらいの美少女ゲームの進化(退化?)は実に興味深いのではないか。そこからは、「ゲーム性」という言葉がもはや単体としての作品の性質を指すものとして使われていない状況が浮かびあがるのではないか。そしてさらに、それを分析してみると、僕たち(これは美少女ゲームのユーザ以外も含めて)がいま直面している物語的想像力の変化やユーザコミュニティの変化が見えてくるのではないか、というのが、僕の言いたいことでした。
ちなみに、当日用いたpptはほとんどこちらで撮影されています(笑)。
http://plusd.itmedia.co.jp/games/articles/0608/30/news083_2.html
またもうひとつ、補足します。僕は、狭義の美少女ゲーム(ノベルゲーム)で恋愛アドベンチャーゲームを代表させるつもりはまったくありません。僕はゲームの専門家ではないので、PCゲームや恋愛アドベンチャーゲームの全体について語る資格も意図もありません。
そもそも僕には、批評家として、ゲームの歴史ともオタクの歴史ともまったく違う別方向の関心があって、「『雫』以降の、テキスト-立ち絵型インターフェイスに依存したシナリオ分岐型恋愛アドベンチャーゲーム」はその点で引っかかるので、よく話題にするというだけの話なのです(とはいえ、こと美少女ゲームについてはけっこう真面目に調べているので、そんなにまちがったことは言っていないつもりですが)。そして今回は、主催者側がまさにそのことを話してくれというから、話しに行きました。
僕は「いやー、僕なんかに講演させるのはやめたほうがいいです、そもそも僕、PCゲームよく知らないし! マックユーザーだし!(笑)」と言ったのですが、「美少女ゲームの話こそしてもらいたい」と言われたのでこういう講演をさせてもらうことになったのです。PCゲーム全体について語るためには、当然のことながら別のフレームが必要でしょう。でもその点が、記事だけ見るとひっかかるのかもしれませんね。
というわけで、当日も会場で再三繰り返したのですが、僕のゲーム観はとても狭く、おまけに変わっていて、また自分でもそれはよくわかっているので、そういうものとしてカッコに入れて読むことをお勧めします。そもそも研究とか批評って、そんなものなのです。
最近の仕事200609
カテゴリー[recent works]投稿日時: 2006年08月29日12:46
■印刷媒体
・「知への信頼と日本的情緒」
小松左京著『SF魂』(新潮新書)への書評
『論座』10月号、朝日新聞社
・「(題未定)」
稲葉振一郎との対談
『InterCommunication』no.58
NTT出版
■ネット
・「(題未定)」
神足祐司との対談(全2回)
podcasting
アキバ系!電脳空間カウボーイズ
・「ギートステイト制作日誌」
桜坂洋、鈴木健との共同連載:ブログ形式
CNET Japan
■講演など
・「環境知能シンポジウム2006」
石黒浩、竹内郁雄、下條信輔などとのシンポジウム
NTTコミュニケーション科学基礎研究所主催
2006年9月22日13:30-17:20
原宿クエストホール、東京都神宮前
→参考登録などはこちら
■そのほか
・『Campus Scope』2006年秋号のインタビューに答える。
コンテンツ産業の開発業者化
カテゴリー[critique]投稿日時: 2006年08月28日14:43
「アテンション・エコノミー」という言葉がある。僕の専門ではないので誤りがあるかもしれないが、デジタル技術の発達によって情報財の複製コストがゼロになり、価値が希薄化する一方で、情報に対する注目(アテンション)は有限なので、相対的に稀少化する。したがって、希少資源である「アテンション」が、情報財にかわって価値の基準になるという考え方だ。
これは「売れた作品が勝ち」という単純な話ではない。むしろ、知的財産が今後どのように経済に組みこまれるか、という原理的な話に関係している。
2006年の現在ではまだ、情報財の交換そのものが利益を生むような工夫(DRMなど)がいくつか試みられている。しかし、デジタル情報の本質上、その徹底には無理がある。すべての情報がデジタル化された世界では、ひとびとは情報に対しては金を払わないか、あるいは払うとしてもきわめて小額になるだろう。では利益はどこから生み出されるかと言えば、「その情報を使ってだれがコミュニケーションをしているか」という物理的な現実からというわけだ。この図式はとても説得力がある。
と同時に、僕のようなコンテンツ業界の端にいる人間にとっては、これはいささか憂慮すべき事態のようにも見える。この話は、将来のコンテンツ産業においては、DVDを売る(情報財を売る)のではなく、まず無料で作品をばらまいて、そのあと「その作品を使ってコミュニケーションする人々」に課金するような、そういうビジネスモデルが優勢になることを意味している。そして、検索連動型広告のように、そのような小額課金が可能な新たなプラットフォームがいま続々と提案されつつある。
しかし、これはなにを意味しているだろうか。
■
その意味するところは、おそらく、クリエイターの「地主」化、コンテンツ産業の「デベロッパー」化である。
アテンション・エコノミーの説(の僕の理解)によれば、情報財は、《それそのものは富を生み出さないがその利用によって人々が富を生み出すもの》である。私たちは、これに近い歴史的なアイテムを知っている。それは「土地」である(*)。土地は、それそのものでは(本来は)富を生み出さないが、そのうえで作物を作ったり、そのうえに商店を建てたりすることで富を生み出す。
その比喩でコンテンツ産業について考えてみよう。最近までのコンテンツ産業の状況はこのような感じだ。クリエイターは土地(作品生産の権利)をもっている。クリエイターは、その土地が生み出す作物(作品)を売買して生計を立てている。いい作物は売れるので、いいクリエイターは多少お金もちになる。
しかし、アテンション・エコノミーの説を取ると、その状況はつぎのように変わると予測できる。クリエイターは土地(作品生産の権利)をもっている。クリエイターはそこで作物(作品)を作ることができるが、最近発明された「フード・レプリケイター」(複製技術)のせいで、作物の販売価格は急速に下がっている。そもそも、作物はいま世界に溢れており、希少性がない。
そのため、今後のクリエイターは、最初だけ作物を作り、土地に商品価値が出たあとは、むしろ土地を開発業者に貸したり売ったりようになるだろう。開発業者はもはや作物は作らない。作物の生産は経済的にわりに合わないからだ。彼らはかわりに、畑を潰して、宅地を造ったりショッピングセンターを作ったり(その土地=作品を使ってコミュニケーションする人々に課金するシステム)、あるいは事前に高速道路の設置計画を入手して高額で売り抜けたりする。その経済には、土地の農業生産力はいっさい関係がない。そこで求められるのは、「この土地がどれだけの生産力をもっているか」(情報財の希少性)の分析ではなく、「この土地をどれだけ多くのひとが欲しがっているか」(アテンションの希少性)の分析である。
実際に、いまのコンテンツ産業を見ると、以上の変化は現実になりつつある。おそらくは、それは資本主義の必然でもあるのだろう。しかし、僕個人としては、そのような動きはあまり好きになれない。僕は作物が好きだからだ。
そして、実際にはデベロッパーの富を増やす話をしているだけにもかかわらず、それが同時に作物の質的な向上に結びつくかのように論じている議論にも、苛立ちを覚える。
土地の値段があがったからといって、またそこに建てたショッピングセンターがはやったからといって、そこから採れる作物がうまくなるわけではない。多少とも作物の質に興味があるのであれば、そこはごまかされないように注意する必要がある。コンテンツ産業や知的財産権に関する議論には、残念ながらその種のごまかしが多い。
(*)正確にはここでは、土地と情報財を比較するのではなく、土地=知的財産権、その生産性(土地の使用価値)=情報財/コンテンツ、その経済的価値(土地の交換価値)=アテンションという比較になっている。むろん、この比較にはいろいろな限界がある。そのもっとも大きなものが、土地はそれそのものとして存在するが、知的財産権は作品があってはじめて存在するという点である。生産の順序からすると、土地→農作物ではなく、知的財産権←コンテンツと矢印は逆だ。したがって投機のメカニズムも変わってくるのだと思うが、そこからさきは僕は専門ではないのでよくわからない。
ポンコツ少女
カテゴリー[zatsudan]投稿日時: 2006年08月22日03:10
動ポモ2で壁にぶちあたって頭がぼおーっとしているので、ユルいエントリを。
友人の編集者の好意で、なぜかうちには、毎週『ヤングガンガン』が送られてきます。読んでいると愛着が出てくるもので、いつのまにかだいたいの連載は追っていて、うち3つほどは単行本も揃えるようになっているのですが、そんななか、ある連載のキャラクター紹介に「タコス好きのポンコツ少女」という一節が出てきて、ぐっと心を掴まれました。
ポンコツ少女! いまひとつ自分の萌えポイントがよくわからなかった僕ですが、これこそそれなのかもしれません。
さっそく「ポンコツ少女」でググってみたのですが、わずか14件のヒット。ツンデレと同じような巨大勢力に育ってくれないものか……。
ところでその連載ですが、萌え少女だらけの主人公の麻雀マンガで、展開すれば面白そうなのだけど、なかなか茨の道な感じのコンセプトの作品です。成功とポンコツ少女の活躍を祈ってます。
【翌日の追記】
あるブログで「ポンコツ少女は萌え界の一大勢力でありgoogleで35000件以上ある」という記述を発見し、実際に検索してみたら確かにそうでした。すみません。
いったいなにが起きていたのか? 僕はそのとき念のため2回検索していたのだけど、8/22の午前3時ごろにグーグルのサーバでポンコツ少女に関するなにかがあったのだろうか? まあ、とにかく、ポンコツ少女がメジャーなようでよかったです(よかったのか?)。
ギートステイト制作日誌
カテゴリー[misc]投稿日時: 2006年08月17日21:06
ギートステイト制作日誌、始まりました。ここです。
ひぐらしのなく頃に
カテゴリー[critique]投稿日時: 2006年08月15日18:30
こんばんは。東浩紀です。
みなさん、コミケはいかがでしたでしょうか?
さて、僕のほうは、昨日と今日、仕事そっちのけで(というより「これが仕事だ」と言い聞かせて)、『ひぐらしのなく頃に』の最終話「祭囃し編」をプレイしていました。数時間前、本編の全テクストを読み終えたところです、「クリアしました」よりそちらの表現のほうが適切でしょう。
「罪滅し編」「目明し編」ですでに確信していたことですが、あらためて完結したので言うと、この作品はたいへんな傑作だと思います。アニメ化やマンガ化など、メディアミックス展開のほうは僕は追っていないので、そちらがどうなっているかまったく分からないのですが、とにかくこの原作はすばらしい。
『ひぐらしのなく頃に』は、いくつかの理由で美少女ゲームの進化(多くのひとはそれを「奇形化」と捉えるでしょうが)の先端にあると言えます。たとえば、ノベルゲームという形式を選んでおきながら、ゲーム性を徹底して放棄しているデザインがそのひとつです。しかしここでは、内容に注目したいと思います。というのも、この作品もまた、まさに、先日の『時をかける少女』のエントリーで記した「リセットできる世界の一回性」のテーマを追った作品だからです。
……といったところで細かい分析などしたいところなのですが、美少女ゲームのユーザーはネタバレに妙に敏感なので(といっても、今回はもうそんなに気をつけるべきところはない……と思いますが)、現時点ではさすがに遠慮しておこうと思います。かわりに、僕が『ひぐらし』に触発されて思いついたことを書きとばしてみます。
わからないひとはわからないと思いますが、その場合は読み飛ばしてください。これは自分向けのメモみたいなものです。
■
僕のオタク体験の出発点は、押井守の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』にあります。13歳で出会ったこの作品が忘れられなくて、僕はいままでオタクをやっているようなものです。
さて、『うる星2』の基本的なテーマは、思春期特有の世界からの疎外感というか解離感(すべては虚構かも?といった感覚)と、繰り返される時間と流れていく時間の相克でした。僕たちは学校というテーマパークのなかに閉じこめられているが、その外に出るためには、すなわち大人になるにはどうしたらいいだろうか、というわけですね。それで押井は、「外になんて出れない」と答えたわけです。
これはごく一般的なテーマですが、押井の独創はそこに、大塚英志がのち「まんが・アニメ的リアリズム」と呼ぶようなサブカルチャー的なリアリティを絡めたところにあります。その結果、押井のテーマは、僕たちは成長を拒否するキャラクターのテーマパークに閉じこめられているが、その外に出るには、すなわち現実に出会うにはどうしたらいいだろうか、というかたちへと変形されることになりました。実際、この問いは『紅い眼鏡』だか『トーキング・ヘッド』だかで明示的に語られていたと記憶しています。
僕の出発点はそのような作品にあったので、僕はオタクたちの作品を見るとき、つねに上記のテーマを念頭に置いてきました。キャラクターの世界から出発して現実に到達するにはどうすればよいのか、それが僕の作品評価の大きな基準だったわけです。この点で、実は僕には『エヴァンゲリオン』も『AIR』も『うる星2』の後継者のように見えていました。メタフィクションが好きなのもそのせいです。
それで、なにが言いたいのかというと、先日『時をかける少女』を見、今回『ひぐらしのなく頃に』の完結も見て、この両作品においては、同じ『うる星2』の問題意識が継承されながらも、その処理の方法が大きく変わりつつあるという感触を抱いたのです。
では、どう変わったのか。印象論で言うならば、閉域(繰り返される日常=悪夢)からの脱出方法が、メタフィクション的にメタレベルに向かうものではなくて、なんというか、ゲーム世界からプレイヤー世界に移行するような感じへと変わっている。「どんな選択をしても等価だ、世界は無数に並列しているんだ」というシニシズムを突破するとき、『うる星2』が最終審級を探す旅に向かうとすれば、『時をかける少女』や『ひぐらしのなく頃に』では、最初から「この世界の審級」と「プレイヤーの審級」が区別されていて、だから虚構(閉域)も現実(外部)も同時に肯定されるような、そんな世界観が導入されている。さらに言いかえれば、現実と虚構の関係を理解する枠組みとして、『うる星2』においては入れ子構造が採られていたけれど、『時をかける少女』や『ひぐらしのなく頃に』では、キャラクターレベルとプレイオヤーレベルの二層構造が採用されている、とも整理できる。その二層構造は、SFでは、P・K・ディックや神林長平の作品に先駆的に現れていたものですね。
うーん、うまく言えません。こんな印象論を並べてもなにも伝わらないと思うので、この話はもう止めます。
とにかく、『うる星2』は単なるメタフィクションでゲーム的リアリズムの作品じゃなかったけど、『時をかける少女』や『ひぐらしのなく頃に』はゲーム的リアリズムの作品で、そこにこの22年間の差が現れているとともに、なにか大きなパラダイムチェンジを感じる、この夏はそういう作品に2つも出会えてよかった、というのが僕が言いたいことです。ゲーム的リアリズムの話は、『動ポモ2』で少しは整理されるはずです。
■
『ひぐらしのなく頃に』は傑作でした。僕の読者には、美少女ゲーム好きと同じくらいに、美少女ゲームに嫌悪感を示すひとが(オタクのなかにも)多いと思います。『ひぐらし』は、普通の意味でのゲーム性がまったくなく、キャラクター間の漫才会話がやたらと多いという二点で美少女ゲームの極北であり、おまけにイラストもたいへん個性的なのでとくに取っつきにくいと思いますが、そこを我慢してプレイすれば、驚きが待っているはずです。
オタク・ルネッサンス
カテゴリー[misc]投稿日時: 2006年08月12日05:48
ひょんなことから、8月22日に、濃いオタクの方々と80年代アニメについて語る怖ろしいイベントに引っ張り出されることになりました。詳細はロフトプラスワンのページの22日のスケジュールを見てください。
いやはや、緊張します。僕はうる星やつらでしか対抗できそうにないので、TVアニメ終了記念ファン大会のパンフレットでも探し出して、記憶をリフレッシュしておこうと思います。あとはなんだ、ヨニがエロかったとか、そういう話をすればいいんでしょうか? イクサー1とかほとんど覚えてないぞ?
ところで、そのスケジュールを見て驚いたのですが、この21日の週はオタクイベント(それも30代向けな感じのオタクイベント)目白押しなのですね。月曜日が岡田斗司夫、火曜日がこれ、木曜日が唐沢俊一、土曜日が眼鏡っ娘居酒屋。これでいいのか、ロフトプラスワン……。
CNETインタビュー
カテゴリー[misc]投稿日時: 2006年08月11日22:31
CNETで僕と鈴木健さんの共同インタビューが掲載されました。
インタビューに興味をもたれた方は、ぜひ明後日のコミケで発売するハンドブックをお買い求めください。ブースは、3日目西地区まー02b「波状言論」です。
なお、CNETでは近日内に「ギートステイト制作日誌」の掲載も始まる予定です。こちらもおたのしみに。
時をかける少女
カテゴリー[critique]投稿日時: 2006年08月01日22:57
こんばんは。たったいま、細田守監督の『時をかける少女』を観てきました。
興奮が冷めないうちに記しておきますが、これは傑作だと思います。前評判にたがわないすばらしい作品です。いい話でもあります。心が温まりました。いろいろなひとに観てほしいと思います。
とはいえ、それだけでは能がないので、以下にちょっとしたコメントも記しておきます。評論が好きなひとは読んでください。
さて、『時かけ』の基本は、みなさんもご存知だと思います。時間を超える能力を身につけてしまった少女の恋物語です。細田版は原作および23年前の大林宣彦映画版とかなり異なった話で、主人公さえ別ですが、その基本線は変わっていません。
この作品について、僕はあるひとから、「タイムパラドックスが起こりまくりなんだけど、主人公があまりに能天気だから、なにも疑問に思わないでお気楽に話が進んでいく映画」という前情報を聞いていました。確かにタイムパラドックスはありまくりです。
しかし、その見方は不十分です。というのも、この映画で「タイムリープ」と呼ばれているものは、時間移動というより、むしろゲームのリセットに近い行為だからです。実際に「リセット」という言葉も出てきますので、監督もそれを意識しているのではないかと思います。この作品では、主人公の身体は過去に戻ることはありません。主人公は、過去に戻っても昔の自分に出会うわけではなく、その時点の自分の身体に乗り移るだけです。つまり、これは、過去へのタイムスリップというより、「この分岐だとまずい展開になってきたので、さっきのセーブポイントまで戻るか」という行為に近いものです。したがって、そこにはパラドックスが発生しようがない。
主人公は、いわば、世界全体に対してプレイヤーの位置にある。それが、途中で幾度か出てくる「私がなんとかする」という台詞の意味です。しかし、そのプレイヤーの位置は、物語が進むにつれて脅かされることになります。
そのうえで、この作品が感動的なのは、「人生はリセットできない」でも「人生はいくらでもリセットできる」でもなく、「人生はいくらでもリセットできるが、ひとつの場面はやはりいちどしか経験できない、したがって成長は無意味ではない」という、とても肯定的な、しかも力強いメッセージを伝えてくれるからです。この矛盾に満ちた表現がなにを意味しているのかは、みなさんの目で見てもらいたいので、詳しく書きません。とりあえず、僕としては、最後の川岸の夕日の場面、主人公の横を自転車が通り過ぎ、主人公が表情を変える場面に、そのメッセージを読み取った、とだけ記しておきます。
ある経験があるとして、それがたとえゲームだったとしても、またそれが幾度でもリセット可能だったとしても、ある特定のとき、特定の瞬間のフラグやパラメーターの組み合わせに戻るためには、ふたたび膨大なプレイ時間が必要となり、しかもそのときにはこのプレイヤーである僕の心理状況が変わっているので、実際にはそれは一回かぎりの経験と、すなわち人生と変わらない。僕の考えでは、アドベンチャー・ゲームの本質とはそのようなものですが、『時をかける少女』は、それを青春映画として表現した作品だと思います。反復する時間と成長する時間の相克を、このように美しく解決した作品を、僕はほかに知りません。
いずれにせよ、『時をかける少女』は傑作です。ここでは触れませんでしたが。作画も演出も高品質であり、大幅な改編にもかかわらず原作への配慮も行き届いています。細田流の演出もあちこちに観られ、アニメファンには溜まらないでしょう。坂のある町もいい。主題歌もいい。つまりは、僕としてはほとんど手放しで絶賛です。
細田氏の次回作が、いまから楽しみです。