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著作権とか白田さんとか2
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年01月29日16:49
前回のエントリに対して、「もともと著作権の話なんて、金の話なんだよ。みんな良識あるからそういわないだけ。おまえみたいなショボい学者が口出すんじゃねえよ、ごらあ」みたいなメールが来ました。
はあ、そうですか(笑)。
というわけですが、こういう「著作権はビッグマネーが動いているんだ、生々しい話なんだから理想論なんてやるな」的な話って、ブログとか見るとときおりあるので、ちょっとだけデータを示しておきます。
■
話を単純にするために、著作権全体ではなく、ブログ論壇で著作権が話題になるときにJポップと並んで議論の中心になる、オタク系コンテンツのことだけを考えてみましょう。メールの書き手はそのことに関心があるみたいだったし、実際、最近日本で著作権が問題になるときには、たいてい「オタク産業をこれからどう育てていくか」という関心が伏在していることが多いからです。
では、オタク関係ってどれくらい金が動いているのか。コンテンツ関連産業は1兆円とか10兆円とか言われますが、そういう数字には実は周辺機器の売上だとかテーマパークの売上だとかいろいろ入っていて、オタク系コンテンツの市場規模からは離れています。実際に調べてみると、コミケの総売上が50億円、角川グループでの涼宮ハルヒ関係の総売上が70億円だか80億円だかです。昨年刊行された「オタク産業白書」によると、オタク市場の規模は全体で1800億円と見積もられています。ゲームとかDVDとか全部合わせて。
あれ?そんなもんなんだ、という感じがしませんか。ちなみに、食品のひとつである豆腐の、外食などを含めない卸だけの市場規模は3000億円から4000億円です。
というわけで、ぼくは思うわけです。そりゃ、著作権の改正なり改悪なりが生活に直結するひとはいるでしょう。それはあらゆる制度設計について言えます。しかし、このオタクの市場規模は、客観的に見て、「ビッグマネーが動いているんだから学者はだまれ」というほどの規模ではない。
むしろ、オタク文化のダイナミズムは、もともと金銭的な価値ではないところに支えられていて、だからこそみんなオタクの市場規模を実際より高く見積もってしまうのだから(この誤解は決して悪いことではありません)、その利点を活かすべきなのではないか。要は、オタクは貧乏なわりにおもしろいもの作っているのが利点なんだから、あまり金の話に巻き込まれなくてもいいじゃん(というか金の話に巻き込まれると負けちゃうよ)、もっと理想論で動こうぜ(どうせ理想論で動くしかないんだから)、というのがぼくの考えなのです。
■
なお、この1800億円って冷静に考えると本当に少ない数字で、それにいったい何万人のオタクがぶらさがって生活しているんだ、と考えると暗澹たる気持ちになってきます。
その悲惨な状況は、市場規模と労働者数のアンバランスやそのほかさまざまな歴史的条件によって決まっているので、著作権を強化して多少クリエイターの「権利」を強化したところで、焼け石に水という感じがします。そっちはそっちで労働問題として別の論理で対処すべきでしょう。
著作権とか白田さんとか
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年01月29日02:03
こんばんは。原稿が煮詰まっているので、また長文の投稿です。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0801/28/news012.html
この記事の最後の白田さんの発言を読んで、なんか深く同意してしまいました。
■
ぼくもまた、議員とか官僚とか経営者とかNGO関係者とかが出席する研究会やらシンポジウムに出て、おもしろい!と思ったことがほとんどありません(皆無ではないけど)。むろん、そういうときはむこうもこっちの話をつまらねーと思っているのだと思うのですが、とりあえずこっちもつまらないことはまちがいない。
まあそれでも、普通はそんな気持ちは隠してコミュニケーションするわけですが、この記事で紹介されているシンポでは、まさに白田氏は、そんなコミュニケーション全般に対して「おまえら、まじつまんねえよ!」と発言されている。なんと力強い。
前にも書いたとおり、ぼくは政治の本質は資源配分に関わる思考だと考えます。著作権(知的財産権)の問題はまさに資源配分に関わる問題です。したがって、これは政治的なことです。
それでは、ぼくたちの世界では、こういうとき「政治」はどのように動くのでしょうか。普通はこうです。いろいろな利害関係者(ステークホルダー)を連れてきて、とりあえず話をさせて、適当なところで折り合いをつける。著作権であれば、クリエイターとディストリビューターと消費者と、あと最近だとプチクリエイターというか二次創作関係者といったところです。実際、そういうシンポジウムは最近やたらと繰り広げられていて、この記事の会合もその一貫だと考えられます。それで、お金をとりたいひとと、お金を払いたくないひとが、自分の欲望を美辞麗句でかざりたてて、「論争」らしきものを交わす。そして、じつは落としどころもあるていど見えていて、シンポジウムやらなんやらというのは、最終的に「今回の法案については民主的に話し合いましたよ」という口実を作るための儀式にすぎない。こういうのが「政治」です。
ぼくが上の記事から推測するに、おそらく白田さんは、そんな状況全体に対してムカついているのです(いや、ぼくの勝手な推測なので、まちがっていたらごめんなさいだけど)。おれは金欲しい、おれは金払いたくない、まあそこは適当に妥協しましょう、相手の立場もあることですし——って、そんなことで「著作権がどうあるべきか」が、あるいは一般に政策全般が決まるのなら、もう歴史も学問もあったものじゃない。それじゃクラスの喧嘩の仲裁と変わらない。
いや、そのとおり。ぼくもまったくそう思うよ!
■
そう。本当はぼくたちはこういうときこそ、著作権は「本来」どうあるべきか、という原理論を行うべきなのです。そして、結果として出てきた結論が実現可能かどうか、クリエイターが損をするか、消費者が損をするか、そんな話はとりあえず二次的なものとして横に措くべきなのです。その水準では、クリエイターのやる気が湧くかとか、コミケが潰れるかとか、そんな当事者トークはすべてどうでもいい。そういう抽象性が知性というものです。しかし、多くのひとは、そんな水準の議論がありうるというイメージすらできない。
ちなみにぼくは、著作権については、「知的財産はネットワークの時代では一種の土地として機能する」という原則的な認識のもとに、人間社会がこれまで土地所有の制限や管理について歴史的に蓄えてきた経験を、今度の「新しい土地」には物理的な拘束性がないという大きな差異を考慮したかたちで、適宜適応していろいろ新しい法を作っていくのがよいと思います。
たとえば、ぼくは著作権には相続税を導入し、遺族への権利の移譲そのものを制限して、何世代かたつと自然にパブリックドメイン化するように制度設計するのがいいのではないかと思う(なぜなら、土地がそうなっているっぽいから:あまりちゃんとは調べてません)。これは具体的には、上記記事の会合の出席者でいえば、境真良氏の意見にかなり近いはずです。
ぼくは最近、学問って、べつにだれも説得しなくても、だれの役に立たなくてもいいのではないか、と思うようになってきました。そりゃ、象牙の塔に籠もって紀要論文ばっかり書いているのは論外ですが、しかしいきなり現場に役立つ理論をと言われたって、そんなのできるわけない、というか、できたとしても退屈なものに決まっているでしょう。著作権の未来についてだって、最終的にそれが現実に落ちなければいけないからこそ、むしろ余裕をもって抽象論ばかりする場があってもいいのではないか。所有の概念と複製技術の関係とか、労働の概念とオープンソースの関係とか、哲学的であると同時に現実的にもおもしろい問題がやまほどあるのに、そういう肝心なことを「議論」し「啓蒙」する機会がほとんどない。
実現可能性をいっさい問わず、当事者の話もいっさい聞かない著作権についてのシンポジウムとか、だれか企画しませんかね(笑)? だって、普通のシンポジウムの結論なんてわかってるじゃん。
満員御礼&新現実発売
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年01月25日14:57
先日の『思想地図』創刊シンポジウムには、平日夜、しかも雑誌校了時期の開催という悪条件にもかかわらず、多くの聴衆に来ていただき、ありがとうございました。
300名超で成功というのがこちらの予想でしたが、蓋を開けてみれば600名以上が来場し、立ち見まで出る大盛況ぶり。単位修得用に入場した東工大生が数十人いたとはいえ、おそらくここ10数年の現代思想関係のシンポジウムでは、もっとも来場者を集めたものではないでしょうか。いったんここまで盛り上がってしまうと、もはや創刊後に「プレ創刊イベントがいちばんアツかった」とか言われるのは不可避な気もしてくるのですが(笑)、編集委員としては、せめてその不満が最小になるよう、精進していきたいと思います。
よろしくお願いします。
■
さて、それはそれとして、ぼくと大塚英志さんの対談、「『公共性の工学化』は可能か」が掲載された『新現実vol.5』が発売されています。
この対談、実は早稲田文学のフリーペーパーに掲載された広告では、「言葉は希望か、それとも無力か」と仮タイトルがつけられていました。むろん、大塚さんが希望派でぼくが無力派というわけです。
なぜそんな対立になったのか、それは対談を読んでいただければわかりますが、別途『新潮』の鼎談でも(話題は違いますが)ぼくは田中和生氏に「無責任」な「ニヒリスト」と非難されており、最近はなぜかそんなふうに言われることが多いようです。それはおそらく、ぼくが、大塚さんや田中さんの議論に異ばかり唱えて、なにも積極的な主張をしないように見えるからでしょう。
こういう批判に対しては、それぞれの仕事に対して歴史が判断を下すのでどうでもいい、と答えるしかありません。だからそれはそれでいいのですが、ただひとつ思うことがあります。
■
フランスの社会思想家、ソレルは、『暴力論』の序論で、本当に危険なのはペシミストではなく、「世間に嫌気がさしたオプティミスト」なのだと述べています。
ぼくは、これは、いまの日本でも、というかいまの日本でこそ、けっこう当てはまる言葉なのではないかと思うのです。「やっぱり日本はすごい国なんだよ」とか「やっぱり言葉の力はひとを変えるよ」とか「やっぱり話し合いって大事なんだよ」とか言うひとに対して、ぼくはいつも「?」と感じてしまいます。その理由は、そんなオプティミズムこそが、現実の危機に直面したときに、とてもナイーブで、危険な感情に変わると思ってしまうからです。
ぼくはおそらく、その意味では「ペシミスト」です(ソレルのペシミズムの定義はいろいろと厄介で、今度はぼくが引き受けられないほど暗く神秘主義的なので、ここでは横に措くとして)。したがって、前回のエントリと合わせると、ぼくはどうやら、「ノンポリ」の「ペシミスト」の「オタク」ということになる(笑)。
こう書くと人間の屑みたいな感じです。しかし、ぼくとしては、現代社会についての真剣な思考は、そんな屑の立場からでないと展開できないと思うのです。ぼくが政治の工学化とかウェブ化(いや、それだけではないのですが、まあそんな感じではある)を提案するのは、オプティミズムというよりもむしろペシミズムに基づています。
この世界は、人間が討議的理性で制御するにはあまりに複雑で、だからこそ市場とか検索とか発達してきたのだから、今後も基本的にはそちらを活かすしかない。人間は、自分たちが生み出した世界を十分に意識的に制御できるほど、頭がいい生物じゃないと思うのです。
シンポに向けてのメモ2
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年01月20日22:42
ま、実際、ぼくは「ノンポリ」なんだろう。しかし、政治ってなんだろう? 靖国とか格差とか言ってれば政治なのか? 選挙とか内閣とか? 本当に?
ぼくは「政治」という言葉は、個々人の立場表明を意味するのではなく、社会共通の資源のよりよい管理方法を目指す活動を広く意味するべきだと考える。だとすれば、それは必然的に、物語なき進歩主義、というか物語なき改革主義の立場になるはずだ。それなのに、物語の衝突ばかりが「政治」だと思われるのはなぜなのか。
その理由はおそらくこうだ。第一に、カール・シュミットの言うとおり、政治とは長いあいだ「友と敵を峻別する論理」だと考えられてきた。第二に、そのうえに、前世紀後半の左翼系知識人たちが、政治イコール開かれた公共的議論イコール他者の尊重、みたいなイデオロギーを加えた。アーレントにしろハーバーマスにしろ、とにかく左翼は「他者と話し合え、他者を認めろ、他者を尊重しろ」の大合唱だ。つまり、まずなにかイデオロギーがあり、それが他者とは共有不可能なんだけど、でも話し合っていろいろ同意していく、20世紀は「政治」をそういうものだとして規定していったのだ。
というわけで、いまぼくたちは、だれかが「政治的」といえば、そのひとにはなにか「ポリシー」があって(ほとんどトートロジーだが)、それを声高に叫んだり議論を交わしたりしつつ、いろいろ譲歩していく、そんなひとのことだと思いこんでいる。そして、そんなコミュニケーションの専門家が「政治家」で、ぼくたちは税金で彼らを雇っている。
しかし、政治とはそういうものだろうか。
■
そもそも、いまの時代、友と敵ってなんだろうか。物語ってなんだろうか。冷戦崩壊まで、政治は確かにイデオロギー=物語の衝突の場だった。そして、それには現実的意味があった。その時代は、確かにイデオロギー=物語はひとびとの資源配分の方法を規定していたからだ。そして、イデオロギー=物語の数も極端に少なかった(二つか三つだった)からだ。
しかし、1990年代以降、もはや世界はそのように動いていない(ネオリベラリズムという言葉は、多くの人文系の学者が吐き捨てるように、イデオロギーとしての実質をほとんどもっていない)。政治的な場は無数の専門領域と局所的問題に分散し、それらを貫く市民の「アソシエーション」なども空虚な掛け声でしかない。にもかかわらず、政治とは物語の衝突であるべきだ、という期待だけは亡霊のように漂っている。となると、論壇はもはや、各個人が、なんのバックグラウンドもなしに、とにかく「自分の小さな物語」を声高に叫ぶ場として生き残るほかない。おそらく、ここ20年ぐらいで起きたのはそういう変化だ。
というわけで、ポストモダニズム——というか、フーコーからカルスタを通ってポストコロニアルやらジェンダー研究やらなにやらにいたる議論も、いつのまにか(というのも、ぼくの考えではもともとフランス現代思想ってそういうものではなかったので)政治イコール「主体の立場表明」の立ち位置系議論に矮小化していった。
むろん、その変化は左翼インテリだけの問題ではない。昨年の論壇のヒーロー、赤木智弘氏が、まさにそのような論者の典型だ。おまえの立場を明らかにせよ、そのうえで弱者の代弁をしたうえでもっともらしい物語を語れ。これが、いま「論客」に寄せられる期待のすべてであり、赤木氏はまさにその類型として登場した。
しかし、そうなってくると、ぼくみたいな「インテリ」の「大学人」(まあそうなんだろう)は、「政治」的なことを話そうとすれば、もはや「現場」の「弱者」の代弁をやるくらいしかなくなることになる。そして、そんな振る舞いは、むろん赤木氏にはかなわないし、あまりやる気もない。というわけで、居場所はなくなる。
おまけに言えば、そういうとき「弱者」ってなんなのか、それは大いに疑問だ。ぼくの考えでは、赤木氏の議論の根幹には、「左翼は弱者を救済するというが、本当の弱者は弱者として定義すらされていないという左翼的な定義を拡張するならば、おれたちのように弱者だと言われてこなかった連中こそ本当の弱者なんだから、いますぐ女性でも外国人でも障害者でもない中年男性フリーターに注目しろ」的な論理のアクロバットがあり、おそらくはそれが一部の男性読者のルサンチマンに受けたのだと思う。いまの日本の「弱者」の定義は、それぐらい可塑性が高い(これは救うべき弱者がいないと言っているのではないし、またフリーターを無視しているのでもない。ぼくがここで標的にしているのは、赤木氏の議論構成である)。
まあ、ともかく、ぼくの思うに、ぼくたちはまず、「政治的であること」とはなんなのか、そこから根本的に考え直さねばならないのだ。ぼくは『思想地図』は「政治的」な雑誌にしたいと思うが、それは、この世界のよりよい資源配分について語りたいからであり、物語=イデオロギー闘争をやりたいからでも、また弱者代弁競争をやりたいからでもない。
■
友と敵を作って、そのうえで他者を尊重したりなんだりする。それはとても「人間的」であり、高級な話ではある。実際、それはある範囲ではますますやるべきだ。たとえばブログとか。ぼくはそう思っている。この点を誤解してほしくない。
しかし、政治の本来の目的が共通資源のよりよい管理にあるのであれば、その過程が必ずしもそういう人間的で高級なコミュニケーションに結びつく必要はない。ポリシーなき政治、討議なき政治だってありうるはずだ。アーレントの言葉で言えば、政治を、「活動」の場ではなく、「労働」(=消費)の場に落とすこともできるはずだ。つまり、無意識で工学的な意志決定の場所に(なお、「よりよい」という価値設定にこそが問題で、その部分にこそ実際は功利主義的イデオロギーが入りこんでいるだからだめだ、的な反論が容易に思いつくが、それについてはここで再反論するのはやめておく)。
ここで「資源」というのは、むろん経済的なことだけではない。たとえば、ぼくは、Googleの出現はとても「政治的」なことだと考える。なぜなら、それはぼくたちの世界の知的資源の配分を変えたからだ。あるいは、9.11以降のテロの問題も「政治的」だと考える。しかしその理由は、そこで資本主義とイスラムが戦っているとか、アメリカの地政学的野望がどうとか、そういうことではない。世界のセキュリティ化は、リスクという資源の配分を大きく変えたからだ。格差問題も環境問題も同じだ。要はぼくたちは、「政治」としては資源配分のより巧妙な方法だけを考えていればいいのだ。
だから、誤解と反発を受けるのを覚悟でいうが、ひとりひとりのアイデンティティとか承認欲求とか、そんなものは基本的には政治の話ではない(ここにケイパビリティの話が入ってくるのは知ってる、しかし基本的にはそういう前提で出発すべきだと考える)。「美しい国」とかなんとかも政治ではない。「政治」は市場とは異なった意味で、しかし同じように冷徹で、ひとりひとりの自意識や美学に関わっているひまはないのだ。
ぼくはそんなふうに思うので、総選挙とか内閣支持率とか派閥とか、そういう話にまったく関心がもてない。ずいぶん金使ってお祭りやっているなあ、としか思わない(そういうシニカルさこそが問題なのだというひとがいるのは知っているが、しかし、なぜひとはある時代ある場所に生まれたというだけで、その時代の「政治」的参加のコードを全面的に受け入れねばならないのか、それもよくわからない)。したがって、ノンポリということになる。
■
ひとはよく、人間は物語がないと生きていけないと言う。そうかもしれない。しかし、ついこのあいだまで、よく「戦争は人間の本能だ」とか言われていたのだ。じゃあ、ぼくたちは戦争に頼るべきか。そういう話にはならない。同じように、たとえ、人間ひとりひとりは物語がなくて生きていけなかったのだとしても、社会全体の資源配分の方法はそこから切り離されていいはずだ。
たとえば、ぼくは富の再配分はがんがんすべきだと思う。しかし、そのメディア(媒介)として、国家単位の議会制民主主義と官僚制は原理的にそぐわないと考える。ぼくたちは、市場=動物=自然状態=無意識的創発=格差拡大、vs、民主的討議=人間=イデオロギー=意識的管理=平等志向みたいな対立図式にいつのまにか囚われているが、ほんとうにそれしかないのか?
物語なき政治。討議なき公共性。友も敵も作らない環境管理。政治を動物的なものに変えること。
それは具体的にはなにを意味するのか。ぼくにとっての「政治」とは、そういう話だ。
シンポに向けてのメモ
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年01月20日18:27
自分用のメモ。いろいろあって、自分の政治的立場について考えてみた。
右翼も左翼もなんらかの物語を信じている。しかし、そういう立場は、ちょっと考えるとなかなか取れなくなる。というのも、だいたい人間の思想なんて歴史的に反復されているし、どの時代をとってもいろいろな立場があって、似たような論争が繰り返されていることがすぐわかるからだ。
したがって、あるていど頭のいいひとは、特定の物語を信じず、諸物語の「均衡」を目指すことになる。これは保守の立場に近づく(ちなみに右翼と保守は違う)。ぼくが「ポストモダン」とか呼んでいるのもこの立場だ。ぼくのポストモダン観はそういう意味ではきわめて保守主義的だ。
ところで、そういう「均衡」を目指す立場は、原理的に伝統を尊重することになる。なぜかといえば、なにも特定の物語を信じなくても、とりあえず「この社会」がいままで続いてきたという事実性だけは脱イデオロギー的に確保できるからだ。というか、なにも物語を信じないのであれば、それぐらいしか最終的によりどころがない。
しかし、ぼくは——おそらく根がオタクで、しかも1980年代的なポストモダニストだというのがここらへんで響いているのだが——、諸物語の均衡こそ大事だと思っているくせに、伝統を尊重する気があまりない。いままで政治だ文化だと呼ばれてきたものへの尊敬の念が、どうも足りない。少なくともよくそう言われる(『新潮』今月号を見ればおわかりのように)。
ここで、いささか立場が捻れてくる。おそらく、ぼくが採りたいのは、イデオロギーなき革新というか、物語なき進歩主義の立場なのだ。つまり、世の中は変わっていると考え、その変化を基本的に肯定するが、しかし特定の物語は信じず、「諸物語の均衡」にこそ支点を見出すという立場だ。
しかし、そんな立場は可能なのか。どうも難しい。そこで考えられたのが、ニヒルな唯物論というか、技術決定主義というか、つまり、革新や進歩は下部構造によって勝手に強いられているのだから、もうあと人間はやることないんじゃないか、みたいな話なんだろう。どうも、ここ数年、ぼくがリバタリアニズムがどうとか、ポストモダンの二層構造がどうとか言っていたことの根源は、そういうことにあるような気がする。
というわけで、このエントリの結論はなし。ぼくがどうしてこう、イデオロギー的に曖昧、というか普通に見て非常に「ノンポリ」なように見えるのか、ということについて、自分自身で考えてみたというだけの話。
【追記】
家族と買い物に行って、帰ってきて読み直したらなんじゃこりゃと思ったので、続きを書きました。
また長いエントリーを書いてしまった!
21日&22日&朝日新聞
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年01月20日00:15
こんばんは。
『恋空』ばかりではなく、シンポジウムに備えて、佐藤優『国家論』とか市野川容孝『社会』とかカッシーラーのルソー論(ちなみにこれはいい本でした)とか、いろいろ読んで頭痛がしている東浩紀です。
さて、そんななか、来週火曜日(22日)に迫った思想地図シンポジウム@東工大ですが、昨日朝日新聞に関連記事が出ました。
パネラーとしてお呼びする白井さん、萱野さん、中島さんへの取材があり、「思想地図」創刊のニュースも入っています。ありがたいことです。
ただ、ここまでパネラーそのものの紹介なら、その3人がシンポジウムに出ることも書いてくれればいいのにと思いました(笑)。ちなみに、芹沢さんも「思想地図」には登場の予定です。
あと「ポストモダン世代の一部による揶揄」っていったいだれのことだろう? 思想地図は早くも揶揄されてるの? だとしたらすげえな……。
■
加えてもうひとつ。じつはぼくはその前日(21日)、以下のトークショーにも参加予定です。こちらもご来場ください。
客層は違う感じもするのですが、最近寒いので、続けていらっしゃるかたはお体に気をつけて。
ぼくも微妙に風邪気味なのですが、火曜日までにはなんとしても治します(月曜日の酒が残らないように気をつけなければ……)。
探偵小説のクリティカル・ターン
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年01月16日13:38
限界小説研究会(編)の『探偵小説のクリティカル・ターン』(南雲堂)が著者謹呈で届きました。
このブログの読者はご存知のとおり——いや、そうでもないかもしれないけど、とにかく、限界小説研究会のメンバーとぼくのあいだには微妙な因縁があり、そういうわけでここで紹介するのもまた微妙な問題を発動させる感じもするのですが、とにもかくにも、けっこうよい評論集だと思うので紹介しておきます。
『思想地図』に登場する福嶋亮大さんも書いています。ここでは取り上げませんが、それは清涼院流水/西尾維新論としては出色で、かつ『思想地図』の論文とも繋がっています。福嶋さんには、早いところ単行本を出してほしいものです。
■
さて、ここで取り上げたいのは、前島賢さんの『ひぐらし』論(「『ひぐらしのなく頃に』の二つの顔」)です(前島さんとぼくのあいだにこそ微妙な因縁があるので、またいろいろ深読みされそうだけれど、とにもかくにも)。この論文は間接的な『ゲーム的リアリズムの誕生』批判でもあるのですが、『ひぐらし』そのものの読解として、説得力のある理路になっていると思います。すぐれた仕事です。
ただ、同時に、その前提のうえで気がついたのは、この前島さんによる東批判が、宇野常寛さんの「ゼロ年代の想像力」とほとんど同じ論理で作られているということです。
それは、大事なのはセカイ系でなくて小さな成熟(前島さんの言う「公務員のリアリティ」)なのだ、○○はそのような成熟を描写していたから傑作なのであって、それはセカイ系の論理では捉えられないのだ、という論理です。その○○に入るものが、前島さんだと『ひぐらし』第7話で、宇野さんだとよしながふみや宮藤官九郎なわけですが、構造は同じです(余談ですが、こうなってくると、宇野さんのいう「東浩紀の劣化コピー」がどこにいるのかはますます不明です)。
これはなかなか意味深いことです。確かに最近の小説には広義の「公務員のリアリティ」を描いているものが目立つ。そして、そこには確実に現在の日本のニート的というかひきこもり的というか、そういうリアリティが反映されている。
ところが、東浩紀という批評家はそういう作品への感度が明らかに低い。つまりはぼくの文学観・世界観は根本的に浮世離れしており、そこらへんこそが、80年前後生まれの不況直撃の若い世代、別の視点で言えば前期宮台のもっとも若い読者たち(前島さんも宇野さんも宮台の熱心な読者です)から批判されつつあるという構図のようです。なるほど。
自分で言うのもなんなのですが、ぼくは、この東浩紀批判は基本的に正しいのではないかと思います。確かに、ぼくにはそういう欠点がある。
しかし、そのうえで思うのですが、では彼らは、そんな「公務員のリアリティ」の果てに、いったいどのような世界観や想像力の到来を夢見ているのでしょうか。小さな成熟が必要だと言いたいだけなら、そもそも小説なんか書く必要ないんじゃないか、評論も必要ないんじゃないか、普通に働けばいいんじゃないか、とかお気楽なぼくは思ってしまうわけですが、そんなお気楽さこそがポスト赤木世代の彼らには許せないのかもしれません。
いずれにせよ、ここには、世代の問題ではなく、けっこう本質的な差異が横たわっている感じがします。もう少し考えてみます。
あー、また長文のエントリを書いてしまった。
『恋空』読みました2
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年01月16日03:11
さて、〆切が迫った原稿を横に措いて『恋空』を読みふけり、思わずこんなエントリを書いてしまったわけですが、そのわずか数時間後に、濱野智史さんがそのエントリにリンクしながら『恋空』について書いていました。
http://d.hatena.ne.jp/shamano/20080115
『恋空』についてはあの短い感想であっさりと終えるつもりでしたが、これを読んでこちらもちょっとだけ書きたくなりました。
繰り返し言うとおり、ぼくはケータイ小説については本当にまったく知らないので、以下は単に素人読者としての深読みです。しかし、たまにはそういう深読みもやってみたいと思ったので、投稿します。
ライトノベルの批評だと、もうこういう深読みが素朴にできなくなっているので、リハビリみたいなものです。
■
さて、実は僕が『恋空』で「泣いた」理由はきわめて単純でした。それは、この小説全体が「届かなかった手紙」の構造になっていることによります。この理由は、あまりにぼく的、というか東浩紀の読者にはあまりにも分かりやすすぎるので気恥ずかしくて書かなかったのですが。
『恋空』には、「届かなかった手紙」のモチーフが、全体構造としても、小さなアイテムとしても、何重にも繰り返しででてきます。まず、濱野さんが指摘しているとおり(そしておそらく濱野さんは僕がそこに反応したことに気づいていたと思うのですが)、小説全体が「美嘉」の「ヒロ」への届かない手紙として書かれています。
しかし、それだけではありません。そのモチーフは実は、流産した子供が物語の中心にあることにさらに強く現れています。
流産した子供は、届かなかった手紙のような存在です(手紙=精子はデリダの『郵便葉書』の重要な隠喩です)。しかもこの小説では、そのうえで、主人公たちにいくどもその届かなかった手紙の場所(水子の墓)に立ち返らせます。主人公たちは、いくども届かなかった手紙を受け取ろうとするわけです。おまけに、その生まれなかった子供が放つ、本来は存在しないはずのメッセージが何回も挿入されて、これもまた物語上で決定的な役割を果たしている(「恋空」という変なタイトルそのものが、そのメッセージと関係しています)。そこまで重要でなくても、「届かなかった手紙」のモチーフはほかにも、図書館の黒板に記されたメッセージとか、内緒で撮影されていたインスタントカメラの映像とか、いろいろ登場します。
ついでなので、もう少し深読みを進めてみましょう。さらにデリダ的に読解すれば、この小説は「分身」をテーマにしているとも言えます。「美嘉」と「アヤ」、「ヒロ」と「優」、二人の赤ん坊がわかりやすい分身関係ですが、それだけではなく、この小説が描く人間関係の随所には、たがいの感情転移によって二重化した関係——A:B=C:Dみたいな相似形になっている人間関係——が配置されています。
かつて宮台真司は、「ギャル」たちのコミュニケーション空間を「ユミとユカの区別もつかない」匿名の空間として描き出しました。それは、裏返せば、そのような空間では、ユミとユカのあいだにつねに感情転移が起きて、ユミの行動とユカの行動が鏡像的な分身関係に入ってくることを意味します(実際、街を歩いている二人組のギャルは異様に髪型やファッションが似ていたりする)。『恋空』の作家は、そういう鏡像=分身に満たされた人間関係を、じつに生き生きと描いています。それが、Aの彼氏がいつのまにかBの彼氏にとか、Cがつきあい始めたらDもつきあい始めて、みたいなエピソードの蓄積になるわけです。
ちなみに、さらに妄想気味に突っ走れば、そういうなかで後半に唐突に登場し、ほとんど唯一上記の分身的人間関係に属していない「ウタ」の役割にはおもしろいものがあります。ウタはエヴァで言うアスカ、CLANNADで言う風子的なトリックスター的な位置にあるはずで、途中もっと活躍を期待したりもしていたのですが(語尾もヘンだったし)、ここらへんに入っていくとだれもついてこなくなると思うので、この話はここで止めておきます。
いずれにせよ、というわけで、僕的には、これはけっこうまじめに読むに値する小説なのではないかと思うわけです。少なくとも、これは泣きの条件反射で作られている物語ではない。それにしては過剰な構造があるのです。骨組だけがごろんと転がっているので、いわゆる文学が好きなひとはかえって読めないのでしょうが、その骨組そのものはけっこう複雑な構造をもっているのです。
ぼくはもともと、文体が稚拙とか、人間が描けていないとか、そういうのは小説を読むうえで気にしません。だから、その点で『恋空』を批判するひとがいても、まあそれはしかたないんだろうなと思います。しかし、そもそもケータイ小説ってそういうジャンルじゃないんだろうし、ひとが感動する理由もそういうものだけでもないでしょう。もし、この小説の魅力を、社会学的な観察に還元せず文学的に考えるなら、別の視点を取る必要があるはずです。
■
というわけで、濱野さんのエントリを読んだら、なんかこちらも内容について書きたくなってしまった、という話でした。
それにしても、こんな追加エントリ、彼のWIRED VISIONの連載を続きにくくしているだけかもしれません。そのときはごめん>濱野くん
『恋空』読みました
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年01月15日21:06
こんばんは。
なにをトチ狂ったのかと思われそうですが、投稿してみます。下記エントリを書いたあと、『恋空』を読み終えました。単行本版ではなく、魔法のiらんどでのネット公開版です。
『恋空』については、そもそもケータイ小説全般を文学的にどう評価するべきかという点を含め、さまざまな議論があるようです。そこらへん詳しく知らないのですが、少なくともぼくは泣けました。いやあ、いいじゃないですか。
もともとぼくは、批評家とか名乗っているわりに涙腺直撃系のサブカルチャー的想像力にたいへん弱く、最近ではそんなところこそ下の世代から批判されてもいるのですが、その個人的特質を差し引いても、この小説はよくできているのではないかと思います。類型的な事件をひたすら並べただけでリアリティがない、という非難が多いようですが、リアリティ云々はともかく、物語の組み立てはそれほど単純なものではない。主人公の女の子もかわいいし(文章で読んでいるためだけかもしれないけど)、これがベストセラーになるのはよくわかる。
ところで、話は変わりますが、かつてKeyに熱狂したオタクたちは、この作品をどう評価しているんでしょうね。ぼく的には、リズムとか象徴性の使いかたとか、『恋空』と Keyのゲームは文体レベルでも似ているように思ったのですが、それはとてつもないカンチガイなのかもしれません。
いずれにせよ、そんな感想でした。ケータイ小説についてはぼくはまったく詳しくないし、仕事にするつもりもないので、いち素人の感想として読み飛ばしてください。
ゼロアカエントリー開始しました
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年01月15日17:19
こんばんは。
いまさら『恋空』を読んでいる東浩紀です。
告知は標題どおりです。ゼロアカ道場のエントリーを開始しました。ふるってご応募ください。
http://shop.kodansha.jp/bc/kodansha-box/zeroaka.html
いや、ほんと、思想地図のシンポもガラガラだと超まずいわけですが、こっちも20人とかだとめちゃめちゃ凹みますからねー。評論界全体の盛り上がりに貢献すると思って、がんがん応募してください! よろしく!
おっとそれから、はてなブックマークで寄せられた疑問に答えますが、2/15のテレビ会議では同時通訳がつくので僕は日本語しか話しません。
というか、これを機会に告白しておくと(とはいえトークショーとか授業ではよく言っているのですが)、僕はフランス語は読めるけどぜんぜん話せません。なぜかといえば、僕はもともと第二外国語がロシア語で、フランス語はデリダを読むためだけに特化して学んだため、発音がとんでもなく下手だからです。したがって、当日も、最初の挨拶ぐらいしかフラ語は話さないと思われます(笑)。デリダで本を書いてるのにふざけんな!とか思った方、そんなもんですのでご了承を。
ただ、3月のパリ行きはどうすんだろう……。なんか、むこうのブックフェアでトークショーとかもやるみたいです。
思想地図進行状況
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年01月15日00:18
「思想地図」第1号の原稿が集まり始めました。白田秀彰さんと福嶋亮大さんの論文がすでに届いたのですが、ともに刺激的な原稿です。
前者は、白田さん自身の政治的実践を踏まえたうえで、日本における共和制の可能性を原理的に考える論考、後者は、中国語圏(華文世界)におけるライトノベルの受容を紹介しながら、キャラクター小説の(日本におけるそれとは異なった)文化的機能を浮き彫りにする論考です。どうやら、創刊号は幸先のよいスタートになりそうです。
1月22日には、そんな「思想地図」の創刊記念シンポジウムが東工大で開催されます。シンポジウムの内容を詰めるため、すでに東京在住のパネラー4人でプレミーティングを行ったのですが、こちらもたいへんに刺激的な議論が交わされました。当日も(司会の僕のミスがなければ)確実に盛り上がることと思います。
平日夜ですが、みなさん、ぜひご来場ください。
そしてまた、まだ届いてない論文の執筆者のみなさま。お待ちしています!(笑)
visioconference
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年01月14日10:49
あけましておめでとうございます。東浩紀です。
今年もよろしくお願いいたします。
さて、早速ですが、告知です。来月の2月15日、『動物化するポストモダン』フランス語訳出版を記念して、東京日仏学院で、フランス人研究者・編集者とともにテレビ会議(visioconference)を行います(通訳付)。『動ポモ』の内容について、先方から質問を受けるという形式です。
ストリーミングで見れるかもしれないとのことですが、詳細がわかりません。確実に見たかったら会場に行くのが無難だと思われます。詳細は下記のページをご覧ください。
http://www.saysibon.com/yoriai_sub/jinbutsuarchive/hiroki_azuma.htm