kajougenron : hiroki azuma blog

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渦状言論へようこそ。

ここは、批評家・東浩紀が運営するブログです。東浩紀の経歴や業績については、hiroki azuma portalをご覧ください。

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blog entries at 【2008年02月】

2ちゃんに「降臨」しました

昨晩、2ちゃんねるの東浩紀スレッドが100スレ目に突入したことを記念して、スレッドに「降臨」してみました。

しろうと(id:siruoto2)さんが以下のブログで質疑応答を掲載しています。すでにはてなブックマークが150ぐらいついているのですが、ぼくのブログの読者層はまたちょっと違う感じもするので、ここでも紹介しておきます。

東浩紀2ちゃんねる降臨まとめ

とても長いエントリで、環境によってはブラウザが落ちるので注意してください(僕の環境、つまりMacOSX10.4.11+Firefox2.0.0.12だとFirefoxが凍りました)。

3時間ほどの参加で、約360の質問に答えています。30秒でひとつの速度なので、いいかげんな答えも多いですがご容赦を。

リップサービスではなく、楽しい経験でした。ぼくはスポーツをしないので適当な比喩がおもいつきませんが、乱戦形式のなにかの稽古のような感じ。ときどきこういうのをするのも、頭のリフレッシュにいいのかもしれません。参加者のみなさんも、ご苦労さまでした。

(注)2ちゃんねるに慣れていない読者のために書き記しておくと、「降臨」というのは普通の2ちゃん語です。

ゼロアカ関係告知

今週末に迫ったゼロアカ道場ですが、最終的に97人の応募がありました。昨日書類選考を行い、病欠の可能性を含めて52人を選びだしました。本日、応募者のみなさんには、当落通知が行っていることと思います。

書類選考ですが、最初に応募書類の印象で「A」「B」「C」3段階の評価をして、その評価をもとに人数を絞り込む、という過程で行いました。したがって、応募書類に詳細に情報が書いてあったり、ブログのURLを記してあったりしたひとが、全体的に有利になっています。選考者はぼくひとりです。

どんな採点でもそうですが、採点の最初と最後では評価基準が変わってくるので、採点はいくどか行ったり来たりしながら行い、意外と時間がかかりました。真剣に選んだつもりですが、書類だけで判断していますので、落選したかたには申しわけなく思います。あまり気落ちしないでいただけるとありがたいです。

他方、書類選考を突破したかたは、絶対に欠席しないでいただきたいと思います。ひとり合格する裏で、ひとりが落選しています。最後まで迷って落としたかたもいるので、必ず出席でお願いします。

参加を辞退されるかたは、いまからでも編集部にご連絡ください。そのぶん、ひとり繰り上げることができますので。

世代について

このあいだのエントリで濱野智史さんの『恋空』論を紹介したので、その続きでふたつのエントリを紹介します。両方とも、濱野さんと同世代のひとたちによるものです。

ひとつは福嶋亮大さんのエントリ。

ケータイ小説の環境/神話とは何か2

そしてもうひとつは宇野常寛さんと荻上チキさんの対談(インタビューというより対談です)。真ん中あたりに『恋空』についての言及があります。

「ゼロ年代の批評」のこれから──宇野常寛さんロングインタビュー

さて、例によって、以上のような文章を読むたびに僕ももう若くないなあと思うわけですが、それはそれとして、つぎのような変化を感じます。

濱野さんの文章は依頼原稿でしょうが、福嶋さんの文章も宇野さんと荻上さんの対談も、ボランティアというか同人というか、商業原稿とは別に勝手に書かれたものです。しかし、上記二つの文章は、おそらくは、ケータイ小説について(あえてその部分だけを取り上げたとしても)商業誌で行われている多くの議論よりはるかにレベルが高い。

こういう現象は歓迎すべきです。それは批評の効率がよくなったことを意味しているからです。

『動ポモ』のあとがきにも書いたのですが、サブカルチャーは変化が早いものです。批評はその点ではどうしても遅れがちです。それそのものは悪いことではありません。ものを考えるにはどうしても時間がかかるから。

しかし、そのような不可避な遅れとは別に、出版メディアの権威的で保守的な構造が強いる遅れというものがある。それこそ、いま福嶋さんや宇野さんに『恋空』論を書かせる場所を用意できる紙メディアが、どれほどあるのか。ぼくには思いつきません。

なにか新しいことが起こる。それについて新しいことを考える。それを発表したいと思う。けれども、メディアを握っているのは、たいていの場合、(1)新しいことで金儲けをしたいひとか、(2)新しいことを古いことのなかに押しこめたいひとか、そのどちらかです。だから、新しいタイプの評論を書こうとすると、たいてい編集者に止められる。評論のスタイルが歓迎されるのは、もう新しいものが新しいものではなくなったときです。それこそ、いまのライトノベル評論のように。

しかし、それは評論の書き手にとっては単に無駄で、耐え難い。そもそも評論が世の中で軽蔑されているのは、そういう「遅れ」を強いる構造が評論の流通のなかにあるからです。だから、それは変えなければならない。そういうわけで、ぼく自身も「波状言論」そのほかいろいろ試みた。

けれども、残念ながらぼくの世代では限界があった。なぜなら、批評家や学者や編集者に関するかぎり、ぼくの世代はまだまだ保守的で、どうのこうの言いながらも、みな出版を信じ、書籍を信じ、新聞を信じ、文学賞や教授職を信じているからです。むろん、ぼくもおそらく例外ではない。ぼくはどうしようもなく出版人です。こういう「感覚」は、それぞれの世代が育った社会環境に強いられているので、個人の努力ではどうしようもないものがある。

古い感覚を否定する必要はありません。でも、それが障害になるときはある。その点、濱野さんや福嶋さんや宇野さんや荻上さんの世代は、ぼくからはとても自由に見えます。彼らはそこで、商業出版で書けないことがあれば、躊躇なく別の回路で意見を発表することを選んでいるように見えます。そして、その背後には、単に個人の資質だけではなく、「自分と同世代がブログに知的な意見を発表している」ことへの一般的な信頼があるように見えます。それは単純に羨ましいのです。

そもそも、理工系と人文系では、ネットへの感受性が、少なくとも5年、もしかして10年ぐらいは隔たっているのではないでしょうか。ぼくの記憶では、2000年代に入ってすら、メールを使っていない編集者はけっこういました(ぼくはそういうなかではずば抜けてネットに詳しいやつだったのです、これでも)。ぼくの世代の人文系の人間は、基本的にネットを自分の文章の場としては考えていない。ネットを使うとしても、「これは出版用」「これはネット用」と書き分けてしまうところがある。というか、ぼく自身もそうですね。

下の世代が出てくると、自分の「世代性」をいろいろな意味で痛感します。

なお、こんなぼくの戯れ言とは別に、上記2つのリンクはともに興味深いので、ぜひご一読を。

ゼロアカ〆切

ゼロアカ道場のエントリー、昨日で締め切りました。

講談社のシステムの関係で最終的な数字があがっていないのですが、最終的に、90名近い(あるいはそれを超える)応募があったようです。年齢も性別もバックグラウンドも意外にばらけていて、20代非モテ文系男子ばっかり、という多くのひとが予想していたであろう悲惨な光景(笑)は避けられそうです。

一時は定員に達するかも危ぶまれたのですが、結果的に、半数近くを書類選考で落とさなければならない事態になりました。5日間〆切を延ばしたために、選考が来週頭になってしまい当落の連絡が本当にぎりぎりになってしまうのですが、ご容赦ください。また、書類選考はあまり情報がなく、多分に運で決まるものですので、落選してもあまり落胆しないでいただけると嬉しいです。

よろしくお願いいたします。

フランス/恋空/告知

こんばんは。

先週の日仏学院でのvisioconferenceはけっこうおもしろかったです。ミシェル・クレポン氏からは4つほど質問が出されたのですが、そのいずれも日本でも『動物化するポストモダン』に対して向けられている疑問で、なるほど、あの本の「弱点」には国境がないのだと思いました。

シンポジウムの映像は、近日内に日本語訳でも公開されるとのことです。また、フランス向けの期間限定のブログも立ち上がる予定です。決まりましたら告知します。

あと、これはぼくの仕事ではないですが、以前のエントリの関係で、濱野智史さんの『恋空』論がおもしろかったのでリンクを張っておきます(こちら)。うまく言えないのですが、メディアの存在(ラカン風に言えばexistanceというよりinsistance)に対する再帰的な関係について考えるとき、どうしても「メタ」にひきずられて「ゲーム的」とか言ってしまうぼくはもはや古い世代なのだなあ、とこの文章を読んでちょっと思いました。

『思想地図』は、業界的には「若い論客」の雑誌ということになってます。実際、マスコミレベルではようやくその世代が認知され始めたところなのですが、本当はもう次の世代が出ているんですよね。最近、その存在をひしひしと感じます。

あと、もろもろ告知です。

『日本経済新聞』で、一方はライトノベルについて、他方は「思想地図」について取材を受けました。なにかの記事で、僕の名前を見かけるかもしれません。

『SF Japan』次号で、日本SF大賞の選評を記しています。

3月1日(土)にゼロアカ道場の第1回を開催します。

3月2日(日)に、東京大学、東京芸術大学、東京工業大学の建築学科の卒業設計合同公開講評会に出席します。詳しくはこちらです。

3月8日(土)に、東京大学情報学環主催のシンポジウム「アニメがみる未来〜コンテンツが拓く将来〜」に出席します。詳しくはこちらです。

3月10日(月)に、chelfishの3月公演『フリータイム』のポストパフォーマンス・トークに出席します。詳しくはこちらです。

3月14日(土)と16日(月)に、パリの日本文化会館で行われる国際会議「マンガ、60年を経て……」に出席します。日本語でのプレスリリースは、たとえばこちらなど。

ほか、パリでは『動ポモ』仏訳版出版に絡み、サイン会を行ったりインタビューに答えたりエコール・ノルマルの授業(!)に参加したりする予定ですが、それはまた近くなったらお知らせします。

とりあえず、こんな感じでしょうか。ほかにも、もろもろ決まったら五月雨式にお知らせします。

ゼロアカ定員突破

去る12日夜のネットラジオで、「おいおい、このままだと定員割れだよ、どういうことだよ!」と逆ギレ気味に煽ってみたゼロアカ道場ですが、そのあとあっさりと定員を超えたことがわかりました。みんな、サンキュー!

定員は超えたのですが、ラジオで宣言してしまったので、応募〆切は20日まで延長します。そのあと書類選考で50名に絞る予定です。50名以上はロジが耐えられないので、これは増やせません。

書類選考の基準はあまりありません。応募フォームも形式的なものなので、細かい基準があるわけもない。さて、どうするか……。

今晩日仏学院でシンポジウム

『動物化するポストモダン』仏訳(『Génération otaku : Les enfants de la post-modernité』)
出版を記念し、今晩7時より東京日仏学院でシンポジウムが行われます。

会場では同時通訳がつき、僕は日本語で、相手方はフランス語で話します。ストリーミングはフランス語でのみ行われるようです。フランス語がわかるかたは、下記ページでストリーミングを見ることができます。

http://webcast.univ-paris3.fr/vidconf/

それにしても、日仏学院に足を踏み入れるのはほぼ10年ぶりです。僕も昔は、日仏学院の通信教育でフラ語をやっていたものでした(僕の大学での第二外国語はロシア語だったので)。懐かしいなあ……。

なお同書については、『Libération』2月9日号と『Les inrocktibles』2月12日/18日号に紹介記事が出ました。

ゼロアカネットラジオ終了

下記告知のゼロアカネットラジオ、無事終了しました。リスナーのみなさん、ありがとうございました! 近日内に、音声データが講談社BOXのサイトにアップされる予定です。

ポイントは、「太田さんは16歳の人生を変えるような評論を求めている」ですかねー。この意図が確認できたので、ぼくのなかで思想地図との役割分担がはっきりしました。詳しくは音声をお聞きください。

ところで、今回「声が小さくて聞き取りにくかった」という意見が多数あるようです。編集部でモニタしていたスタッフは「音声レベルは問題なかった」と言っているので、もしかしてアクセスが集中したせいかもしれません。講談社BOXにアップロードされるデータでは、問題ないかと思います。

さて、TBSに向かわねば……。

本日TBSアクセス

このエントリ絡みで、TBSラジオアクセスより急遽出演依頼がやってまいりました。

本日22:40よりのバトルトーク・コーナーに出演します。お時間のあるかたは、お聞きください。

2/12ゼロアカネットラジオ

いろいろ準備に手間取って直前の告知になってしまいましたが、こんなのやります。

・タイトル  「ネットラジオ〜東浩紀のゼロアカ道場〜」
・時間    2月12日 20:00〜20:30(予定)
・接続方法 下記URLにパソコンからアクセスしていただければ、
        どなたでもお聴きいただけます。
・URL    http://live.ladio.livedoor.com/
・参加者  東浩紀氏 太田克史(講談社BOX部長)

明日夜8時ですが、その時間にPCの前にいるかたはぜひおお聞きください!

児童ポルノの単純所持禁止問題

またもや原稿が煮詰まっているので(こればっかだけど)、投稿。

GIGAZINEの

http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20080206_not_photos/

この記事を眺めていて、児童ポルノの単純所持禁止問題を思い出した(とはいえ、このエントリとリンク先の記事内容とはほとんど関係がない)。

児童ポルノ法の改正については、オタク界隈では「児童ポルノに絵は含めるのか」「美少女ゲームも作られなくなるのか」といった問題、つまり二次元の問題ばかりが騒がれている。しかし、ぼくはじつは、そちらにはあまり危機感を抱いていない。

というのも、永山薫+昼間たかしの『マンガ論争勃発』で明らかになったように、日本では規制推進派のあいだでも、マンガやゲームまでひっくるめての禁止があまりに非現実的で、法外な結果を引き起こすことはあるていど知られているからだ。日本でマンガやアニメのロリコン表現が全面的に抑圧されることは、おそらく近日中にはないだろう(後述のように遠い将来にはわからない)。

というわけで、ぼくの関心はむしろ三次元、いわゆる実写の児童ポルノの問題にある。

そもそも児童ポルノの制作や販売を禁止するのはなぜか。それはむろん、児童の性的虐待を防ぐためだ。

ちなみに、表現には猥褻規制という別の論理もある。じつはぼくは刑法上の猥褻の概念はなくしたほうがいいと思っているのだが、児童虐待が許されないのはそれとは別の話だ。したがって、いずれにせよ、児童ポルノの制作や販売は固く禁止すべきだ。まあ、ここまではほぼ異論がないところだろう。

しかし、単純所持を禁止するとなると厄介な問題が生じる。というのも、ポルノを見るだけならだれも傷つけてないじゃないか、迷惑かけてないじゃないか、という理屈が立てられるからだ。

いや、それでもキモいから禁止するべきだ、というのであれば話は早いが(そして実際は社会の大勢はそういう論理で動いているのではないかとも思うが)、表向きはとりあえずそういうことになっていない。ぼくたちの社会では、欲望は裁けないことになっているからだ。殺人の欲望と殺人の行為のあいだには無限の距離がある。同じように、児童との性的な行為は犯罪でも、児童への性的な欲望そのものは犯罪ではない。この原則は動かせない。

というわけで、ぼくたちの社会では、児童ポルノの単純所持を禁止する理由が、だいたい二つの論理で語られている。ひとつは、児童ポルノの鑑賞は現実の犯罪を誘発する、したがって禁止すべきだという論理。もうひとつは、児童ポルノの所持はポルノ制作者への金銭の移動を意味する、それは間接的に児童の性的搾取の支援になっている、したがって禁止すべきだという論理。

さて、ぼくはここで(この話は別に児童ポルノに限らず、殺人事件や暴力事件のたびにアニメやゲームの影響が語られ、そしてそのたびに良識ある人々が反論しているものなので、もはや読者にはおなじみだと思うが)、前者の論理の説得力は疑わしいと思う。メディアと犯罪の関係についてしばしば語られるこのような説(強力効果説)は、本質的には、上でいったん退けた「キモいから禁止」論と変わらない。繰り返すが、ぼくたちは欲望を禁止することはできない。その欲望が、いくら反社会的であったとしても。

しかし、ぼくは、後者の理由は強い説得力があると考える。むろん、ポルノをWinnyでダウンロードするだけであれば、金銭は動かない。しかし、その行為そのものが「虐待を経て作られたポルノ」への潜在的なニーズの表明になり、制作者の虐待意欲(?)を高めるという因果は十分に考えられる。この論理で行けば、児童ポルノの所持や購入は、道徳がどうとか、欲望がどうとかいうこととは無関係に、とりあえず暴力団やテロリストへの資金的援助と同列なので禁止するべきだ、という話になる。実際、いまアングラな児童ポルノを制作している連中が、かなり気合いのはいった犯罪集団であることは疑いない。ぼくは、これには(暴力団やテロリストへの資金的援助も認めないかぎり)反論が思いつかない。

したがって、ぼくは、児童ポルノの単純所持禁止に反対しない(なお、単純所持禁止が別件逮捕そのほかの口実になるかも、とかその手の心配があるのはよく知っているが、それはここで扱っているのとは別の話である)。

しかし、ここでひとつだけ疑問がある。

上記の論理で行くと、(1)制作時に児童虐待と無関係であり、(2)合法的に(つまりそれぞれの国の猥褻条項に抵触せずに)制作・販売され、(3)そのことが周知徹底されているので購入や鑑賞行為が虐待の支援になるとは(前述の強力効果説を使うことなしには)どうやっても言えない、そんな児童ポルノが存在するのであれば、それは制作しても消費してもまったく問題ない、という話になるのではないだろうか?

というわけで、迂回が長かったけれど、上記のGIGAZINEの記事だ。

いまや実写とCGの区別は本当につかなくなっている。リンク先で紹介された画像は写真をベクターに起こしたもので、その点で現実との接点をまだ保っているといえるが、しかしそれはいかにも儚い。ぼくたちはすでに、現実に存在しない人間の映像を、あたかも写真のように無から作り出す技術を手に入れている。そして、それを動かすこともできる。

だとしたら、そのような技術で作り出され、「これはCGです」と明記され、制作会社も後ろ暗いところがなく資金が犯罪組織に流れたりもしていない、しかしどこからどう見ても現実の児童虐待にしか見えないようなポルノが現れたとして、それにはどのような態度を取るべきだろうか。たとえば、いまのAVと同じていどにモザイクやらボカシやらがかけられ(つまり猥褻については普通のポルノと同じレベルの配慮がなされ)、小学生の女の子のCGが現実の男優と絡み合っているような(むろん実際には男優はひとりで演技しているだけの)ビデオが販売されたとして、それにどう対応すべきだろうか。

ぼくの考えでは、そのようなポルノは、いまのAVと同じていどには容認するしかない。それがあるひとびとをどれほど不愉快にするか、ぼくもひとりの親として理解できるが、しかしそれでも容認するしかない。そのとき、「これは鑑賞者に対して実写と同等の効果をもつので、実写の児童ポルノとみなして禁止する」と言うことはできない。それは、鑑賞者の欲望に照準を合わせている点で、前述の論理からはみ出している。みたび強調するが、ぼくたちは欲望は裁けないのだ。

しかし、実際にはそう考えないひとが多いだろう。というか、そちらこそが多数派だろう。そして、おそらくそのとき、ぼくたちの社会は、欲望そのもののの禁止という方向に大きな一歩を踏み出すことになるだろう。それが法整備のかたちをとるのか、運用の変更というかたちをとるのかはわからないが。

もし、マンガやゲームの二次元児童ポルノまで規制されることがあるとすれば、それはそのあとのことになるはずだ。

ぼくたちはそのとき、欲望は禁止してはならない、とどれほど強く叫べるだろうか。それは表現の自由とはまったく異なる問題だ。ここにはとても厄介な問題が横たわっている。

それにしても、さすがにこの内容の投稿は、ブログのトップ写真と合ってないですね。ご容赦を。

娘自慢のほんわかブログにしたかったのに……。

新潮/論座/ミステリーズ!

みっつ告知です。

『新潮』3月号に、高橋源一郎氏、田中和生氏との鼎談「小説と批評の環境問題」の後半が掲載されています。この鼎談、後半でもテンションはある意味であがり、田中さんはぼくを「無責任」とまで言うのですが、ぼくは長期的には、ぼくの立場のほうが文学一般(それは田中氏の「文学」とは違うかもしれないけど)にとって責任ある立場だと確信しています。まあ、そういう内容の鼎談です。

『論座』3月号に、森暢平氏との対談が掲載されています。なんと、テーマは象徴天皇制! 対談内で、「いまの天皇制って本当に大きなテーマなのか」「象徴天皇制はともかく、天皇制という象徴は終わりつつあるかも」みたいな話をしているのですが、実際、表紙でも「ポスト・ロストジェネレーション」特集のほうが目立ってます。全体的に、ぼくは大した話はできていません。

『ミステリーズ!』27号に、連載評論「セカイから、もっと近くに!」(無事タイトルは修正されました)の第2回が掲載されています。今回と次回のテーマは、「新井素子と家族の問題」です。ぼくはじつは中学生時代、新井素子さんの大ファンだったのですが、彼女の作品について正面から語ったのは、講演を除くとこれがはじめてなのではないかと思います。

トークラジオAliveが2/9に帰ってきます

昨年末、コミケでこそこそと販売した宇野常寛さんとの「トークラジオAlive」、ネタとはいえあまりに酔っぱらっており限界まで無内容だったため、二人で反省し続篇を収録することにしました。

以下のイベントで公開収録となります。

http://blog.goo.ne.jp/wakusei2nd/e/a3467191943d4998e86011f3aad480d5

今度はまじめに話します。宇野さんはすでにレジュメも切っています。マジです。

会場のキャパ的に25名が限界とのことです。来場希望者は、早めにお申し込みください。

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