kajougenron : hiroki azuma blog
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ここは、批評家・東浩紀が運営するブログです。東浩紀の経歴や業績については、hiroki azuma portalをご覧ください。
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リアルのゆくえ増刷……
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年08月27日00:29
『リアルのゆくえ』が、驚くべきことに売り上げ好調らしく、1万部の増刷がかかりました。みなさん、あの喧嘩を楽しんでいるのでしょうか。まあ、確かに二人の本質が出ている本ではあると思いますが……。複雑な気分です。ちなみに、次回の『文學界』の連載では、グーグル的公共性の話と絡めてこの本について語っています。
また、その関連というわけでもないのですが、『動物化するポストモダン』も最近増刷(17刷)がかかっています。今度の増刷では、カバー背のデザインがちょっと変わった(全部青だったのが、青い四角が小さく入るだけになった)ので、これで3代目といったところですね。
6年前の文章を再録してみた
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年08月25日11:17
こんにちは。
巷では、というかブログ論壇の一部では、いやむしろ、単純にゼロアカ道場門下生まわりでは、いま「インタビュー動画」アップなるものが流行していて、20歳代の文芸評論家、福嶋亮大さんへのインタビューがここで公開されています。
この動画に限らず、最近はまだ本格的にデビューしていないひとの「インタビュー」や「対談」なるものが流行していて、おそらくある世代よりうえの読み手はなんだかなあと思っているのではないかと不安です。ぼくとしても、じつはひそかに、一月ほどまえに黒瀬陽平さんが荻上チキさんにインタビューされて人生語りをしているのを見て、おいおいおまえ、人生語るまえにまず実績あげろや、まだ思想地図で一本論文書いただけじゃんか、とか大塚英志ばりに教育的指導を発動しかけたりもしていたわけですが、しかし、ふと自分を思い返すと、ぼく自身が26歳ぐらいのときに「オタクから遠く離れて」とかいうインタビューをQuickJapanで受けていて(インタビューアーは伊藤剛氏、「郵便的不安たち」所収)、なぜオタクの自分が批評を志すようになったか蕩々と自分語りをしたあげく、唐沢俊一氏にどこかでイヤミを書かれ「なんでこのオヤジはこんなとこに過剰反応するんだ」と鼻白んだりしていたので、まったく他人のことは言えません。というか、やっていることは完璧に同じです。
したがって、おそらくはこれでいいのでしょう。こんな雰囲気が拡大すれば、そのうち、ただの高校生同士が「対談」とか銘打って、リアリティショー的な動画をばしばしアップする時代がやってくるでしょう。それはもはや批評でもなんでもないような気がしますし、その展開は単純に批評の弱体化を、つまりは、批評がもはや世代的共感のためのコミュニケーションツールとしてしか生き残っていない現実を表しているだけのような気もしますが、それが現実ならばしかたない。ぼくたちには、その現実のなかで生きていくしか選択肢がないのです。いやまじで。
というわけで、どんどんやってくれw。
ちなみに、やずやさん(福嶋インタビューの撮影者)が使っている機材はxactiです。藤田直哉さんもそれを使っています。ザ☆ネットスター!のウェブ動画もそれで撮られています。ぼくももっています。もはや論壇動画の公式アイテム化しています。ぼくもそのうち自分で撮って動画配信でもするかもしれません。2ちゃんに降臨するとかは古いのかもしれません。アツい時代がやってきました。
■
さて、それで本題ですが、その動画に絡めて福嶋さんのブログで、ぼくの6年半まえの文章が彼のフェイバリットとしてあげられていました。福嶋さんのところからのリンクだと探すのが難しいので(まだエントリの単位がない時代の文章なので)、ブログに全文貼り付けておきます。
ちなみに、これは『動物化するポストモダン』の出版2ヶ月後くらいに書かれた文章ですが、これを読むと、ぼくが当時の時点で、すでに単純な動物化肯定論やコミュニケーション排除論をダメだと思い、だからこそ『動ポモ』を書いたことがよくわかります。ぼくは、人間やコミュニケーションについてもう少し繊細なことを考えていました。
そういえば、じつは今日ちょうど対談収録なのでメモがわりに書いておけば、宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』は、『動ポモ』批判にあたってそこらへんを(「解離的人間」についての章を)完全に無視しています。実際、彼の当時(2000-2年ごろ?)の論壇ウォッチはかなり荒っぽいものだったと記憶しています。みなさんご存知のとおり、ぼくはいままでは戦略的に宇野さん擁護の立場に立ってきたし、またこれからももっと大きな敵がいるときにはその立場は揺らぎませんが、彼の東浩紀批判が単行本として公刊された以上、その部分には著者としてきっちりと応対してくるつもりです。
ところで、ひとつトリビアを言えば、この当時(そしてそのあともけっこう長いあいだ)、ぼくが「ぼく」ではなく「私」を使っていたのは、デビュー当時に斎藤美奈子氏に「東浩紀はぼくぼく言ってぼくちゃん批評でキモい」とか意味不明のイヤミを言われて、微妙に傷ついていたからです(笑——実際には「ぼく」という言葉には団塊世代から大塚英志に至る「ぼくら」語りの伝統が透けてみえて、そういう一人称を選択することの政治性がどうの、みたいな話だったような気もしますが、詳細は忘れました)。いまはすっかり傷も癒えて、というかだれになに言われてもとくに気にしなくなったので、「ぼく」を使っています。以下の文章は、セカイ系の話にもつながりますし、本来は「ぼく」で語るべきだった内容です。
ではでは。
♯
なお、以下の文章でささやかな引用のタイプミスがあったと記憶していますが、当時の文章そのまま再掲載が主旨なので直していません。内容には影響しません。
♯
■
(以下2002年1月17日の文章)
近況 2002.1.17
謹賀新年。今年もこのサイトをよろしく。
---以下『未来にキスを』のネタバレあり--
さて、新年からいきなりオタク系の、しかも時期外れの話題で失礼するが、ここのところの休みを使って、ようやく昨年9月に発売された『未来にキスを』(otherwise)をプレイすることができた。知るひとぞ知るように、このギャルゲーについては、発売当初から、ウェブの一部で、私の『動物化するポストモダン』(より正確にはその『ユリイカ』連載版)の明らかな影響があるという噂が流れていた。そもそもこのゲームのシナリオ担当である元長柾木氏は、前作『Sense Off』でも、ライプニッツやらサイバネティクスやらを匂わせて奇妙な世界を作りあげていた人物だった。というわけで以前から気にかかっていたのだが、どうも時間が取れず、年が明けてようやく現物にあたれたというわけだ。
それで感想だが、このギャルゲー、というより「メタギャルゲー」(としか思えないくらいにシナリオの方向性と乖離したイラストが採用されているだが)にどれほど私の本が影響を与えたのか、率直に言って判断できない。だれもが分かるような引用があるわけではないからだ。ただ、ラストエピソード「Genesis」に登場する抽象的な会話の言い回しが私の言葉使いにとても似ていることは確かで、そういう意味で、このゲームの「元ネタ」として私の本が話題になったのは納得がいった。元長氏は私の連載をゲーム制作前に読んだのかもしれないし、読んでいないのかもしれない。そのどちらであったとしても、このゲームの最後で語られているような世界観、というかコミュニケーション観が、私自身のものと近いのは確かだ。
たとえばこの作品のエンディングには、つぎのような「ポエム」(元長氏自身があるキャラの台詞に託してそう呼ぶのだが)がスクリーン上を流れる。
俺たちは今、現実と歴史が混じり合う場所に立っている
未来へのスタートラインに立っている
この先は、論理も何もない世界だ
文脈も物語もない
あるのはただ、ばらばらで、互いに関連づけられていない
存在しないものたちだけ
その世界に、人間なんていない
彼らは、もう滅び去ってしまった
俺たちもまた、もう人間ではない何かへと変化してしまった
そこは、欲望あふれる荒野だ
ただキャラクターがいて、ゲームがあるだけ
キャラクターたちがゲームを繰り広げる、この新しい世界
そんな世界へと、俺たちは今、足を踏み出そうとしている
そう
圧倒的な楽園に向けて
この文章は、もし私がもう少し怖いもの知らずだったとしたら(笑)、『動物化するポストモダン』の末尾に書き記していたとしても決して不自然ではない。それくらい言葉使いが似ている。だから私は、このエンディングロールを眺めて、嬉しいような気恥ずかしいような、少し奇妙な経験を味わった。
*
というのが元ネタ問題についての私自身の見解だが、それとは別に、この作品をプレイして感じたことがある。上に引用したように、『未来にキスを』は、「ギャルゲー新世紀宣言」とでも言うべき一種の予言、というか、世界観をブチ上げて終わっている。つまりこのゲームは、新しい時代の到来を告げて派手に終わっている。それは一見、新人類/80年代的な振る舞いにも見える。新人類は「新しい時代」が好きだった。実際、当時は「アニメ新世紀宣言」なるものもあった。
しかし同時に、この作品はギャルゲーでもある。つまり、あくまでも主人公とキャラのあいだの疑似恋愛を(そしてそれだけを)描く、閉鎖的で虚構的な箱庭的世界を舞台としたゲームでもある。『未来にキスを』の世界には、国家も政治も歴史も社会もない。したがって、当然のことながら、そこで交わされる「哲学的」な会話のなかにも、国家も政治も歴史も社会も入る余地がない。そこで語られるのは、ただ、「私」と「あなた」のコミュニケーションの性質という抽象的な問題だけだ。
それゆえ『未来にキスを』で「新しい世界」の到来が宣言されることには、ギャルゲーという箱庭の外の世界、いわゆる「現実社会」の動きはまったく関係しない。つまり、元長氏がここで「新しい時代が来る」と叫んでいることには、かつて新人類世代を支えたような、資本主義の段階がどうとか、情報化社会がどうとか、そういう大きな物語=問題意識がほとんど関係していない(携帯ゲームの普及が少し語られるだけだ)。かわりに彼が描くのは、「私」と「あなた」のコミュニケーションという小さな物語のみである。そして、その問題についてグルグルと考察した結果として、あくまでも抽象的に、もはや私たち人間にはゲーム的なコミュニケーションしか残されておらず、それを肯定しなければ生きていけないのだ、という宣言が出てくる。『未来にキスを』のエンディングは、そのような実存的な動機に支えられている。
だから『未来にキスを』の宣言は、80年代的な脳天気さに近いようでいて、限りなく遠い。そこでは、ゲーム的(お望みならばそれをポストモダン的あるいは動物的と言ってもいい)な「新しい世界」が肯定されるのは、それが自明に素晴らしい未来だからではない。むしろ、それを素晴らしいと思わなければならないくらい、私たち自身の能力が貧しいからなのだ。言い換えれば、「私」という人間と「あなた」という人間のコミュニケーションなど、最終的には無理に決まっているからだ。そして、にもかかわらず、たいていの人間にとって、そのギャルゲー的=対幻想的な箱庭を超えるものなどなにもなくなってしまっているからだ。つまり、この21世紀を迎えた日本に住む私たちには、小さな人間的なコミュニケーションも、大きな世界観も、ともに与えられていないからだ。『未来にキスを』がギャルゲー的なコミュニケーションのありかた(お互いがお互いの内面=属性だけを見つめ続けるコミュニケーション)を肯定するのは、それが、この不可能性を迂回する唯一の現実的な方法だからである。この作品の箱庭的世界は、その一点で現実と接している。
おそらくこのような実存的、というか疑似実存的(何と言ってもそれはギャルゲーに仮託しなければ話せないような実存なのだから、「疑似」と付けておくしかない)な思考の道すじは、80年代的な「逃げろや、逃げろ」を知る人々からすれば、ウザくて鈍重なだけに見えるだろう。また見方によっては、古くさい文学性への回帰にすら映るかもしれない。しかし、その鈍重さにはやはり何らかの切実さが宿っている。そこで見えてくる世界がどれほど自閉的で悲惨であろうとも、あえて「圧倒的な楽園」と言い、その「未来」に「キス」をしてしまうぐらいには。そしてその切実さに対しては、この作品がゲームとしてよくできているかどうかといった問題(実のところそういう評価基準は私にはどうでもよい)とは関係なく、私自身は強く共感する。
*
あと少しだけ筆を滑らせよう。私はいままで実質的に2冊の本しか出していない。『存在論的、郵便的』と『動物化するポストモダン』である。この2冊は題材もスタイルもずいぶんと違うので、普通は連続的に読まれないし、また私もそれを期待していない。実際、いまや、私自身ですら、『存在論的、郵便的』で何を書いたのか、かなりの部分を忘れかけているくらいだ。
しかし思えば、その『存在論的』よりさらに以前、デリダはおろか、まだ柄谷行人や浅田彰の名前すら知らなかった高校生のころ、私もまた、「私とあなたのコミュニケーションという小さな物語」ばかりを突き詰めて考えていたのだった。恋愛対象を探すのすら難しい男子校の教室の片隅で、私はただ、「私」はあなたを愛することができるか、私はあなたに「愛」を伝えることができるのか、そもそも「あなた」の唯一性とは何なのか、そんなことばかり抽象的に考えていたような気がする。思えばアブない高校生だが、哲学者なんて志すのはそういうヤツに決まっている。
そしてそのモチーフは、『存在論的』と『動物化』を貫いてずっと生きている。私とあなたは分かりあえるのか。伝統的にこの問いに対しては、2種類の回答しかない。いつか分かりあえるという答えと、絶対に分かりあえないという答えだ。『存在論的』の言葉で言えば、前者が「形而上学的」回答で、後者が「否定神学的」回答ということになる。そして、否定神学的な、つまり「絶対に分かりあえない」という答えには、実はオマケがついている。私たち人間にとってはその「絶対に分かりあえない」ということこそが大事なのだから、その不可能性を正面から見据えて生きて行け、という倫理的な要請だ。別の言葉で言えば、人間間のコミュニケーションは不可能だから、神とのコミュニケーション(内面にしかないコミュニケーション)だけを信じろ、という要請である。
しかし私はその両者とも気にいらなかった。そこで私が『存在論的』で「郵便的」という言葉で高らかに宣言しようとしたのは(当時の私自身の自意識としては、これはもう革命的なアイディアのはずだった)、そのどちらでもない別のコミュニケーションのモデルである。
私とあなたは絶対に分かりえない。したがって、私は私の内面を、あなたはあなたの内面を見つめることしかできない。しかし、にもかかわらず、私の内面に見えるものはひとつではない。つまり神はひとつではない。私のなかには、たくさんの「神々」が、コミュニケーションのモジュール(『未来にキスを』で言う「属性」)が詰め込まれていて、あなたのなかにもまたたくさんのモジュールがあり、それらが勝手に衝突しあうことで、「私」と「あなた」のコミュニケーションは成立している。「私」というひとりの人間、「あなた」というひとりの人間、その両者は決して出会うことがないけれど、しかし、私の手とあなたの手が、あるいは私の唇とあなたの唇が、あるいは(あえてオタク用語を使うならば)私の「萌え要素」とあなたの「萌え要素」が、ほかにもさまざまな局所的で部分的なものたちが勝手に出会い、勝手に離散することで、私たちのコミュニケーションは成立している(ように見える)。私が考え続けているのはそういう問題だ。
オタクたちのジャンクで奇妙な想像力は、ときに、その郵便的なコミュニケーションの本質に肉薄する迫力を見せる。私たちは、ギャルゲーのキャラクターに対するようにしか、ひとと接することができない。肯定するにせよ、否定するのせよ、それが人間の条件なのだ。それは世代とも時代とも関係ない。『動物化するポストモダン』は、徹底してマニュアル的で社会学的で世代論的な分かりやすさを目指して書いたのだが、本当のところ、そういうことが言いたくて書いたような気がする。久しぶりにギャルゲーをきちんと攻略して、そんなことを思い出した。(1.19「ネタバレ」表記加筆)
ちょいとフォロー……
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年08月22日21:48
こんにちは。東浩紀です。
狭いブログ論壇ネタです。関心のあるひとむけに、フォローをひとつ入れておきます。
http://d.hatena.ne.jp/kidana/20080822
ここに「コミケ・ゼロアカ飲み会」動画なるものの発言の起こしがアップされてしまっています。しかし、その冒頭の、「いま宇野君(宇野常寛)と電話したら「東さんも今メジャー化しているのに、ゼロアカとかで変な連中と付き合って足引っ張られるんじゃないか」て心配してました。」という発言、これ、じつはまったくの事実無根、完全なネタです!(笑)
いや、これ、もとの動画を見て貰えばわかるのですが、基本的には飲み会のバカトークの記録なわけです。で、それでこのとき、ぼくとしては発言のあと、「え、まじっすか!」>「いや、冗談だけど」というリアクション展開を期待して話したんだけど、それがそのまま滑って流れていってしまったと。
なんか、活字に起こされると真面目に宇野さんの発言だととられ、そうなってくると「宇野vsゼロアカ」みたいなアングルも作られてしまいそうなので、ここにフォローしておきます。
■
まずお願いなのですが、基本的にあの動画シリーズは、すべて、そういう冗談込み、文脈込みのものとしてお楽しみください。酒もかなり入っているし。たとえば、リンク先のページの「テープ起こし」によると、単に「ジャンル誌が嫌い」みたいな発言をしたことになってますが、あれも動画を見てくれれば違う文脈で見えるはず。というか、実際、ぼくジャンル誌で喜んで仕事してるしね。
そして大前提。最近は動画公開とかストリームとかはやりですが、ぼくはいちおう文章を売って生きている人間なので、こうやって本人確認抜きで活字起こしされちゃうとちょっと困っちゃいます(笑)。動画がフリーだから起こしも自由だと思ったんだろうけど、喋りと文字はぜんぜん違う印象を与える媒体だから……。いくら動画が公開されているとはいえ、やはりこういうときは、本人のチェックを取らないとまずいかもよ?>運営者さま ちなみにぼくは、イベントレポなんかでも、書き手の文責がはっきりしているものはどしどしやるべきだと思うけれど(報道の一種として)、パネラーの発言をできるだけ中立的に書き起こしました、的なものはむしろまずいのではないかと思っています。表面的に中立性があるように見えれば見えるほど、現場の雰囲気と文字起こしとの、報告者が拾えなかったギャップが深刻な誤解を生むからです。
話が逸れました。まあ、とにかく、来週月曜日には宇野さんと問題の対談です。そっちは最初から文字媒体向けにきちんとやります。ではでは!
W大澤との鼎談
カテゴリー[misc]投稿日時: 2008年08月21日13:27
大澤真幸、大澤信亮のW大澤氏(?)との鼎談が以下に掲載されています。
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080820dde018040052000c.html
お知らせまで。
CGの未来
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年08月20日12:01
こんにちは。
コミケ後のもろもろで東浩紀スレがとんでもないことになっているようですが、そっちばかりにサービスしているわけにもいかないので、まったく無関係な投稿を。
GIGAZINE経由で見つけたのですが、
http://technology.timesonline.co.uk/tol/news/tech_and_web/article4557935.ece
これはすごい! この解像度では実在の人間にしか見えない。リアルとCGのあいだの「不気味の谷」とか、そのうちさっくり乗り越えられそうな感じがしてきました。
あと、こういうのを見ると、やっぱり考えてしまうのはポルノへの応用可能性です。前に児童ポルノ絡みの投稿でも書いたけれども、「完全にリアルにしか見えないのだけど、被害者も加害者もいない児童ポルノ」が作られるようになったとき、ぼくたちの社会はどう判断するのか。あるいは、「完全に本物のようにしか見えないのだけど、実際には単にCGで作られているスナッフムービー」とか。これは難しい問題です。欲望が問題なのか、被害が問題なのか、といういままで曖昧にされてきた根本が、これからは具体的に問われることになるかもしれません。
西なー02b「波状言論」
カテゴリー[hajou]投稿日時: 2008年08月16日18:42
明日のコミケのお知らせです。
まず、新刊はありません。すみません。
新刊はありませんが、恒例のフリーペーパーは配ります。いちおう、8000字ぐらいは書き下ろしました。コミケに行く人は、ぜひフリーペーパーをもらいに遊びに来てみてください。
あと頒布物は、旧刊の『動物化するポストモダンとその後』DVD-ROM、『波状言論』CD-ROMと、『ギートステイト・ハンドブック』です。『ギートステイト・ハンドブック』については、25冊のみ搬入し、これがすべて売れたら在庫切れです。
あ、それと。まだ本来なら店頭に並んでいないはずの『リアルのゆくえ』。うちに見本が届きましたので、5冊だけもっていって地味に先行販売(?)しようかと思います。
それでは、明日会場で!
もろもろ告知8月版
カテゴリー[recent works]投稿日時: 2008年08月15日11:43
6月12日の投稿以来、久しぶりの仕事の告知です。
すでに発売しているものも一気に挙げておきます。京都に行ったり新宮に行ったり新宿で徹夜で飲んだりといろいろやっていたのですが、終了したイベントやテレビ出演は挙げていません。
■
【新著】『リアルのゆくえ』、講談社現代新書。内容はひとつまえの投稿のとおり。大塚英志氏との共著です。
【連載小説】「ファントム、クォンタム」第3回、『新潮』10月号。今回で第1章が終わる予定だったのが、終わりませんでした。だいたい50枚ぐらいです。
【連載評論】「セカイからもっと近くへ!」第5回、『ミステリーズ!』vol.29。サブタイトルは「法月綸太郎と恋愛の問題(1)」。
【連載評論】「なんとなく、考える」第2回、『文學界』9月号。および第3回、同10月号。
【連載評論】「東浩紀ジャーナル」第10回、『SIGHT』vol.37。今回は、仲正昌樹さんの東浩紀批判@諸君に対するプチ反論。前々回は赤木問題、前回は上野千鶴子批判と、あまりにオヤジくさい雰囲気になってきました。ぼくのキャラと違うので、そろそろ軌道修正します。
【単発原稿】「秋葉原事件と「ゲーム的」現実感覚」、『アキバ通り魔事件をどう読むか?!』、洋泉社。
【単発原稿】秋葉原事件について。『北海道新聞』7月25日号。ここに全文転載しています。
【単発原稿】書評(速水健朗著『ケータイ小説的。』)、『週刊文春』7月31日号。
【特集】2年半ぶりに刊行された(!)『ファウスト』vol.7に、小さな東浩紀特集があります。ぼくのインタビューと、3月にパリで行われた講演の抄録、そして『動物化するポストモダン』韓国語版と英語版への序文が収められています。
【ウェブ】「東浩紀のゼロアカ道場」。一部で異様に盛り上がっています。2ちゃんねるの東浩紀スレはゼロアカスレに生まれ変わりました。
【ウェブ】「柚木涼香と東浩紀の動物化してもいいですか(はあと)」。なぜか好評です。すでに9月号分まで収録しました。こっちはこっちであまりにオタクくさく、これはこれでぼくのキャラとも違う気もするのですが、はたして軌道修正できるかどうかw。
【インタビュー】秋葉原事件について。大澤真幸編、『アキハバラ発 〈00年代〉への問い』、岩波書店、9月刊所収。
【インタビュー】早稲田文学新人賞選考委員就任について。フリーペーパー「WB」次号。
【対談】秋葉原事件について。鈴木謙介さんとの対談。『潮』10月号。
【対談】『ゼロ年代の想像力』をめぐって。宇野常寛さんとの対談。『小説トリッパー』次号。
【対談】中上健次をめぐって。前田塁さんとの対談。『ユリイカ』(おそらくは)10月号。
【鼎談】秋葉原事件について。大澤真幸さん、大澤信亮さんとの鼎談。『毎日新聞』8月20日夕刊、8月21日夕刊。
【鼎談】秋葉原事件について。「マル檄・トーク・オン・デマンド」第376回の要約。『サイゾー』8月号。
【座談会】6月27日に行われた『ロスジェネ』刊行イベント第2部のシンポジウム。秋刊行予定の『ロスジェネ』増刊号。
【イベント予定】「ライトノベル的 VS ケータイ小説的 〜 ファスト風土の文学的想像力」。速水健朗さんとのトークショー。9月5日19時より、ジュンク堂新宿店にて。
【そのほか】9月16日から19日にかけて、新潟大学人文学部で集中講義を行います。
【そのほか】瀬名秀明編『サイエンス・イマジネーション』(NTT出版)に帯文を寄せています。
■
ほかちょろちょろあった気がしますが、時間がないのでこのへんで。
あ、それから明後日はコミケに出店します! ブースは西なー02b「波状言論」です。よろしく。
新著:リアルのゆくえ
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年08月15日00:54
こんばんは。新潮小説の締め切りでお盆休みが消えつつある東浩紀です。
さて、ぼくの読者はコミケ対策で忙しい時期だと思いますが、他方、あと数日で、大塚英志氏との共著『リアルのゆくえ』(講談社現代新書)が店頭に並びます。
http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2879573
内容は、いままでの対談の再収録が3章、語り下ろしが1章というところです。あとがきは、ある事情があって、ぼくのものだけが収録されています。
上記の紹介ページには「わかりあうつもりのない2人による8年間の世代間闘争」と書いてありますが、これは比喩でも煽りでもなんでもなく、この本での大塚英志氏のぼくへのマジギレ気味は、マジ半端ありません。とくに第3章はすごい。「新現実」掲載時には落とされたやりとりが、かなりそのまま復活しています。ほとんど喧嘩です。
「わかりあうつもりがない」共著といえば、ぼくにはかつて笠井潔氏と作った往復書簡集、『動物化する世界の中で』(集英社新書)という怪著があるわけですが(と自分で言うのもなんですが)、今回の本はあれを超えたのではないかと微妙に自負しています。いやはや。でも、まあ、ぼくは大塚さんと一緒に本を作れたというだけで光栄です。大塚英志はとても重要な評論家です。大塚さんにいくらなじられても、その信念は一ミリも動きません。
手にとって、さまざまな観点でお楽しみいただければ幸いです。
むろん、まじめな話もしています。というか、大塚さんもぼくも、内容レベルではいたってまじめなのです。でも、どうも、それを超える何かも生まれてしまっている。そんな本です。
サンプロ補足資料
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年08月10日15:12

こんにちは。というわけで、テレビ朝日のサンデープロジェクトで、姜尚中、香山リカ、櫻井よしこ、田原総一朗の4氏と語り合ってきた東浩紀です。収録後、姜さん以外の3氏とは昼食会があって、熊野大学で飲めなかったアルコールをばっちり飲んできましたw。
さて、その放映時に示したグラフをアップロードします。上記は、2008年6月9日から2008年7月26日までに、2ちゃんねる上に立てられたスレッドの中から、「加藤智大」の名前を含む全171スレッドを調査し、そのタイトルのなかに「神」「英雄」「称える」「同情」など、共感的と思われるものを含むスレッドを抽出してグラフにしたものです。フリップにも示されていたと思いますが、調査は気鋭の情報社会論研究者、濱野智史さんに依頼しました(ありがとうございます!>濱野くん ちなみに、このブログの読者であればご存知のように、濱野さんはニコニコ動画の「権威」でもあり、第1著書が10月末にNTT出版から出版される予定の注目株です。新著にはぼくも帯文を書いています)。
ここからとりあえず言えるのは、「2008年6月9日から2008年7月26日までに、2ちゃんねる上に立てられたスレッドの中から、「加藤智大」の名前を含む全171スレッドを調査したところ、47スレッドのタイトルが共感的で、比率としては全体の27%」だということです。調査対象は「加藤智大」の名前を含むものに限られているので、秋葉原事件に関係するスレッドは171よりもはるかに多くなるものと思われます。実際、ぼくが事件直後に朝日新聞について書いた論評について、ニュー速では合計7つのスレッドが立っており、それはそれでやはり加藤に対して共感的なコメントが寄せられてもいたのですが、それはこの調査対象に入っていません。
ご存知のように、2ちゃんねるの書き込みは、本音とネタの区別がつきません。また、だれが書き込んだかもよくわかりません。したがって、「ウェブで加藤容疑者への共感が集まっている」ということを客観的に示すのはむずかしい。というかほとんど不可能です。実際、これも放送で言いましたが、事件の直後、週刊新潮が「2chで加藤が神格化されている」と記事を書いて、 「釣られてるんじゃねーよ」と冷笑を浴びたという事件があります。また、このデータは、サンプロから提案があって濱野くんにメールして、実質1晩で調査してもらったものなのでじつに単純です。
しかし、かといって、2ちゃんねるの書き込みの全てがネタで、社会調査に値しないかといえば、それもまたそうでもないでしょう。したがって、ぼくは現実的には、いまの段階では、とりあえず素朴に、「加藤容疑者への共感”のように見える”書き込みがどれくらい多かったか」を示すのが、もっとも信頼のおける出発点だと考えました。そして、そのかぎりで言えば、立てられたスレッドの3割が共感的なタイトルをもつというのは、やはりなんらかの現実を示していると思います。
検索には、「にくちゃんねる跡地」を使っています。このデータをどのように解釈するかは、ぜひ議論してください。
最後に、加藤容疑者への共感を示すと思われるスレッド名の主なものを、いくつか列挙しておきます。
・【2大ネ申】宅間守・ 加藤智大 はネ申【双璧】
・加藤智大 と付き合いたい
・ ■時代の寵児■ 加藤智大 ■ヒ-ロ-■英雄■
・ ■「改革」が生んだ 加藤智大 は小泉チルドレンだろ?
・ 【秋葉原殺傷】 加藤智大 救世主伝説を語り告げ
・ ☆みんなで 加藤智大 先生に面会に行こう☆
・アキバに降りたった新教祖、 加藤智大
・加藤智大 と付き合いたい
・ 【感謝】 加藤智大 の功績で日雇い派遣原則禁止に!
・加藤智大 の日記を読んだが、一言一言が悲しすぎる・・・
・ 加藤智大 様は真の英雄
・ 【革命戦士】 加藤智大 将軍様は、日本の救世主
・加藤智大 様を称えるスレ
ゼロアカ門下生公式ブログが出揃いました
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年08月07日21:15
こんばんは。明日から新宮の東浩紀です。ひさしぶりの、というか9年ぶりの柄谷・浅田両氏との再会に緊張気味です。
昨日の投稿で書き忘れていました。ゼロアカ道場門下生のブログが出揃ったので、あらためてリンクを張っておきます。
ゼロアカの主題歌ができたり、批評の妖精が降臨したり、なんかすごいことになっています。ぼくはかつて、「批評の姿を変えるとは、主題や文体を変えるだけではなく、その受容そのものを変えること、つまりは、いままで批評を必要としてきた読者からあえて離れ、いままで批評が必要とされていなかったところに批評を半ば強引に移植し、育てあげることを意味している」などと書き記したことがありますが(『批評の精神分析』あとがき)、それにしてもこれは想像を超えている、というか、もはやもうどう考えても、彼らの想像力は批評や評論などとはなんの関係もないところに行こうとしているような気がし、そして実際に2ちゃんねるのスレッドでも「あずまん、これでいいのか?」などと非難の声がぼこぼこ上がっているわけですが、いやはや、それでも、ぼくは(赤塚不二夫氏の冥福を祈りつつ)ここで「あえて」断言しましょう、まさに「これでいいのだ」と!
というわけで、門下生の方々は、がんがん変な方向に行ってください。けれども同人誌を作るのも忘れずに。
■
最終批評神話 / re=c(非モテチーム)
http://d.hatena.ne.jp/BST-72-Chihaya/
BL・やおい文学研究所(腐女子チーム)
ポリリズム(サブカルチーム)
http://d.hatena.ne.jp/yazunami/
形而上学女郎館(秀才女子チーム)
http://d.hatena.ne.jp/metaphysical_jyoroukan/
ゼロアカ道場第四関門 藤田-井上ペア公式ブログ(メガネチーム)
http://d.hatena.ne.jp/fujita_xamoschi/
北海道新聞7月25日夕刊付記事
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年08月06日21:21
こんばんは。
秋葉原事件について、6月12日の朝日新聞朝刊、6月21日の産経新聞、洋泉社のムック『アキバ通り魔事件をどう読むか?!』に続いて、7月25日の北海道新聞夕刊に文章を書きました。掲載日から2週間近く経ちましたので、以下に記事を転載します。
なお、秋葉原事件については、来週8月10日のテレビ朝日・サンデープロジェクトに出演するほか、来月に岩波書店から刊行予定の論集『アキハバラ発 〈00年代〉への問い』(大澤真幸編)でもインタビューに答えています。また、今月末発売の大塚英志さんとの対談集、『リアルのゆくえ』(講談社現代新書)でも、語り下ろし対談で同事件について語っています。
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死者七人を出した衝撃的な秋葉原無差別殺傷事件から、ひと月以上が過ぎた。
秋葉原はアニメ・ゲーム文化を象徴する街である。しかも逮捕された容疑者は二十五歳の男性だった。そのためか、発生直後には、事件を若者文化と結びつける論調があちこちに見られた。
しかし、事件の全貌が明らかになるにつれ、ことの本質はオタクやゲームのような文化論的な問題にではなく、容疑者の教育環境や雇用環境といった社会学的な問題にあるという見方が有力になっていった。奇しくも、若者の雇用問題に取り組む「ロスジェネ」の創刊や「蟹工船」ブームなど、論壇では若年層の貧困に焦点が当たっていた。少なからぬ若者が容疑者に同情したことも、年長世代には驚きをもって受け止められた。
言うまでもなく、犯罪の残酷さは看過されるべきものではない。容疑者には厳罰が与えられるべきだ。だがその前提のうえで、いまや一部の人々によって、事件を個人の「心の闇」に押し込めるのではなく、格差社会に対する若者の怒りの現れとして、正面から理解しようという試みが始まっている。
犯罪を許さないことと、犯罪の背景を無視することは異なる。世論もメディアも、事件から一カ月の時間を経て、少しずつ余裕を取り戻しているようだ。
さて、筆者もその流れに逆らうつもりはない。事件直後には、筆者自身も同じことを訴えた。
しかし、世間が落ち着きを取り戻したいまは、また別の視点も必要だと考えている。
というのも、筆者には、事件の本質が労働問題に還元されるとは思えないからである。
確かに容疑者がネットに残した書き込みには、深い絶望と屈辱感が記されている。しかし、じつは彼の生活はそれほど悲惨とは言えない。彼は派遣社員だったが、収入は標準的で解雇が迫っていたわけでもなかった。女性との交際経験もあった。それなのになぜ彼は、自分の人生は失敗で、逆転のためには罪を犯すしかないとまで思い詰めてしまったのか。真の謎はそこにある。
むろん、容疑者の心の内がわからない以上、明確な答えを出すことはできない。しかし、ネットの書き込みや同世代の共感の声をもとに大胆に推測すれば、こう言えるかもしれない。
容疑者は、生活が苦しいことにではなく、むしろ彼の「負け組」人生をだれも承認してくれないことに対して苛立ちを募らせていたのではないか。つまり彼の屈辱感は、富の問題というより尊厳の問題に関わっていたのではないか。
一般通念からすれば、富の分配は社会の責任だが、尊厳の獲得は個人の責任ということになる。貧困には救いの手を差し伸べるが、個人の屈辱感までは面倒を見れない。そのような立場からすれば、容疑者の苛立ちに同情の余地はないだろう。
しかし、私たちが他方で、そのような屈辱感を構造的に生み出す社会に生きていることも確かである。現代の若者には大きな自由が与えられている。彼らはなにものになってもいいと言われる。しかし逆に失敗したとき、リスクはすべて彼らに降りかかる。しかも人生の成否はしばしば運で左右される。実力が評価されるとは限らない。
そのような世界では、どんな人生を選んだとしても、「ほかの人生もありえたかもしれない」という苛立ちに苛まれるはずだ。少なくとも、いちど「失敗した」と思いこんだとき、「自分の人生にはこれしかなかった」と納得するのはきわめて難しいだろう。おそらく、容疑者が陥ったのはそのような心理の袋小路だったのではないか。
現代社会は、ひとりひとりの人生に、偶然に左右されない承認を与える機能(大きな物語)を失いつつある。言いかえれば、「負け組」に居場所を与える緩衝材的な機能を失いつつある。事件の背後には、労働問題だけではなく、社会の質のそのような大きな転換があるのかもしれない。
もしそうだとすれば、じつは秋葉原事件の対策はきわめて難しい。もしかしたら対策などないのかもしれない。
しかしそれでも、現在の「競争社会」が、「負け組」にそのような強い負荷を掛け続けてかろうじて成立していることに対しては、多くのひとが自覚的であるべきだ。いまの日本では、じつに多くの若者が承認と尊厳の不在に苦しんでいるのである。(了)
告知&ゼロアカ道場について補足2
カテゴリー[critique]投稿日時: 2008年08月06日01:54
こんばんは。東浩紀です。
まず告知ですが、今週土曜日、新宮市で行われる「熊野大学」のシンポジウムに出席します。何年ぶりかで中上健次をぼちぼち読み直しているのですが、『紀州』や『枯木灘』のあの文章を中上はいまのぼくより若いときに書いていたのか!と、いささか衝撃を受けました。そこには、単なる世代の差には還元されない、なんか日本語の質の変化みたいなものがあるように思います。当時30そこそこだったはずなのに、なんで中上はあんなに渋いのか。ブログとか書いていまだに学生気分が抜けない(と言われる)ぼくからすると、それはちょっと驚くべきことです。
あと、その翌日の日曜日、テレビ朝日のサンデープロジェクトに出演します。テーマは秋葉原事件。こちらは生放送なので、ぼくは土曜日、シンポが終わったら速攻で東京に帰ることになります。終電を調べたら、新宮を午後5時半には出なければならないことがわかり、びびりました。
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で、つぎにゼロアカ道場について補足の2回目です。ゼロアカ道場、とりわけ「道場破り」について、講談社BOXのページにFAQが出ています。あと、文学フリマ事務局の望月さんもブログでいろいろ書かれています。
http://shop.kodansha.jp/bc/kodansha-box/zeroaka/faq.html
http://d.hatena.ne.jp/jugoya/20080805#p1
さて、後者のブログで望月さんは、「「自分で作って、自分で客を呼んで、自分で売る」というのは文学フリマの、もっと言えば同人誌即売会の根元的なあり方だと思います。今回の企画は文学フリマにとって新しいチャレンジであると同時に、原点に通じる内容なのです」と書かれています。これは、道場破りへの参加を考えているかたに、ぜひ深く受け止めてもらいたい言葉です。
というのも、どうもなんか、この企画が文学フリマで行われる、ということの意味をきちんとわかっていないひとがいる気がするからです。
みなさんご存知のように、ゼロアカの道場破り企画は、予想以上に盛り上がりを見せ、ネットでは幾組かすでに参加表明をしています。実際には参加表明をしても、文フリそのものの抽選で落ちる可能性があるので参加できるのはその半分にも満たないはずです。しかし、それでも、もはや複数チームのエントリはほぼまちがいないでしょう。道場主として、ありがたいと思っています。本当に嬉しいことです。
しかし同時に、ネットのいろいろな書き込みを見ると、ちょっと不安になることも確かです。今回のような前例のない企画では、参加規定にはどうしても曖昧さが残ります。どういうひとがどういうことを考えるのか、こっちにもデータがないからです。ネットには、そういう弱点をうまくつけば一波乱起こせるんじゃないか、と考えているひともいるようです。たとえば、超有名人を連れてくるとか、サクラの買い手を手配するとかです。
けれども、そういうひとは根本的に勘違いをしています。ゼロアカ企画は、別に頓知とか悪知恵を競うものではありません。しかも、最終的な合否はぼくと太田さんが決めます。だから、率直に言えば、ぼくたちに、「こいつやりかた汚ねえな」「こいつせこいな」と思われたら、それで終わりなのです。
なるほど確かに、今回に限っては、ルールの陥穽をつき、文フリ当日に爆発的に売り上げが高いチームがあったら、審査基準を公開している関係上通さざるをえないかもしれない。でも、そんな挑戦者は第5回で落とせばいいだけの話です。繰り返しますが、この企画は、「次世代を担う新しい批評家をデビューさせる」のが目的です。毎回の関門はそのためのステップとしてあります。今回の関門はショー性が高いですが、ショーのパフォーマンスが高かったからといって、適性のないひとをデビューさせることはできません。適性には、むろん真剣さや誠実さが含まれます。
そして、ぼくたちが第4回関門の舞台として文学フリマを選んだのは、ぼくと太田さんが、ぼくたちの考える「次世代の批評家」に、まさに上述のような文学フリマの精神、同人誌の精神に敬意を抱いて欲しい、と思ったからにほかなりません。文学フリマに参加することの意義、文学フリマで本を売ることの意義をしっかりと理解していないひとは、道場破りに参加しても意味がないと思います。文学フリマで売るのが妥当な評論本/評論誌を、ちゃんと作ってください。
ちなみに当日は、文学フリマとは別に講談社BOXのほうでもスタッフを配置し、不自然な購入や売り上げ数のごまかしがないかどうか、最低限の監視をさせていただく予定です。「不自然な購入」とはなにか、とかまた質問が来そうですが、そんなのいちいち定義していたら企画が頓挫するので、常識で考えてください。というか、そういうこともわからないひとは、そもそも道場破りに参加しても意味がないので、挑戦は諦めたほうがいいと思います。
以上、よろしくお願いします。