2005年04月12日メタと動物化と郵便的世界カテゴリー[思想]こんばんは。東浩紀です。 先日、isedの設計研第3回が行われました。最初は無限に長いと思われた全14回の研究会ですが、ふと気が付くとすでに6回が終わっているんですね。波状言論といいisedといい、時の流れは速いものです。終わらないのは「情報自由論」の原稿執筆だけです(笑)。いや、笑いごとじゃないか……。 ところで、そのisedの終了後、委員の鈴木健さん、井庭崇さんと雑談を交わしました。その議論が、前にこのブログで触れた(そして、先日のトークショーでも話題になった)北田暁大さんと僕との差異にも関わっていると思うので、簡単に記しておきます。 ■ 山田正紀さんに『神狩り』という小説がありますが、そこに確か、「人間は関係代名詞を7つあたりまでしか重ねられない」という台詞があります(手元に資料なく、うろおぼえです)。これそのものは山田さんが思いつきで書いたものらしいのですが、けっこう本質をついているような気がします。実際、認知科学で似たような実験がある、という話を読んだことがあります(これも手元に資料なし。確か「チャンク」の数がどうの、という実験です)。 僕は昔からこの考えが気にかかっています。人間は、確かに情報を外部化(デリダ風に言えば、「エクリチュール」にすれば)、いくらでも階層的な思考を展開することができる。しかし、情報の適切な外部化ができない場合は、あまり複雑なメタゲーム(カギカッコの重複)には耐えられないのではないか。つまりは、「彼は……と言った」とか「彼は「彼は……と言った」と言った」とかは頭の中で再現できるのかもしれないけれど、「彼は「彼は「彼は……と言った」と言った」と言った」あたりからどうも処理できなくなってくるのではないか。そして、この限界は、僕たちの生活やコミュニケーションの様式をかなりのていど決めているのではないか。 ■ 僕の動物化論の基盤はここにあります。北田さんは、社会が複雑になってくるにつれて、メタゲームがどんどん発達すると考えている(あえて簡単に要約すると)。しかし僕は、社会があまりに複雑になると、メタゲームは有効に機能しなくなると主張しているのです。 人間社会は、もともと伝言ゲームでできています(これはデリダの哲学の中核にある教えで、僕自身の趣味としてはここからプラトンの『ティマイオス』や言語行為論の話に行きたいのですが、それはまた今度の機会にしましょう)。つまり、「彼は「彼は「彼は……と言った」と言った」と言った」といったことの繰り返しで、遠くの情報を手に入れる、というのが人間の基本的な行動様式なわけです。 近代社会が作り出した「マスメディア」は、そのような伝言ゲームを集約する機能を備えていました。つまり、Aが言った噂話、Bが言った噂話、Cが言った噂話……をすべて集約し、いちど「新聞が言った」「テレビが言った」という単一の発信者を通過させ、読者/視聴者に送り届ける機能をもったわけです。 僕の考えでは、近代社会においてアイロニズムが人々に共有されたのは、まさにこのメディアの集約過程、言い換えれば伝言ゲームの停止過程があったからです。人間は二階のメタゲームぐらいは脳内で処理できる。だから、「「……とテレビが言っていた」が、しかしそれはマユツバだ」という回路を働かすことはできるわけです。ここにこそ、メディア論者が注目してきたような、情報の送り手と受け手の相互依存関係が生まれます。 しかし、ネットワーク社会の誕生はその集約過程を内側から崩壊させてしまった。僕たちをいま取り巻いているのは、「……とテレビが言っていた」だけではなく、「「……とテレビが言っていた」が、しかしそれはマユツバだと某が言っていた」「「「……とテレビが言っていた」が、しかしそれはマユツバだと某が言っていた」という発言こそがツリでしょう」「「「「……とテレビが言っていた」が、しかしそれはマユツバだと某が言っていた」という発言こそがツリでしょう」というシニカルなのも正直どうかと思うよ」といった無限のメタゲーム/伝言ゲームの囁きであり、このような状態では、もはや何を主張してもだれかよりはメタレベルだし、他方ほかのだれかにとってはネタでしかない。そして、このような混乱した情報環境においては、結局のところひとは動物的に生きるしかないのだし、実際生きている、というのが僕の考えなのです。 したがって、僕は決して、人々がバカになって、メタゲームをしなくなったと主張しているのではない。そうではなくて、人間にはもともと生物学的に(それこそ動物的に!)世界把握の階層数に限界があり、現在の情報環境はそれを超えた複雑さを備えている、と主張しているのです。言い換えれば、メタゲームはいまでも行われているのかもしれないけど、それはもはや何の意味もない、と主張しているのです。 ■ 近代社会の「大きな物語」は、伝言ゲームの複雑性を縮減してくれる装置でした。しかし、僕たちはそれを手放し、グローバルな伝言ゲームへと足を踏み入れてしまった。この荒野においては、アイロニーはほとんど役に立たない。僕はむかし、このような荒野のことを「郵便的」と形容したことがあります。 ひとびとが動物化するのは、世界が郵便的だからです。近代社会が作り上げた巨大な郵便局(大きな物語)はいまや壊れてしまい、ひとびとは、自らの生物学的限界を超えた情報処理支援装置に囲まれて、無限の伝言ネットワークのなか、メタレベルの志向の宛先を見失ったまま、局所最適に基づいて動物的に生きるしかなくなってしまった。これが僕のすべての議論の中核にある世界認識です。 2005年03月14日『嗤う日本の「ナショナリズム」』カテゴリー[思想] 今回はひさしぶりに「だ・である」調で書いてみよう。 笠井氏と北田氏は(さらに付け加えると——詳しい説明は省略するが——僕の「動物化」の時代を「不可能性の時代」と言い換えようと提案している大澤真幸氏も)、全共闘から新人類(とオタク第一世代)へと受け継がれたメタゲームの果てに、いまの「動物化」現象があると考える。僕は、『動物化するポストモダン』でも、またそれ以降も繰り返し主張しているように、そうは考えない。僕の主張は単純に、メタゲームはもう必要とされていないのだ、なぜならば現在のネットワーク環境は(それがいいか悪いかはともかくとして)みんながまったり動物的に生きる文化的世界を用意したから、というものである。むろん、そんな世界でもメタゲームをやりたがるプレイヤーは出てくる(80年代に妙なノスタルジアを抱く若い世代が多いのはそのせいかもしれない)。しかしそれは圧倒的に少数派であり、時代分析の要にはならない。それが僕の2000年代観だ。ここには大きな歴史認識の違いがある。 北田氏の分析によれば、「ノりつつ冷め、冷めつつノる」二重性こそが新人類世代のアイロニーの要であり、その二重性が担保されなくなったところに1990年代後半以降の問題がある。これは最近の宮台真司と深く通じる時代認識だが、しかし、僕の記憶では、おニャン子クラブというのは、すでにそのようなアイロニーを食いつぶす企画だったのではないだろうか。 確かに、おニャン子のコンセプトは要は素人の女の子でもテレビが仕掛ければアイドルになれる、というものだったし、『夕焼けニャンニャン』のレギュラー、とんねるずの振る舞いはそのようなアイロニーを体現していた。しかし、では当時のファンが「僕は『あえて』新田恵利のファンだ」とか「『あえて』美奈代のファンだ」と考えていたかといえば、おそらくそんなことはない。そして、それは決して当時のファンが愚かだったからだけではない(我が身を振り返り、愚かだったことは否定しないとして)。おニャン子クラブというのは、一方でとんねるず的アイロニーに代表されるメタ企画でありながらも、他方ではけっこうベタなアイドル企画だった。そのロマンティシズム、というより少女マンガ的なリリシズムは、たとえば『じゃあね』や『ウェディングドレス』の歌詞によく表れている。 2004年10月09日deces de Jacuues Derridaカテゴリー[思想]フランスの哲学者、ジャック・デリダ氏が亡くなりました。 http://www.lemonde.fr/web/dh/0,14-0@14-0@2-3208,39-23746506,0.html 心よりご冥福をお祈りいたします。共同通信の速報に簡単なコメントを寄せさせていただきました。 2004年09月18日ライアンとレッシグとムーアカテゴリー[思想]みなさん、こんばんは。 今日は、上智大学で行われた明石書店主催のシンポジウム、「<監視社会>と<自由>」を聴きに行きました。目的はデイヴィッド・ライアンの基調講演です。 そのライアンの講演で印象に残ったのは、9.11の前後で、監視技術の中心が「配慮(care)」から「管理(control)」に変わったという主張でした。講演全体も、テロ情報認知システム(TIA)そのほかを例に出して、9.11以降の世界で進む国家的監視の危険性を強く押し出したものになっていました。 このような話を聞くと、僕は両義的な感想をもちます。一方では、おそらくこの指摘は正しい。TIAにしろCAPPS2にしろ、また、最近報道されたASSISTにしろ、現在のアメリカの(ということは世界の)監視への意志には驚くべきものがある。 しかし、他方では、国家によるSF的監視と市民的自由を対立させるこのような図式は、あまりに単純すぎて、9.11以前に書かれた『監視社会』の射程を濁らせてしまうものでもある。ライアンは『監視社会』では、監視技術の危険性を抉り出すとともに、それが私たちの日常生活にとって不可欠なものになりつつあることも指摘しています。したがって、ライアンの議論は、本来であれば、「監視カメラ反対」「住基ネット反対」といった総論にはなじまない。その繊細さが今日の講演では消えてしまっていたわけです(ただし、僕は新著『9.11以後の監視』は未読なので、その点は分かりません。また、上記のような単純化は、通訳を介してという講演の条件と、会場の雰囲気によって定まっていたものかもしれません)。 ところで、このような単純化は僕に二つの例を思い起こさせました。 ひとつは、ローレンス・レッシグの『FREE CULTURE』。この書物も、政治的実践にあまりに近寄ったために、『CODE』の繊細さを失っています。あるいは、言論の例ではないですが、マイケル・ムーアの『華氏911』。今月の『ゲーラボ』のコラムでも書きましたが、この映画は前作『ボーリング・フォー・コロンバイン』に比較してあまりにもわかりやすく、とても後味がいい。『CODE』も『ボーリング・フォー・コロンバイン』も、深刻な社会的問題(前者では情報管理強化の、後者ではセキュリティ強化の問題)を明らかにしたものの、決して安直な解決策は与えてくれない、しかしそれだけに私たちを思考へと誘ってくれたすぐれた作品でしたが、『FREE CULTURE』と『華氏911』では悪者ははっきりしている(前者はRIAAとその仲間たち、後者はブッシュとその仲間たち)。結果として、この両者は、アジテーションとしてはすばらしいのかもしれないが、そのような「わかりやすい物語」を語ってしまう点で、別の危険性も備えている。 レッシグにしろムーアにしろライアンにしろ、彼らの言説が単純になってしまうのは、それだけ現実のほうが悪化していることの証左でしょう。それはそうなのですが、彼らと別の国にいる私たちは、少し冷静に距離をとるべきかもしれません。 ところで、最後に話が変わりますが、当日会場で配布された資料集は、A4で40枚近くある充実したものでした。スタッフの方、ご苦労さまでした。 2004年04月23日アイロニーと「あえて」カテゴリー[思想]※波状言論::はてな出張所に記したものと同じ内容です。 今日は「だ・である調」で書いてみよう。今月あるいは来月で佐藤心くんの連載が終わることになったので、突発的に編集会議を行った。 その内容はまた別途報告するが(新連載をお楽しみに!)、そのとき編集部員が話題の『新現実』を買ってきていたので、ぱらぱらと流し読みした。大塚英志氏と宮台真司氏の対談では、名前が記されていないが、波状言論2月号の鼎談が触れられている。光栄なことだが(名前も挙げてくれればもっと光栄だったが 笑)、その部分がこれから読まれるにあたって、補足的に書き記しておきたいことがひとつある。 リチャード・ローティが言う「アイロニー」とは、「僕はこの件では私的には○○だと信じるけれど、世の中にはいろいろな価値観のひとがいるから、公的にはそれが唯一の価値観だとは主張しないよ」という態度のことだ。つまり、寛容の精神のことである。 それに対して、宮台氏と大塚氏が語る「あえて」の精神とは、「僕はこの件では、私的には○○だと信じていないけど、世の中のためを思って公的にはそう主張してやるよ」という態度のことで、内実がひっくりかえっている。そして、その逆転は、容易に、「あいつらベタで○○って言うけどさ、俺たちはあえてやってるわけでしょ、ほんとあいつら困ったもんだよねえ(笑)」という冷笑的な態度(シニシズム)を生み出してしまう。実際に、今回の『新現実』に限らず、彼らの最近の言動にはそのような態度がしばしば見られる。これは、自己を優位に置くための論争上の戦略でしかなく、寛容の精神からほど遠い。この点で、ローティの言う「アイロニー」と、最近の宮台/大塚の言う「あえて」は、残念ながら、同じメタレベルへの遡行を行いながらも、実践的にまったく異なった態度のように思う。 かつて、柄谷行人は、ここで言っている「アイロニー」を「ユーモア」と呼び、逆に「あえて」を「アイロニー」と呼んで区別したことがある。用語法がねじれてるので分かりにくいかもしれないが、ここでのポイントは、要は、メタレベルに遡行すればいいわけではない、ということだ。あらゆる言説はコンスタティブと同時にパフォーマティブに機能するので、何のためにメタレベルに遡行するのか、その目的と効果こそが問われなければならない。メタレベルへの遡行が、結果的に同じ価値観をもつ共同体(たとえば「世代」?)を再強化するだけなのであれば、そんなメタには何の価値もない。 先日の投稿で「メタがないやつには興味がない」と述べたが、続けて書けば、僕は、メタだけしかないやつにも同じように興味はない。僕は、「あえて」ではなくアイロニーを、柄谷風に言えば、アイロニーではなくユーモアを選ぶ。 北田暁大氏と僕が、波状言論3月B号の鼎談の最後で、「いま必要なのは「ベタにあえて」ではなく「あえてベタ」なのだ」と分かりにくい表現で意気投合していたのは、そのような区別を意味するものだと理解してほしい(ですよね?>北田さん)。
2004年02月15日北田・鈴木鼎談カテゴリー[思想]東浩紀です。おはようございます。 下のエントリーにmoblogで写真を載せたように、昨晩、北田暁大さん、鈴木謙介さんと波状言論用の鼎談を行いました(上が鈴木さん、下が北田さんですね)。以下、hirokiazuma.com/hajou@はてなに掲載した投稿を全文引用します。イレギュラーですが、それぐらい面白かったので……。 東浩紀です。 ということでした。いや、この鼎談はマジでヤバいです……。本当に、なんでこういう座談会が商業誌ではできなくなったのだろう、と思うと同時に、でもこんな風に個人出版でできるのだから、すごい時代になったものだ、とも思います。波状言論は、本当に、掛け値なしにみなさんに読んでもらいたいし、その価値があると信じてます。少なくとも、僕は作っていてめちゃめちゃ面白いです。批評はこういう形式でやるべきなのだ、と日々確信を深めてます。能天気すぎるかな(笑)。 2004年02月08日降りてみるカテゴリー[思想]こんばんは。ご無沙汰してます。はてな最大のポイント保持者だったことが明らかになり、はてなブルジョアとして質問をしまくろうか、とか考えている東浩紀です。 それはそれとして、「降りる自由」についての投稿への反響が大きく、返答に戸惑ったままblogの更新も滞っていました。みなさんのコメントは、澁川さんの丁寧な返信に始まり、たいへん参考になりました。とはいえ、そのひとつひとつに答えを返すのはすでに僕の能力の限界を超えているので、とりあえずここではそのコメントの連鎖から「降りる自由」を行使させていただこうと思います。すみません。*注 というわけで、つぎからは別の話題でさくさく行きます。 *注 たとえば、今回の場合で見てみましょう。僕が投稿への返信や、ウェブ上でのさまざまな反論に誠実に答えようとした場合、このブログサイトが成立しなくなるのは自明です。つまり、あるレベルで責任=応答可能性を貫くことは、別のレベルでたいへん無責任な事態を招きかねない。デリディアンっぽく逆説的な表現を使ってみれば、責任=応答可能性の連鎖とは、それが無限に続くためにこそ、毎回毎回局所的には切断される必要がある(誤配される必要がある)、そういう矛盾したものなわけです。これは、もしかすると、ネットで最近話題の儀礼的無関心問題あるいはリンクフリー問題とも繋がるのかもしれません。 というわけで、僕が前回の投稿で考えていたのは、要は、「社会」という全体性は存在せず、社会とは原理的にさまざまな責任=応答可能性の連鎖の重ね合わせでしかないのだから、そのうちの特定の連鎖に対してはつねに「降りる自由」を保持していなければならない、ということでした。社会という全体はない、というこの言葉は、前回の「社会全体から降りる権利、社会に無関心である権利、社会全体の決定を無視する権利」という表現と矛盾しているように見えると思いますが(この点で僕の書き方は不注意でしたが)、僕がそこで言いたかったのは、「社会全体を僭称する審級から降りる権利」のことにほかなりません。 これは別にそんなにラジカルな主張ではないように思います。オタクにしろひきこもりにしろ、社会の一員ではあるに違いない。それが「社会から降りている」ように見えるのは、そのとき「社会」という言葉がある特定の集団によって乗っ取られているからです。スピヴァックのいう「サバルタン」の問題ですね。そして、僕はそういう集団に与したくないのです。 もうひとつ。せっかく「降りる」と言ったのだから簡単に済ませますが、数多く寄せられたコメントのなかで、「フリーライダーがよくない」という意見には僕はどうしても馴染めません。確かに、僕自身、自分が一所懸命に努力して作り上げたものを何の努力もしない連中に奪われ利用されたら頭に来ないではない(みんな、波状言論は正式版を買いましょう!)。そして、その場合には、相手を説得しようと局所的に試みる。しかし、そのことと、一般的にフリーライダーはよくない、と普遍的な命題を主張するのはレベルが異なる。その理由は、そもそもフリーライダーとか言い出したら、この世界に生きている人間は全員が過去の遺産と自然の恵みへのフリーライダーにほかならないからです。この問題は結局、だれが「まともな」フリーライダーでだれが「まともじゃない」フリーライダーなのか、法あるいは慣習によって決定しようということになるだけであり、議論はとくに進みません。 僕はおそらく日本国へのフリーライダーでしょう。国家の話を横に置くとしても、日本語にも日本社会にも日本文化にも大きな恵みを受けており、その巨大な負債はどうしても返済しようがない。裏返せば、戦争で武器をとったからといって返済できるわけでもない。 だから僕は、たとえフリーライダーと罵られようとも、僕自身のなかで、個々の場面において、「社会全体」を僭称する連中に対してどこまでなら協力し、どこまでなら協力しないかを決定するしかない。そういう困難な決定を避けておいて、「みんながやれと言っているんだから、やるのが当然でしょ」という同調圧力に従うのが社会性だと考えるのなら、それは単に愚かなだけだ、と僕は考えます。選挙に行くべきだ、年金を払い続けるべきだ、地域の安全を保つために自治会に入るべきだ、自衛隊のイラク派遣を支援するべきだ、と考えるひとは、それらを粛々と実践すればいい。僕だってそのいつくかはやっています。しかし、そのことを根拠に「だからそれをやらないのは非社会的だ」と声高に叫ぶのはおかしい。僕が言いたいのはそういう簡単なことです。これはアナーキズムともリバタリアニズムとも違うと思います。 あと最後に。「超越性」。超越性(柄谷行人的にいえば「超越論性」? 僕はこの両者の区別はあまり意味があると思えませんが)が必要だ、という僕の発言に驚きを表明されたひとたちが何人かいらっしゃいましたが、むしろ僕にはそちらのほうが驚きです。人間の生活には超越性なんていらないんだ、すべて世俗的で即物的でいいんだ、ともし僕が考えているとして、そういうひとがどうして現代思想なんてやるんでしょう? 僕は骨の髄まで現代思想のひとだし、そのバックボーンがなければ、『動物化するポストモダン』もああいう本にはなってなかったと思います。『自由を考える』だって、えらく超越的で哲学的な話をしているはずで、僕の関心はつねに、世俗的問題を解決するために超越的視点が必要になる、その局面にある。そして、前回言ったのは、そこで戦略的にもちだす「超越的視点」の表現が、宮台さんと僕とではずいぶんと違うのだなあ、ということです。その戦略がネタだとかメタだとか「あえて」だとかは僕にはどうでもよくて(僕は前から思っているのだけど、「あれはネタだ」とか「あれはベタだ」とかばっかり言っているひとは、自分が頭がいいと自慢したくてしかたないだけなんじゃないだろうか)、要はその表面が違えば、それが本質だということです。 波状言論の宣伝になってしまいますが、この手の話はこれからはメルマガで続けていこうかな、と思っています。来月号の北田暁大氏・鈴木謙介氏との鼎談では、この話は出ざるをえないでしょう。 2004年02月02日降りる自由カテゴリー[思想]韓国から帰ってきた東浩紀です。韓国では、ラグナロクオンラインのBGMを作曲していたミュージシャンの方と会ったり、「冬のソナタ」ロケ地のバーをはしごしたり、昨年大人気だった戦闘美少女アクションドラマ「茶母」のDVD-BOXをゲットしたりと、たいへん楽しい時間を過ごしてきました。仕事もあったんですがね……。 さて、それはそれとして、ひとつ真面目な話です。僕の友人であり、経済産業研究所の若き研究スタッフであり、2ちゃん研究者としても知られる澁川修一さんが、つぎのような文章を書かれている。 朝日新聞のそのイラスト、僕は現物を見ていません。だから朝日新聞云々は語れません。しかし、そのような情緒的な「反戦」が問題であることには全面的に同意します。実際、理屈じゃないんだ、人が死ぬのがいやなんだ、というような態度のほうがよっぽど悪質な大衆動員だったりする。北朝鮮拉致被害者事件のときも感じましたが、最近のマスコミのポピュリズムぶりには目が余るところがあります。 とはいえ、澁川さんの発言にはひとつ問題がある。
と澁川さんは書くわけだけれど、「みんなで決めたことなんだから自分の意志が違ってもとりあえず従えよ」という議論は、やはりまずい。第一に、日本国民の総意、なるものはフィクションでしかなく、どの個人(ここではマスコミを念頭に置いているのでちょっとレベルが違いますが、しかしそうとれなくもない)も原理的にいつでも「そんなの知らねえよ」という権利を留保しているべきだと思うし、第二に、もしそんな総意が現実にあるとしても、いまの日本の政治システムがその総意を拾い上げているとはとても思えない。ここは疑問を感じました。 より一般論にもっていきましょう。僕はこういうとき必ず徴兵制の問題を考えます(韓国に行くと必ずそのことを考えます)。僕はとにかく絶対に兵士になりたくない。平和主義とか何とかではなくて、個人的に武器を手にとりたくない。そして僕は、これは、単なるわがままであると同時に、というよりも単なるわがままであるからこそ、ひとりひとりの人間が絶対に手放すべきではない権利だと考えます。したがって、もし日本国がどこかの国と交戦状態に入り、僕自身も徴兵されるときがきたら、裏切りものと罵られようと投獄されようと家族に石が投げられようと、国外逃亡か何か試みるでしょう。 そしてこれは、徴兵の問題に限らず、僕たちが日常的に迫られる選択の分かりやすい例です。社会が全体として何かを決める。その決定の手続きが完全に合理的で合法的だったとしても、ひとりひとりの人間には、必ずその全体に「否」を突きつける自由、言い替えれば、社会から降りる自由がある。少なくとも僕はそう考えます。『動物化するポストモダン』で、僕はそんなことを「解離的」という言葉で表現していたつもりでした。 しかし、そのような「降りる自由」は、いま急速に縮退しつつある。なぜか。それは、僕風に言えば「大きな物語」、もっと一般的に言えば、神、聖なるもの、救済、つまりは超越的な価値のシステムが、資本のダイナミズムのなかでつぎつぎと脱臼されてしまったからです。人類社会は、長いあいだ、一方に世俗的な価値のシステムがあり、他方には聖的あるいは超越的な価値のシステムがあり、その両者のバランスをとりながら存在し続けてきたと思います。だからこそ、徴兵制でも、宗教的理由によるならば徴兵拒否ができる。しかし、そのような超越的な拠り所をうしなった僕たちは、世俗的なシステムから逃れる場所を失ってしまっている。そこで立ち現れるのは、結局のところ、すべてを世俗的な(市場的なあるいは「民主主義」的な)価値基準でのっぺりと覆ってしまい、全員にそこへの参加を強制するきわめて窮屈な社会です。ネオリベラリズムは、この窮屈さのひとつの側面にすぎない。 話を最初に戻すと、僕は実は、澁川さんの発言のなかに、「みんなで決めたことなんだから、いつまでもうじうじ言うなよ」という同じ窮屈さを聴き取ったのです。そこはやはり、もっと寛容になるべきではないでしょうか。それは、言論の自由を最大限に認めろ、ということではない。社会全体から降りる権利、社会に無関心である権利、社会全体の決定を無視する権利を認めろ、という話です。権利、という言い方がまだ強すぎるのであれば、そういう風に「降りて」しまう人間が一定数必ず存在することを正面から見つめろ、ということでもよい。 むろん、朝日新聞はそういうことを言っているわけではないでしょうから(それどころか、朝日新聞は社会への参加を呼びかけているほうでしょうが)、これはもう澁川さんの投稿の趣旨から外れている議論です。すみません>澁川さん さて、ところで、韓国帰りで頭がボーッとしているのに、こういうハードな話を延々と書いてしまったのは、帰国して最初にチェックしたブログ、miyadai.comで、 という投稿を読んでしまったからでもあります。 この投稿についてはいずれ長めのコメントを出さなければならないような気がします。しかし、とりあえず述べておくと、僕がそこでショックを受けたのは、別に、宮台さんの発言が右翼的だったり小林よりのり的だったり福田和也的だったりするからではありません。僕は、もう、そのことには、ずいぶん前から気がついていたような気がします。そうではなく、僕がショックを受けたのは、世俗的価値=市場的価値=グローバリズム=ネオリベラリズムというたがいに連動した動きへの抵抗根拠として超越性の再興を考えるとき、僕が「降りる自由」というのに対し、宮台氏が「亜細亜主義」「魂」「本懐」と言ってしまう、そしてそこで僕たちふたり(と並べるのは失礼にあたると思いますが)のあいだには理論的に決定的な差異があるのだ、ということを再確認してしまったからです。そして、それはいつか、政治的な立場の違いとして顕在化するのかもしれません。 確かに超越的なものは必要です。しかし僕はそれは決して伝統や国家にも(形而上学)、ニヒリズムにも(否定神学)求めない。これは『存在論的、郵便的』以来の一貫したテーマです。 2004年01月24日新人類?カテゴリー[思想]こんばんは。小学生のころ小山田いくの大ファンだった東浩紀です。「すくらっぷ・ブック」とかエピソードほとんど暗記してました。 さて、そんな話をいきなり持ち出したのは、業界周辺で捏造されかけている1980年代ブームにウンザリしているからです。仲俣暁生氏はさすがに、そんなブームのなか何とか生産性を見出そうとしているみたいですが、 はてなダイアリー - 陸這記 crawlin’on the ground 1/24 僕はこの意見にも懐疑的です。「宮台真司、大塚英志、浅羽通明、大月隆寛、坪内祐三、福田和也、島田雅彦、宮崎哲哉、小谷野敦、小熊英二、山形浩生、といったあたり」の言説史の研究が必要だというけれど、それって本当でしょうか? 僕の印象では、彼らが同世代を強く意識して、打ち出すようになったのは、彼らがもう単純には若手でいられなくなった1990年代も末にさしかかってから。だとすれば、その起源を遡行してバブル時代に見出すこと、それそのものが、特定の世代の特権視を強化するだけではないでしょうか。 仲俣さんの意図が別のところにあるのは承知しています。しかし、僕は、こういう語りは、結局のところ、新人類から僕の年齢あたりまでのノスタルジアを強化するだけだと思う。学部生のころから『批評空間』界隈に出入りし、80年代の消えゆく残光のなかやたらと《新人類世代》(便宜上ここでは仲俣さんのいう「80年安保世代」とほぼ同じ範囲で広く使います)と付き合ってきた人間として思いますが、いま重要なのは、新人類世代の系譜など考えることではなく、むしろその当の人々が「世代」の呪縛から解き放たれることではないでしょうか。庵野秀明がむかし言っていたように、特権的な世代体験がバーチャルなものしかない、という諦めが(団塊と比較したときの)新人類の出発点だったはずで、実際に、仲俣さんが挙げた人々もみな当初はバラバラなことをやっていたはずです。それが最近は妙に演歌的というかプロジェクトX的になって、起源探しを始めており、かつての読者としていささかイタい。2000年代も半ばに差しかかり、「結局俺たちがいちばん若いまま来ちゃったよね」(大塚英志氏と宮台真司氏がどこかの対談で話していた言葉)という能天気な自己肯定はさすがに最近機能しなくなってきたわけですが、そうしたら今度は「そんないまだからこそ俺たちの歴史を振り返る必要がある」「ぜひ若いひとたちに新人類世代の記憶を受け継いでもらいたい」という発言が出てくる。これはちょっと困ります。仲俣さんの文章にも、そう受け取れる部分があります。 とはいえ、バブルが終わったあと多くのポストモダニストが「転向」したのは事実だし、それが検討すべき問題なのは間違いない。この点では僕は仲俣さんの問題意識に全面的に賛成です。しかしそれなら、僕ならまず浅田彰や田中康夫や村上龍や柄谷行人の名前を挙げます。そしてそれはたぶん世代論にはならない。1980年代後半にデビューした人々の特異性、というのは僕にはよく分からない。そしてあまり気にしたこともありません。彼らの論壇プロレスを「言説史」と称して研究するぐらいなら、スピノザやカントを読んだほうがよっぽど勉強になる——とかいうとあまりに浅田彰くさいんで躊躇しますが(笑)、しかし正直そういいたいところです。 2003年12月03日動物化についてのメモカテゴリー[思想]先日行われた北田暁大氏の講演会のレジュメ、およびメモを某所から入手。それだけで判断するのは軽率だが、どうやら僕の動物化論が話題になったのは間違いないようだ。光栄である。というか、ぜひ聴きに行きたかった。 ところで、動物化という言葉は、「最近若者がバカになってる」とかいったありがちのイメージ論ではなく、僕としては、いちおう、僕なりの(この「僕なり」にたいへんな問題がある、というのは横におくとして)解釈に基づく思想的な文脈を押さえて提出している。『動物化するポストモダン』ではアレクサンドル・コジェーヴ、「情報自由論」ではハンナ・アレントがその主な参照項だが、それだけではない。実はもうひとつ、僕にとってきわめて印象深い動物論として、ジャック・デリダのハイデガー批判(『精神について』収録)というのがあるのだ。そのむかし僕は、「想像界と動物的通路」というタイトルで学術論文を東京大学出版会の論文集に寄せたことがあり(なんか遠いなあ……)、実は僕が「動物」という言葉を哲学的に使い始めたのはそれが始めてなのだった。『存在論的……』にはまだ「動物」は出てこないはず。「情報自由論」に続く匿名性やネットワークからの切断の問題は、「誤配」という言葉で繰り返し出てくるのだけど。 コジェーヴの「動物」は、近代=人間の時代の終焉後の消費社会に生きる人々を形容する言葉。アレントの「動物」も、また、actionやworkから阻害され、労働=消費の流通回路のなかに幽閉された人々を指している。ではデリダの「動物」と、コジェーヴやアレントの動物とのあいだにどんな関係があるのか? これはちょっと長くなりそうなので、それこそ波状言論の連載でときどき語ってみようかなどとも思うのだが、ひとことだけ言っておけば、そこでデリダは、現存在=人間の哲学は、精緻になればなるほど、動物の観念を疎外していく、つまりは、動物の観念は否定神学の外部にある、と述べていたのである。人間はハイデガーやラカンにつねに魅了されるが、動物は魅了されない。ポストモダンの消費社会は、そういう点でも動物的なのだ。そして、それは、バカになっている、というのとは少し違う。 |
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