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5/23キャラクターズ発売

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5月23日、新潮社より、桜坂洋氏との共作小説『キャラクターズ』が出版されます。定価は1300円です。

表紙はジャック・デリダのある著書の表紙のパロディです。デリダはその本でその表紙について実にさまざまな深読みを行っており、それを参照するとこのパロディにもまたさまざまな含意が込められていることがわかるはずなのですが、そういうのをすべて解説するのは無粋なので止めておきましょう。いずれにせよ、ぼくはこの表紙はけっこう気に入っています。

内容は基本的に昨年『新潮』に掲載されたものですが、ぼく担当の部分はかなり細かく手を入れました。少しでも小説力が上がっているとよいのですが。

いろいろ毀誉褒貶はありますが、日本文学史のなかでもかなり特異な試みであることだけは間違いない、そんな作品です。掲載時に読み逃してしまったひと、噂で敬遠してしまったひとは、この機会にぜひ!

『思想地図』増刷決定!

『思想地図』、売り上げ好評につき増刷が決定しました。すでに朝日新聞の記事で明らかになっていますのでお知らせしますと、『思想地図』の初版は10000部。それが一般書店での発売4日後に増刷です。

創刊号ということでご祝儀読者がたくさんいるにしても、これはかなりの数字、というか思想誌としては驚くべき数字です。「思想とか批評とかなんてだれが読んでんの?」という声はよく聞きますが、その疑問にはこの数字が一定の答えを出したのではないでしょうか。

日本では、思想は潜在的に10000人の読者をもっている。だから、そこに届かない著作は(ぼく自身の著作も含め)、思想だから読まれないのではなく、内容で判断されて読まれていないのです。このことが示せただけでも、『思想地図』創刊の甲斐はあったと思います。これは希望を与えてくれる数字です。

さて、ところでそんな『思想地図』ですが、第2号の特集は「ジェネレーション(仮)」を予定しています。また、詳細はまだ確定していないのですが、6月あるいは7月に公開シンポジウムを開催する予定です。そちらのテーマは「公共性とエリート主義」になるはずです。

エリート主義?と首を傾げるひとがいるかもしれませんが、これはじつは、なぜか明示的に話題になってこなかっただけで、いまの日本の思想界を理解するうえで隠れたキーワードなのではないかと思います。たとえば、宮台真司さんとぼくの「対立」は、要はエリート主義にどれだけコミットするかという違いです。ナショナリズムだとか民度だとかいう言葉を使うと話がぼやけてくるのですが、公共的な価値にコミットできる人間を集中的に育てないと国がだめになる、って要はエリート教育待望論です。そしてそれは格差社会の話にも繋がります。ぼくたちはエリートを育てることでしか公共的価値を涵養できないのか、これはなかなか深い問いなのです。

まあ、そんなことを考えています。『思想地図』の今後の展開をお楽しみに。

finalvent氏への応答(追記3つあり)

さきの投稿に関して、有名ブロガーのfinalvent氏より批判的なレスをいただきました。ありがとうございます。

問題の背景がよくわかんないけど

ぼくとfinalventさんでは、関心領域も文脈も大きく異なり、個々の言葉の使いかたから調整しなければならないので、反論はしません。けれどもひとつだけ。

ここもついてけない部分、アウシュヴィッツとナショナリズムは別の問題だとしか私には思えない。

この発言には「え?」と思ってしまいました。ナショナリズムの歴史が全体主義の歴史と密接に繋がっていること、そしてその臨界点がナチスドイツの強制収容所であることは、思想史的にはよく言われていることなのではないでしょうか。そもそもナチスの「ナチ」は、ナチオン(ネイション)のナチですし。

世界は複雑であり、学問は専門領域に分割されていて、いちいち文脈を押さえないと議論に参加できないのではあまりに不自由で、したがってすべての反論可能性に開かれているブログはすばらしい場所です。しかし、やはりそれでも、コミュニケーションのコストを低くするためには、他人の主張を批判するときにはあるていど前提を読んでほしいと思います(それこそ信頼社会として?)。

たとえばぼくが「ナショナリズム」というときには、当然人文系のさまざまなナショナリズム批判を念頭に置いているし、それはぼくのプロフィールからも明らかなはずなので(といってもfinalventさんはぼくのプロフはご存知なかったようだけど)、その意味で読んでほしいです(ちなみに、そこらへんさらいたいかたには大澤真幸の大著『ナショナリズムの由来』をお勧めします。その補論3が強制収容所論です。そこでは人間の定義の境界についても書かれています)。また「動物」という言葉も、ハイデガーの(というよりもデリダが読んだハイデガーの)「動物」だとか、アーレントの「人間の条件」だとか、そういう文脈のうえで使っています。アウシュヴィッツとネイションの繋がりとか、公共性と「人間」の定義だとか、そういう話はべつに俺流理解でやっているのではなくて、少なくともそういう議論がされている場はあるのです。

さらに付け加えれば、「信頼」は英語の「trust」で、こちらは微妙にフランシス・フクヤマなんかを意識しています。『人間の終わり』を読めばわかりますが、フクヤマの議論でも信頼と人間の定義(というかヘーゲル的「歴史」の定義)は密接に繋がっています(ところで肝心の宮台さんはルーマン的な意味で「信頼」を使っているはずでそれならむしろナショナリズムには繋がらないと思うのですが——といってもぼくはルーマンは詳しくないのですが——、最近の宮台さんの議論ではそこが短絡されているような気がしていて、そこもぼくのエントリのひとつのコンテクストを形成しています)。あと、信頼という言葉を使っていたかどうか記憶にないですが、信頼の論理が信頼できる人間と信頼できない人間を峻別しないと成立しないことは、ロールズが『万民の法』でリベラルにつきあえる国家とそうでない国家を分けざるをえなかったことにも現れていると思います。

というわけで「問題の背景」の説明まで。finalventさんの記事は影響力があると思うので、追記させてもらいました。

【追記】
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20080421

これは困ったなあ。

ぼくは上の文章で確かに「そもそもナチスの「ナチ」は、ナチオン(ネイション)のナチですし」と書いたけど、これは補足みたいなもので、それを根拠にナチスとナショナリズムの関係を論じているわけではないです。それは自明だと思うのだけど。こんなの書かなきゃよかった。気が利いてるとか思って筆が滑ってしまった。

ナチスが「国家社会主義ドイツ労働者党」の略だって、そんなのウィキペディアを出されなくてもぼくも知ってます。finalventさん、もう少し他人を「信頼」していただけませんか? 

いずれにせよ、かりにナチがナチオンのナチではなく国家社会主義(ナチオナルゾチアリスムス——で発音合ってたっけ?)のナチだったとしても、国家社会主義とナショナリズムは無関係じゃないと思います。どうしよう、アーレントとかラクー=ラバルトとか参考文献に上げるべきなのか? とりあえずはfinalventさんが信頼するウィキペディアにも、「ナチズムの特色は、特にその民族の概念にみられる。ナチ党の「血と大地」「血の純潔」「ゲルマン民族の優秀性」という民族概念は、国内的にはユダヤ人排撃の思想となり、対外的には他民族を侵略してその支配下に置かんとする軍国主義を正当化する思想となった」って書いてあります。そんなこと言っても、また揚げ足とられるのかな。国家と民族とネイションは違うとか? そりゃ違うけど繋がってもいます。大澤さんの本でもなんでも読んでください。

とにかく、人文系や思想系にもそれなりの蓄積があるんです。それにも常識的な敬意と関心を払ってください。心からお願いする次第です。

といったところで、泥沼の予感がするのでここで終了します。

【追記の追記】
上記すべてを書いたあとに気がついたのだけど(つまり、もっと難しい指摘だと思って考えていたのだけど)、もしかしてfinalventさんは、「ナチ」のもとが「ナチオン」ではなくて「国家社会主義」だから東は間違えている、ナチの語感だけで適当なことを言った、と指摘したいのでしょうか?

まさかとは思いますが、それなら意味がない指摘です。だって、「国家社会主義」の「国家」はnational(ナチオナル)で、つまりnationと同じ言葉です。そのかぎりでは、ナチはナチオンのナチで、誤りでもなんでもありません(いや、しかしまさか、そんな指摘を?)。

国家社会主義は原語では(英訳で対応させると)national socialismで、ここには厳然とnationという言葉が入っています。そのnationalはfinalventさんが考えるナショナリズムと関係がないという議論は立てられるかもしれないけど、そのためにはまずナショナリズムを定義したうえで、ナチはそれと無関係にnationという言葉を用いていたと主張しなければならない。しかし、それはけっこうアクロバティックです。そもそも国家社会主義って、国際運動化する社会主義との対抗関係で作られたものでもあります(またソースがないとか言われるとイヤなのでネット上で探しました、フランス語版ウィキペディアの「nazisme」の項目にありました)。国際主義に対抗した国家主義の運動って、これをナショナリズムと呼ばずになにをナショナリズムと呼べばいいのでしょう。それに、ナショナリズムって明確な定義がなく(不可能で)、nationという曖昧な言葉をフックにあらゆるところに忍び込むイデオロギーの総体を意味する言葉でもあるはずです。こういう論理は、いかにもフランス現代思想っぽいと思うかもしれないけど。

こういった説明では納得しないのならば、ブログ流に単純に英語版ウィキペディア「nazism」を参照してもいいです。そこでは、「Among the key elements of Nazism were anti-parliamentarism, ethnic nationalism, racism, collectivism, eugenics, antisemitism, opposition to economic liberalism and political liberalism, a racially-defined and conspiratorial view of finance capitalism,anti-communism, and totalitarianism.」と書かれていて、ナチズム(国家社会主義)の重要な特徴として「nationalism」が明記されています。つまり、まず前提としてたとえかりにナチズムのナチはナチオンのナチだと言ってもべつに間違いというわけではなく、それに国家社会主義とナショナリズムも常識的に考えて深い関係にあるのです。ぼくのミスはといえば、ただ、原語で「nation」単独ではなく「nationalsozialistisch」という言葉が使われていることを明記しなかっただけで……。しかし、本当に、ぼくはこんなくだらないことで絡まれているのだろうか?

【おまけの追記】
まあ、しかし、こんな議論はすべて意味がないのです。なぜなら、いまのブログ環境においては、あることを主張したいときに、検索エンジンを駆使して自分に都合のいいようにデータを並べ、本の一節とかをどっかから取ってきて、「ほらAはBだ」「AはBじゃない」と言うことはいくらでもできるからです(ぼくがやったのがまさにそういうことですw)。よく考えたら、そんなことは自明でした。

にもかかわらず、こんな「論争」に巻き込まれて何時間も使ってしまったのは、じつはぼくが古くからアウシュヴィッツやナチズムの問題に興味があって、『ショアー』も6時間上映で見て『スペシャリスト』も深夜上映で見て、学生のころは収容所跡をめぐる旅行までしたことがあるため(アウシュヴィッツ=オシヴィエンチムも当然行っています)、アウシュヴィッツはナショナリズムと関係がないんだ、というあっさりとした発言に、感情的にカチンと来るものがあったからにほかなりません。ぼくもまだまだ修行が足りませんね……。

いずれにせよ、「アウシュヴィッツはナショナリズムとは別の話だ」というのがfinalventさんの主張で、その両者は深く関係しているというのがぼくの主張で、そここそが大事な相違点です。そしてこのことは、事実認識の差異というよりは、むしろ、ナショナリズムの概念や歴史をめぐってのぼくとfinalventさんの知的背景の差異を示しているのでしょう。ほかは枝葉末節にすぎません。そして、そのどちらが「好み」なのかは、読者ひとりひとりが判断し、必要があればはてなブックマークかなんかで表明すればよいことです。というか、ネットでは、原理的にそういう論争しかありえないわけです……。

まずい、これで本当に終わりとか書いておいて、また追記をしてしまった! もう本当に仕事に戻るぞ!

信頼社会は不安社会よりいいのか?

信頼ベースの社会と不安ベースの社会だったら信頼ベースのほうがいいのは自明で、そして日本の現状では信頼を再構築するために愛国教育とか社会奉仕が必要なのだ、という議論があります。

しかし、それって本当でしょうか。人間は境界を決める動物です。信頼ベースの社会も「信頼できる人間」と「信頼できない人間」をまず区別するはずです。つまりは、信頼ベースの社会というのは、基本的に信頼の適用範囲を限定した社会にならざるえません。そしてその境界にこそ、普通はナショナリズムだとかヨーロッパ中心主義だとかが入りこみます(むろん、ポストモダンなリベラリズムはその信頼の範囲を無限定に拡張しようと提案していたわけですが——デリダの「歓待の論理」とか——、いまや明らかなようにそれはきわめて文学的で理念的な提案でしかありません、理念は理念で必要なのですがここでの話とは水準がかわってしまいます)。ローティやロールズでさえ、アメリカ中心主義とか一国リベラリズムとか批判されているのは、みなさんご存知のとおり。

他方で不安ベースの社会ってなにか。それは取引の相手を人間と見なさない社会です。だから非人間的な社会です。でもそのかわり不安には境界がない。不安ベースの社会は、「信頼できる人間」と「信頼できない人間」の区別などという曖昧なものは信頼せず、むしろ相手はつねに「信頼できない相手」だと考えて、その前提のうえでリスクを計算します。むろん、そういう社会設計にはコストがかかる(それに計算外のことも起こる——でもそれは信頼ベースの社会でも同じですね)。しかし、そのコストがIT社会の到来で激減しているのもご存知のとおり。ぼくたちは、歴史上はじめて、不安ベースのテクノリバタリアンな社会を実現できる、少なくともその実現を想像できる時代に生きているのです。

(注:一部で混乱を呼んだようですが、この議論は山岸俊男氏の話とはとりあえず関係がありません。最後に記してあるとおり、これは宮台氏への反論です。山岸氏だと、非信頼社会=安心社会のほうがむしろムラ的な論理という用語法になっています(『日本の「安心」はなぜ消えたのか』ほか)。そして「安心」は普通には「不安」の対義語です。したがって、なんかぼくの話と用語の使用法が正反対のような気がすると思いますが、じつはちょっと工夫すればぼくの話もその山岸氏の用法と繋げることができないわけではない——前近代的でムラ的な安心社会→近代的な信頼社会→ポストモダンでグローバルな不安社会の三段階を分ければいいだけ——のですが、ここではとりあえず切り離して論旨を追ってください)

さて、この両者のどちらがいいか。

イメージで語ると、それってこういう比較だと思うわけです。信頼ベースの社会では、社会設計が信頼(主観的な安全保障)と技術(客観的な安全保障)に頼る比率が7:3だとする。他方で不安ベースの社会では、その比率が3:7だとする(信頼が主観的で技術が客観的と言えるのかとか、それってなんの数字かとかは問わないでください。あくまでも比喩です)。信頼の醸成には特別のコストはかからないが監視社会のインフラにはコストがかかるのだとすれば、前者のほうが社会投資が半分で済むのでいいということになる。それに、なによりも「人間」を見ている感じがする。

しかし別の見方もできる。たとえばここに、ある日本人がいて、彼は同じ日本人は信頼度が1だけど、アメリカ人は0.7ぐらいで、中国人ともなれば0.3がせいぜいだと考えているとする。信頼ベースの社会では、彼にとって日本人の総合安全値は10(7+3)だけど、アメリカ人は8(7×0.7+3)、そして中国人はわずか5(7×0.3+3)で、これじゃ中国人とはとても取引できないという話になる。他方で不安ベースの社会では、その数字はそれぞれ10(3+7)、9(3×0.7+7)、8(3×0.3+7)であって、まあ中国人と取引してもいいかという話になる。つまりは、セキュリティのインフラがしっかりしているから、信頼できない相手と取引してもそれほどリスクが増えないという計算になる。こういう見方をすれば、不安ベースの社会だって悪くないという話になる。それはある点では、信頼ベースの社会より「平等」だからです。

ぼくは信頼が不必要だと考えているわけではありません。人間が生物学的条件として半ば不可避的に境界を定めてしまう最小単位、たとえば「家族」のなかでは信頼は最大限に醸成するべきです。自分の妻や娘を、他人と同じぐらい警戒してリスクヘッジを組み立てるような家族関係は端的に間違っている。というか、それはもはや家族ではない。同じことは家族に類する小型の親密圏にもあてはまる。小規模な企業や趣味のサークルなどは、信頼ベースで運営されるべきです(オンラインオフライン関係なく)。それは言うまでもない。「小さな公共圏」は林立するべきです。ただ、ぼくはそれを、国家単位の社会運営の話に拡げるのがおかしいと考えるのです。

また、ぼくは不安ベースの社会が引き起こす諸問題を無視しているわけでもない。たとえば排除型権力の拡張などがそれです。実際、性犯罪者へのGPS常時着用などは本当に現実化しそうです(あまりネットでも騒がれてないけど)。しかし、たとえば排除型権力より包摂型権力のほうがいいと言うときに、「ではだれを包摂するのか」が消えない問題として残るのを忘れてはならない(『思想地図』のシンポジウムや鼎談ではその点でぼくと萱野さんが対立しています)。不安ベースの社会は、人間を人間扱いしない、ぼく風の言い方をすれば「動物」扱いする社会です。だからひどい社会といえばひどい社会です。しかし、社会の構成員全体をひとしなみに動物扱いするのであれば、それはそれで人間的な社会とも言えないことはない。最悪なのは、だれが人間でだれが人間でないのか、恣意的に線を引く権力です。大袈裟に言えばアウシュヴィッツの教訓はそこにつきるわけで、だからぼくは、日本に対する愛とかなんとか以前に、ナショナリズムの論理が嫌いなのです。

最近はそんなことを考えています。ちなみに、小説『ファントム、クォンタム』第1章のテーマは、まさにそんな話になる予定。

ところで、なぜこんなエントリをいきなり書いたかというと、風の便りで、最近宮台真司さんが某所でのトークショーでぼくをけっこう激しく批判し、その絡みで宇野さんを擁護したという話を聞いたからです。その場にいなかったので実際にどういう発言があったのかは知りませんし、ぼくはそれこそ宮台さんを「信頼」しているのでそんなに単純な話でもなかったのだろうと考えますが、とりあえず批判されっぱなしも問題なので書いてみました。的外れの反論だったら申し訳ない。

いずれにせよ、日本社会の復活のために信頼の復権を!というのは、宮台さんや萱野さんや宇野さんに限らず、いまの言論界の流れでは主流でしょう。なんといってもそれは常識的主張です。それに較べれば、ぼくの発想は幼稚というかSF的というか、現時点でそう見えても仕方ないとは思うので、あるていどの批判は甘受します。しかし、ぼくもちょっとはものを考えているので、気長に付き合ってくだされば幸いです。

ちょっとひとこと。

宇野常寛さんの下記の文章を読んで。

http://www.sbcr.jp/bisista/mail/art.asp?newsid=3305

さすがにこれは幼稚な話では。宮台ー東ー宇野という架空のラインを作りたいがために、「批評」全体を落としめすぎだと思う。

そもそも批評や現代思想の読者の中心が性愛コンプレックスで動員されている連中だ、という状況認識がおかしい。

第一に、1990年代以降、批評や現代思想の中心が宮台真司ー東浩紀のラインだったことなどない。宮台さんはメジャーでぼくもちょっとだけメジャーかもしれないけど、そんなラインは傍流の傍流で(だからこそそんな傍流が『論座』の特集になったことに驚くべきであって)、その外にはアカデミズムでもジャーナリズムでも大きな世界がある。

たとえば(『論座』でたまたま名前が挙がったので出すけど)立岩真也の著作の読者はモテなのか非モテなのか? あるいは(たまたま同じメルマガに掲載されているので出すけど)山形浩生の読者はモテなのか非モテなのか? 性的承認以外にも、この世界には考えるべきことはやまほどあり、批評や思想の多くの読者はむしろそっちに興味がある。宇野さんが入れ替える以前に、そういうひとのほうが多いのだ。宇野さんは、もしかして、批評の読者はみな10代から20代で独身で男性だと思っているのか?

第二に、こちらはもう少しどうでもいい反論だけど、宮台さんの読者もぼくの読者も、彼が思うようなひとが中心だったことなどないと思う。そりゃそういうひとはいるだろうし、ネットで目立ちはするだろうけど、実際にはそういうひとに限って本は読んでなかったりする。彼が言っている「宮台読者」「東読者」というのは、実際には読んでないのに宮台真司や僕の名前を使って部室でクダを巻いていい気になっているような、イタい学生のことなのでは? 確かにそういうやつの動機は性愛コンプレックスだろうけど、そんなやつはそれこそいつの時代にでもいるわけで、20年前なら浅田彰がそう使われただろうし、40年前なら吉本隆明が使われたのだろう。だから、そんな観察からはなにも出てこない。

僕は宇野さんを知っているし、またポジション的に応援したいのであまり悪口は書きたくないのだけど、こういう文章を読むと、「それはあなたが批評を性的承認の道具としてしか理解できなかったからなのでは?」と言いたくなる。むろん、それはそれで彼にとって切実な問題なのだろうし、その切実さそのものはそれなりに時代を反映しているだろうから貴重なのだろうけど、そんな個人的な読書経験を過剰に一般化し、「だから批評の読者の刷新が必要だ」と訴えられても困る。

とにかく、宇野さんが批評は性愛コンプレックスの解消手段にすぎないと個人的に考えるのは自由だけど、みんながみんなそんなことばっかりに興味をもっているわけじゃない。というか、そっちのほうが、それこそ「小さな成熟」を経た「普通」の見方でしょう。

困ったことに、日本ではこういうことを書くと必ず「上の世代が下の世代を潰しに入った」と言うひとがいる。だからあまりやりたくなかったのだけど、ちょっとこれは『論座』で新世代の論客と褒められたひとにしてはあまりに幼稚な文章だと思ったので、書きました。宇野さんと同世代でも期待できるひとがたくさんいるのは別に知っているし、そっちはがしがし応援しています。いや、宇野さんもこれからも応援したいのだけど(『ゼロ年代の想像力』はよかったのだし)、だからこその苦言と受け取ってください。

PS
宮台ー東ラインという批評の流れがあることは事実で、それはそれで批判し乗り越えられるべき問題を孕んでいるだろうけど、その支点になるのはモテとか非モテとかの問題ではないと思う。

波状言論の時代(1)

『論座』の今月号が届きました。

特集は「ゼロ年代の言論」。僕自身が鼎談で出ているほか、中森明夫さん、宇野常寛さん、荻上チキさん、酒井信さん、それになんと山口昭男・岩波書店社長の談話のなかでも、僕や『思想地図』の名前が出てきます。ありがたいことです。

『思想地図』創刊号はあと数日で校了を迎えますが、少なくとも創刊号については、おそらくその期待をそんなに裏切らないクオリティにはなっていると思います。ご期待ください。

ところで、それらの記事のなかで、『思想地図』の原点にある僕の仕事として、いくどか『波状言論』という名前が出てきます。

『波状言論』は、僕が編集して発行したメールマガジンの名前です。わずか4年前の仕事なのですが、いまでは全貌がわかりにくくなっています。そこで、この機会にあらためて、若い読者に向けて『波状言論』創刊の意図や発行の経緯を書いてみようと思いました、

名づけて「波状言論の時代」。続きもののエントリです。

まずは『波状言論』の基礎情報から。

上記のように、『波状言論』は、僕が編集者となって発行したメールマガジンです。有料の会員制で、発行期間は2003年12月から2005年1月にかけての1年間。毎月2回発行で、一回あたりの文字量は新書1冊相当。全23号。発行部数は(いまデータが手元にないので曖昧な記憶で書きますが)、確か1000部かそこらだったと思います。当時の謳い文句としては、「現代思想、サブカル、オタク、情報社会論の境界を疾走するまったく新しい批評誌を目指す」ということで、いまでいう「ゼロ年代の言論」の基礎を固めよう、というのが当時の意図でした。

発行当時の紹介ページはいまでも見ることができます(ダウンロード販売サイトへのリンクは現在は死んでいます、放置してすみません)。

http://www.hajou.org/hajou/

『波状言論』全号はのちCD-ROMにまとめられており、内容のサンプルは下記で見ることができます。

http://www.hajou.org/hajoucd/sample/

とくに下記のページに飛ぶと、『波状言論』の全貌がコンパクトに掴めます。

http://www.hajou.org/hajoucd/sample/data/about.html

ちなみに販売ページはこちら。CD-ROMはいまでも売っています。

http://www.hajou.org/sales/

このページも長いあいだ放置されていますが、通信販売は活きています。

ぼくはこの『波状言論』で、けっこう先駆的なことをやっていました。

たとえば、1月号の目玉は西尾維新さんへのインタビューですが、当時はまだ西尾さんは『ファウスト』まわりで注目されているにすぎず(そしてその『ファウスト』もまだ創刊直後で)、本格的なインタビューはこれがはじめてだったと思います。3月号でははてなの近藤淳也さんが登場しますが、当時はまだはてなはアメリカ進出どころか東京にも来ていませんでした。鈴木謙介さんもまだマイナーで、ここでの連載「カーニヴァル・モダニティ・ライフ」がのち『カーニヴァル化する社会』として出版されます。『テヅカ・イズ・デッド』前の伊藤剛さんやBL/腐女子ブーム前の金田淳子さんも登場しています。福嶋亮大さんがデビューしたのも本誌です。ほかもいろいろやっています。

しかし同時に、いま振り返ると、そこでの試みがまだまだ孤立し、離散的だったこともわかります。

たとえば、ぼくは新海誠さんと西島大介さんの「セカイ系」鼎談を企画し、また別に神林長平氏へのインタビューも行っています。この繋がりは当時の読者には理解されなかったのですが、いまならばあいだに円城塔さんを挿むことができる。そうすると見通しがかなりよくなるはずです。あるいは、白田秀彰さんと真紀奈17歳さんをゲストにした「著作権」座談会。これも当時は唐突な印象を与えた企画ですが、いまならば白田さんの名前が北田さんや近藤さんの名前と並ぶことにあまり違和感がない、というかむしろ当然のように感じられるでしょう。

この4年間で、評論をめぐる状況は大きく変わりました。「現代思想、サブカル、オタク、情報社会論」の境界はみごとに相互浸透し、新しい読者層が一定規模で立ち上がりました。だからこそ『思想地図』や「ゼロアカ道場」が可能になったのです。

ただ、それは、その読者層を立ち上げた当人からすると、少し複雑な気分になる光景でもあります。

「ゼロ年代の言論」といまさらのように言われていますが、実際には今年はすでに2008年、ゼロ年代は終わりかけています。もし「ゼロ年代の言論」なるものがあるとすれば、ぼく自身がその出現をもっとも強く感じ、興奮し、巻き込まれていたのは、じつはいまから4年前、2004年のことでした。波状言論の1年は、それはたまたま子どもが生まれる前の最後の年でもあったのですが、ぼくの人生のなかでもっとも刺激的で、狂騒的で、慌ただしい1年だった。そして、当時ぼくが「新しい批評」の可能性として夢想していたいくつかの可能性は育ち、残りの可能性は消えて(またあるいは、ぜんぜんべつのところから水脈が現れて——たとえば、鈴木さんの連載で多少触れられていたとはいえ、『波状言論』は格差社会論やフリーター論壇の隆盛はほとんど予測していませんでした)、いまの「ゼロ年代の言論」や「ゼロアカブーム」が立ち上がります。

ぼくはおそらく、いま「プロ」の批評家と見なされているひとびとのなかで、その光景をもっとも身近に見てきた書き手です。だから、ゼロ年代の言論がついにメジャーになったらしいいま、そのプロセスを振り返っておくのは悪くないかな、と思いました。

(不定期に続く)

4月の活動

おはようございます。

パリだよりも更新しないまま、4月になってしまいました。帰国して桜とかぼおっと眺めていると、パリの忙しさが嘘のようで、いまさら更新する気もなくなってしまうのですよね……。

とりあえず、4月に出る仕事を4つ告知しておきます。

・『新潮』5月号に小説を書きました。タイトルは「ファントム、クォンタム」。今回掲載分は約70枚で、長編小説の序章にあたります。共作でもメタフィクションでもありません。ジャンルはどちらかというと、SF……かな? 続きは8月号に掲載予定。
 ちなみに、ぼくが渡仏前に妙にテンパっていたのは、こんな(ぼくにしては)長い原稿があったからなのでした。

・『ミステリーズ!』no.28で「セカイからもっと近くに!」第3回を書いています。今回は新井素子の『……絶句』論。これを読むと、ぼくがなぜ『キャラクターズ』を書いたのかが、少しだけわかるかもしれません(いや、普通に読んでもわからないはずだけど)。

・『論座』5月号に、佐々木敦、大澤信亮両氏との鼎談が掲載されています。タイトルは、いま手元にゲラがないためにわかりません。けっこう長い鼎談です。

・『思想地図』創刊号が発売されます。発売予定は4月末。ぼくは、創刊シンポジウムの活字化である「国家・暴力・ナショナリズム」ほか、北田暁大、萱野稔人両氏との鼎談「国家論と日本」に参加しています。個人で原稿は書いていませんが、今回は創刊号なのでまあ許してください。章ごとに論文紹介を書いたり、公募論文の前書きを書いたり、「創刊に寄せて」を書いたり編集後記を書いたり、責任編集としての仕事が多かったのです。
 なお、公募論文第1号は、1983年生まれの東京芸大院生氏の『あずまんが大王』『らき☆すた』論です。『思想地図』はサブカルへの目線も忘れてません(笑)。

最後に、新年度ということで、長期的な出版計画をいくつか述べておきます。

まずは5月末に、桜坂洋氏との共作小説『キャラクターズ』が新潮社より刊行されます。ほか、夏までに、NTT出版から下條信輔氏ほかとの共著『環境知能・考』が、講談社現代新書から大塚英志氏との共著(題未定。過去の対談をまとめたもの。ただし『新現実』掲載分は1/3ほど内容が入れ替わる予定)が刊行される予定。そして秋には、河出書房新社からあの伝説の?『ised』全記録上下2巻本が刊行されるはずです。ほかも、2冊ほど、詳細が決まっていない企画が進行中。

こうしてみると、とにかく今年は共作や共著がたくさん出版される年です。『思想地図』も形式的には共著なので、それをカウントすると7冊になるのかな? けれども、年度内に1、2冊は単著も出版したいところです。なんとかなるといいのですが。

ま、ぼちぼちとがんばります。応援してくれれば幸いです。

パリだより2

こんにちは。

こちらは19日の夜です。このホテルで過ごすのもあと一晩。18日を飛ばすことになるけど、今日(19日)の簡単な報告をしておきます。

まず午後は、Philosophie Magazineの取材を受けました。

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左は、ジャーナリストのJuliette Cerfさんです。1pあるいは2pの記事を書いてくれるそうです。インタビュー内容は、ほとんどオタクには関係なく、むしろなぜぼくが大学的言説から距離を取っているかとか、デリダの思想と『動ポモ』にどう関係するかとか、そういう話でした。

夕方からは、先日の日仏会館でのvisio-conferenceで討議相手になってくれた、Marc Crépon氏の自宅に招かれました。Crépon氏の著作では『文明の衝突という欺瞞』が翻訳されています。

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右がCréponさんです。ご自宅はパリ15区の典型的なアパルトマンで、とてもいい感じでした。東は白ワインが好きそうだ、とのことで(ノルマルの食事会のときにがぶ飲みしていたらしいのです)、ガスコーニュ地方のおいしいワインを出していただきました。
Crépon氏は、デリダの専門家であり、また日本でも有名なスティグレールとともにいまセミナーをおもちです。オタク文化の問題に限定されず、情報社会における哲学や教育のありかはなにかなど、話はたいへんに盛り上がりました。
それにしても、いまあらためて見て思いましたが、この写真、ぼくが妙に偉そうですねw。

いずれにせよ、今回のパリ滞在でいろいろなかたと会ってみて、日本の現代の批評的文脈はヨーロッパに紹介するべきだし、またその需要はある、と確信しました。『思想地図』が、そのような回路を開くきっかけになるとよいのですが。

またひとつ課題が増えた感じです。

パリだより1

東です。こんにちは。こっちは水曜日の昼間です。

ようやく時間が空いたので、パリでの活動を報告がてら、写真を何枚かアップしてみようと重います。

さて、パリに到着したのは14日の夕方。

翌15日は、まる一日、国際会議「Le manga, 60 ans après...」に出席していました。

MCJP.JPG

これが会場の日仏文化会館。Bir-Hakeim橋のたもと、エッフェル塔が正面に見るなかなかいい場所に立っています。

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ぼくの講演の様子。左から伊藤剛さん、ぼく、フランス語版に序文を書いてくれたMichel Maffesoli氏、そして今回のシンポジウム全体のディレクターを務めるJean-Marie Bouissou氏。
ぼくはこのとき、飛行機の長旅と前日のワインが祟って、ほとんど声が出ない状態に陥っていました。それでも、伊藤さんとぼくの講演は好評で迎えられたようです。17日に行われたシンポジウム2日目でも、いくどか言及されていました。
なお、上の写真、よく見ると東工大の綴りが間違っていますね(笑)。いま気づきました。

16日は大型ブックフェア「Salon du Livre」のHachette社のブースで、サイン会に出席してきました。

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これがそのブースの写真です。

このブックフェア、よく知らなかったのですが、一般読者が参加するものとしてはヨーロッパ最大の規模らしく、日曜ということもあり会場はかなり混雑していました。サイン会を行う作家も3000人に及ぶとか。日本にはあまりない習慣です。
児童書のブースもでていたので娘のため絵本でも探そうと思ったのですが、サイン会が終わってしばらくすると、緊急放送がかかって観客は全員会場外に出されてしまいました。伊藤さんのブログにもその様子がちょっと書いてあります。
なお、その伊藤さんのブログに書いてある「コスプレ娘と一緒の写真」云々は、日本の某誌より希望があって撮影したものです。どこかでそういう写真が載っていたら、ああ、このときの写真かと思ってください。

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そして上は、ブックフェア会場近くのカフェでの一枚。左から、ぼく、仏訳版の翻訳者圏エージェントのCorinne Quentinさん、そして伊藤さんです。Quentinさんはたいへん優秀なひとで、今回の渡仏でもとてもお世話になりました。『動ポモ』の紹介にも尽力していただけて、早くもイタリア語への翻訳の話などが来ています。
なお、ブックフェアに行って知ったのですが、Quentinさんは玄侑宗久や池澤夏樹の小説も仏訳しているのだそうです。玄侑宗久とぼくの日本語が、同じ翻訳者によってフランス語になっているとは! 日本からは見えない繋がりです。

17日は「Le manga, 60 ans après...」の2日目。会場が変わって、ラウンドテーブル形式のシンポジウムになりました。

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これが会場の様子です。

さて、今回の旅行、渡仏前からスケジュールが詰まっていて原稿や準備が間に合わず、しっちゃかめっちゃかの状態でパリに到着したわけですが、しかし、到着したとなったらやはりアルコールが入ってしまうもの。14日は到着祝いをし、15日はシンポジウム参加者による打ち上げ、16日はエコール・ノルマルのSemaine Japonaise関係者による食事会と立て続けに飲んだうえに、時差ぼけであまり寝れていなかったのが響いたのか、この日の朝、ぼくはついに高熱で倒れてしまいました。

それでも、午後遅くには会場に現れ、頭痛に耐えながらラウンドテーブルに参加。さすがに打ち上げ(また打ち上げがあったのです)は帰ろうと思っていたのですが、「とりあえずアペリティフぐらい飲めよ!」とのディレクターの声に誘われてレストランに。そして・・・。

そしてぼくはむろん、最後までいました。下が一次会終了時点での集合写真。人数が多いので、左半分は切れています。

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ぼくは下の座っている3人の真ん中にいます。左が伊藤さん。

ほかも3人だけ紹介します。ぼくの右上に立つ白いマフラーを巻いた女性が、「Victimized Cyborgs : the Representation of Fragmented Self in 'Gunslinger Girl'」という発表を行った、オーストラリアの研究者、Christie Barberさん。ちなみに、1日目の発表では3人が『ガンスリンガー・ガール』に言及し、解釈をめぐって討論まで行われていました。
そのマフラーの女性の後ろで、上を見上げているのが、山梨大学のJulien Bouvard氏。Bouvard氏はまだ若く、日本語が堪能なだけではなく、最近の萌えや批評の文脈にきわめて通じており(ぼくと伊藤さんの名前をこの会議で提案したのも彼だとか)、今後のマンガ研究でキーパーソンになると思われるひとです。なお、彼の発表は表現規制についてだったはずですが、ぼくはそのときホテルで寝ていました(ごめん!)。
そのJulienの右隣にいる、陽気な感じの男性がイタリアの研究者、Marco Pellitteri氏。彼はイタリアのオタクの現状について報告したのですが、日本のマンガやアニメの無国籍性がイタリアのオタクにおいて日本性の表徴として捉えられている、などなど、おもしろいことを言っていました。日本の雑誌に、彼の講演の翻訳が掲載されるかもしれません。

そして2次会へ。それにしてもパリの夜は寒い! ぼくはごほごほ言っていました。はたして、こんなんで翌日は大丈夫なのでしょうか。

むろん、大丈夫なわけがありません。6時間後、ぼくは心底疲れ切って朝を迎え、自分の愚かさを呪うことになるのでした。

よく考えてみたら、ほかの参加者はもう帰るだけだけど、ぼくはその翌日も朝11時から雑誌取材を受けねばならなかったのです。そしてついにノルマルの講演が・・。

今回はここまで。続きは気が向いたら帰国後に書くことにします。

じつは18日は本当にばたばたしていて、地下鉄が止まるわ、切符をなくして改札は開かないわ、セキュリティゲートをくぐって突破するわ、日本語のファイルがノルマルのマシンで開けないわ、トラブル続きで講演開始を迎え、校舎の写真、講演の写真ひとつ撮る余裕がなかったので、あまりおもしろくない報告になるかもしれません。

せっかく、ラカンやデリダも講演したという伝説の教室、Salle Dusanneで講演したというのに・・・。なぜこんなどたばたに・・・。

マンガ会議講演概要

こんなことを話します。急いで書き殴った翻訳者用の概要です。ふだんはこういうのは作らない(聴衆の反応を見て話すのが好きなので)のですが、今回は翻訳が挟まるので作りました。

講演記録は別に出版される予定らしいので、正式にはそちらを参照してください。


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Le manga, 60 ans apres...
The otaku phenomenon and Japanese postmodernity
講演概要
全40分


自己紹介そのほか

0:00

僕は批評家であり、マンガ研究者ではない。社会学者でもない。大学院では哲学を専攻していた。だからオタクについてこれから語ることも、抽象的で思弁的な話である。そのことを念頭に置いてもらいたい。

今日の講演の中心は、おもに、『動物化するポストモダン』(Generation Otaku)という、最近フランス語訳が出版された著作の紹介となる。この著作は2001年に日本で出版され、よく売れた。2007年に韓国語訳が出版され、また今年中かあるいは来年に英訳が出版される予定である。
『動物化するポストモダン』はフランス語訳では「オタク世代」と翻訳されたが、もともとのタイトルは、「動物化するポストモダン オタクから見た日本社会」というものだった。つまり、主題はあくまでも、「ポストモダン」「日本社会の変化」、そしてこの本で新たに提示された「動物化」という概念で、「オタク」はそれらの変化を実証するためのひとつの例だった。しかし、日本でも、この本はまず「オタク」についての本だと読まれた。
また、この本を契機として、日本では、若いオタクたちのあいだに、批評的言説を好む読者が一定数現れた。10年前の日本では、現代思想的用語とともに語られるのは文学であり映画であり美術だったが、いまではその半分ぐらいが、マンガでありアニメであり美少女ゲーム(この特異なジャンルについてはのち語る)になっている。


物語消費とデータベース消費

5:00

それでは、『動物化するポストモダン』の内容を紹介しよう。

まずぼくはこの本で、オタクという言葉をほとんど定義していない。オタクとは、マンガやアニメやゲームやそのほかもろもろ、たがいに結びついた一群のサブカルチャーを熱心に受容する人間、といったていどの意味である。
なぜそのような単位に注目するべきかというと、今日の会議のテーマはマンガだが、マンガに限らず日本のサブカルチャーについて考える場合、その「オタク」というまとまりに注目するのはとても大事だからである。オタクたちは人種的集団でも経済的階層でもないが、日本では、独特の固有性をもち、ひとつのまとまりとして捉えられている。同じマンガでも、オタク向けに書かれているものと、オタク以外に向けて書かれているものは、かなり異なったジャンル的文法で書かれているように思われる。オタクたちは、彼ら固有のルールで文化を消費している。そのルールを理解しないで、単独に作品だけを学問的な擁護で分析しても、日本では有効な分析と見なされない。

さて、そのような前提のうえで、僕が主張したのは、オタク文化はかくも独自の世界だと思われているが、しかしそれでも、やはりそこには「ポストモダン的」な要素があり、また戦後日本の精神史が反映されているのだ、ということである。

ここにいるみなさんは、そんなのは明らかだと思われるかもしれない。たとえば、オタク文化のポストモダン的性質については、二次創作の存在を見れば明らかだ。そこでは、オリジナルとコピーの関係が崩れている。「シミュラークル」の世界だ。また、マンガやアニメが、戦後日本の諸問題を反映しているのも当然のことだ。
しかし、ぼくが言いたいのはそのようなことではない。

筆者はまず、この本で、1990年代、オタクたちの消費行動には大きな変化があったと主張している。それはどのようなものかというと、「物語消費」から「データベース消費」への変化である。いまならば「キャラクター消費」と呼んだほうが適切かもしれない。オタク文化での消費の単位が、物語から、その物語を構成する「要素」のほうへ移動したのである。
それはたとえば……。
<例 『ガンダム』vs『エヴァンゲリオン』>
<『動物化するポストモダン』の図>
ちなみに、「オタク第1世代」と「オタク第3世代」——この区別もいまや日本では一般的になっているが、はじめてそう区分したのはじつはぼくである——のこの差異は、ぼくが2001年に本を出版したときにはまだ不明確で萌芽的なものだった。
<例 萌え要素、美少女ゲームの説明、『動ポモ』の図版を見せながら、このときはこのような例しかなかった……というような話>
しかし、そのあと、美少女ゲームやライトノベル(キャラクター小説)の台頭、「萌え」の流行語化、そしてインターネットを中心としたオタクコミュニティの成長によって、ますますはっきりとしてきている。
<ここで美少女ゲームやキャラクター小説について説明:時間があれば>
なお、さらに註釈を加えれば、1980年代現在、若い世代のオタクたちの消費行動は「データベース消費」というより、むしろ「データベースを媒介としたコミュニケーション消費」とでもいうべきものが主流になっている。なにかを話題(「ネタ」)としてとにかくユーザーが繋がればいい、というのが、いまの日本での大きな流れである。
<例:らき☆すた ニコニコ動画とYouTubeの違いなど>
このような変化の意味については、『動物化するポストモダン』の続編で、日本では昨年出版された『ゲーム的リアリズムの誕生』に記されている。


動物化

23:00

さて、オタク第1世代と第3世代のあいだでは、このように消費行動に大きな差異があるわけだが、しかしこれはなにを意味するだろうか。そこで筆者は、大澤真幸という社会学者の戦後日本社会の精神史区分と、Lyotardの「大きな物語の崩壊」論(『ポストモダンの条件』)、そして、Kojeveの『ヘーゲル精神現象学講義』への小さな註釈に注目した。

<ここからさきしばらくは『動物化するポストモダン』の話>
<理想の時代→虚構の時代→?>
<1995年オウム真理教事件の意味;虚構の時代の終わり>
<それでは虚構の時代のあとは?>
<大きな物語の崩壊、という観点から大澤の議論を整理する>
<大きな物語がある時代(理想の時代)
→物語は崩壊したがフェイクが求められた時代(虚構の時代)
→もはや物語のフェイクすら必要なくなり、ただデータだけを消費する時代(現在)>
<大きな物語→物語のフェイク→大きなデータベース>
<近代的人間→スノビズム→動物化>
 
以上のように、1990年代のオタクたちの消費行動の変化は、「物語消費からデータベース消費へ」「スノビズムから動物へ」という言葉でまとめられる。そしてそれは、戦後日本の精神史の展開をみごとに反映しているとともに、またポストモダニティの深化とも捉えられる。
それが『動物化するポストモダン』の結論である。


追記
33:00

なお、今日の講演はたいへんに短いので、本来はこれにはさまざまな註釈を加える必要がある。短めにふたつだけ。

ひとつは「動物化」というキーワードの意味である。
ぼくは『動物化するポストモダン』で、オタクは「動物化している」と主張している。しかし、それには肯定の意味も否定の意味も込めていない。このことは重要である。なぜならば、ぼくは、動物的消費を前提とした人間的社会、人間的コミュニケーションの構築も可能だと考えているからだ。さきほど見せたニコニコ動画のようなコミュニケーションを考えてもらいたい。そのようなコミュニケーションは、従来の常識ではまったく人間的なものではない(日本でも一般にはそう思われている)。しかし、ぼくは、そこにしか新しい人間性の可能性はないと思う。
今日はまったく触れられなかったが、動物性を前提としながら、従来のありかたとは違ったかたちで人間性を再構築するオタクたちの試みを、『動物化するポストモダン』では「解離」という言葉で読んでいる。出版してから気がついたのだが、解離、つまり dissociationとは、また脱社会化(associationの逆)という意味でもある。解離的で脱社会的な人間的コミュニケーションの世界。これがオタクたちが目指すべき新しいコミュニケーションのすがただろう。本当はここに、日本社会論、都市論なども関係していて、実際にぼくは『東京から考える』などという都市論を出版しており、そこではショッピングモールにこそ新しい文化の萌芽があると主張している。その主張と、『動物化するポストモダン』の動物性の議論は深く関係している。
マンガの話と離れてしまったが、ぼくがここで言いたいのは、ひとことで言えば、オタク文化とはライフスタイルの問題であり、その意味を捉えることなしに作品分析だけしてもその射程は限られているということである。

もうひとつは、この『動物化するポストモダン』が、日