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渦状言論へようこそ。

ここは、批評家・東浩紀が運営するブログです。東浩紀の経歴や業績については、hiroki azuma portalをご覧ください。

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1/28東工大思想地図シンポ

あけましておめでとうございます。1月前半は思いきり休んだので、さすがにもろもろの心理的な傷も癒え、元気になってきた東浩紀です。まだ東スレとはてなは見ませんけどね!

さて、新年早々で早速の告知ですが、以前も紹介したように、来たる1月28日水曜日、東工大の大岡山キャンパスで、『思想地図』関連の3回目のシンポジウム、「アーキテクチャと思考の場所」が開催されます。パネリストは、浅田彰、磯崎新、宇野常寛、濱野智史、宮台真司の5氏。司会はぼく。

詳細は→http://www.cswc.jp/lecture/lecture.php?id=60

入場無料ですので、ぜひお誘い合わせのうえご来場ください。

今回も会場は定員600人のメイン講堂。前回は満員御礼だったので、今回もぜひそうなりたいところです。というか、じつは大学側は、満員を前提にして同時中継の第二会場まで準備しています。これでガラガラだとまじで格好がつかないので、みなさん、ぜひご協力ください。

肝心の内容ですが、「アーキテクチャと思考の場所」というテーマは、むろん、すべての思想が相対化され、有効なのはあらゆる思想を受容するプラットフォームの設計にしかないように見える(と少なくともぼくは考える)この時代において、では『思想地図』はなにをなすべきか、という自己言及的な問いにもなっています。具体的な進行としては、最初に濱野くんと宇野さんから、上記のテーマについて15分づつプレゼンテーションをいただき、それを受けて6人で議論に入るというかたちになります。

なんといっても、今回は面子が豪華です。そして早口で話し倒しそうなひとが何人もいる。司会としてもいささか力量が試される場なので、ぼくも多少緊張してします。もう昨年末になってしまいましたが、ぼくと濱野くん、宇野さんの3人だけで、浅田・宮台・磯崎の強力トリオを迎撃すべく、対策会議も開きました。

妙に表情が硬い写真しかないのですが、そのあとの忘年会のはちゃけたxacti動画を上げるわけにもいかないので、いちおうアップしておきます。

SANY0080.JPG

打ち合わせで疲れ切ったのか、ぼくは顔が死んでいますね。宇野さんの笑顔が不気味なのは、ぼくだけでしょうか(笑)。いずれにせよ、濱野くんも宇野さんもパワーポイントでがりがり発表するらしいです。28歳シンクタンク研究員と30歳会社員の華麗なパワーポイント対決も、このシンポジウムの見所と言えるでしょう。

『思想地図』vol.2も、いまだ増刷こそかかっていませんが、売り上げは好調とのことです。vol.3の目次もほぼ確定しました。なんでも、近日内には公式サイトもオープンするとか。

2009年も『思想地図』をよろしくお願いいたします。

英語版『動物化するポストモダン』

otakudatabase.jpg

現在、コミケの準備でちょっと忙しいので、情報だけ流しておきます。

『動物化するポストモダン』の英訳が出版されます。タイトルは直訳すると、「オタク:日本のデータベース的動物たち」。出版社はミネソタ大学出版です。いい出版社です。

出版は2009年3月の予定ですが、下記に出版社の紹介ページが開かれています。Amazonでの予約も始まっています。

なお、この出版に関連して、3月29日にシカゴで開かれるAssociation for Asian Studies の総会でパネルをもつほか、アメリカのいくつかの大学で講演を行う予定です。

ちなみに、ぼくもいまさっき、このURLが翻訳者の方から送られてきてはじめて表紙を見たのですが、なんかすごいインパクトですね。違和感を覚えないわけではないですがw、しかしこれはこれでいいのではないでしょうか。

http://www.upress.umn.edu/Books/A/azuma_otaku.html

http://www.amazon.com/Otaku-Database-Animals-Hiroki-Azuma/dp/0816653526/

http://www.amazon.co.jp/Otaku-Database-Animals-Hiroki-Azuma/dp/0816653526/

コミケ出店情報

コミックマーケット75に出店します。

12月30日
火曜日西地区
と-13a
「波状言論」

今回はオフセットの新刊はないのですが、コピー誌を作りました。A4で16ページです。京都造形芸術大学での講演「社会契約と『動物化』——オタク的公共性のゆくえ」(2万5千字)、書き下ろしのエッセイそのほかが収録されています。文字数だけは多いコピー誌です。

ぜひご来場ください。

告知の抜け

先日のこの告知にふたつほど抜けがありました。

・『早稲田文学』第2号で、先日のワセブンシンポの活字化が読めます。それに参加しています。なお、この号、裏表紙と帯が全員の集合写真なのですが、ぼくは妙に目つきが悪いです。ぼくはちょっと俯くとすぐ三白眼になるのです。
・『パンドラ』次号に「ゼロアカ道場という怪物」というエッセイを寄せています。文フリ後3日後に書いたものです。

思想地図・扉文3

思えば最近、このブログのエントリはトラブル処理ばっかだぞ、と思う東浩紀です。

とはいえ、本当はそんなトラブルにも悩んでいません。なぜなら、それはどうせネットを舞台に若い読者が騒いでいるものばかりなので、解決が簡単だからです。まずぼくがネットをあまり見なくなればいい(これは部分的に実行しています)。つぎにこのブログを閉じてしまえばいい。そして最後に、講演とか授業でも、ネットにルポ載っけないでね、よろしく、と言い続ければいい。要は、ネットであまり話題にならないひとになればいいのです。

しかし、そんなんで批評家東浩紀のアイデンティティは保てるのでしょうか?  そんなことも悩む今日このごろです。

といったところで、思想地図の扉文第3弾をアップします。特集「ジェネレーション」、第2章の扉文になります。

「労働と創造の新しい関係」リード文

この章の意図はタイトルが十分に示しているのではないかと思う。正直に告白すると、企画段階ではこの章には「ロスジェネを越えて」という仮題が記されていた。いま「ジェネレーション」を特集するのであれば、やはりロスジェネ(ロスト・ジェネレーション)論壇への目配せは欠かせない。とはいえ、そこで『思想地図』が行うべきなのは、マスコミが増幅するロスジェネのイメージ、ネオリベと非正規雇用とネットカフェ難民の物語に無邪気に乗ることでもなければ、またそれに抵抗して良識を気取ることでもないだろう。むしろここでは、現代の労働の具体的な困難を語るよりも、多少議論が抽象的になったとしても、その背後にかすかに見え始めている「労働」そのもののドラスティックな変容を捉えたい。そのような意図のもと、異なった背景をもつ四人の論客に原稿を依頼した。

鈴木健は一九七五年生の物理学者・経営者・プログラマ。理論経済学の論文を書きソフトウェアを作り企業を経営する鈴木の多面的活動は要約しがたいが、そこに一貫しているのは、情報と計算のパラダイムが可能にする新しい社会秩序への強い関心である。収録論文は、そんな社会が生み出す「労働のゲーム化」の潜勢力を鮮やかに描き出している。橋本努は一九六七年生の経済学者。二〇〇七年に上梓された『帝国の条件』で斯界の注目を浴びた。収録論文は、「創造主義」を鍵概念として、一般に保守的・ネオリベ的・経営学的文脈で理解されるクリエイティビティ論に別の政治的可能性を見いだそうとする。以上二つの論文は後掲の第二特集とも問題意識をかなり共有しているので、併せて読むとよいだろう。

田村哲樹は一九七〇年生の政治学者。収録論文は、この春に上梓した『熟議の理由』を補完するもの。労働からの解放が熟議民主主義の必要条件だというその問題提起は、橋本の創造主義とも響き合うところがある。なお『熟議の理由』は、じつは本誌編集委員の北田暁大の主著『責任と正義』への応答という側面を備えており、その点も考慮すると論文はますます興味深い。最後の大澤信亮は一九七六年生の文芸評論家。収録論文は上記三点とは異なり文学的だが、批評家ならではの手法で柳田國男と労働組合の可能性の中心に迫る力作。大澤は『ロスジェネ』『フリーターズフリー』の編集委員であり、論文はまずはその経験との関係で読まれるべきだが、同時に彼が『新潮』二〇〇八年一一月号に寄せた「柄谷行人論」とも主題が連続している。

東工大授業の顛末について

怒っているのでも疲れているのでもなく、ただただ人々の幼稚さに呆れうんざりしている東浩紀ですが、ぼくの東工大の授業についてシンプルな方針を示しておきます。

1.該当の授業は東工大の授業なので、東工大生以外は原則聴講禁止。

2.もし東工大生以外の部外者が僕の授業に潜り、そのために講義の進行が妨げられる場合、世界文明センターの責任が問われるおそれもあるので、該当者の聴講は固く禁じる。

3.ただし、潜り学生がこっそり存在していたとしても、講義が粛々と行われているかぎり、ぼくはその存在に気づかない可能性がある。

というわけで、2週間ほどまえに記した、「授業に来ればいいじゃん」発言は公的には撤回します。いずれにせよ、授業じゃなくて講演などの機会であれば、質問を受けることは可能です。

で、なんでこんな方針を書くことになったか、の話。

じつはぼくはいま本当に2ちゃんねるもはてなもなにも見ていないのですが、しかたないので昨日の件の報告エントリだけは確認しました。それで、問題の本質(というか本質のなさ)に関わる点で、二つほど報告者=潜り希望者が抜かしている単純な事実があるので、記しておきます。たいした話ではないので、興味があるひとだけ読んでください。

1.この報告者(非東工大生)の方は、最初に嘘をつきました。

該当エントリにもあるように、ぼくはまず教室外の廊下で、「前回まで潜っていたひとは教室に入っていいです」と言いました。10人弱の人間が残りました。しかし、そのときに彼は黙って、しかもぼくの背後のドアから教室に入ろうとした。ぼくが気づいて止め、「君は出てたかな」と問いただしたところ、彼は「出てました」と答えました。これはおかしいな、と思ってぼくが「でも顔を知らないよ」とあらためて問いただしたところ、その男性は「ブログを通して出てるんです、入っていいでしょう」とへりくつをこねはじめました。それで問題のひとだとわかりました。それが、このひととぼくが最初に交わした会話です。

2.報告者とともに来た2人のうちのひとりは、2002年にSFセミナーの合宿部屋でライターさんともにぼくを批判し、2006年にSFセミナーの企画運営でぼくとトラブルを起こし、さらに別のライターさんとともにふたたびぼくに絡んできた、言ってみれば古参の東クレーマー氏でした。

まあ、そういう事実からなにを判断するかは、みなさんの自由です。

でもちょっとだけ付け加えておきましょう。

いちおうぼくとしては、彼らの振るまい(後述のように授業の直前に知りました)が不愉快なことは事実で、その点についての最低限の問いただしを、彼らが誠意をもって聞いてくれれば教室に入れるつもりでした。けれども、問題のひとは最初から嘘をつくし、「ブログに書いた以上俺らを入れろ」の一点張りだったので、そのプランは吹っ飛びました。該当エントリだけ読むとずいぶん違うふうに書かれているけれど、ま、いちおうぼくのほうからは、そう見えるということですね。

あ、それから、この点も記録のなかで(無意識に?)落とされているのですが、ぼくは本当にこの報告者の方はその当日まで知りませんでした。

ブログのプリントアウトを手にしていたのは、授業の直前にあるひとより、「今日東さんの授業に行くとネットで書いて話題になっているひとがいるが大丈夫か」とメールをもらい、そこにURLが書いてあったからです。それで慌ててプリントアウトしたのです。だから矛盾でもなんでもありません(と彼には幾度も説明したのですが、該当エントリでは抜けています)。(ちなみに、さらに正確を期せば、その前の週に「はてなでデリダ関係で東が間違っていることを証明できたら10万ポイントとか言っているひとがいる」という話は聞いていたのですが、あまりにくだらない話なので検索もしていませんでした)

だから、ぼくとしては、本当に、なぜ彼は「東さんは自分を招いた、自分に向けてエントリを書いた」と考えているのか、さっぱりわかりませんでした。いまでもわかりません。彼ははてな界隈では有名なのでしょうか。この点については、彼は単純に誤解をしているかと思います。

さて。

ぼくはどうもむかしから、男性にホモソシアルに好かれるというか、「東さんは拗ねているだけだけど、本当は俺のことを見ている」的に粘着的にまとわりつかれることが多くて、どうもこの性格は自分でももてあましている、というか困っているわけです。今回もぼくにはその一例に見えるわけですが、これを機会に少しははっきり記しておきましょう。といっても、そういうひとには、あいかわらず伝わらないような気もするけれど。

この世界には、ぼくが関心がもてないひとがたくさんいます。むろん、そういうひとの「存在」は尊重しますが、しかしそれは、ぼくのリソースを無際限に提供することを意味しない。そういうひとが来て、ぼくに話をしたり相手にしたりすることを強要したら、ぼくにその場の権利がある場合にはお帰りいただくし、ぼくに権利がない場合はぼくのほうが去ります。

したがって、リアルにぼくと話したいのなら、相応の礼儀と手順を踏んでください。興味があったら授業に来たら、というのは、だれとでもフレンドリーに相手をしますということではありません。たとえば、ブログでぼくのことを罵倒し馬鹿呼ばわりしていても、現実に会ったら肩を抱いて飲みに誘ってくれるとか思っているのだとすれば、それは妄想です。ワセブンシンポやゼロアカ、ネットスターそのほかのせいで、今年はどうも若い読者を中心にカンチガイが横行してしまったようなのですが、あれらはあくまでも期間限定、場所限定の演出されたお祭りであり、そしてぼくの振る舞いもお祭り仕様です。日常はそれとはちがいます。

授業はお祭りではありません。講義もまじめにやっていますので、じゃまされたくありません。お祭りにしか興味がないひとは、来てもお帰りいただきます。

それにしても、今回の件でぼくが唯一反省しているのは、結果的に井口時男さんにご足労願ってしまったところです。上記のひとが、「帰らない、ぼくには授業に出る権利がある」と粘るので、このままだとぼくも教室に入れないと考えてお呼びしたわけですが、正直、あれは格好悪かったw。

次回以降はひとりで対応したいものですね! ←違う

ちなみに、今年の東工大授業は例年になく思想っぽくなっています。けっこう楽しくなってきたので、来年度からは科目名を一新し、現代思想に絞った授業にしようかという気にもなってきました。

次回はドゥルーズ「管理社会について」に戻ります。

ミステリーズ!連載7註釈

ぼくはいま『ミステリーズ!』で、「セカイからもっと近くに!:SF/文学論」と題した連載を行っています。タイトルからして時評的なものと思われがちですが、じつのところは、ぼくがひさしぶりに書いている、けっこうまじめでオーソドックスなスタイルの(作品を素直に読解しているという意味で)文芸評論です。

さて、そんな連載なのですが、現在発売中の32号に掲載されている第7回、原稿が規定枚数を大幅に上回り、そのくせ校了直前の入稿で頁数の調整も不可能だったために、注部分がまるまるカットされています。そこで、ここに注部分のみ掲載します。できれば、『ミステリーズ!』32号とこのエントリを並べてお読みください。

そもそもこの連載、巻末に掲載であることからおわかりのようにつねにぎりぎりでの進行で、編集者さんに迷惑をおかけしています。今回はついに読者のみなさんにも迷惑をかけてしまいました。煩雑なことになってしまい、申しわけなく思います。

なお、以下の文章にはネタバレはないと思うのですが、ぼくはミステリの作法はよく知らないので、なにかミスを犯しているかもしれません。ネタバレに敏感な方はご注意ください。

『ミステリーズ!』vol.32、東京創元社
「セカイからもっと近くに!:SF/文学論」第7回
法月綸太郎と恋愛の問題(3)

註釈


「背信の交点」。法月綸太郎、『法月綸太郎の新冒険』、講談社ノベルス、一九九九年。


本文では検討することができなかったが、容子と穂波はじつは、作品世界内の時間ではほぼ同時に綸太郎のまえに現れている。そして彼女たちはじつに対照的な女性である。そもそも容子は非凡なミュージシャンで、穂波は公立図書館の平凡な司書にすぎないが、その対照性は描写でもより細かく強調されている。
本文でのち紹介するように、容子は美しく、社会的な成功を収め、誘惑的な魅力を備えた、綸太郎より優位の人物として登場している。それに対して穂波は、「不美人に見せようとして」「大きな黒い緑の眼鏡をかけている」「メイクは控え目」の女性である。彼女は「三つ編みに結んだ髪を後ろに垂らし」、「このまま閲覧席を埋めている女学生の中に紛れ込んでも、見分けがつかない」(法月綸太郎、『法月綸太郎の冒険』、講談社文庫、一九九五年、二三九頁)。容子は性的な魅力を隠さないが、穂波は隠している。二〇〇八年のジャーゴンで表現するならば、容子は「モテ」で、穂波は「非モテ」だと整理することもできるだろう。
したがって、法月の小説がのち容子よりも穂波を選ぶ(少なくとも、穂波とのあいだは容子とのように決裂していない)ことには、性的に見ると決して小さくない意味が隠れている。警視=母の庇護のもとでモラトリアムを過ごしている非モテ青年、綸太郎は、結局は容子には対峙できなかったのだ。


法月綸太郎、『ふたたび赤い悪夢』、講談社文庫、一九九五年、一七頁。


『ふたたび赤い悪夢』、五五六頁。


『ふたたび赤い悪夢』、六〇一頁。


『ふたたび赤い悪夢』、三五六−三五八、三六三頁。


『ふたたび赤い悪夢』、三六七、四〇七頁。後者は、正確には容子がジョン・レノンから引用した言葉。


『ふたたび赤い悪夢』、五七七頁。


『ふたたび赤い悪夢』、八五頁。

10
『ふたたび赤い悪夢』、五九一頁。

11
法月綸太郎、『二の悲劇』、祥伝社ノン・ノベル、一九九四年、三二二頁。
なお、本文ではほとんど検討できなかったが、『二の悲劇』は、綸太郎が女ではなく母を選ぶ物語、あるいは主人公が他者ではなく分身を選ぶ物語として読むとじつによくできている。
たとえば、容子の不倫の相手は、ほかならぬ警視と近い印象の男として描かれている。つまりは警視は、母としてだけではなく、ライバルとしても綸太郎の恋愛を阻んでいる。小説の冒頭近く、綸太郎と容子と警視は三人で小さなパーティを開くが、そこでもすでにその警視の役割は示唆されている(「いつまでたっても一人前になれないモラトリアム青年なんて、はなっからオトコと認めないわ。どこの誰とは言わないけど、法月警視と較べたら、それこそ月とすっぽんだわね」)(三五頁)。この小説のなかで、警視−綸太郎−容子(母−息子−妻)の三角関係は、綸太郎−容子−不倫相手(息子−娘−父)の三角関係にねじれて重ねられており、しかもそれらは、小説の軸となる殺人事件とそれをめぐる人間関係とも対応している。
ここではアイデアに止めておくが、そこで共通しているのは、綸太郎と容子を含めて、すべての登場人物が他者への直面よりも分身的な関係を選ぶというモチーフである。おそらくはそれが小説のタイトルの理由にもなっている。もしも誌面に余裕があれば、ぼくはこの『二の悲劇』という小説について、そこで容子の存在がどのように排除されたのか、その裏で働いた論理がどのようなものだったのか、そしてその排除の論理が『生首に聞いてみろ』にどのように継承されたのか、連載数回分の分量を使って詳細な議論を組み立てることもできるだろう。

12
法月綸太郎、『生首に聞いてみろ』、角川書店、二〇〇四年、一一−一二頁。
なお、この小説では容子の名が二箇所で言及されるが、法月はそのいずれにおいても、ここでの綸太郎の物語が「容子以後」であることをはっきりと記している。第一の箇所では綸太郎は、容子が彼に結婚を告げた電話を思い起こし、「ともかくそんなふうにして、彼は九〇年代の折り返し地点を通過した」と回想する(一二頁)。第二の箇所では綸太郎は、友人から「先輩に会いたがっている人」がいると告げられ、複雑な思いを抱きつつ容子を思い浮かべるが(「それを聞いて、真っ先に思い浮かんだのは、久保寺容子の顔だった。——いや、久保寺じゃない。滝田容子だ」)(四五一頁)、その淡い期待は法月によってあっさりと、喜劇的な場面に仕立てられて裏切られることになる。

13
『ふたたび赤い悪夢』、三五七頁。法月綸太郎、『ノーカット版 密閉教室』、講談社BOX、二〇〇七年、三七七頁。

追記。なぜここで法月警視が「母」とされているかについては、誌上で本文をお読みください。

思想地図・扉文2

うちの娘はアニメが大好きなのですが、アンパンマンもプリキュアもまったく見ていません。かわりにYahoo!動画で「名探偵ホームズ」を着々と潰したり、『亡念のザムド』のPS3配信を心待ちにしたりしています(なぜかザムドは大好きです)。これは別に親の方針というわけではなく、なんとなくうちで育ったらそうなったというだけのことなのですが、はたしてこんなんで彼女は保育園で話が合っているのでしょうか。いささか心配になってきた東浩紀です。

さて、思想地図の扉文、第2弾を公開します。特別掲載の入江哲朗さんの文章についてです。

校了前日の慌ただしさに紛れていささか褒めすぎてしまった感じもしますが(笑)、とはいえ、またひとり注目株が現れたことは確かです。あとは入江くんが、がんばってくれることを祈るだけですね。

入江論文紹介

若き批評家のデビュー作をお届けする。著者の入江哲朗は一九八八年生まれの二〇歳。ここ数年、宇野常寛や荻上チキ、また本誌前号の福嶋亮大や今号の濱野智史など新世代の論客がつぎつぎ頭角を現しているのはよく知られているが、この入江はそのなかでも抜群に若い。なんといっても昭和六三年生まれである。あと一年で平成生まれだ。昭和天皇が病床に伏せっていた時代に生まれた批評家が、活躍する時代になったのだ。批評の言語も刷新を迫られるはずである。

とはいえ、そんな「新新世代」の評論としては、以下の文章はおそろしくオールドスタイルで、そしてオーソドックスな印象を与えるはずである。彼が論じるのはテレビドラマでもアニメでもライトノベルでもない。北杜夫と三島由紀夫である。平野謙や河上徹太郎の名前すら見える。その保守性を歓迎する読者もいれば、逆にそれに失望する読者もいるだろう。

しかし実際のところは、そのような固有名に反応する読者はいずれも本質を見失っている。注意深く文章を読み進めれば、入江がここで問うているのが、現代社会で超越は可能か、超越の機能を失ったあと文学はどのように生き残るのか、といったきわめてアクチュアルで、また(いささか下品な言い方になるが)「ゼロ年代的」な問題提起であることは明らかだ。誤解を避けるために付け加えておくが、これはべつに、評論の最後で筆者(東浩紀)自身の名が言及されるから言っているものではない。筆者の印象では、入江は筆者よりもはるかに強く蓮實重彦の影響を受けている。筆者はむしろ、入江が蓮實のあのいかにも八〇年代的な修辞と隠喩でゼロ年代の問題を考え抜こうとしていること、その倒錯にこそ感銘を受けたのであり、だから本稿の掲載を決めたのだ。筆者の著作への参照は、おそらくは入江なりのサービスだろう。

最後になったが、この評論の掲載の経緯を記しておきたい。入江はいまから一年前、第一回の論文公募課題、「日本語で思考することの意味を問う」に蓮實重彦論の要約で応募を試みてきた。残念ながら論文の構想は背伸びが目立ち、執筆依頼にはいたらなかったが、当時の入江はまだ学部一年生であり、将来への期待を込めて接触を保つことになった。早い話が、「いいものが書けたら送ってよ」とだけ伝えて、あまり期待せずに(というのもこういう場合、ほとんどのひとはそこで書くのをやめてしまうので)飯を奢ったり相談に乗ったりしていたのである。ところが入江は、春になっていきなり四〇枚の完成原稿を送りつけてきた。それがこの評論の原型である。そして筆者は、一読して完成度に舌を巻き、失礼を詫びつつ二号での掲載を即座に決定した。したがって本稿は公募論文ではない。しかし公募をきっかけとした投稿論文ではある。

入江は現在、東京大学教養学部に在学中の二年生。私的な思いになるが、その若さとデビュー作の反時代性、というかある種の「空気の読めなさ」は、筆者自身のデビュー作である「ソルジェニーツィン試論」をどうしても思わせる。一九九三年に「ソルジェニーツィン試論」を読んだ読者は、まさかその書き手がのちに『動物化するポストモダン』を書くとは思わなかっただろう(筆者自身も思わなかった)。だから入江の未来も、ぼくにはまったく予測できない。しかし、とりあえず現時点で才能があることは確かであり、その誕生の場に立ち会えて筆者は嬉しく思う。(A)

追記

このエントリを書いたあと、なにげなく「入江哲朗」でググったところ、北田さんのブログで思想地図次号の目次が公開されていることを知りました。ここです。ご参考までに。

思想地図・扉文1

ネットではいまひとつ宣伝が行き届いていない、というよりもなにも宣伝されていない気がする『思想地図』なわけですが、微力ながら売り上げに貢献すべく、特集などに付随した扉文を公開していこうと思います。論文の内容紹介にもなりますし。

以下は、第二特集「インフラ・コミュニケーションの胎動」への扉文です。なお、実際の内容は、最終段階で赤字を入れているため多少以下のものと違う可能性があります。

第二特集 インフラ・コミュニケーションの胎動
扉文

なぜ特集が二つあるのか。むろん特集はひとつでありたいところだ。にもかかわらず、ここに第二特集が設定されたのは、「ジェネレーション」の名のもとに座談会を企画し論文を集めるなかで、そこに、テーマとしての「生成」や「労働」や「世代」とは別に、それら主題の地平と交わりながらも、しかし微妙にずれるかたちで方法論の問題が立ち上がってきたように思われたからである。濱野論文や西田論文が示しているのは、労働や生成の新しい問題というより、むしろ労働や生成についての新しい語り口なのではないか。その直感からこの第二特集の企画は始まった。したがって、この第二特集は第一特集と密接な関係をもっている。

この特集には二つの論文と二つの座談会が収められている。濱野智史は一九八〇年生の情報社会研究者。この秋に刊行された『アーキテクチャの生態系』が話題だが、収録論文はその射程をさらに深化させた力作である。西田亮介は一九八三年生の大学院生(慶應義塾大学政策・メディア研究科修士課程在籍中)。西田論文は当初は第二回公募課題(「現代社会に選良は必要か」)への応募論文だったが、編集部の判断で特集枠での掲載とした。濱野と西田には、特集全体の方向性を示す座談会「ソシオフィジクスは可能か」にも出席してもらっている。

かわって特集の最後を締めるのは、小説家・批評家の笠井潔(一九四八年生)、法学者の大屋雄裕(一九七四年生)を招いての座談会「再帰的公共性と動物的公共性」。笠井には『国家民営化論』、大屋には『自由とは何か』というともに自由と権力の関係を主題とした著作があり、本来は現代社会における生権力/環境管理の諸問題を議論する予定だったのだが、終わってみれば、社会とはなにか、主体とはなにかをめぐり、ちょうど濱野・西田座談会と対照をなす内容になったのではないかと思う。むろんそれは、一方が正しく他方が誤っている、あるいは一方が新しく他方が古いといった話ではない。玉虫色の発言に聞こえるかもしれないが、『思想地図』の狙いは、まさに動物的公共性と再帰的公共性の「あいだ」を行くことにあるのである。東浩紀と北田暁大が二人で編集を務めるというのは、つまりはそういうことなのだ。

なお、「インフラ・コミュニケーション」という言葉は、濱野の造語である。変則的な掲載になるが、その意図を以下で濱野自身に記してもらった。(A)

中途半端な告知

結局、東工大の授業に歴史認識問題を問いただす学生などだれひとり現れず、それどころか先週はいたゼロアカ生さえすっかり消え、いささか拍子抜けした東浩紀です。

つまりは、あいつらにとっては東浩紀はネタでしかないんだよなあ、とあらためてコミュニケーション志向社会の現実に思いを馳せてしまったりしました。まあ、ぼく自身はそんなネタ化のおかげで得もしているので、トータルでは喜ぶべきなのでしょう。授業の準備のため高橋哲哉とカール・シュミットを読み直したらあらためて発見があったりして、これはこれでよかった。東工大の授業は、「ポストモダンと情報社会」というお題目などどこへいったのやら、来週はデリダの「法の力」について話したりします(少しだけど)。

しかし、授業に一回も出ないで、忘年会だけ潜り込もうとかいう連中は、そろそろ排除するべきかもしれんですねw。

さて、本題。ひさりぶりにもろもろ告知しておきます。これでも抜けがあるのですが、とりあえず。

・『思想地図』、今月末に第2号が発売されます。ちゃんと作ってたんですよ! 
・『新潮』の「ファントム、クォンタム」は次回で第一部終了です。
・『ミステリーズ!』の連載次号は法月綸太郎編の最終回。この次からは押井守編に入る予定です。
・『文學界』の連載はあいかわらずの調子で続いています。
・次号の『SIGHT』連載は落としました。すみません!>関係者各位さま
・『アニメージュ・オリジナル』vol.2で山本寛氏と対談しています。
・『ユリイカ』初音ミク特集号で座談会に出席しています。じつはこの座談会のときは高熱が出ていました。ぼくにしては話していないのはそのためです。
・日本SF大賞の選考を行いました。今回は選考委員の意見が二分されたので、選評をお楽しみに。
・早稲田文学新人賞の締め切りが迫っているはず。応募希望者はがんばってください。
・西尾康之という現代美術作家の作品集にテクストを寄せました。
・『ザ☆ネットスター!』1月号に出演します。そのロケで母校筑波大学附属駒場高校にも行ってきました。なんで母校に、というのはわかるひとにはわかるはず。そう、あのネタです。
・12/30夜に、エクス・ポナイトに出演します。萱野稔人、鈴木謙介両氏との鼎談。
・1/28夜に、「思想地図」のシンポジウム「アーキテクチャと思考の場所」を開催します。詳細はググってください。
・1/31, 2/3, 2/17に朝日カルチャーセンターで講義を行います。これもそれぞれの題目はググってみてください。

歴史認識問題についていくつか

ゼロアカの話題はしない、と記して幾歳月の東浩紀です。そんな方針は変わらないのですが、今日(12月1日)の日本経済新聞夕刊文化欄(最終面)に、大きくゼロアカの記事が掲載されていることぐらいは知らせておこうと思います。これはやばい。福嶋亮大や宇野常寛のコメントまで載っています。

門下生のあるチームも、ばーんとでかく写真が掲載されています。これは変なファンがつくかも。東工大の授業でも顔を合わせているゼロアカウォッチャーも、何人か写ってますねw。

といったところですが、その東工大の授業に関して、最近はてな界隈を賑わせているらしい標題の件について、いくつか記しておきます。当該の話題をご存知ない読者は、飛ばしてもらってけっこうです。

ちなみに、ぼくは最近、2ちゃんねるもはてなブックマークもなにも見ていません。精神の健康によくないからです。ですから、この件がはてなで話題らしいというのは、先週の授業のあと学生から直に聞きました。そういうわけで、ここでは伝聞を根拠に「こんなこと書けばいいのかな」ていどのことを書いているので、もしかしてブログ論壇的には的外れなのかもしれません。ただ、そもそもはこれはだれかに反論するためではなく、ぼくの立ち位置を明らかにするためのエントリなので、これで勘弁を。

ぼくはただ、ネットでぼくの話題を追っているひとが、ぼくにとってけっこう重要なこの問題について、不正確な引用だけを根拠にぼくの立場について誤解してしまうとまずいと思ったので、書くだけです。

というわけで、あらためて。

1.私的信念について

東浩紀は南京大虐殺は(規模の議論はともあれ)あったと考える。
これは随所で公言している。

2.公的真実について

東浩紀が「リアルのゆくえ」および今年後期の東工大の授業で展開している主張は、下記のとおり。

A.いまの日本社会に、南京大虐殺があったと断言するひとと、なかったと断言するひとがそれぞれかなりのボリュームでいるのは事実である(この場合の南京大虐殺は例)。

B.ポストモダニズム系リベラルの理論家は、「公共空間の言論は開かれていて絶対的真実はない」と随所で主張している。

C.だとすれば。ポストモダニズム系リベラルは、たとえその信条が私的にどれほど許し難かったとしても、南京大虐殺がなかったと断言するひとの声に耳を傾ける、少なくともその声に場所を与える必要があるはずである(この場合の「耳を傾ける」=「同意する」ではない)。

C'.逆に、もし「南京大虐殺がなかったと考えるなどとんでもない」と鼻から言うのであれば、そのひとはもはやポストモダニズム系リベラルの名に値しない。

C''. むろん、上記の主張は、右と左を入れ替えても言える。

D.ポストモダニズム系リベラリズムの立場とは、このようにハードで、ときに自己矛盾を抱えかねないものなのだ。

3.デリダについて

デリダが上記のような主張をしたとは、授業ではひとことも言っていないし、ぼくもそんことは主張するつもりはまったくありません。それは単純な誤解、というか速記の恣意的な読みこみです。したがって、「東浩紀のデリダ解釈がおかしい!」とか言っているらしいひとは、単に的を外しています。この点については速記者(id:nitar)に確認をとってもらってもけっこうです。

4.付録

ちなみに、ぼくは90年代前半に南京に旅行で言ったことがあります。同じ時期にアウシュヴィッツにも行きました。アウシュヴィッツ(ビルケナウ)にはまだ人骨が転がっていました。ぼくは、そのとき手で掬った灰の感触をいまでも覚えている。他方、南京のほうはといえば、記念館は意外に小さな作りで、しかもなかの資料は本多勝一の著書からの孫引きばかりだった(具体的には多くのパネルが本多の著書の拡大コピーだった)。これ、いささか政治的にやばそうな話だし、おまえの記憶違いだとか言われるとなにもこちらも証拠がないのでいままであまり書いたことがなかったのだけど、とりあえずぼくの記憶としてはそうです。ちなみに、東工大の授業でもこの話はしたのですが、速記者に言ってオフレコにしてもらいました。

だから、きわめて私的な印象として、ガス室の有無はぼくとしては疑いえない。そりゃむろん、ポーランドのクラコフ郊外にあるあの膨大な敷地がすべて偽物でトゥルーマン・ショーだったといわれればどうしようもないけれど、そうでないかぎりで疑いえない。けれど、南京大虐殺の有無についてはそのような強い実感がない。

これがなにを意味するかといえば、もしかりにこれから、「ガス室はなかった」「南京大虐殺はなかった」キャンペーンが大々的に始まったとして、ガス室については、ぼくは死ぬまで「じゃあ、あの俺がみたものはなんだったんだ」と思うことができる。けれども、南京についてはそんな思いは残らない。だから、ぼくは転向するかもしれない。それは弱さだけれども、しかし、南京まで出向いたあげく、ぼくの心のなかにそういう差異が生まれたことは否定できない。南京まで行って出会えたのは本多勝一だった、この失望は決して浅くない(ちなみにぼくは中学生当時の教師の影響で、本多勝一の朝日文庫はほとんど読んでいます)。むろん、それは虐殺の事実性に疑いを挟ませるものではない。それはむしろ、単純に当時の中国政府の余裕のなさ、というかある種の怠慢を意味しているだけなのかもしれない。それに、いまでは状況はかなり違うだろう。きっと新資料などもあるのだろう。しかし、いまよりも事件に近かったはずの、90年代の状況がずいぶん違ったことは事実です。

以上、これは基本的には本題に関係がない、というより、むしろますますぼくへの不信感を呼び、こんどはこっちの文章が根拠に叩かれるかもしれない私的な感想ですが、ぼくがただ適当に南京大虐殺の例を挙げていると思われたらいやなので、書いておきます。それに、歴史的真実が云々というのならば、ぼくにとっては、まず20歳代のときの以上の体験が「真実」です。

それにしても、前々から思っていたのだけど、右でも左でも、ネットや2ちゃんねるで歴史認識問題についてアツく語っているひとの、どれくらいが強制収容所のあととか南京の資料館とかに足を運んでいるのでしょうか。かくいうぼくも、別にバックパッカーで世界放浪とかいうタイプではないから偉そうなことは言えないのだけど、学部生のころは韓国にも中国にもドイツにもポーランドにも沖縄にも行って、半世紀前の記憶のあとをしみじみ辿ったりぐらいはしました。ネットだけで「歴史の真実性」について叫んでいるひとを見ると、やはり(デリディアンとしてこんなことは言いたくないけど)、文字情報の相対性や弱さに単純に無自覚なように見えてならない。「リアルのゆくえ」でぼくがいったのは、そんなふうに文字情報ばかりで構成された世界観など、文字情報によってすぐひっくりかえるのだから、少しはみな自重したほうがいいのではないか、ということです。

5.付録の付録

文字情報ばかりといえば、はてなブログでは、ぼくが公認してもいない速記の断片的引用ばかりがコピーされ「東浩紀、許さん!」とか言われているらしいのだけど、上記のように、ぼくからすればそれは授業の内容についても僕の立場についても明らかに誤解している。そもそも、そんなに真実が大事だと思うのならば、そのかたがたは実際にぼくの授業に来て質問したらいいのではないでしょうか。

PS
投稿して二時間ぐらいたって、本多勝一氏の「本多」を「本田」と変換していたことに気づきました。ここに訂正しますが、むかしはこういうとき、2ちゃんねるとかはてなとかですぐタイポが指摘されていたので、逆に安心だったんですよね。なにも見ないのも、むしろ厳しいものです。

批評の書き方実践編

風の便りに、東浩紀スレッドが哲学版からサブカル板へと移ったと聞いた東浩紀です。このまま流浪のスレッドになるといいのではないかと思います。

さて、来年の1月に、朝日カルチャーセンターで下記のような講座を行います(じつはこれ以外にももうひとつ講座があるのですが、そっちはとくに紹介する必要はないでしょう)。

http://www.asahiculture-shinjuku.com/LES/detail.asp?CNO=35284&userflg=0

講座概要のとおり、完全に実践的な講義です。段落はこのぐらいの長さで切ろうとか、マイナーな固有名を出すときにはこういうテクニックを使おうとか、「だ」と「である」はこういうふうに使い分けると効果的だとか、そういう話をしようと思います。文章講座といっても、批評文の歴史がどうとか、三島と谷崎の『文章読本』を較べるとこうとか、そういう話はまったくしないので、なにも期待しないでください(笑)。単純に、東浩紀という批評家の文章の書き方を、みなさんに教えようというだけの頭の悪い講座です。

めずらしい機会だとは思いますので、ご興味があるかたはぜひ。ちょっと値段が高いのが難点ですが。

いちおう自分の文章を添削することにしていますが、可能なら、生徒さんの批評文の添削をしてみたいところです。授業のその場でみんなの前で添削されたいという豪気なかたがいたら、朝日カルチャーセンターに申し出てみてください。

ゼロアカ

東浩紀です。

ゼロアカについてあれこれ言いたいほうだい言われて、いささか神経症気味になってきました。あまり寝れません。2ちゃんねるの東スレも見ていますが、ちょっとこれはひどい。まあいまさらですが。

いちおう事実だけ述べておくと、形而上学女郎館とフランス乞食を買ったのは、太田さんの了解をとってのことで、あそこで太田さんがぼくを派手に止めていたのは演出、というかボケです。あんなことを、了解を取らないでするわけがありません。

あと、坂上秋成、斎藤ミツだけを上に上げたのは、同人誌への貢献度だけではなく、坂上さんと山田さん、斎藤さんと文尾さんの文章を読み比べれば理由は明らかではないかと思います。同人誌への貢献度については、個人的に確認を取っています。そもそも(道場破りの山田さんは知りませんが)、文尾さんは、評論にはあまり興味がないことをブログでも告白している。10000部でデビューさせるのは難しいでしょう。

それから、なんか面倒になってきたのでぶっちゃけて言うと、ぼくが現時点で最終通過者としてもっとも有力だと思っているのは、やずや、峰尾の2人です。つぎに村上、三ツ野、坂上。村上は同人誌のFate論も元長への手紙もよかった。斜に構えたところがなくなれば伸びるでしょう。三ツ野は今回の同人誌を読んで一皮剥けた感じがした。坂上はオーソドックスすぎるけど可能性がある。この3人はいずれも、自分の殻を自分で壊せていない感じがします。そこが越えられれば、いいものを書くでしょう。やずやはエッセイ志向だし、峰尾は自分の世界しか見えていないので、村上・三ツ野・坂上のいずれかが第5次で傑出したところを見せれば、ぼくはそちらを一押しにして最終関門に臨むつもりです。

雑賀・筑井組は今回たいへん期待していたのですが、百合特集は表層的で心に響いてきませんでした。正直、「女の子」を売りにしようとしたあまり、ぬるい内容にしかなっていなかったと思います。百合のイメージとしての紹介になっているだけで、分析がない。これでは評論系同人誌ではない。少しは論考もほしかった(雑賀のは論考の名に値しない)。斎藤さんは真面目で教養もあるけれど、今回の同人誌では、腐女子による腐女子のための批評しか考えていない。別にそれを否定するわけではないけれど、そのスタンスはゼロアカ道場にはそぐわない。立ち位置が変わらなければ、次回は落とすことになるでしょう。

そもそもこの企画、ぼくが趣味でやっているものではない。時間点の導入にしろなんにしろ、全部講談社と協議して決めているし、全体の盛り上げのためにとても頭を使っている。門下生にもめちゃめちゃ気をつかっている。懇親会だって、正直、ぼくはとても疲れていて、スタッフだけでゆっくりと飲んで癒されたかったのだけど、それだと盛り上がらないからバカみたいにテンションをあげているわけです。それなのに、どうしてぼくばかりが非難されるのか。そしてなんでぼくひとりが、このブログで対応し続けなければならないのか。しかも、あちらこちらに気をつかって。

このままでは、ぼくは潰れるような予感がします。

もともとぼくの仕事のなかで、ゼロアカは小さな一部にすぎない。とりあえず、このブログでは、しばらくゼロアカについての話題は行わないことにします。あと、ゼロアカについて抗議があるかたは、講談社BOXまでお願いします。門下生も含め。

文学フリマ追記

東浩紀です。もろもろ仕事が溜まってクビが回らない状況になっています。

文学フリマについて「講評まだー」との声を多数頂いていますが、正直、けっこう時間が経ってからの発表になると思います。なんといっても、分量が多いし、ぼくも疲れている。ゼロアカの準備で、ぼくもいままでかなりリソースをつぎこんできました。ゼロアカだけで生活しているわけではないので、少しは他の仕事もさせてください。

ご理解をよろしくお願いいたします。

……なのですが、下記のエントリには答える必要があるでしょう。参加者のひとりから、ふたたび批判を頂きました。

http://d.hatena.ne.jp/boilednepenthes/20081112/p2


文尾さんが言いたいことは心情的にはわかります。ただ、あのときの状況を正確に思い出してほしい。そもそもぼくと太田さんは、当日急遽「時間点」を導入していた。では、それによって圧倒的に有利になったのはだれなのか。じつはそれが、文尾さん・斎藤さんのコンビだったのです。もし突然の時間点導入がなければ、文尾さんたちは5位確定で、完売しても形而上学女郎館、フランス乞食には審査点で適わなかったはずです(正確には、腐女子が完売しても、形而上学女郎館なら456冊、フランス乞食なら461冊売れればダメでした)。

ぼくがあのとき、形而上学女郎館とフランス乞食の2冊を買ったのは、ひとことで言えば、時間点導入が引き起こしたそのアンバランスに対して、逆のバランスをとるためでした。もう少し細かく記せば、ぼくの発想の順番はこんな感じです。

ぼくたちはまず時間点を導入した。あまりに観客の数が多いので、そうしないと企画の主旨(観客の支持を考慮する)に反したからです。新ルールのおかげで、文尾さんたちにも当選の可能性が出てきた。そして実際に腐女子チームは完売となった。形而上学女郎館とフランス乞食がそれを追随し、場も盛り上がってきた。ここまではよかった。しかし同時に、時間は残り一時間を切り、ブース周辺も様子見のひとが多くなってきた。これはまずくなってきた。なぜなら、旧ルールの前提にあったのがどのチームも完売しないことだったとしたら、今度は時間点導入の前提にあったのは、午前中のような売り上げの速度が維持され、どんどん完売が出ることだったからです。ところがその点ではまた状況が変わってきた。ではどうするか。このままでは、新ルールがあまりに形而上学女郎館に不利に働いてしまう。彼女たちも完売するからこその、時間点勝負だったはずだ。そこでぼくは、場を再活性化し、全体の売り上げを加速し、ふたたび通過者を運命の手に委ねるために、形而上学女郎館をパフォーマンスとして一冊買うことにした。同時に、形而上学女郎館とフランス乞食はもともと5点差なので、彼らは同等に扱うべきだと考え、フランス乞食も買った。

決戦の現場でのこのようなルール変更、道場主本人による場への介入が、挑戦者のあいだに不信感を呼ぶことは理解しています。しかし、ではあのとき(じつは結果として、時間点を加算しない場合と大して変わらない順位にはなっているのですが)、時間点を加算せず、「はい、腐女子売れましたか、でも東・太田点が低いからダメですね」でよかったのかといえば、やはりそうは思えない。むろん、主催者側としてはそのまま放置がもっともリスクが低い選択(ルールはルールだから!の一点張り)なのですが、ぼくたちはリスクが高くてもみんながもりあがれる、おもしろい企画を望んでいる。だからぼくは新ルールを作った。しかし、今度はそれによって特定のチームが不利になった。ではそれはそれでいいのかといえば、やはりそうも思えない(たぶんそうしたら、筑井さんと雑賀さんが文尾さん以上に不満をもったでしょう)。だから個別に調整した。しかし、そういう調整は、事前の同意なしに勘で行われるしかないので、誤解も生みやすい。そういうことだったのです。

これで納得してくれると嬉しいのですが。

まあ、該当エントリを見るかぎり、文尾さんもそれほど真剣には文句を言っているわけではないのかもしれません。

もしそうだとしたら、このエントリはネタにマジレスということで、スルーしてくださいw。

ただひとつ、それでもこれだけは指摘させてほしいのですが、あのぼくの行為に文尾さんたちを落としたいという意図を見るのは、やっぱり不合理です。なぜなら、もしぼくにそんな意図があるのなら、ぼくはそもそも、あんなパフォーマンスをする必要などなく、単純に時間点を導入しなければよかっただけのことだからです。

時間点を導入する時点で、それが形而上学女郎館に不利に、腐女子チームに有利に働くことは明らかでした。それはすぐわかることです。でもぼくはそれを導入した。その意味を考えてほしい。そうでないと、ぼくもちょっと悲しいです。

いずれにせよ、ゼロアカ道場で道場主として「公正である」ことは、あるいは少なくとも「公正であるように見せる」ことは、回が進み、みなさんと人間的にも交流が深まるにつれて、ますます難しくなっています。みんなに平等に接する、といったって、ぼく自身が審査員なのだから平等に接していてどうする、という感じがするし、おまけに全体の場も盛り上げなければならない。季節柄大学受験に喩えれば、いわばぼくはこの場で、予備校の教師と試験監督と採点者の3役を同時に任されているのであり、これは原理的にひとりでこなすには不可能な役回りのような気がします。にもかかわらず、ゼロアカ道場は、この文フリをきっかけにまたいちだんと注目を集めている。となると、今後、ゼロアカ道場に対しては、やっかみを含めさまざまな批判や非難が来るでしょう。

ぼく個人は、そういう反応には慣れています。けれども、できれば、門下生のみなさんには、それでもぼくがそんなに変なことをしていないことだけは信じてほしい。それはぼくの願いです。

文フリ感謝/1/28思想地図シンポ

おはようございます。文フリの嵐の一日が終わり、翌日熱を出してしまった東浩紀です。まだ熱があります。喉が痛くて声もまともに出ません。

思えば、10月19日の早稲田文学10時間連続シンポジウムから始まり、25日、26日のザ☆ネットスター!秋葉原祭り、そして一昨日の文学フリマと、ここのところお祭りが続きすぎました。さすがにぼくも若くないので、身体のあちこちに限界が来つつあります。

さて、その文学フリマ、たいへんな盛り上がりでした。

最終的な集計の公式発表はまだなのですが、全8チームのうち5チームが500冊完売で、平均でおそらく450冊以上売れたのではないかと思います(ここに速報があります)。参加者全員がほぼ無名で、販売時間が5時間しかないことを考えれば、これは奇跡のような集客です。

この数にはぼくも太田さんも驚きました。あまりにも客が多かったので、来場されたかたならご存知のように、採点方法や合格者数を変えなければならなかったぐらいです。

いまだから言いますが、太田さんは事前には、全チーム中マックスで200部ぐらいしか売れないだろうという意見でした。ぼくはそれより多少多かったのですが、それでも完売はないだろうと考えていた。つまりは、そもそも今回の採点方法は、500部の完売がないことを前提としていたわけです。だから、完売チームが5つも出て、あとは太田点と東点の合計だけで決まるのは主旨に反する。そこで、すでにあちこちでルポされているように、「時間点」の導入に加え、合格者を増やすことになりました。その判断について2ちゃんねるではやたらと非難されていますが、4位チームからひとりづつ選んだ人選を含め、ぼくは自分の判断には自信をもっています。点数や通過者の詳細については、そのうち公式サイトでも告知が出ることでしょう。

いずれにせよ、ゼロアカ道場はじつはまだ第4回。次回の第5関門で急に盛り下がらないように、がんばらねばならないですね。

いろいろ書きたいことはあるのですが、ぼくはじつはこれから、明後日締め切りで「パンドラ」用に総括原稿を書かねばならないので、それとネタが被るとアレなのでここでは控えておきますw。

とにもかくにも、門下生のみなさん、道場破りのみなさん、そして文学フリマのスタッフのみなさん、ご苦労さまでした! あと、主催者側として内輪に感謝することになってしまうのかもしれないけど、講談社BOXのスタッフのみなさんも、本当によくやってくれました。

みなさん、本当にありがとう。

なお、一部で話題の藤田直哉揉み上げ断髪式動画(撮影:濱野智史)は、このブログの公開のあと関係者に送るので、そのうちだれかがニコ動に投稿すると思いますw。

といったとこころで、今回の本題。

標題のとおり、来年の1月28日水曜日夜、東工大大岡山キャンパス講堂で『思想地図』のシンポジウムを行います。

テーマは「アーキテクチャと批判的言語の可能性」。パネリストは、磯崎新、浅田彰、宮台真司、宇野常寛、濱野智史、東浩紀(司会)。

シンポジウム冒頭で、宇野さんと濱野さんに15分づつレクチャーをしてもらい、それを叩き台に、社会設計としてのアーキテクチャ、ネットのアーキテクチャ、そして文字どおり「建築」のアーキテクチャの3つの領域が重なるところで議論を進める予定です。

このシンポジウムは、来年4月あるいは5月発売の『思想地図』第3号に掲載されます。特集は「アーキテクチャ」。同号には、このシンポジウム掲載と並行して、北田暁大、東浩紀、あと二人の参加者による座談会「『東京から考える』再考」(仮)も掲載予定です。

そもそも『思想地図』が創刊できたのは、ぼくと北田さんの対談本『東京から考える』が意外と売れたからでした。第3号は、その原点を捉え直す特集でもあります。

いや、原点回帰という意味では、第3号全体はもっと古くまで戻るかもしれません。上記の「アーキテクチャと批判的言語の可能性」というテーマは、ぼくのなかでは、あの10年前の『批評空間』のシンポジウム、「批評の場所はいまどこにあるのか」に繋がっている。コンテンツよりもコミュニケーションが優位で、したがって作品論よりも下部構造分析が優位になってしまう世界において、批評的=批判的思考が生き残るとすればそれはどのような方向においてなのか。それが、今回ぼくが議論したいことです。

いずれにせよ、月末の平日夜という社会人には難しい条件ではありますが、かわりに無料なので、1月28日はぜひご来場ください。よろしくお願いいたします。

といったところで、告知は終わりです。

なんか、本題のほうがあっさりしていますが、『思想地図』は別にブログでおもしろおかしくもりあげるようなものでもないので、こんなもんで十分でしょうw。

シンポジウムの人選の意図は、わかるひとにはわかるはずです。ぼくとしては、磯崎さん、浅田さん、宮台さんのご3方に出席を快諾いただけたのは、個人的にとても感謝しています。あとは、司会として、ただの世代対立や論壇プロレスではないおもしろい議論にできるかどうか、ぼくの腕の見せどころですね。

追記。

書き忘れていました。

文学フリマ、ぼくの友人もたくさん出店していて、本当はいろいろなところに挨拶にでかけようと思っていたのだけど、当日はつぎつぎに来客は来るわ、太田さんと密談しなければならないわ、取材は来るわで、結局まったく他のブースを回れませんでした。ゼロアカが文フリ参加者のみなさんにあるていど迷惑をかけているのは確かなので、そのお詫びもかねて回らなければならなかったのですが、すみません。それだけ心残りです。

というかそもそも、ぼくはあの日、他のブースを回るどころか、朝食も昼食もまったく食べる暇がなくて、懇親会でもフードのテーブルに近づくことすらできず、ようやくものを口にできたのは夜10時過ぎ、二次会だか三次会だかでの焼きそばがはじめてでした。翌日、高熱が出たのも当然です。倒れなかったのがふしぎなくらいです。懇親会でも、なにを話してだれに紹介されていたのか、かなり記憶が混然としています。

とにかく、すごい熱狂でした。

あらためて、あのお祭りに参加したみなさん、お疲れさまでした。そしてありがとう。

山本寛氏と対談(追記あり)

こんにちは。和解イヤーの流れは止まるところを知らず、5年ぶりに村上隆氏よりメールが来たり、7年ぶりに岡崎乾二郎氏と再会したりしている東浩紀です。

ほんと、阿部くんが言ったとおり、ぼくは死ぬのかもしれません。というか、天がそう言っている感じがします。不気味です。

さて、ザ☆ネットスターの反省会でさんざん番組批判をしてクビになりかけたり、ついにゼロアカ/文学フリマ前日を迎えたりといろいろ語ることはあるのですが、今回はちょっと別の話を。

NEC_0163.JPG

上記写真のように、一昨日の木曜日、アニメ監督の山本寛氏と対談をしてきました。『アニメージュ・オリジナル』の次号に掲載される予定です。

山本さんは『涼宮ハルヒの憂鬱』の演出と『らき☆すた』(4話まで)の監督でいちやく有名になったかたで、アニメには批評が足りない、と随所で熱く語っているめずらしい監督さんです。というわけで、当日も(『かんなぎ』や『らき☆すた』の話もありつつも)、なぜアニメには批評がないのか、あるいは少なくとも、なぜ内部からそう言われてしまう状況があるのかを、実作者の山本さんと批評家のぼくが双方の立場から分析するようなかたちで対談が行われました。たがいに毒舌ばかりになってしまったので、おそらく掲載時にはほとんどカットなのではないかと思いますがw、楽しい時間を過ごしました。

そして、そんななか、ぼくにとってとくに嬉しかったのは(これもカットされるかもしれませんが)、山本さんが、ぼくがいまから10年以上前、『エヴァンゲリオン』のときに行ったアニメ批評の仕事について、「たいへん刺激をうけた」と言ってくださったことです。

古い読者なら知ってると思いますが、実際にはぼくはそのあと、さまざまなところから「東はアニメがわかってない」と叩かれ、某ライター氏からは、面と向かって「あなたの存在自体迷惑だから、今後オタク関係について語るな」と罵倒されたりすることになります。というわけで、やべえ、この業界まじで怖いわ、と思って、アニメ業界からは微妙に距離をとることにしてきた(そしてその結果、美少女ゲームとかライトノベルについて多く語るようになった)のですが、そんな経験をもつぼくにとって、山本さんのその発言は——むろん、ぼくのアニメについての知識は実際に貧弱なので、山本さんは例外的に好意的なのだと思うのですが——、なんか、むかしの仕事がようやく報われたような気がして、素朴に嬉しくなりました。そうか、読んでくれている関係者もいたのだなあ、と。

帰り際に、山本さんより、「東さん、もういっかいむかしみたいにアニメについて熱く語ってください」と言われて、少々元気も出てきました。実際、ぼくの立ち位置も多少は変わってきたのだし、今後はアニメ(テレビアニメ)について趣味的に語ってもいいのかもしれません。

あ、そうそう>山本監督

ぼくは『涼宮ハルヒの憂鬱』第9話は傑作だと思いますよ! ギミック志向ではない山本さんの魅力は、あそこに十全に現れている。当日、それを言うのを忘れてました。今度、一緒にご飯でも食べましょう。

■■10時間後ぐらいの追記■■

内容が内容だけになんか来るかなと思っていたら、さっそくどこかのサイトで、「東はハルヒについて第9話とか言っても意味がないことを知らないからエヴァでも叩かれたんじゃないでしょうかね」とか嫌みを書かれていました。

あらためて言うまでもなく、ハルヒのアニメは放映とDVDでは収録順が違う。くだんのひとはぼくがそのことすら知らないと考えたようです。しかし、ぼくもむろん、そんなことは知っている(疑うひとはぼくと私的にハルヒの話をしたことがあるひとに聞くとよい)。ぼくとしては、そもそも文脈的に、ぼくが山本氏が監督の回を指しているのは明らかなので、DVDの話数を調べるのも面倒だし、放映時の記憶で話数を記したまでのことです。というわけで、ぼくが指していたのは、「サムデイ……」というタイトルのエピソードでした。キョンが暖房器具取りに行くやつです。

まあ、考えてみれば、確かに不親切、というか、むしろこれくらいのほうが通っぽくっていいのかな、といった変な邪念がありました。すみません。でも、嫌みを書かれるほどのことじゃないと思いますが……w。

さて、そのコメントはどうでもよいのですが、それを見て考えたので追記。

まず大前提として、批評とはなにか。それは、書評や宣伝文とは違います。批評はそれそのもので自律した論理をもっている独自のジャンルです(とくに日本では)。したがって、批評家は批評家で誇りをもって仕事をしているのであって、独自の判断で対象作品やジャンルを選んでいる。裏返せば、いくら作品が好きでも、面倒な作家や読者がいるジャンルには手を出さないことがある。蓮實重彦が映画を選んだのは、彼が映画が好きだったからだけではない。彼の批評にとって、映画が必要で、また(言葉は悪いですが)映画が利用できたからです。創作と批評はそういう共犯関係を結ぶときがある。

したがって、アニメに批評がないのは、アニメへの愛が足りないからだ、とかいうのはきわめて一面的な見方です。そのようなことを言うひとは、批評家の心理について無知すぎる。

ぼくの考えでは、アニメ批評がいまなぜ低調かといえば、知識があるひとがいないとか情熱があるひとがいないとか以前に、そもそもアニメ批評は、読者の(読者の、です。書き手の、ではありません)質があまりに悪すぎて、いま批評を志す人間にとってコストが高いわりにリターンが少ないからです。具体的に言えば、一生懸命なにか考えて書いても、ちょっとした名前のミスとかなんとかで鬼の首でも取ったように非難する、そしてそれを「見識」だとカンチガイしている読者が多すぎるからです(これは、山本さんも同じことを「妄想ノオト」の出張版で書いていますね)。だから、ほかのジャンルについても批評が書けるひとは、もはやアニメについて批評を書かなくなっている。『思想地図』に『らき☆すた』論を書いた黒瀬さんも、ネットで枝葉末節ばかり突っ込まれていたので、そのあとはすっかり現代美術の世界に戻ってしまいました(ぼくの印象だから本人の意識としては違うかもしれないけど)。そうやって、アニメについてしか書けないひと、語らないひとばかりが、アニメ批評を占有していくことになる。

したがって、もし今後、みなさんがアニメについておもしろい「批評」を読みたいと思うのなら、言いかえれば、多角的なジャンルについて批評が書ける才能をアニメについての批評にひきずりこんでいきたいと思うのならば、まずはこの状況を変えたほうがよい(どうせ批評なんてくだらないんだから、と考えているひとは、むろんこの意見は聞かなくていいんですよ)。アニメ批評が育たないのはなぜか、ライターが既得権益を守っているからだ、編集者が怠慢だからだ、というのはやさしいけれど、本当の原因はぼくはそこにはないと思う。アニメ批評の読者が育っていないことこそが、問題なのです。批評というだけでヒステリーを起こし、くだらない揚げ足取りをするひとばかりが目立つのでは、だれもアニメについて批評なんかしなくなるに決まっている。そもそも悪口は褒め言葉より目立つものです。アニメについてなにか新しく書こうと思ったとき、そのひとが信じられる読者がどれくらいいるのか。アニメ批評の未来はそこにかかっているのではないでしょうか。

ま、これはアニメ批評以外にも言えることではあるのですが……。

というわけで、山本さんの情熱にほだされてしまったのか、ひさしぶりにフレーミングを起こしそうなエントリーを上げてしまいましたw。

こういう話題についての「議論」は経験的に不毛なだけなので、ぼくは今後、この話題を続けるつもりはありません。書きっぱなしですみませんが、とにもかくにも、ぼくはそんなふうに思っているということです。

蛇足まで。

ゼロアカに抗議が来ました

ゼロアカ門下生の筑井真奈さんより抗議が来ました。

http://d.hatena.ne.jp/metaphysical_jyoroukan/20081105/1225916717

本当は答えないほうが(場の盛り上がり的に、道場主的に、そして筑井さんに対しても)よいのかもしれませんが、まじめに抗議されているようなのでまじめにお答えします。

先日のエントリでも匂わせたように、ぼくはすでに、すべての同人誌に目を通し、採点を終えています。

そして、その採点をいつ発表するかについては、本来は(=企画意図の本質としては)自由です。文フリでの盛り上がりを考えて、当日朝発表ということにしてありますが(あ、そういえば、太田さんとも完全にたがいに相談なしで採点することに決めました)、本来はいまここで発表してしまってもよい。

ぼくが、道場主としてだれを推しているのか明確にしてはならなかった、というよりもできなかったのは、採点対象である同人誌が出てくるまえまでの話です。しかし、同人誌を読み、採点を終えたいま、ぼくはむしろ、だれを高く評価しているのか、発表してもかまわない。いやむしろ、点数発表を当日まで引き延ばすほうが、門下生と道場破りに過大な心理的負担をかけるし、どんどん邪念も増えてくるので(まさにこの抗議問題のように)やめるべきかもしれないぐらいです。だって、同人誌の内容そのものへの採点はすでに終わっているんだし。そして、その採点のうえでも、最終的な結果が見えないことそのものは変わらないのだし。

というわけで、要点を言えば、ぼくが最終批評神話のustに現れたのは、別に単に峰尾氏と話があうから、つまり肝心の同人誌の内容に関係なく「贔屓」したということではなく、ぼくが彼らの同人誌について採点を終えたからです。だからといって、単純にぼくが彼らを評価していることにはならない。そこの解釈は任せますが、あとで「なんで彼らのだけ降臨したのか」と問われたら、「それはこういう採点だったから」と言えるくらいには、考えて行動しています。つまりは、この数日のぼくの行動は、全部採点のうえでのものだということです。確かにその行動で文フリでの売り上げは左右されるかもしれませんが、それは当日朝の発表でも同じことです。

だから、もし筑井さんの抗議が、「まだ結果は見えないのに、東さんの判断を公にするのはやめてくれ」というものなのだとすれば、「いや、東採点はもう決まっているので、そのかぎりではぼくも行動を制約しなくてよいのだ、それを見て文フリでどう売れるかはわからないけど」というのが、ぼくの答えです。

ということで、ご了解いただければ、と思います。

ただ、それとはまったく別のレベルで応答しておけば、筑井さんの抗議は、いままでのゼロアカのノリ(そして筑井さん自身のニコニコ動画などでのノリ)からしていささか唐突かもな、とは思います。

というのも、筑波ust(これはぼくは旅行中で見れなかった)→女郎館ust(潜伏して観察を試してみた)→最終批評神話ust(降臨してみた)は、ある意味で自然な流れではあるし、女郎感ustを覗いていたことをぼくはブログで記してもいる。あのエントリを見て、筑井さんのところこそ「贔屓」されていると感じた門下生はほかにもいるかもしれない。みんな、たがいにそう思っているものです。

あと、ぼくは、おそらく筑井さんやみなさんが思っているよりもはるかに冷淡なので、内容がだめだったら、いくら飲み会で笑い合っていても、あっさり低い点数をつけますよ。その逆もしかりで、だから今回の採点では、怒るひともいると思います。

いずれにせよ、門下生も道場破りもいまはみな、ピリピリしているということでしょう。あと3日間、ぼくもだんだん比喩じゃなくて胃が痛くなってきており、今週はぜんぜん仕事も手に着かないのですが、なんとか乗り切りましょう……。

濱野論文/思想地図次号と次次号

こんばんは。ゼロアカ挑戦者のUstreamが80人も視聴者を集めたことに、多少驚いている東浩紀です。東スレの住人ってそんなにいたんだ……。

ちなみに、そのustでazuma名でチャットに加わっていたのはぼくではありません。チキさんが現れたときには、ぼくも思わず「シノドスください」って打ち込みかけたけどな!w

多くのひとにはさっぱりわからない冗談ですみません。

さて、そんな夜を過ごしているぼくですが、ustチャットを見てにやにやしているだけではありません。『思想地図』の準備も粛々と進んでいます。

次号の特集は「ジェネレーション」。第二特集が「ソシオフィジックスは可能か」。両者は密接に関わっている(もともとはひとつの特集だった)のですが、内容的に二つに分けて構成してあります。12月出版予定です。

それで、その第二特集では、濱野智史さんと西田亮介さん、それに鈴木健さんに論考を寄せて貰っています。3人いずれも興味深い論文を寄せてもらって(とくに鈴木さんには多忙ななか書いていただいて)責任編集として嬉しいかぎりなのですが、とくになかでも、濱野さんの論文は力作です。

じつはぼくは、濱野さんがその論文を上げてきたころ、ちょうど彼が出版したばかりで、ぼく自身も帯を寄せている新著『アーキテクチャの生態系』の紹介をしようと、このブログでエントリを準備していたところでした。しかし、その論文を一読し、こりゃあこっちのほうがすごいぞ!とか思ってただちに紹介を止めてしまったw。……というのは冗談としても、たださっくりと本を紹介する、なんてことができなくなったのは本当で、『アーキテクチャの生態系』が幅広い読者に向けて書かれた一般書(を偽装した書物)だとしたら、『思想地図』の論文のほうは、同世代の福嶋さんの連載などもかなり意識したうえで、彼自身の思想や社会観がかなりはっきりと打ち出されたコアなテクストにしあがっている。このブログの読者であれば、たいてい『アーキテクチャの生態系』は読んでいると思うのですが(そうでないひとはただちに読むのをお勧めします、いい本です)、そのつぎにはぜひ『思想地図』次号の濱野論文を読んでみてください。二つ続けて読むことで、濱野さんのヴィジョンが見えてきます。

ぼく自身の個人的な感想としては、この濱野論文を読んで、『動物化するポストモダン』でぼくが「萌え要素」と呼ぼうとしていたもの(最近の福嶋さんがおそらく「神話素」とか「演算子」とかいう言葉で一般化しようとしているもの)が、ニコニコ動画上の「タグ」の問題として捉えれば、きわめて具体的、かつクリアに論じることができるのだということがわかり、それはとても大きな収穫でした。そもそもあの本については、「データベース消費」というところばかり注目されて(そして動物化したオタクはデータベースに規定されている、といった受動的な消費者像ばかりが注目されて)、そのデータベースから萌え要素を通じてシミュラークルが生成していく、その生成のところで「解離的人間」が生きることになるんだ、という主張のほうはほとんど読まれていない。その文脈において、この濱野論文は、『動物化するポストモダン』に対して、いままでに書かれたもっともすぐれた註釈のひとつになっていると思います(誤解を避けるために付け加えれば、濱野論文は別に『動ポモ』論ではありません、結果的にということです)。少なくとも、『動ポモ』の著者としてはそう感じました。

こんなふうに書くと、また宇野さんが「東は劣化コピーを褒めて終わってる」とかいいそうですがw、とにもかくにも、濱野くんの仕事がすぐれていた、少なくともぼくとしてはそう感じたのだからしかたがない。まあ、そういうことです。

あともうひとつ。

その『思想地図』なのですが、じつは次次号(第3号)より、編集体制が多少変わります。詳細は正式な告知を待って欲しいのですが(といっても、思想地図ってウェブサイトがあるわけでもない、古いタイプの出版なので、どこで告知がされるのかぼくもよくわからんのですが)、発刊頻度があがり、各巻のページ数が減り、そして北田さんとぼくが交替で各巻のメインの責任編集を務めることになります。つまりは、『思想地図』東編集号と北田編集号を交替で作って、少しスピードアップを図ろうという目論見なわけです。

第3号の担当はぼくです。おそらく2009年の4月か5月に出版されることになります。

それで、まさにいま3号の目次を思案中なのですが、特集は「アーキテクチャ」にしようかと考えています。ネットのアーキテクチャ、社会設計のアーキテクチャ、そして文字どおり「建築」のアーキテクチャの3つが交差する地点で、論者を集めてみようということです。

そして、その特集と関連して、昨年と同じく、来年1月には東工大でのシンポジウム開催を予定しています。そちらのテーマは「アーキテクチャと批評的言語の可能性」(仮)です。まだ日程が確定していないので発表できないのですが、昨年とは違った意味で「おお?! そう来たか!」と思わせるパネリストを用意しています。そちらもご期待ください。

といったところで、ゼロアカとかネットスターとかばっかりやってるわけじゃないんだぞ!というアピールのエントリーでしたw。

いや、むろん、ゼロアカもネットスターも楽しみまくっているわけですけどね……。

11/15トークショー

イベントの告知です。

ネット的にはガン無視されていますが、ぼくはじつはいま「新潮」で「ファントム、クォンタム」という長編小説を連載していて(次号も掲載されます、次号でたぶん全体の半分ぐらいです)、それは『キャラクターズ』のようなメタ私小説とは異なった、いわゆる普通の小説です。

ではそんな小説をなぜ書いているのか。ぼくはいままで、よちよち歩きでまだ無名の新人に過ぎないシャイな小説家・東浩紀が、なんか妙に強面でドスの効いた調子のいい批評家・東浩紀に潰されるのが嫌で、公的な場でも私的な飲み会でも小説の話題を振られると断固ごまかし続けていたのですが、下記のトークショーでは、こっそりとそんな二重人格を統合してみようかと思います。市川さんのまえならば、ぼくも恥ずかしがらずになにか話せるかもしれません。

そのころには、ゼロアカ祭りも終わって、ぼくのまわりも落ち着きを取り戻していることでしょう。関心のあるかたはご来場ください。

東浩紀×市川真人トークショー
小説的批評/批評的小説の可能性
——『キャラクターズ』から早稲田文学新人賞まで

11月15日(土)午後3時〜4時半
ブックファースト新宿店(11月6日オープン)
東京都新宿区西新宿1−7−3 モード学園コクーンタワー1F

ブックファースト新宿店Aゾーンカウンターにて、
整理券を500円で販売します(11月6日より、先着順40名様)。
電話でのご予約はお受けできませんのでご容赦ください。

またトークショー終了後、東浩紀さんと市川真人(前田塁)さんの
著作をお持ちいただいた方を対象にサイン会を行います。
整理券と著作をご持参の上、会場までお越しください。

お問い合わせ先 03−5339−7611(ブックファースト新宿店)

批評とかゼロアカとか成熟とか

こんにちは。『存在論的、郵便的』の出版から10年を迎えた東浩紀です。

いまの読者はだれもあんな本は読んでいないだろう、と思いきや、東スレではしっかり10周年記念読書会が行われていたりして、微妙に安心しています。とはいえ、しょせんは東スレなので自然消滅しましたが……。

さて、そんなゼロアカですが、11月9日についに第四回関門決戦が文学フリマ会場で行われます。

その第四回関門、門下生・道場破りあわせて8冊の同人誌がようやく手元に揃いました。そしてほぼ目を通しました。

まえにも書きましたが、今回、採点基準についてはおそろしく悩みました。第三回までは単純に合否を判定すればよかったのですが、今回は、彼らのこの数ヶ月の苦しみと意気込みを肌で感じてしまっている。冗談ではなく、この合否で人生が変わるひともいるでしょう。そう淡々と採点することはできない。正直、選考がこんなに苦痛になるとは思っていませんでした。逃げ出したいくらいです。

だからいろいろと思い悩みました。邪念もいろいろ聞こえてきました。第五回のこと、最終的な出版のことを考えるとこのチームは外せないのではないかとか、このひとにインタビューしている以上失礼はできないんではないかとか、男女比を考えるべきではないかとか、このチームを推すとあまりに意外感がないから逆張りでむしろ点数を抑えるべきではないかとか、そのほかもろもろ、もろもろです。

しかし、最終的には、それらをすべての配慮を忘れて、純粋に、東浩紀という<個人>が<読者>として対象の同人誌から刺激を受けたかどうか、それだけで採点を行うことにしました。批評の未来とか、全体のバランスとかはとりあえず忘れて、ぼくの趣味だけで判断します。

そう決めました。

ここからさきは、ちょっとだけゼロアカとは関係ない話、というか私的な話です。

多くの読者がなんとなく気づいていると思うのですが、1年ぐらいまえから、東浩紀という批評家の位置はかなり急速に変わっています。それは、ひとことでいえば、業界最若手で、半人前扱いで、一部で注目されているものの基本無視されるよそ者だった状態から、むしろ批評業界の中心で、次世代を担うグループのリーダーとさえ見なされるような状態への変化です。「和解イヤー」なんて冗談が成立し、実際につぎつぎと和解が成立しているのは、その位置移動のおかげにほかなりません。

正直、この変化の原因は、ぼくにはよくわかりません。ぼくはそのあいだに賞を取ったわけでもないし、ベストセラーを出版したわけでもないからです。こういうのが時代の潮目というものかもしれないし、じつはすべてがぼくのカンチガイなのかもしれない。とにもかくにも、ぼく個人にはそのような実感があります。

さて、そういう状況には、いい面と悪い面があります。いい面は説明する必要がないとして、悪い面というのは、周囲の風当たりがよくなり、ぼく自身も「成熟」を装えるようになるにしがたい、批評家としての攻撃性や先鋭性も確実に落ちていく、そんな効果です。

具体的にゼロアカに即していえば、こういうことです。以前のぼくならば、「東浩紀のゼロアカ道場」と冠している以上、自分の好きなものだけをわがままに推した、というかそれしかできなかったはずです。しかし、いまはもっと「空気が読める」ようになっている。また、周囲が「空気が読める東さんに期待している」こともわかるようになってしまっている。だから、そんなところでガチで「こいつは優秀だからよし、こいつはバカだから終了」とか言い出したら、周囲が引くことが理解できる。これはおそらくゼロアカに限らない。もし、ぼくがいま妙に若手批評家/批評家志望者に「やさしい」ように見えるとしたら、それはたぶん、ぼくがそういう諦めを抱えてしまっている、というか、そういう諦めを抱えざるをえない年齢に突入してしまっているからです。

おそらくは、ひとは、こういう心理を「成熟」と呼ぶのでしょう。ぼくはべつに、その成熟を嘆くつもりもないし、逆にそれを過剰に肯定する気もありません。ぼくには、そういう成熟は、良い面も悪い面も含めて避けがたい自然現象のように思えるからです。老化と同じように。

しかし、そんな「成熟した」、すなわち腐りきったぼくでも、ときどき、自分の内部から、なにか批評家としての魂というか、むかしの情熱と興奮の名残みたいなものが戻ってくることがあるわけです。

それは、たいていの場合は、対人的な対抗意識に駆動されるものです。自己批判を込めて言いますが、どうも批評家には、「あいつすげー」というよりも「あいつばかじゃん」と思うときにこそもっとも生き生きする、そういう性質がある(笑)。ぼくの場合、そういう意識の源泉としては、むかしは上の世代への憤りが多かった。しかし、相対的に年長者となったいまでは、むしろ若い世代からの挑発を待っているところがある。つまりは、若い書き手の文章を読んで、、「おいおいなんだよこのバカ、こいつこんなんで一人前のつもりかよ、それならおれの実力見せてやんよ」と、素朴な、というか幼稚な対抗意識が燃え上がり、鼓動が高鳴って思わずキーボードに向かってしまうような経験が、いまのぼくにとっては、とても必要なものになっている。

そしてぼくは、今度のゼロアカ同人誌を読むなかで、意外にも、いくどかそのような経験、あるいはそれに近い刺激を感じました。

それは純粋に「私的」な経験です。だからこのブログを読んで、「え、そんなすごい文章が掲載されているのか」と思っても、肩すかしに終わるかもしれない。そういうフックは、本当に些細なものだったりするからです。しかし、その私的なフックを手放してしまえば、ぼくにはあらゆる基準がなくなってしまう。ぼくはもはや、太田さんと相談して、当日の文フリでの売り上げ点を先読みしたうえで、最終選考で通したいひとのところにそれとなく傾斜配分で点を入れる、ぐらいしかできなくなる。だから今度の関門では、単純に、上述のような刺激を与えてくれる同人誌に高い点数を入れて、そうではないものにはあまり点数を入れないことに決めました。

おそらくはそれは、ゼロアカ道場の全体の盛り上がりとか、批評の未来とかいう全体的な視野とはあまり関係していません。同人誌そのもののクオリティとも関係がないかもしれない。全体として雑誌としてはよくできているけれど、ぼくの点は低いというチームが、申しわけないのですがいくつかあります。そういう点では、今回のぼくの採点はまったく「公的」ではない。きっと、結果発表のあと、「なんだよ、この採点」と思う読者もいるでしょう。

けれども、挑戦者の真剣さをあまりに知っているからこそ、ぼくとしても、今回は公平性を偽装することができなくなった。

そういうことなのです。

なんだか、妙に長い投稿になってしまいした。おまけに情報量ゼロです。告知もなにもしていません。『存在論的』10周年ということもあり、ぼくも少し内省的になっているのかもしれませんね。

では文フリ当日会場で!

ゼロアカ続報

元長柾木氏が峰尾・村上組は東浩紀を超えたと述べているのに驚愕し(笑)、来るべきゼロアカ審査のため、ニコマス動画をがんがん漁っている東浩紀です。シネMADを発見し、今度は『Zero fill love』がヘビーローテーションになりました。それにしても、ぼくが子育てで呆けてるあいだに世の中進歩したもんだ……。

さて、そんなゼロアカ道場ですが、道場破り組の3冊が手元に届きました。どうもスケジュールをカンチガイをしていたようで、門下生組の提出期限は来週だそうです。

というわけで、とりあえずはその3冊だけ、ざっと目を通してみました。

うん、これは贔屓目ではなく、いずれも批評同人誌としてかなり高い水準で、それぞれの方向で努力と真剣さがびしびし伝わってきました。満足です。感謝です。と同時に、辛い気持ちにもなりました。今回、ぼくは、そんな彼らのうち(門下生を含め)5組も落とさなければならない。これは本当に心が痛みます。でも、しかたない。

そして、つぎのようなことも思いました。多少先走ってしまうのだけど、11月9日、ゼロアカ目当てで文学フリマに来場されるであろう来場者のみなさんにお願いです。

今回の関門、正直、ぼくたちも、だれが通るのかさっぱりわかりません。おそらくぼくも太田さんも、それほど決定的な点差はつけられない。事後での点数調整も行いません。みなさんの一票一票が、本当に彼らの合否を左右する可能性が高い。(※)

だから、会場では、むろん8冊全部押さえで買うのもいいのですが、できれば、本当に推したい数冊だけを選んで、井上ざもすき風に言えば馬券を買うような感じで、挑戦者たちの将来に投資するつもりで買いに来て欲しいのです。太田さん風に言えば、「押さえるんじゃなくて推しに来い!」という感じでしょうか(太田さんに、このシャレいいよ!、書いてよ、絶対ブログに書いてよ!と強要されたので書いておきますが……)。

まあ、とにもかくにも、ゼロアカはあちこちで陰口を叩かれていて、実際、ネット動画とか見ると(僕も含め)参加者の振るまいはどう考えてもアホにしか見えないわけですが、出てきた同人誌がけっこうまともでよかったです。本当によかった。

さて、あとは門下生がどれほどのものを出してくるのか……。

※注

極端なシミュレーションをしてみます。東浩紀の持ち点が800、太田克史の持ち点が320ですが、僕がそれを、300/140/120/100/100/40/0/0で割り振ったとしましょう。太田さんも同じように、160/60/40/40/20/0/0/0で割り振ったとする(念のためいっておきますが、ぼくは太田さんに配点基準をなにも聞いていないので、これは完全な仮定です)。そして順位は完全に一致したとする。これはかなり非現実的な想定です。ふたりともここまで極端な配点はやらないと思うし、順位が完全に一致することはありえない。

けれども、そんな極端な場合でも、合計点は、460/200/160/140/120/40/0/0になるにすぎません。この場合、1位は盤石だし、下位3チームにはほぼ希望はないですが、2位から5位まではかなり混戦状態で、20-40票でくるくる順位が入れ替わる。いままでの文学フリマでの最高部数は200部くらいらしいので、たとえその記録を更新しなくても、20部ぐらいの差が出る可能性は大きいでしょう。

実際にはこれよりかなり混戦状態になると思われるので、ぼくや太田さんが一押ししているチームだって、必ずしも通過するとはかぎりません。そんな状態です。

11月9日は文学フリマにお越しください

こんにちは。CLANNAD AFTER STORYのオープニングテーマをぐるぐると回しながら、いまだ新潮次号用の小説を書いている東浩紀です。今日中に入稿しないと落ちます。

さて、ゼロアカも参加者の無法を腐すだけだとまずいので、ぼくのほうからも11月9日文学フリマの情報を告知します。——と思ってエントリを書き始めたところ、ネットのどなたかがうまいぐあいにまとめサイトを作ってくれていることを知りました。

便利なので、リンクを張り、ぼくのエントリに替えさせていただきます。ありがとうございました>制作者さま

http://d.hatena.ne.jp/noir_k/20081022/1224641033

まとめサイトを見るかぎり、同人誌そのものの内容はきちんとしてそうです。

それにしても、肝心の講談社BOX編集部からは最近なんの連絡もないのですが、10月20日提出期限だったはずの同人誌、本当にきちんと提出されたのでしょうか。それとも、編集部も10.19事件で呆れてやる気を失っているのでしょうか。あるいは、ぼくのほうには、太田さんが読んだあとにお古が回ってくるのでしょうかw。まあ、いずれにせよ、現物を拝見するのを楽しみにしています。

ぼくの持ち点は800点。どう配分しようかなー。


早稲文シンポとゼロアカ

こんばんは。早稲田文学10時間連続シンポジウムの疲労で、一日仕事にならなかった東浩紀です。

ご来場された方々は、ご苦労さまでした。おかげさまで大盛況でした。阿部くんにもひさしぶりに会えたしね!

ところで、そのシンポについて、ゼロアカ参加者の藤田直哉さんの感想を読んだので、ひとこと。

http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20081019

藤田さんが問題の10時間連続シンポをつまらないと思い、2ちゃんねるのほうがおもしろいと思ったのはよいとして(いいたいことはわからないでもない)、彼自身とほかのゼロアカ参加者が、主催者側がせっかく好意として与えてくれた発言の場をまったく活かせなかった、2ちゃんねる東スレ向けの内輪向けの会話しかできなかったことを、それを理由に自己正当化しているのはおかしいと思います。

ぼくはそのとき、途中までは観客席で、途中からは壇上で彼らの会話を聞いていたのですが、藤田さんたちは内容のある会話をほとんどできていなかった。だからといって笑いを取れていたわけでもなく、会場には寒い空気が流れていただけです。ぼくとしては正直、せっかく前半の2ポッドでずいぶんゼロアカを持ち上げておいたのに、これじゃしかたがないなあ、と頭を抱えていました。だから途中から登壇したのですが、それでも彼らの振るまいは改善しなかった。藤田さんのブログを読むと、ワセブンシンポが退屈だからこそあえてふざけた、みたいな書き方になっているけれど、それはさすがに言い訳すぎるでしょう。退屈なら退屈ってはっきり言えばよかったじゃない。そのために市川さんも登壇の機会を与えてくれたはずです。

まあ、藤田さんが当該シンポにどのような感想を抱き、批評にどのような可能性を見るかは自由です。しかし、講談社でゼロアカの名を冠してデビューしたいと思うのならば、2ちゃんねると飲み会以外でも粛々と場の要求に応える能力が求められるのはまちがいない。そのときいつも同じ芸風ではあっというまに飽きられる。藤田さんだけではなく、彼以外のメンバーにも向けた全体的なメッセージとして、このことは記しておきます。

ゼロアカ関門は、文学フリマのつぎは、公開シンポジウムになります。ゼロアカも徐々に注目の範囲が広くなってきているので、幅広い観客にアピールする能力を見せてほしいものです。

早稲田文学10時間シンポジウム

おはようございます。いっこうにブログを更新しない東浩紀です。仕事の告知も、さすがに溜まりすぎて微妙に諦めてきました。もうどうでもいいや……。

とはいえ、ひとつ告知をします。今週日曜日、下記のシンポジウムに出席します。ぼくは原稿〆切直前だというのに、朝から晩までずっと登壇しっぱなしという、どんな罰ゲームなんだ的なポジションで参加します。無料ですからぜひご来場を!

あ、そうそう。東浩紀といえば今年は「和解の年」なわけですが(笑)、下記のプログラムには書かれていませんが、当日こっそりとサプライズゲストがやってくるかもしれません。まだ未定なのですが、もしそのひとがやってきてぼくと話してくれれば、けっこうめずらしいできごとになりそうです。ぼくも楽しみにしています。

『早稲田文学 10時間連続公開シンポジウム』
「文芸批評と小説、あるいはメディアの現在から未来をめぐって」

【パネリスト】
東浩紀、池田雄一、宇野常寛、大森望、佐々木敦、新城カズマ、千野帽子、豊崎由美、
中森明夫、福田和也、前田塁、山本充、芳川泰久、渡部直己(五十音順、敬称略)

【日時】
2008年10月19日(日曜日) 10時開場、10時30分開演予定、20時30分終了
全5プログラム(予定)、プログラム間に休憩、入退場可

【場所】
早稲田大学国際会議場・井深大記念ホール
(都営バス停「早大正門前」または東京メトロ早稲田駅、都営荒川線早稲田駅より徒歩)
http://www.the-convention.co.jp/jsbm06/map.html

【入場】無料
【予約】不要(開場満員の場合、ご入場いただけないことがあります)
【お問い合わせ】早稲田文学編集室 03-3200-7960 Mail wbinfo@bungaku.net

【プログラム詳細】各パートの参加者は変更になる場合があります
1.文学メディアの現在 (東、宇野、佐々木、中森、山本、前田)
2.日本小説の現在   (東、渡部、池田、大森、新城、前田)
3.小説あるいは文芸批評の今日的役割について (東、宇野、福田、前田)
4.読者と小説     (東、千野、豊崎、芳川、中森、前田)
5.総論

建築文化週間

もはや当日なのですが、今日午後6時より下記のイベントに出席します。

http://www.kenchiku.co.jp/event/detail.php?id=766

事前の資料などを読みこむなかで、モデレーターの藤村龍至さんたちが、「批判的工学主義」という興味深い提案をしていることを知りました。建築ジャーナリズムの動向はまったく押さえていないのでトンチンカンな参加になってしまうかもしれませんが、なんとなくがんばってきます。

ほかも、『en-taxi』に原稿を書いたり、日本科学未来館のフリーペーパーに原稿を書いたり、『サイゾー』でポニョについて取材を受けたり、京都と名古屋で講演したり、『ザ☆ネットスター』の公開収録があったり、『早稲田文学』の10時間連続シンポジウムに参加したりといろいろやっているのですが、それらについての告知はまた後日行います。

ゼロアカメンバー変更のお知らせ

こんばんは。ブログではご無沙汰している東浩紀です。

先週の土曜日は、娘の保育園の運動会で綱引きに参加しました。いまでも激しい筋肉痛に襲われています。日曜日は、市原で象に乗ってきました。そんな毎日を送っています。

さてさて。

本日、ゼロアカ道場第四関門の突撃取材として、4チームの作業場を8時間!かけて巡ってきました(1チームは先週収録済み)。その模様は、文フリより前にはネットで公開される予定です。お楽しみに。

それで、そんな長丁場の取材、当然のことながらさまざまにおもしろいできごとがあったわけですが、とりあえずいまはひとつ簡単なご報告を。

ゼロアカ門下生のうち、みなみさんが本日、第4回関門への参加を辞退されました。じつは彼女は、関門課題の同人誌制作にまったく参加しておらず、またパートナーのやずやさんとも連絡が途絶えがちでした。ですからぼくたちもひそかに心配していたのですが、今日になって、本人の意思が伝えられたかたちです。

そこで急遽、ぼくと太田さんで協議して、第3回関門で次点扱いで落選していた三ツ野陽介さんを繰り上げ合格とし、もし本人の同意があれば第4回への挑戦の権利を与えることにしました(その模様はすべて撮影されているので、編集部がアップする気なのであればアップされることでしょう)。そして三ツ野さんにその旨を伝えたところ、挑戦の意思があるとの答えだったので、今日よりやずやさんとチームを組んで、第4関門に挑戦してもらうことになりました。文フリ前一月強に迫った段階でのあまりに急なメンバー変更なので、やずや+三ツ野チームについてのみ、変則的ですが少し締め切りを伸ばします。

というわけで、今日からやずや+みなみチームは、やずや+三ツ野チームに生まれ変わりました。太田さんにぜひ書け、いますぐ告知しろと言われたので、公式サイトより一足先にここでお知らせします。

よろしく!


おいおい、そんな繰り上げ当選ありなのかよ! 聞いてないよ!と思うひともいるかもしれませんが、ぼくたちもまさかこんなことになるとは思いませんでした。聞いてないよ!と叫びたいのは、ぼくたちです。いやはや……。

しかしそれでも、ゼロアカ道場としてはできるだけ多くの挑戦者に門戸を開いたほうがいだろうということで、予想外の状況に対してこのような判断を下しました。こうなった以上、奇跡の復活を遂げた三ツ野さんには、ぜひ第4回関門で、彼をいちど落としたぼくを後悔させるような華麗な活躍を見せてもらいたいものです。というか、彼もきっとそのつもりでしょう!w そう信じる!

それにしても、この時点での「辞退」には主催側として当惑を隠せません。次号『パンドラ』はゼロアカ特集なのですが、そちらはしかたないので古い情報のまま出版になります。困ります。もしほかに辞退したいひとがいるのなら、いまからでもいいのでさっさと申し出てください。また、道場破りのひとも本気のひとだけ参加でお願いします。10000部デビューというのは、冗談ではないのです。ひとも予算も動いているのです。

まあ、三ツ野さん復活で、結果オーライになることを望んでいます。

というわけで、そんなドタバタが続くゼロアカですが、門下生の同人誌は意外とおもしろいのが作られそうです。その点だけはご期待ください。

環境知能&9月22日

著者のひとりとして参加している新刊が出ました。冒頭のシンポジウムに参加しているほか、下條信輔さんとの長い対談が語り下ろしで載っています。

環境知能のすすめ——情報化社会の新しいパラダイム

あ、あと『サイエンス・イマジネーション』 出版関係で、今月22日に新宿紀伊國屋ホールで、瀬名秀明さん、出渕裕さんとともにシンポジウム「『サイエンス・イマジネーション』刊行記念〜科学とSFが夢を育む〜」を行うことになりました。

詳細は紀伊國屋さん、あるいはNTT出版さんにお問い合わせください。

上記シンポジウムですが、この投稿を公開した直後、NTT出版の『サイエンス・イマジネーション』 担当者より連絡があり、「シンポジウムは中止」とのことです。

なんでも、NTT出版さんと紀伊國屋さんとのあいだで連絡の行き違いがあり、出演者のスケジュールだけ抑えたものの、開催は不可能になったとのこと。ぼくのところには、上記の投稿をしたあとでようやく連絡が来ました。

正直、呆れて言葉が出ません。ぼくも暇ではないので、スケジュールを押さえるならちゃんとしてもらいたいですね。とりあえずそういうことでした。

スカイ・クロラ見ました

たいへん遅まきながら、『スカイ・クロラ』を、昨日ようやく見てきました。

みなざんご存知のように、僕は押井ファンを自称しています。しかし、ふと振り返ってみれば、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』に衝撃を受けてから四半世紀、押井の映画と言えばほぼ劇場に足を運んではいるものの、失望し首を傾げた経験ばかりが積み上がっています。つまりはぼくはじつは、『ビューティフル・ドリーマー』以降、押井作品に満足した経験がほとんどない。そんなんではたしてファンと言えるのかたいへんに疑問なわけですが、今回もそんな厄介な心理状況のなか、これはもう絶対に後悔する、いやな気分になるに違いない、と何重にも防衛線を張って、でも観に行かないわけにもいかないしとうんざりしながら、のばしのばしにしてきた『スカイ・クロラ』の劇場に足を運んだわけです。きっと、こういうファンを粘着とか言うのでしょう。困ったものです。

しかし!

しかし、実際に見てみれば、『スカイ・クロラ』は、たいへんに意外なことに、そして喜ばしいことに、上記のような粘着的な心理などとはまったく関係がなく、率直にすばらしい映画でした! ぼくはこの作品は名作だと思います。ぼくは嬉しいです。押井監督の映画についてこんなふうに率直に肯定の言葉が出てくるのは、四半世紀ぶりです。

僕は、この映画について人々がなにを語っているのか、ほとんど調べていません。また関連書籍(原作含め)も読んでいません。したがって、いまは作品批評を書く準備ができていません。ですから、本当に、ごく素朴な感想、というか幼稚な感想しか書けません。

そのうえで述べると、押井氏の映画では、むかしからある種の悲しみや諦めが主題になっているわけです(ループとかメタフィクションとかはその主題から要請されるコロラリーにすぎないのですね)。その主題が今回は、物語の水準でも映像の水準でも、本当にストレートに、おそらくいままでのどの作品よりも率直に描かれています。ぼくはその率直さに心を打たれました。そして、やはり押井と宮崎はライバルなのだとあらためて思いました。『崖の上のポニョ』を見れば明らかですが、宮崎映画は基本的に快楽に肯定的で、生命賛歌、映像賛歌として作られている。それこそが宮崎の人気の理由であり、またそれは彼が真の意味で芸術家であることを意味するのかもしれませんが、しかし、僕はやはり、押井のこの悲しい、去勢された不能なセカイのほうにはるかに共鳴してしまう。その感性は、おそらく批評家としての東浩紀の中核にあるものです。だからぼくは、いささか自己言及的な言い方になりますが、『スカイ・クロラ』を観ながら、この映画をいいと感じる自分の感性にあらためて触れて、自分の来し方行く末に思いを馳せたりしていました。

いまから24年前、ぼくは『風の谷のナウシカ』と『ビューティフル・ドリーマー』にほぼ同時に出会い、そして後者に惹かれたわけですが、もしあのころの僕が今年、『崖の上のポニョ』と『スカイ・クロラ』に出会ったとしたら、やはり絶対的に『スカイ・クロラ』を選んだことでしょう。

いやはや、僕が押井映画を褒める日がふたたび来るとは思っていませんでした。『スカイ・クロラ』の世間での評判がどうなっているのかぜんぜん知りませんし、映画マニアやアニメマニアの評価もまったくわかりませんが、僕は個人的に、もういちどこのような押井作品に出会えたことをとても幸せに思います。ぼくの人生にとっても、記念すべきことです。

ぽかーん……

福田首相が辞意を表明したそうじゃないですか。

このブログで政治ネタを書いたことなどないし、これからも書くつもりもないのですが、先日出版した『リアルのゆくえ』そのほかで「東は政治に興味がなさすぎる」とかよく批判されているので、ひとことだけ。別に僕だってもともとは政治に興味がなかったわけではないけれど、この状況を前にいったい何を考えて何を言えばいいのか。また、言ったから何が変わるのか。こういう事態が繰り返されるから、みんな政治なんてどうでもいいと思うようになるんじゃないですかね。姫井某の離党騒ぎも唖然でしたが、これもひどい。なんなのでしょうか。

次は麻生首相なんでしょうか。かといって自民党の窮状は変わらないでしょう。他方で僕は最近の民主党の選挙対策バラマキ路線にも失望しきっているので、これでいよいよ本当に物を考える気がなくなりました。選挙は国民の選択だって言ったって、選択肢が実質この二つでいったいどうしろと?

さすがにそろそろ解散、固定票をもっている共産党が躍進して、ロスジェネ議員誕生といったところでしょうか。でもそれももうどうでもいいなあ。こうやって国は滅びるのだなあ。坂口安吾の『堕落論』でも読み直すか。

リアルのゆくえ増刷……

『リアルのゆくえ』が、驚くべきことに売り上げ好調らしく、1万部の増刷がかかりました。みなさん、あの喧嘩を楽しんでいるのでしょうか。まあ、確かに二人の本質が出ている本ではあると思いますが……。複雑な気分です。ちなみに、次回の『文學界』の連載では、グーグル的公共性の話と絡めてこの本について語っています。

また、その関連というわけでもないのですが、『動物化するポストモダン』も最近増刷(17刷)がかかっています。今度の増刷では、カバー背のデザインがちょっと変わった(全部青だったのが、青い四角が小さく入るだけになった)ので、これで3代目といったところですね。

6年前の文章を再録してみた

こんにちは。

巷では、というかブログ論壇の一部では、いやむしろ、単純にゼロアカ道場門下生まわりでは、いま「インタビュー動画」アップなるものが流行していて、20歳代の文芸評論家、福嶋亮大さんへのインタビューがここで公開されています。

この動画に限らず、最近はまだ本格的にデビューしていないひとの「インタビュー」や「対談」なるものが流行していて、おそらくある世代よりうえの読み手はなんだかなあと思っているのではないかと不安です。ぼくとしても、じつはひそかに、一月ほどまえに黒瀬陽平さんが荻上チキさんにインタビューされて人生語りをしているのを見て、おいおいおまえ、人生語るまえにまず実績あげろや、まだ思想地図で一本論文書いただけじゃんか、とか大塚英志ばりに教育的指導を発動しかけたりもしていたわけですが、しかし、ふと自分を思い返すと、ぼく自身が26歳ぐらいのときに「オタクから遠く離れて」とかいうインタビューをQuickJapanで受けていて(インタビューアーは伊藤剛氏、「郵便的不安たち」所収)、なぜオタクの自分が批評を志すようになったか蕩々と自分語りをしたあげく、唐沢俊一氏にどこかでイヤミを書かれ「なんでこのオヤジはこんなとこに過剰反応するんだ」と鼻白んだりしていたので、まったく他人のことは言えません。というか、やっていることは完璧に同じです。

したがって、おそらくはこれでいいのでしょう。こんな雰囲気が拡大すれば、そのうち、ただの高校生同士が「対談」とか銘打って、リアリティショー的な動画をばしばしアップする時代がやってくるでしょう。それはもはや批評でもなんでもないような気がしますし、その展開は単純に批評の弱体化を、つまりは、批評がもはや世代的共感のためのコミュニケーションツールとしてしか生き残っていない現実を表しているだけのような気もしますが、それが現実ならばしかたない。ぼくたちには、その現実のなかで生きていくしか選択肢がないのです。いやまじで。

というわけで、どんどんやってくれw。

ちなみに、やずやさん(福嶋インタビューの撮影者)が使っている機材はxactiです。藤田直哉さんもそれを使っています。ザ☆ネットスター!のウェブ動画もそれで撮られています。ぼくももっています。もはや論壇動画の公式アイテム化しています。ぼくもそのうち自分で撮って動画配信でもするかもしれません。2ちゃんに降臨するとかは古いのかもしれません。アツい時代がやってきました。

さて、それで本題ですが、その動画に絡めて福嶋さんのブログで、ぼくの6年半まえの文章が彼のフェイバリットとしてあげられていました。福嶋さんのところからのリンクだと探すのが難しいので(まだエントリの単位がない時代の文章なので)、ブログに全文貼り付けておきます。

ちなみに、これは『動物化するポストモダン』の出版2ヶ月後くらいに書かれた文章ですが、これを読むと、ぼくが当時の時点で、すでに単純な動物化肯定論やコミュニケーション排除論をダメだと思い、だからこそ『動ポモ』を書いたことがよくわかります。ぼくは、人間やコミュニケーションについてもう少し繊細なことを考えていました。

そういえば、じつは今日ちょうど対談収録なのでメモがわりに書いておけば、宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』は、『動ポモ』批判にあたってそこらへんを(「解離的人間」についての章を)完全に無視しています。実際、彼の当時(2000-2年ごろ?)の論壇ウォッチはかなり荒っぽいものだったと記憶しています。みなさんご存知のとおり、ぼくはいままでは戦略的に宇野さん擁護の立場に立ってきたし、またこれからももっと大きな敵がいるときにはその立場は揺らぎませんが、彼の東浩紀批判が単行本として公刊された以上、その部分には著者としてきっちりと応対してくるつもりです。

ところで、ひとつトリビアを言えば、この当時(そしてそのあともけっこう長いあいだ)、ぼくが「ぼく」ではなく「私」を使っていたのは、デビュー当時に斎藤美奈子氏に「東浩紀はぼくぼく言ってぼくちゃん批評でキモい」とか意味不明のイヤミを言われて、微妙に傷ついていたからです(笑——実際には「ぼく」という言葉には団塊世代から大塚英志に至る「ぼくら」語りの伝統が透けてみえて、そういう一人称を選択することの政治性がどうの、みたいな話だったような気もしますが、詳細は忘れました)。いまはすっかり傷も癒えて、というかだれになに言われてもとくに気にしなくなったので、「ぼく」を使っています。以下の文章は、セカイ系の話にもつながりますし、本来は「ぼく」で語るべきだった内容です。

ではでは。


なお、以下の文章でささやかな引用のタイプミスがあったと記憶していますが、当時の文章そのまま再掲載が主旨なので直していません。内容には影響しません。


(以下2002年1月17日の文章)

近況 2002.1.17

謹賀新年。今年もこのサイトをよろしく。

---以下『未来にキスを』のネタバレあり--

さて、新年からいきなりオタク系の、しかも時期外れの話題で失礼するが、ここのところの休みを使って、ようやく昨年9月に発売された『未来にキスを』(otherwise)をプレイすることができた。知るひとぞ知るように、このギャルゲーについては、発売当初から、ウェブの一部で、私の『動物化するポストモダン』(より正確にはその『ユリイカ』連載版)の明らかな影響があるという噂が流れていた。そもそもこのゲームのシナリオ担当である元長柾木氏は、前作『Sense Off』でも、ライプニッツやらサイバネティクスやらを匂わせて奇妙な世界を作りあげていた人物だった。というわけで以前から気にかかっていたのだが、どうも時間が取れず、年が明けてようやく現物にあたれたというわけだ。

それで感想だが、このギャルゲー、というより「メタギャルゲー」(としか思えないくらいにシナリオの方向性と乖離したイラストが採用されているだが)にどれほど私の本が影響を与えたのか、率直に言って判断できない。だれもが分かるような引用があるわけではないからだ。ただ、ラストエピソード「Genesis」に登場する抽象的な会話の言い回しが私の言葉使いにとても似ていることは確かで、そういう意味で、このゲームの「元ネタ」として私の本が話題になったのは納得がいった。元長氏は私の連載をゲーム制作前に読んだのかもしれないし、読んでいないのかもしれない。そのどちらであったとしても、このゲームの最後で語られているような世界観、というかコミュニケーション観が、私自身のものと近いのは確かだ。

たとえばこの作品のエンディングには、つぎのような「ポエム」(元長氏自身があるキャラの台詞に託してそう呼ぶのだが)がスクリーン上を流れる。
 

 俺たちは今、現実と歴史が混じり合う場所に立っている
 未来へのスタートラインに立っている
 この先は、論理も何もない世界だ
 文脈も物語もない
 あるのはただ、ばらばらで、互いに関連づけられていない
 存在しないものたちだけ
 その世界に、人間なんていない
 彼らは、もう滅び去ってしまった
 俺たちもまた、もう人間ではない何かへと変化してしまった
 そこは、欲望あふれる荒野だ
 ただキャラクターがいて、ゲームがあるだけ
 キャラクターたちがゲームを繰り広げる、この新しい世界
 そんな世界へと、俺たちは今、足を踏み出そうとしている
 そう
 圧倒的な楽園に向けて
 

この文章は、もし私がもう少し怖いもの知らずだったとしたら(笑)、『動物化するポストモダン』の末尾に書き記していたとしても決して不自然ではない。それくらい言葉使いが似ている。だから私は、このエンディングロールを眺めて、嬉しいような気恥ずかしいような、少し奇妙な経験を味わった。

というのが元ネタ問題についての私自身の見解だが、それとは別に、この作品をプレイして感じたことがある。上に引用したように、『未来にキスを』は、「ギャルゲー新世紀宣言」とでも言うべき一種の予言、というか、世界観をブチ上げて終わっている。つまりこのゲームは、新しい時代の到来を告げて派手に終わっている。それは一見、新人類/80年代的な振る舞いにも見える。新人類は「新しい時代」が好きだった。実際、当時は「アニメ新世紀宣言」なるものもあった。

しかし同時に、この作品はギャルゲーでもある。つまり、あくまでも主人公とキャラのあいだの疑似恋愛を(そしてそれだけを)描く、閉鎖的で虚構的な箱庭的世界を舞台としたゲームでもある。『未来にキスを』の世界には、国家も政治も歴史も社会もない。したがって、当然のことながら、そこで交わされる「哲学的」な会話のなかにも、国家も政治も歴史も社会も入る余地がない。そこで語られるのは、ただ、「私」と「あなた」のコミュニケーションの性質という抽象的な問題だけだ。

それゆえ『未来にキスを』で「新しい世界」の到来が宣言されることには、ギャルゲーという箱庭の外の世界、いわゆる「現実社会」の動きはまったく関係しない。つまり、元長氏がここで「新しい時代が来る」と叫んでいることには、かつて新人類世代を支えたような、資本主義の段階がどうとか、情報化社会がどうとか、そういう大きな物語=問題意識がほとんど関係していない(携帯ゲームの普及が少し語られるだけだ)。かわりに彼が描くのは、「私」と「あなた」のコミュニケーションという小さな物語のみである。そして、その問題についてグルグルと考察した結果として、あくまでも抽象的に、もはや私たち人間にはゲーム的なコミュニケーションしか残されておらず、それを肯定しなければ生きていけないのだ、という宣言が出てくる。『未来にキスを』のエンディングは、そのような実存的な動機に支えられている。

だから『未来にキスを』の宣言は、80年代的な脳天気さに近いようでいて、限りなく遠い。そこでは、ゲーム的(お望みならばそれをポストモダン的あるいは動物的と言ってもいい)な「新しい世界」が肯定されるのは、それが自明に素晴らしい未来だからではない。むしろ、それを素晴らしいと思わなければならないくらい、私たち自身の能力が貧しいからなのだ。言い換えれば、「私」という人間と「あなた」という人間のコミュニケーションなど、最終的には無理に決まっているからだ。そして、にもかかわらず、たいていの人間にとって、そのギャルゲー的=対幻想的な箱庭を超えるものなどなにもなくなってしまっているからだ。つまり、この21世紀を迎えた日本に住む私たちには、小さな人間的なコミュニケーションも、大きな世界観も、ともに与えられていないからだ。『未来にキスを』がギャルゲー的なコミュニケーションのありかた(お互いがお互いの内面=属性だけを見つめ続けるコミュニケーション)を肯定するのは、それが、この不可能性を迂回する唯一の現実的な方法だからである。この作品の箱庭的世界は、その一点で現実と接している。

おそらくこのような実存的、というか疑似実存的(何と言ってもそれはギャルゲーに仮託しなければ話せないような実存なのだから、「疑似」と付けておくしかない)な思考の道すじは、80年代的な「逃げろや、逃げろ」を知る人々からすれば、ウザくて鈍重なだけに見えるだろう。また見方によっては、古くさい文学性への回帰にすら映るかもしれない。しかし、その鈍重さにはやはり何らかの切実さが宿っている。そこで見えてくる世界がどれほど自閉的で悲惨であろうとも、あえて「圧倒的な楽園」と言い、その「未来」に「キス」をしてしまうぐらいには。そしてその切実さに対しては、この作品がゲームとしてよくできているかどうかといった問題(実のところそういう評価基準は私にはどうでもよい)とは関係なく、私自身は強く共感する。

あと少しだけ筆を滑らせよう。私はいままで実質的に2冊の本しか出していない。『存在論的、郵便的』と『動物化するポストモダン』である。この2冊は題材もスタイルもずいぶんと違うので、普通は連続的に読まれないし、また私もそれを期待していない。実際、いまや、私自身ですら、『存在論的、郵便的』で何を書いたのか、かなりの部分を忘れかけているくらいだ。

しかし思えば、その『存在論的』よりさらに以前、デリダはおろか、まだ柄谷行人や浅田彰の名前すら知らなかった高校生のころ、私もまた、「私とあなたのコミュニケーションという小さな物語」ばかりを突き詰めて考えていたのだった。恋愛対象を探すのすら難しい男子校の教室の片隅で、私はただ、「私」はあなたを愛することができるか、私はあなたに「愛」を伝えることができるのか、そもそも「あなた」の唯一性とは何なのか、そんなことばかり抽象的に考えていたような気がする。思えばアブない高校生だが、哲学者なんて志すのはそういうヤツに決まっている。

そしてそのモチーフは、『存在論的』と『動物化』を貫いてずっと生きている。私とあなたは分かりあえるのか。伝統的にこの問いに対しては、2種類の回答しかない。いつか分かりあえるという答えと、絶対に分かりあえないという答えだ。『存在論的』の言葉で言えば、前者が「形而上学的」回答で、後者が「否定神学的」回答ということになる。そして、否定神学的な、つまり「絶対に分かりあえない」という答えには、実はオマケがついている。私たち人間にとってはその「絶対に分かりあえない」ということこそが大事なのだから、その不可能性を正面から見据えて生きて行け、という倫理的な要請だ。別の言葉で言えば、人間間のコミュニケーションは不可能だから、神とのコミュニケーション(内面にしかないコミュニケーション)だけを信じろ、という要請である。

しかし私はその両者とも気にいらなかった。そこで私が『存在論的』で「郵便的」という言葉で高らかに宣言しようとしたのは(当時の私自身の自意識としては、これはもう革命的なアイディアのはずだった)、そのどちらでもない別のコミュニケーションのモデルである。

私とあなたは絶対に分かりえない。したがって、私は私の内面を、あなたはあなたの内面を見つめることしかできない。しかし、にもかかわらず、私の内面に見えるものはひとつではない。つまり神はひとつではない。私のなかには、たくさんの「神々」が、コミュニケーションのモジュール(『未来にキスを』で言う「属性」)が詰め込まれていて、あなたのなかにもまたたくさんのモジュールがあり、それらが勝手に衝突しあうことで、「私」と「あなた」のコミュニケーションは成立している。「私」というひとりの人間、「あなた」というひとりの人間、その両者は決して出会うことがないけれど、しかし、私の手とあなたの手が、あるいは私の唇とあなたの唇が、あるいは(あえてオタク用語を使うならば)私の「萌え要素」とあなたの「萌え要素」が、ほかにもさまざまな局所的で部分的なものたちが勝手に出会い、勝手に離散することで、私たちのコミュニケーションは成立している(ように見える)。私が考え続けているのはそういう問題だ。

オタクたちのジャンクで奇妙な想像力は、ときに、その郵便的なコミュニケーションの本質に肉薄する迫力を見せる。私たちは、ギャルゲーのキャラクターに対するようにしか、ひとと接することができない。肯定するにせよ、否定するのせよ、それが人間の条件なのだ。それは世代とも時代とも関係ない。『動物化するポストモダン』は、徹底してマニュアル的で社会学的で世代論的な分かりやすさを目指して書いたのだが、本当のところ、そういうことが言いたくて書いたような気がする。久しぶりにギャルゲーをきちんと攻略して、そんなことを思い出した。(1.19「ネタバレ」表記加筆)

ちょいとフォロー……

こんにちは。東浩紀です。

狭いブログ論壇ネタです。関心のあるひとむけに、フォローをひとつ入れておきます。

http://d.hatena.ne.jp/kidana/20080822

ここに「コミケ・ゼロアカ飲み会」動画なるものの発言の起こしがアップされてしまっています。しかし、その冒頭の、「いま宇野君(宇野常寛)と電話したら「東さんも今メジャー化しているのに、ゼロアカとかで変な連中と付き合って足引っ張られるんじゃないか」て心配してました。」という発言、これ、じつはまったくの事実無根、完全なネタです!(笑)

いや、これ、もとの動画を見て貰えばわかるのですが、基本的には飲み会のバカトークの記録なわけです。で、それでこのとき、ぼくとしては発言のあと、「え、まじっすか!」>「いや、冗談だけど」というリアクション展開を期待して話したんだけど、それがそのまま滑って流れていってしまったと。

なんか、活字に起こされると真面目に宇野さんの発言だととられ、そうなってくると「宇野vsゼロアカ」みたいなアングルも作られてしまいそうなので、ここにフォローしておきます。

まずお願いなのですが、基本的にあの動画シリーズは、すべて、そういう冗談込み、文脈込みのものとしてお楽しみください。酒もかなり入っているし。たとえば、リンク先のページの「テープ起こし」によると、単に「ジャンル誌が嫌い」みたいな発言をしたことになってますが、あれも動画を見てくれれば違う文脈で見えるはず。というか、実際、ぼくジャンル誌で喜んで仕事してるしね。

そして大前提。最近は動画公開とかストリームとかはやりですが、ぼくはいちおう文章を売って生きている人間なので、こうやって本人確認抜きで活字起こしされちゃうとちょっと困っちゃいます(笑)。動画がフリーだから起こしも自由だと思ったんだろうけど、喋りと文字はぜんぜん違う印象を与える媒体だから……。いくら動画が公開されているとはいえ、やはりこういうときは、本人のチェックを取らないとまずいかもよ?>運営者さま ちなみにぼくは、イベントレポなんかでも、書き手の文責がはっきりしているものはどしどしやるべきだと思うけれど(報道の一種として)、パネラーの発言をできるだけ中立的に書き起こしました、的なものはむしろまずいのではないかと思っています。表面的に中立性があるように見えれば見えるほど、現場の雰囲気と文字起こしとの、報告者が拾えなかったギャップが深刻な誤解を生むからです。

話が逸れました。まあ、とにかく、来週月曜日には宇野さんと問題の対談です。そっちは最初から文字媒体向けにきちんとやります。ではでは!

CGの未来

こんにちは。

コミケ後のもろもろで東浩紀スレがとんでもないことになっているようですが、そっちばかりにサービスしているわけにもいかないので、まったく無関係な投稿を。

GIGAZINE経由で見つけたのですが、

http://technology.timesonline.co.uk/tol/news/tech_and_web/article4557935.ece

これはすごい! この解像度では実在の人間にしか見えない。リアルとCGのあいだの「不気味の谷」とか、そのうちさっくり乗り越えられそうな感じがしてきました。

あと、こういうのを見ると、やっぱり考えてしまうのはポルノへの応用可能性です。前に児童ポルノ絡みの投稿でも書いたけれども、「完全にリアルにしか見えないのだけど、被害者も加害者もいない児童ポルノ」が作られるようになったとき、ぼくたちの社会はどう判断するのか。あるいは、「完全に本物のようにしか見えないのだけど、実際には単にCGで作られているスナッフムービー」とか。これは難しい問題です。欲望が問題なのか、被害が問題なのか、といういままで曖昧にされてきた根本が、これからは具体的に問われることになるかもしれません。

新著:リアルのゆくえ

こんばんは。新潮小説の締め切りでお盆休みが消えつつある東浩紀です。

さて、ぼくの読者はコミケ対策で忙しい時期だと思いますが、他方、あと数日で、大塚英志氏との共著『リアルのゆくえ』(講談社現代新書)が店頭に並びます。

http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2879573

内容は、いままでの対談の再収録が3章、語り下ろしが1章というところです。あとがきは、ある事情があって、ぼくのものだけが収録されています。

上記の紹介ページには「わかりあうつもりのない2人による8年間の世代間闘争」と書いてありますが、これは比喩でも煽りでもなんでもなく、この本での大塚英志氏のぼくへのマジギレ気味は、マジ半端ありません。とくに第3章はすごい。「新現実」掲載時には落とされたやりとりが、かなりそのまま復活しています。ほとんど喧嘩です。

「わかりあうつもりがない」共著といえば、ぼくにはかつて笠井潔氏と作った往復書簡集、『動物化する世界の中で』(集英社新書)という怪著があるわけですが(と自分で言うのもなんですが)、今回の本はあれを超えたのではないかと微妙に自負しています。いやはや。でも、まあ、ぼくは大塚さんと一緒に本を作れたというだけで光栄です。大塚英志はとても重要な評論家です。大塚さんにいくらなじられても、その信念は一ミリも動きません。

手にとって、さまざまな観点でお楽しみいただければ幸いです。

むろん、まじめな話もしています。というか、大塚さんもぼくも、内容レベルではいたってまじめなのです。でも、どうも、それを超える何かも生まれてしまっている。そんな本です。

サンプロ補足資料

kato.jpg

こんにちは。というわけで、テレビ朝日のサンデープロジェクトで、姜尚中、香山リカ、櫻井よしこ、田原総一朗の4氏と語り合ってきた東浩紀です。収録後、姜さん以外の3氏とは昼食会があって、熊野大学で飲めなかったアルコールをばっちり飲んできましたw。

さて、その放映時に示したグラフをアップロードします。上記は、2008年6月9日から2008年7月26日までに、2ちゃんねる上に立てられたスレッドの中から、「加藤智大」の名前を含む全171スレッドを調査し、そのタイトルのなかに「神」「英雄」「称える」「同情」など、共感的と思われるものを含むスレッドを抽出してグラフにしたものです。フリップにも示されていたと思いますが、調査は気鋭の情報社会論研究者、濱野智史さんに依頼しました(ありがとうございます!>濱野くん ちなみに、このブログの読者であればご存知のように、濱野さんはニコニコ動画の「権威」でもあり、第1著書が10月末にNTT出版から出版される予定の注目株です。新著にはぼくも帯文を書いています)。

ここからとりあえず言えるのは、「2008年6月9日から2008年7月26日までに、2ちゃんねる上に立てられたスレッドの中から、「加藤智大」の名前を含む全171スレッドを調査したところ、47スレッドのタイトルが共感的で、比率としては全体の27%」だということです。調査対象は「加藤智大」の名前を含むものに限られているので、秋葉原事件に関係するスレッドは171よりもはるかに多くなるものと思われます。実際、ぼくが事件直後に朝日新聞について書いた論評について、ニュー速では合計7つのスレッドが立っており、それはそれでやはり加藤に対して共感的なコメントが寄せられてもいたのですが、それはこの調査対象に入っていません。

ご存知のように、2ちゃんねるの書き込みは、本音とネタの区別がつきません。また、だれが書き込んだかもよくわかりません。したがって、「ウェブで加藤容疑者への共感が集まっている」ということを客観的に示すのはむずかしい。というかほとんど不可能です。実際、これも放送で言いましたが、事件の直後、週刊新潮が「2chで加藤が神格化されている」と記事を書いて、 「釣られてるんじゃねーよ」と冷笑を浴びたという事件があります。また、このデータは、サンプロから提案があって濱野くんにメールして、実質1晩で調査してもらったものなのでじつに単純です。

しかし、かといって、2ちゃんねるの書き込みの全てがネタで、社会調査に値しないかといえば、それもまたそうでもないでしょう。したがって、ぼくは現実的には、いまの段階では、とりあえず素朴に、「加藤容疑者への共感”のように見える”書き込みがどれくらい多かったか」を示すのが、もっとも信頼のおける出発点だと考えました。そして、そのかぎりで言えば、立てられたスレッドの3割が共感的なタイトルをもつというのは、やはりなんらかの現実を示していると思います。

検索には、「にくちゃんねる跡地」を使っています。このデータをどのように解釈するかは、ぜひ議論してください。

最後に、加藤容疑者への共感を示すと思われるスレッド名の主なものを、いくつか列挙しておきます。

・【2大ネ申】宅間守・ 加藤智大 はネ申【双璧】
・加藤智大 と付き合いたい
・ ■時代の寵児■ 加藤智大 ■ヒ-ロ-■英雄■
・ ■「改革」が生んだ 加藤智大 は小泉チルドレンだろ?
・ 【秋葉原殺傷】 加藤智大 救世主伝説を語り告げ
・ ☆みんなで 加藤智大 先生に面会に行こう☆
・アキバに降りたった新教祖、 加藤智大
・加藤智大 と付き合いたい
・ 【感謝】 加藤智大 の功績で日雇い派遣原則禁止に!
・加藤智大 の日記を読んだが、一言一言が悲しすぎる・・・
・ 加藤智大 様は真の英雄
・ 【革命戦士】 加藤智大 将軍様は、日本の救世主
・加藤智大 様を称えるスレ

ゼロアカ門下生公式ブログが出揃いました

こんばんは。明日から新宮の東浩紀です。ひさしぶりの、というか9年ぶりの柄谷・浅田両氏との再会に緊張気味です。

昨日の投稿で書き忘れていました。ゼロアカ道場門下生のブログが出揃ったので、あらためてリンクを張っておきます。

ゼロアカの主題歌ができたり、批評の妖精が降臨したり、なんかすごいことになっています。ぼくはかつて、「批評の姿を変えるとは、主題や文体を変えるだけではなく、その受容そのものを変えること、つまりは、いままで批評を必要としてきた読者からあえて離れ、いままで批評が必要とされていなかったところに批評を半ば強引に移植し、育てあげることを意味している」などと書き記したことがありますが(『批評の精神分析』あとがき)、それにしてもこれは想像を超えている、というか、もはやもうどう考えても、彼らの想像力は批評や評論などとはなんの関係もないところに行こうとしているような気がし、そして実際に2ちゃんねるのスレッドでも「あずまん、これでいいのか?」などと非難の声がぼこぼこ上がっているわけですが、いやはや、それでも、ぼくは(赤塚不二夫氏の冥福を祈りつつ)ここで「あえて」断言しましょう、まさに「これでいいのだ」と!

というわけで、門下生の方々は、がんがん変な方向に行ってください。けれども同人誌を作るのも忘れずに。

最終批評神話 / re=c(非モテチーム)

http://d.hatena.ne.jp/BST-72-Chihaya/

BL・やおい文学研究所(腐女子チーム)

http://d.hatena.ne.jp/BL801/

ポリリズム(サブカルチーム)

http://d.hatena.ne.jp/yazunami/

形而上学女郎館(秀才女子チーム)

http://d.hatena.ne.jp/metaphysical_jyoroukan/

ゼロアカ道場第四関門 藤田-井上ペア公式ブログ(メガネチーム)

http://d.hatena.ne.jp/fujita_xamoschi/


北海道新聞7月25日夕刊付記事

こんばんは。

秋葉原事件について、6月12日の朝日新聞朝刊6月21日の産経新聞、洋泉社のムック『アキバ通り魔事件をどう読むか?!』に続いて、7月25日の北海道新聞夕刊に文章を書きました。掲載日から2週間近く経ちましたので、以下に記事を転載します。

なお、秋葉原事件については、来週8月10日のテレビ朝日・サンデープロジェクトに出演するほか、来月に岩波書店から刊行予定の論集『アキハバラ発 〈00年代〉への問い』(大澤真幸編)でもインタビューに答えています。また、今月末発売の大塚英志さんとの対談集、『リアルのゆくえ』(講談社現代新書)でも、語り下ろし対談で同事件について語っています。

死者七人を出した衝撃的な秋葉原無差別殺傷事件から、ひと月以上が過ぎた。

秋葉原はアニメ・ゲーム文化を象徴する街である。しかも逮捕された容疑者は二十五歳の男性だった。そのためか、発生直後には、事件を若者文化と結びつける論調があちこちに見られた。

しかし、事件の全貌が明らかになるにつれ、ことの本質はオタクやゲームのような文化論的な問題にではなく、容疑者の教育環境や雇用環境といった社会学的な問題にあるという見方が有力になっていった。奇しくも、若者の雇用問題に取り組む「ロスジェネ」の創刊や「蟹工船」ブームなど、論壇では若年層の貧困に焦点が当たっていた。少なからぬ若者が容疑者に同情したことも、年長世代には驚きをもって受け止められた。

言うまでもなく、犯罪の残酷さは看過されるべきものではない。容疑者には厳罰が与えられるべきだ。だがその前提のうえで、いまや一部の人々によって、事件を個人の「心の闇」に押し込めるのではなく、格差社会に対する若者の怒りの現れとして、正面から理解しようという試みが始まっている。

犯罪を許さないことと、犯罪の背景を無視することは異なる。世論もメディアも、事件から一カ月の時間を経て、少しずつ余裕を取り戻しているようだ。

さて、筆者もその流れに逆らうつもりはない。事件直後には、筆者自身も同じことを訴えた。

しかし、世間が落ち着きを取り戻したいまは、また別の視点も必要だと考えている。

というのも、筆者には、事件の本質が労働問題に還元されるとは思えないからである。 

確かに容疑者がネットに残した書き込みには、深い絶望と屈辱感が記されている。しかし、じつは彼の生活はそれほど悲惨とは言えない。彼は派遣社員だったが、収入は標準的で解雇が迫っていたわけでもなかった。女性との交際経験もあった。それなのになぜ彼は、自分の人生は失敗で、逆転のためには罪を犯すしかないとまで思い詰めてしまったのか。真の謎はそこにある。

むろん、容疑者の心の内がわからない以上、明確な答えを出すことはできない。しかし、ネットの書き込みや同世代の共感の声をもとに大胆に推測すれば、こう言えるかもしれない。

容疑者は、生活が苦しいことにではなく、むしろ彼の「負け組」人生をだれも承認してくれないことに対して苛立ちを募らせていたのではないか。つまり彼の屈辱感は、富の問題というより尊厳の問題に関わっていたのではないか。

一般通念からすれば、富の分配は社会の責任だが、尊厳の獲得は個人の責任ということになる。貧困には救いの手を差し伸べるが、個人の屈辱感までは面倒を見れない。そのような立場からすれば、容疑者の苛立ちに同情の余地はないだろう。

しかし、私たちが他方で、そのような屈辱感を構造的に生み出す社会に生きていることも確かである。現代の若者には大きな自由が与えられている。彼らはなにものになってもいいと言われる。しかし逆に失敗したとき、リスクはすべて彼らに降りかかる。しかも人生の成否はしばしば運で左右される。実力が評価されるとは限らない。

そのような世界では、どんな人生を選んだとしても、「ほかの人生もありえたかもしれない」という苛立ちに苛まれるはずだ。少なくとも、いちど「失敗した」と思いこんだとき、「自分の人生にはこれしかなかった」と納得するのはきわめて難しいだろう。おそらく、容疑者が陥ったのはそのような心理の袋小路だったのではないか。

現代社会は、ひとりひとりの人生に、偶然に左右されない承認を与える機能(大きな物語)を失いつつある。言いかえれば、「負け組」に居場所を与える緩衝材的な機能を失いつつある。事件の背後には、労働問題だけではなく、社会の質のそのような大きな転換があるのかもしれない。

もしそうだとすれば、じつは秋葉原事件の対策はきわめて難しい。もしかしたら対策などないのかもしれない。

しかしそれでも、現在の「競争社会」が、「負け組」にそのような強い負荷を掛け続けてかろうじて成立していることに対しては、多くのひとが自覚的であるべきだ。いまの日本では、じつに多くの若者が承認と尊厳の不在に苦しんでいるのである。(了)

告知&ゼロアカ道場について補足2

こんばんは。東浩紀です。

まず告知ですが、今週土曜日、新宮市で行われる「熊野大学」のシンポジウムに出席します。何年ぶりかで中上健次をぼちぼち読み直しているのですが、『紀州』や『枯木灘』のあの文章を中上はいまのぼくより若いときに書いていたのか!と、いささか衝撃を受けました。そこには、単なる世代の差には還元されない、なんか日本語の質の変化みたいなものがあるように思います。当時30そこそこだったはずなのに、なんで中上はあんなに渋いのか。ブログとか書いていまだに学生気分が抜けない(と言われる)ぼくからすると、それはちょっと驚くべきことです。

あと、その翌日の日曜日、テレビ朝日のサンデープロジェクトに出演します。テーマは秋葉原事件。こちらは生放送なので、ぼくは土曜日、シンポが終わったら速攻で東京に帰ることになります。終電を調べたら、新宮を午後5時半には出なければならないことがわかり、びびりました。

で、つぎにゼロアカ道場について補足の2回目です。ゼロアカ道場、とりわけ「道場破り」について、講談社BOXのページにFAQが出ています。あと、文学フリマ事務局の望月さんもブログでいろいろ書かれています。

http://shop.kodansha.jp/bc/kodansha-box/zeroaka/faq.html

http://d.hatena.ne.jp/jugoya/20080805#p1

さて、後者のブログで望月さんは、「「自分で作って、自分で客を呼んで、自分で売る」というのは文学フリマの、もっと言えば同人誌即売会の根元的なあり方だと思います。今回の企画は文学フリマにとって新しいチャレンジであると同時に、原点に通じる内容なのです」と書かれています。これは、道場破りへの参加を考えているかたに、ぜひ深く受け止めてもらいたい言葉です。

というのも、どうもなんか、この企画が文学フリマで行われる、ということの意味をきちんとわかっていないひとがいる気がするからです。

みなさんご存知のように、ゼロアカの道場破り企画は、予想以上に盛り上がりを見せ、ネットでは幾組かすでに参加表明をしています。実際には参加表明をしても、文フリそのものの抽選で落ちる可能性があるので参加できるのはその半分にも満たないはずです。しかし、それでも、もはや複数チームのエントリはほぼまちがいないでしょう。道場主として、ありがたいと思っています。本当に嬉しいことです。

しかし同時に、ネットのいろいろな書き込みを見ると、ちょっと不安になることも確かです。今回のような前例のない企画では、参加規定にはどうしても曖昧さが残ります。どういうひとがどういうことを考えるのか、こっちにもデータがないからです。ネットには、そういう弱点をうまくつけば一波乱起こせるんじゃないか、と考えているひともいるようです。たとえば、超有名人を連れてくるとか、サクラの買い手を手配するとかです。

けれども、そういうひとは根本的に勘違いをしています。ゼロアカ企画は、別に頓知とか悪知恵を競うものではありません。しかも、最終的な合否はぼくと太田さんが決めます。だから、率直に言えば、ぼくたちに、「こいつやりかた汚ねえな」「こいつせこいな」と思われたら、それで終わりなのです。

なるほど確かに、今回に限っては、ルールの陥穽をつき、文フリ当日に爆発的に売り上げが高いチームがあったら、審査基準を公開している関係上通さざるをえないかもしれない。でも、そんな挑戦者は第5回で落とせばいいだけの話です。繰り返しますが、この企画は、「次世代を担う新しい批評家をデビューさせる」のが目的です。毎回の関門はそのためのステップとしてあります。今回の関門はショー性が高いですが、ショーのパフォーマンスが高かったからといって、適性のないひとをデビューさせることはできません。適性には、むろん真剣さや誠実さが含まれます。

そして、ぼくたちが第4回関門の舞台として文学フリマを選んだのは、ぼくと太田さんが、ぼくたちの考える「次世代の批評家」に、まさに上述のような文学フリマの精神、同人誌の精神に敬意を抱いて欲しい、と思ったからにほかなりません。文学フリマに参加することの意義、文学フリマで本を売ることの意義をしっかりと理解していないひとは、道場破りに参加しても意味がないと思います。文学フリマで売るのが妥当な評論本/評論誌を、ちゃんと作ってください。

ちなみに当日は、文学フリマとは別に講談社BOXのほうでもスタッフを配置し、不自然な購入や売り上げ数のごまかしがないかどうか、最低限の監視をさせていただく予定です。「不自然な購入」とはなにか、とかまた質問が来そうですが、そんなのいちいち定義していたら企画が頓挫するので、常識で考えてください。というか、そういうこともわからないひとは、そもそも道場破りに参加しても意味がないので、挑戦は諦めたほうがいいと思います。

以上、よろしくお願いします。

ゼロアカ門下生公式ブログ

こんばんは。速水健朗さんと対談をやってきた東浩紀です。対談は、講談社現代新書のメールマガジンに掲載される予定です。

さてさて。今回はゼロアカの話題です。道場破りチームと差をつけるために(笑)、道場主として、ゼロアカ門下生の第4回関門突破に向けての公式ブログへのリンクを張っておきたいと思います。

2ちゃんねる東浩紀スレッドの分類で行くと、

サブカルチームのブログ

http://d.hatena.ne.jp/yazunami/

秀才女子チームのブログ

http://d.hatena.ne.jp/metaphysical_jyoroukan/

メガネチームのブログ

http://d.hatena.ne.jp/fujita_xamoschi/

というわけで、意外とそれぞれ個性が出ていていい感じです。道場主というか、合否判定者として、どのブログがいいとは言えないわけですが、三者三様に「なるほど、こういうふうに個性を出してくるのねー」とは感心しています。いまのところ、それぞれキャラは被ってませんね。

それにしても、非モテーズチームと腐女子チームはこのあとどんなブログを作るのか? 個人的に楽しみです。

ちなみに、ぼくは立場的にリンクを張らないほうがいいので張らないわけですが、道場破りチームもけっこうそれぞれ本気でブログをやってます。先日太田さんとも相談したのですが、正直、この状況だとガチで道場が破られそうです。門下生にはがんばってほしいところです。

声優の声についての論文

こんにちは。ウィキペディアだかはてなキーワードだかに、いつまでたっても「最近は対談仕事が多く執筆はしていない」と書かれているけれど、実際にはかつてないスピードで原稿を生産している東浩紀です。『新潮』の小説、『文學界』『ミステリーズ!』『SIGHT』の連載、そのほかそのほか、ざっと計算してみると、今年に入って少なくとも300枚は原稿を生産しています。ほかもゼロアカとか思想地図とか秋葉原事件関係とか大塚英志さんとの対談集のゲラとかあって、妙に忙しい夏を迎えています。

というわけで、今年の夏コミはなにも新刊はありません。ごめんなさい!

ちなみに、いまをときめく宇野常寛さんにトークラジオAliveの3収録を提案したら、みごとに断られちまいました! 宇野的には東浩紀は用済みということらしいですw。この屈辱をバネに、コピー誌ぐらい作れるよう努力します。

さて、そんな状況なのですが、またもや自主的に仕事を増やしてみることにしました。

先日、『思想地図』の編集会議が行われたのですが、その場で、次号もひとつぐらいアニメ関係というかサブカル関係というか、そういう論考を入れようという話になりました。前回は黒瀬陽平さんの投稿がたまたまその役割を果たしたわけですが、今回は公募のテーマの関係もあって、そのような投稿はありません。というか、次号の目次は、全体的に創刊号より硬めなんですね。

そこで、まあこれは北田さんとぼくだったらぼくが担当すべきことなのでいろいろ考えなければならなくなったのですが、いまひとつ、「このひとに!」という人物名が思いつきません。ただ、なんとなくテーマは思いつきました。前号の黒瀬論文が映像表現論だったので、次号は声優論というか、「声優の声」論がよいと思うのです。前号の増田論文とも繋がるし、なによりもぼく自身が前々から読んでみたいと思っていたものだし。キャラの身体性とはなにかとか、身体性がないフラットな声とはなにかとか、そんな感じ?

というわけで、上記テーマで、だれか『思想地図』に書いてみたいひとはいませんか? 希望者は原稿用紙40枚ぐらいの「声優の声」論を、簡単なプロフィール(年齢とか職業とか)を添えて、8月末あたり締め切りでぼくのメールアドレスまで送ってみてください(SPAMで弾かれる可能性があるので、到着確認メールを出します)。おもしろそうな論考であれば、ぼくから編集部に推薦し、北田さんと掲載の是非を協議します。プロ、アマは問いませんが、未発表の論文に限ります。

ややこしい話ですが、これは『思想地図』のオフィシャルな公募論文ではありません。形式的には、『思想地図』とはとりあえず関係なく、ぼくが個人の資格で「声優の声」論を書けるひとをウェブで募集している、というかたちを取っています。そこでぼくが論文を読んで、「このひとは推薦できるな」となったら、ようやく『思想地図』の編集会議にかけるという順番です。そのときは、たとえばぼくが福嶋さんを『思想地図』に推薦したように、ぼくがそのひとを北田さんや編集部に推薦することになります(だからぼくがいいなあと思っても、彼らがリジェクトする可能性はあります)。まあ単純に、北田さんと編集部に推薦するひとを求められてなにも思いつかなかったので、ぼくレベルでプチ公募をやろうということですね。

これは『思想地図』の特集とまったく関係がない別枠での話なので、論文がひとつも来なかったのなら、それはそれでいいと思っています。だから、べつに確実にだれかが通るというものではありません。選考過程を公開とか、ひとつひとつ講評とか、そういう面倒なこともやらないので、期待しないでください。合否は、そうですね、締め切り後2週間あたりを目途に応募者に伝えます。

単純に、内容に興味があり、おもしろい文章が書けるひとがいたら、書いてみてください。お待ちしています。


ボケの予感

こんばんは。上野千鶴子氏と初対面を果たした東浩紀です。なお、ぼくはその場にはおまけでいただけで、実際には北田暁大さん単独による上野さんインタビューが行われており、その模様は『思想地図』次号に掲載されます。

さて、それはそれとして、ゼロアカ道場の檄文に、記憶違いについて訂正を出したところ、文学フリマ事務局長の望月さんにさらにその訂正文の記憶違いを正されてしまいました!w

http://d.hatena.ne.jp/jugoya/20080725

もうだめですね、これは。ぼくは自分の行動をなにも覚えていない(笑)。

それにしても、5年前の文学フリマでは、ぼくは都内→南大沢→都内と一日で往復していたらしいです。アツすぎるな。。。

第23回早稲田文学新人賞選考委員に就任しました

標題のとおりです。

次回、すなわち第23回早稲田文学新人賞選考委員の就任が決まりました。同賞は選考委員がひとりなので、ぼくだけが選考委員ということになります。

早稲田文学の公式サイトでは今週中に告知が出るはずです。しかし、このブログで先行的に知らせてよい、というかむしろ話題作りのためにどしどしやれ、との編集長のありがたい言葉がありましたので、ここに記しておきます。

募集対象は小説のみ、規定枚数は100枚前後、〆切は2008年12月(日程詳細未定)です。編集長の判断で、今回は批評は受けつけません。詳細は公式サイトでの告知をお待ちください。

東浩紀といえば、この数年、『ゲーム的リアリズム』の書評は出ないわ、『キャラクターズ』は賞の対象にならないわ、某誌も某誌も「今度うちの賞が変わるときには、東さん選考委員に入ってよ」と飲み屋では言うくせに実際にはまじスルーだわ、そのくせ田中和生・ザ・群像新人賞選考委員氏には「だれも東さんを排除してませんよ、あんたの被害妄想でしょ」とか冷笑される、文芸評論家としてはもうみごとなまでに負け組というか、屈辱感あふれる悲惨な境遇の書き手だったわけですが、ここでようやく一発逆転への第一歩というか、まあとにもかくにも、自分の好きな作品をちゃんと「文学」として、すなわち、自分たちだけが文学を代表していると思っている能天気な方々も制度的に無視できないかたちで推薦できる環境を手に入れたわけです。文芸業界はどうせ思想地図もゼロアカもすべて無視でしょうが、早稲田文学だけは無視できないw。だって早稲田文学といえば、あの川上未映子の出身雑誌で、前回の新人賞選考委員は中原昌也ですからね! 

というわけで、ぼくはすでに文学賞という制度をハッキングする気まんまんなわけですが、そんなぼくの意図を100%知っているにもかかわらず、口先だけの賛意でなく、制度的にぼくを起用してくれた市川真人編集長に、この場を借りて最大限の敬意を表したいと思います。いや、ほんと、口先だけ頷く編集者とか記者とか、ぼくはもうウンザリなのです……。

早稲田文学新人賞の選考委員の任期は、原則1年です。1年に限って延長もありうるようですが、今回が最後の機会かもしれませんので、ぼくに小説を読んでほしい、というか、ぼくの能力を信頼し、ぼくとともに、「純文学」「文芸誌」と呼ばれる領域に革命を起こしたいと思っているかたは、ぜひこの機会に文章を読ませてください。

繰り返しますが、今回は選考委員はぼくひとりです。ぼくはその環境を最大限に活かし、変なバランス感覚とか立ち位置とかをいっさい考慮せず、自分の趣味と直感だけに基づいて新人賞を選ぶつもりです。だから別に、文学賞をハッキングするとかいって、ラノベやケータイ小説っぽいものを忍び込ませようと思っているわけでもありません。そんな立ち位置ゲームをやっても意味はありません。むしろ、今回ぼくが行うべきは、ぼくのすべての読書経験に照らして、これならもっとも自分を裏切らないで済む、そういう一点を見つけることだと思います。それがもっとも「文学」に対して誠実な態度、というか、おそらくはいまもっともぼくに期待されている誠実さであり、また、ぼくを信頼してくれた編集長に対する最大の恩返しにもなると思うからです。したがって、受賞作は、阿部和重みたいな小説かもしれないし、清涼院流水みたいな小説かもしれないし、新井素子みたいな小説かもしれません。ぼくにもよくわかりません。

というわけで、ぼくはぼくなりに本気なのですが、ただしこういうときは、結果は大外れのこともあるし大当たりのこともあります。したがって(自分自身で思うのですが)、ぼくの直感を信頼できないひとは、今回はほかの賞に出したほうが無難でしょう。ほかの賞でなら無難に評価される水準作も、ぼくの選考ではスルーされる可能性があるからです。ぼくはそういうやつです。

ま、いずれにせよ、文学賞をハッキングするといっても、実際はハッキングするのは応募作の作家であり、選考委員はそれが世に出るのを手助けするに過ぎません。というわけで、こんなふうに気合いを入れたぼくがバカを見ないためにも(笑)、ぜひみなさんの力を貸してほしい。一緒に革命を起こしましょう! せめて、その数歩手前までは行きましょう!

意欲的な作品の応募をお待ちしています。

ゼロアカ道場について補足

こんばんは。

京大人文研のシンポジウムで「アッーウッウッイネイネ」のらきすたMIXを紹介してきた東浩紀です(笑)。KYを炸裂させてきました。いや、もうぼくはそういう方向でしか生き残れないんですよ……。

でも、この時期に著作権のシンポジウムといったら、やはりMADとかニコニ・コモンズの話は避けられないと思うんですけどね。それはあまりにオタク寄りの見方なのかな?

さて。ゼロアカ道場の「道場破り」企画、予想以上に盛り上がっているようで喜んでいます。

先日、2ちゃんねるの東浩紀スレッドで質問を受け付けました、第4回関門について曖昧な部分がいくつか見つかりました。そういうのはこれからぼちぼち詰めていきますので、生暖かく見守っていただければと思います。どしどしご応募ください!

……なのですが、その道場破りの性格について、どうも誤解している方がいるようなのでひとこと補足させていただきます。

この企画はそもそもゼロアカ道場の一部です。つまり、「新しい時代を担う批評家をデビューさせる」企画の一部です。ここはすごく大事です。単なる同人誌競争ではありません。

したがって、いくら同人誌の内容がよくても、そのひとに「新しい時代を担う批評家になろう」「講談社BOXで出版しよう」という意志が感じられなければ、企画の性格上、ぼくと太田さんの点は入りません。また、「デビュー」企画ですから、すでに単著の出版経験があるひとは、当然採点は不利になります。それなら参加資格に書けよ、と思う人もいるかもしれませんが、他方、それまでライターの出版経験があっても、ここで本気でゼロから批評家としてやるつもりがあるのであれば通す予定だったので、むしろそれは個別に判断することにしてあります。

いずれにせよ、あたりまえの話ですが、ゼロアカ道場は、「新しい時代を担う批評家をデビューさせる」企画なのです。そのために、こちらは一年を費やしています。どうもぼくの性格のせいか、ゆるくぬるいネタ企画だと思われがちのようですが、とにかく金も手間もかかっている企画なので、冷やかしと判断されるひとは容赦なく落とします。

そもそも、これはまえから思っていたのですが、このゼロアカ企画、第一関門のときから、「批評とか興味ないんだけど記念参加」とか「つまんねえけどとりあえず通った」とか、ブログで無防備に書くひとが多すぎです(笑)。しかし、ぼくも講談社BOXも、そういうのはたいていチェックしています。そして選考に影響を与えています。なんといっても、1万部のデビューを判断しているのです。リスクを負うのはぼくと講談社BOXです。そのひとの人格や展望まで含めて総合的に判断するのは当然のことだし、言いかえれば、むしろその慎重な審査のためにこそ一年にわたってこんな面倒な企画をやっているようなものです。

というわけで、第4回関門はそういう情報もすべて考慮されますので、そのうえで道場破りにはご参加ください。

なお、これは、ブログでゼロアカ企画や東浩紀の批判をしてはならない、ということではありません。単純に、講談社BOXからのデビューにあたってリスクを負わないひとは受け付けない、ということです。本気ならばそういう批判は歓迎で、たとえば第4回関門の同人誌内でやる分にはむしろ点が高くなるでしょう。しかし、「これってネタで参加するけど、本気じゃないから落ちても勘弁ね」とブログで表明しているひとは、最初からやる気がないと判断して否定的に判断しますので、注意してください。

以上、誤解のないようにお願いいたします。

ゼロアカ第4回関門発表

こんにちは。疲労と猛暑で夏バテ気味の東浩紀です。

仕事が忙しくても子どもは待ってくれません。というか、ぼく自身が子どもと遊びたい。というわけで、昨日はディズニーシーに行ってきました。ウォーター系のアトラクションでずぶ濡れになり、家族3人でミッキーマウスのTシャツに着替えました。ディズニーランドは夜遅くまでやっているので、早朝に泥酔して帰ってきても午後から子連れで行けるので、ぼくのようなライフスタイルのひとにとっては便利です。そして、今日は今日締め切りの原稿が二つ待っています。こちらも待ってくれません。

さて、そんなふうにばたばたした生活なので短い投稿に止めますが、先週の土曜日(12日)、ゼロアカ道場の第3回関門通過者を集め、第4回関門の発表がありました。内容はこちらをご覧ください。

今回のポイントは、ずばり「宇野常寛力を見る」です。というのは冗談としても、実際最近は、宇野さんに限らず、評論/ブログで商業誌デビュー前にすでに人気というひとがけっこう多いわけです。その力を見せてもらおう、ということですね。

また、今回に限っては「道場破り」が認められます。第3回関門通過者に較べれば当然のことながらかなり厳しい条件がついているのですが、それでも基本的には、だれでもいきなり(敗者含む)この第4回関門から参加し、門下生を蹴落として第5回関門参加権を勝ち取ることができる、という、ぼくたち主催者側にとってもたいへんリスキーな企画です。2ちゃんの東スレでゼロアカの悪口を言って溜飲を下げているようなひとには、ぜひ参加してほしいですね!w

文学フリマ当日は、「東浩紀点+太田克史点」が各ブースの後ろにでかでかと張り出され、販売数が刻一刻とそこに加えられ、まさにその場で勝敗が決まるというバトル風の演出で行こうと思っています。文学フリマさんにも協力をいただいています。11月9日は、お祭り必至です!

というわけで、4ヶ月後を乞うご期待。

7月12日は、参加者がいきなりナゾのTシャツに着替えさせられて組み分けをさせられるという仕掛けに始まり、懇親会から深夜の打ち上げまで、さまざまに事件が相次いだ驚愕の一夜だったのですが、それを詳細に書くと仕事関係でもろもろ支障が出るのでここでは黙っておきます。第4回関門発表会の様子は、後日ウェブで写真・動画でアップされる予定です。

文化デザイン会議/ケータイ小説的

こんにちは。東浩紀です。

昨日の日本経済新聞になにかぼくについての記事(たぶんロスジェネのシンポジウムについての記事だと思うのですが)が出たらしく、それを見ましたという仕事依頼が二つも来ました。なにが書かれていたのか、気になるところです。

さて、それはそれとして、先週金曜夜のそのシンポジウムのあと、土曜日早朝に帰宅したぼくは、それから8時間も経たないうちに、今度は日本文化デザイン会議主催のトークショーに出席することになりました。

しりあがり寿氏、鏡リュウジ氏、そしてサエキけんぞう氏と、知名度も年収も明らかにオレとは桁が違うぞ的なゴージャスな面子のトークショーで、会場も赤坂・博報堂新社屋ビルのホール。ロスジェネとはあまりに変わったセレブな雰囲気にくらくらし、率直に言って最初は警戒気味だったのですが、これが意外と実質がありました。ぼくは前日の雰囲気を引きずっていて、オタクやアキバの話題を振られても会場の期待に絶対添っていないであろう暗く沈鬱な話ばかりしがちだったのですが、それが鏡リュウジ氏と共振して、話が予想できない方向に拡がっていったのです。鏡さんからは、ギデンズの名前まで出てましたからね……。

いや、本当におもしろかったです。貴重な機会を与えてくれた、モデレータの佐伯順子氏に感謝します。

さて、ここからが本題です。

そのトークショーのあと、ぼくは結局、しりあがり・鏡両氏とともに午前2時まで飲むことになりました。二人は心底泥酔していて、そこではさまざまにおもしろいことがあったのですが(鏡さんが道ばたの人形に本気で話しかけるなど)、そのすべてを割愛してまともな話に戻すと、その席上で鏡さんから速水健朗さんの『自分探しが止まらない』の名前が出ました。彼に仕事をお願いしたいんだけどなあ、とおっしゃるので、ぼくは、あ、速水さんだったら知っていますよ、連絡とりましょうか、ということになり、翌日速水さんにその旨のメールを出しました。

速水さんはご存知のとおり、最近『ケータイ小説的。』という本も出版されています。ぼくにも献本されていました。このブログでは基本的に本の感想を書かないことにしているので書かなかったのですが、これがけっこう、というかかなりいい本で、すくなくともぼくには大きな刺激を与えてくれました。『ケータイ小説的。』は、『東京から考える』『ゲーム的リアリズムの誕生』の裏側版(地方版・ケータイ小説版)の性格をもつとともに、また大塚英志/宮台真司的な少女史のアップデート版としても読める。どこかから書評の依頼でも来るかなーと思っていたら、とくに依頼もないので残念に思っていました。

というわけで、鏡さんの話とともに、その旨を書いて速水さんに送ったところ……。

<いやあ、『ケータイ小説的。』とか、マジ話題になってませんよ。書評も出てませんよ。東さんに頼むにしても媒体ないですよ。世の中腐ってますよ! マジで!>

みたいな返事が来ました(だいぶ加工してありますけどねw)。

「え、そうなの?」というわけで、ぼくはここで、『ケータイ小説的。』をみなさんにお勧めするとともに、このブログをご覧になっている編集者さんや書店員さんに、だれか速水さんとぼくの対談企画を動かしてみませんか、と提案してみたいと思います。

ぼくは速水さんには、昨年『週刊アスキー』で「ギートステイト」の鼎談連載をしていたときにお世話になっていて(鼎談をまとめていたのが速水さんだったのです)、そのときから、ショッピングモールとかファスト風土とかの話をよくしていました。『ケータイ小説的。』はその会話の延長線上にある内容なので、議論は実質的なものになると思います。おそらくは、ファスト風土の文学的想像力についてオタクとケータイ小説の両者から考える、みたいな内容になるでしょう。

だれか、上記対談にご興味のあるひとはいませんでしょうか? 

ご連絡は、ぼくか速水さんまで。

6/12朝日新聞秋葉原記事

6月12日の『朝日新聞』朝刊に掲載された、ぼくの秋葉原無差別殺傷事件についての文章を転載します。asahi.comでの掲載はすでに終了しています。

文章は掲載原稿と完全に同じですが、タイトル、見だしなどは省略しています。新聞掲載の原稿では、一般に見出しは新聞社がつけるものであり、ぼくには文責がないからです。

なお、余談ですが、この原稿、掲載時に、「ついに起きたか」とは後出しジャンケン的な卑怯な発言だとか、「どうせなら経団連とかではなくて朝日新聞に突っ込めと煽れ」とかいう意見がネットで多数見受けられましたが、じつはぼくのところにこの原稿依頼が来たのは、この事件のわずか2週間ほどまえに、ぼく自身が、現実と虚構の区別がつかなくなった主人公が朝日新聞社に車で突っ込んで書評委員を実名で手当たり次第に殺すという小説(『キャラクターズ』)を出版していたからなのでした。むろん、原稿ではそんな文脈にはいっさい触れませんでしたが(ぼくの小説など世間的にどうでもいい話ですから)、いずれにせよ、ぼく自身としては、そういうわけで事件に接して特殊な感慨を抱く必然性はあったわけです。そして、彼が朝日新聞社ではなく秋葉原に突っ込んだという事実を前に、いささか自分の想像力の限界を感じたりもしました。

ただ、この機会に断言しておきますが、ぼくのこの文章は、決してテロを煽っているものではありません。むしろ、そう読まれたことのほうが怖ろしいです。というわけで、この数日後に書いた産経新聞の原稿では少し力点が変わっています。

余談が過ぎました。以下原稿です。

去る八日、買物客と観光客で賑い、アニメ・ゲーム文化の中心地である東京・秋葉原で残虐な事件が起きた。死者七人を出した無差別殺傷事件である。

筆者は一報を自宅でネットで知った。第一印象は「ついに起きたか」だった。

むろん、事件発生を予想していたわけではない。しかし最近の秋葉原については物騒な報道が相次いでいた。パフォーマンスが過激になり、規制強化が囁かれていた。

他方で若い世代のあいだでは、日本社会への絶望や不満が急速に高まっていた。昨年の論壇の話題は「希望は戦争」と語る若手論客の登場だった。そして、アキバ系と言われる若者文化の担い手と、絶望した労働者やニートの層は、意外と重なっていた。

つまりは、いまや若者の多くが怒っており、その少なからぬ数がアキバ系の感性をもち、しかも秋葉原が彼らにとって象徴的な土地になっているという状況があった。したがって、その街を舞台に一種の「自爆テロ」が試みられたという知らせは、筆者にはありうることだと感じられたのである。

筆者はいま「テロ」という言葉を使った。多くの読者は違和感をもつだろう。テロといえば普通は、何らかの政治的主張を伴った、強い信念のもとでの行動を意味する。今回の凶行にそんな主張があったのか、と。

確かに通常の意味での政治的主張はない。容疑者はネットに大量の書き込みを残している。そこには身勝手な劣等感ばかりが綴られている。社会性のかけらもないように見える。

しかし、逮捕後の調べのなかで、容疑者が職場への怒りや世間からの疎外感を長期的に募らせたうえで、計画的に凶行に及んだことが徐々に明らかになってきている。そこに窺えるのは、未熟なオタク青年が「逆ギレ」を起こし刃物を振り回したといった単純な話ではなく、むしろ、社会全体に対する空恐ろしいまでの絶望と怒りである。不安定な雇用に悩んでいたという報道もある。

容疑者は彼の苦しみを大人の言葉で語らなかったかもしれない。怒りの対象も曖昧だったかもしれない。彼が凶行の現場として秋葉原を選んだのは、おそらくはその曖昧さのためだ。もし彼が首相官邸や経団連本部に突っ込んでいたら、だれもがそれをテロと見なし、怒りの実質に関心を向けただろう。彼はその点でいかにも幼稚だった。無辜の通行人を殺してもなにも変わるわけがない。しかしその幼稚さは、怒りの本質には関わらない。だから、筆者はこの事件をあえてテロと捉えたいと思うのだ。

容疑者はむろん厳罰に処すべきである。犯罪の計画性と残虐性は明らかであり、情状酌量の余地はない。また、このような事件は二度と起きてはならず、容疑者を英雄視することは許されない。ネットの一部では共感の声が現れているが、それこそ幼稚と言うべきだ。

しかし、テロリストを厳正に処罰することと、テロが生み出される背景を無視することは異なる。私たちは彼のような「幼稚なテロリスト」を不可避的に生み出す社会に生きている。犠牲者の冥福のためにも、その意味をこそ真剣に考えねばならない。

腰痛になりました&もろもろ

こんにちは、東浩紀です。

もともと締め切りやイベントが重なっていたところに秋葉原で事件が起きてしまったため、先週から今週にかけては、たいへんハードな修羅場になっていました。さまざまなひとに、メールの返信などで不義理をしています。すみません。。

その修羅場、いまいったん落ち着いているのですが(それでも月曜日にまた締め切りがくる!)、そうしたら今度は容赦なく腰痛がやってきました。いまはデッキチェアからノーパソで更新しています。今晩もどうしても出かけねばならないというのに・・・・。

そんな感じですが、去る月曜日の「思想地図」シンポジウムにはみなさん、ご来場ありがとうございました。大盛況かつ大成功でした。

ぼくは個人的には、シンポジウム本編の盛り上がるも去ることながら、打ち上げ会場で、お会いして10年来の宮台さんと、鼎談などの場以外ではじめてゆっくりと長時間お話できたので、それが素朴にうれしかったです。——とか書くとまた論壇プロレス的に解釈されそうな気もするのですが、本当にそうだったのであえて素朴に記しておきます。打ち上げでは妙に楽しげな集合写真を撮影したので、それはのちにアップします。確か、あのときアップしてもいいかと言ったら、みんなOKを出してたので。

そうそう、その打ち上げ会場にもいらしていた大澤信亮さんから、「ロスジェネイベント、東さんのブログでも宣伝してくださいよー」と頼まれてしまいました。実際、会場でボコボコにされそうなのでこちらでは触れるにとどめていた、という嫌いがないわけではない——のかもしれません(笑)。というわけで宣伝を。


ロスジェネ創刊イベント「言論空間に挑む新雑誌」
6 月27 日(金)19:00 開演(18:30 開場)
於 東京・紀伊国屋新宿南店サザンシアター
 〈第1部〉出演者
・浅尾大輔、雨宮処凛、増山麗奈
 〈第2部〉出演者
・赤木智弘、東浩紀、大澤信亮、萱野稔人、杉田俊介
詳細はこちら

とのことです。ぜひご来場を!

あとは秋葉原事件関係続報です。産経新聞への寄稿が掲載されました。ここです。

秋葉原事件関係では、いろいろ取材を受けましたが、雑誌コメントのひとつが編集方針で掲載されず、テレビ取材がひとつ先方との意向があわず断り、あと別のテレビインタビューが収録2時間前に突然キャンセルされました。全体的に、メディアが求める犯罪像、犯人像とぼくが考える像はずいぶんと異なり、そういう点では「勉強」になりました。

そこで思ったことをひとつだけ記せば、「心の闇」という言葉は、いまや排除社会・リスク社会の便利な「管理ツール」なのですね。

ぼくたちの社会は、もはや犯罪に社会的な意味を求めていない。もっと正確にいえば、犯罪というイレギュラーなできごとを契機として議論を立て、イレギュラーをレギュラーのなかに包摂し、社会の全体性や正常性を回復しようという意志がない。必要なのはそういうイレギュラーを局所的に管理するツールであり、そのとき犯罪の原因を無駄に探究せず、ブラックボックスをブラックボックスのまま扱える「心の闇」という言葉は、じつに便利で効率的なわけです。そして、メディアもそういう大衆の直感にみごとにしたがっている。まあ、確かにポストモダン社会というのはそういう社会なわけで、なるほど、この点だけとっても1989年(宮崎事件)や1995年(オウム事件)とはずいぶんと言論の光景が違うのだな、と思いました。

事件の被害者の方々のご冥福を心から祈るとともに、秋葉原が以前のような活発な町に戻ることを望みたいと思います。

ねとすた☆あねっくす

いちおう告知しておくか……。

というわけで、すでにねとすた☆あねっくすのブログで告知されていますように、声優の柚木涼香さんと、しばらくのあいだ月イチでネット番組をもたせてもらうことになりました。いっぷう変わった人生相談番組を目指したいという野望がありますので、二次元絡みの(いや、リア充でもいいけど)悩みをドシドシお寄せください。

なお、同じブログの翌日のエントリで告知されているミニノベル、 プロデューサーのA氏渾身の、かつ綱渡りの企画のようですので、こちらもみなさん応援しましょう。メタ的な展開になると萌え萌えですね。

ちなみに、ぼくは約2ヶ月前、この企画書をこっそりと見せられたとき、汐音という名前を使うのはいいがヒロインはこのチビのドジッ娘ADのほうにしろ、そして年齢設定は10歳にしろ、と力説したのですが、その提案はさすがに跳ねられた模様です。

新井素子論@ミステリーズ!の一部公開

こんばんは。東浩紀です。娘はぶじ退院しました。

さて、ロスジェネへの出席とか宇野常寬さんによる東読者批判@サイゾーとかいろいろ考えるなかで、ぼくは唐突に開き直りました。ぼくは確かに、なにか空想的なことを語っている。

しかし、空想がない思想ってなんでしょう? もし空想が認められないなら、つまりは「それって現実的に不可能じゃん」みたいなことで思想の可能性がなくなるのであれば、最初から思想なんて要らないと思うのです。思想の読者は、本当に現実について読みたいのでしょうか? 少なくとも、ぼくにわかっているのは、ぼくの夢想を支持する読者は一定数いて、ぼくは彼らを大切にしたいということです。いや、それも違う、ぼくにわかっているのは、むしろ単純に、若いころのぼくは、退屈な現実について語る思想など読みたくなかったということです。

とまあ、そんなことを考えながら、『ミステリーズ!』連載の新井素子論の最後でつぎのようなことを書きました。ご笑覧ください(というか、これは原稿のごく一部なので、全体をぜひ雑誌でご覧ください)。


(……)

ぼくはこの連載を、宇野常寛の評論「ゼロ年代の想像力」へのコメントから始めた。問題の評論を一読すれば明らかなように、彼はセカイ系やその周辺の作品にきわめて冷淡である。にもかかわらず、宇野がまずセカイ系について論じるところから始めたのは、セカイ系の構造が、あるタイプの現実認識をきれいに反映していると広く考えられているからだ。

繰り返すが、ぼくたちは社会の全体性を想像しにくい時代に生きている。実存的に言いかえれば、それぞれのアイデンティティ、生きる拠りどころが発見しにくい時代に生きている。地域が崩壊し、家庭が崩壊し、学校が崩壊し、社会のあらゆる場面で流動性が高まるなか、ぼくたちは、どうせ自分がいなくても自分の場所はだれかが占めるし、人生に決まった目的はないのだからその場その場の快楽にしたがって判断を下すのが正しい、といういささかシニカルな感覚に慣れ親しんでいる。抽象的なキャラクターと「純愛」すなわち非現実的な運命論の組み合わせからなるセカイ系の作品は、そのような具体的で現実的な認識に裏打ちされて支持を拡げている。

このことは裏返せば、セカイ系へのあるいはキャラクター小説への態度が、ある言論空間では独特の政治性を帯びることを意味している。実際に宇野が二〇〇七年に注目を集めたのは、そのような言論空間が実在するからである。その空間、つまり若い世代がネットを中心に作り出している「ゼロ年代の言論」においては、現在、以上のような現実認識のうえで、流動性の拡大に歯止めを掛け、ふたたび社会の全体性を回復すべきだという立場と、それは無理だからせめて「小さな成熟」を目指そうという立場が現れ、それなりに活発な議論が交わされている。

その議論の多くは若者特有のジャーゴンに満たされており(「非モテ」や「リア充」など)、必ずしも一般の読者に開かれたものではない。したがって過大に評価する必要はないが、しかしそれでも、その対立そのものは、反市場主義、反グローバリズムに支えられたナショナリズムや労働運動への傾きと、市場の現実をいったん受け入れたうえで、その荒々しさをせめてコミュニタリアンなセーフティネットで補完しようとする立場のあいだの対立を反映しており、そのかぎりで考察に値する。そしてまた、ここでは詳しく解説しないが、その対立はそれぞれ、文学の話に置き換えるならば、セカイ系の方法論ではさすがにあまりにも人間が描けないので、自然主義的リアリズムを再構築すべきだという立場(プレカリアート文学?)と、まんが・アニメ的リアリズムの隆盛はもはや止めようがないのだから、せめてそこでは意味のある物語を語るべきだという立場(決断主義?)にも重なっている。「ゼロ年代の言論」において、マンガやアニメやライトノベルがしばしば熱心に語られるのは、それが単純に若い世代にとってポピュラーな商品であるからというだけではなく、それなりの必然性に基づいているのだ。

ぼくはいまこのような文脈で原稿を記している。そのうえで新井とセカイ系の距離を測り、家族的な想像力を、より正確にはキャラクターの家族化という想像力を、セカイ系の困難への新井からの応答として取り出そうとしている。

セカイ系は社会を描かない。そして人間を描かない。かわりにキャラクターの群れを描く。その流れに抗して、ある人々は文学はやはり社会と人間を描くべきだといい(純文学+ニート論壇)、別の人々はキャラクターを用いてでもせめて社会を描くべきだと主張する(「小さな成熟」派)(注6)。もしかりに「ゼロ年代の言論」の光景がそのように整理できるのならば、さきほどまで記してきたような新井的で家族的なキャラクターの想像力は、また別の可能性を、抽象性との別のつきあいかたを指し示しているのかもしれない。

ぼくたちは社会も人間も掴むことができない。ぼくたちは具体的で社会的な人間とは連帯できず、抽象的で空想的なキャラクターにしか感情を向けることができない。しかしそれは必ずしも、ひとがセカイに孤独に向き合い、無力になることを意味しない。なぜならば、それらのキャラクターたちは、決して実在はしないのだけれど、彼らは彼らで連帯し、彼らは彼らでネットワークを形作り、そして彼ら自身の論理に基づいてぼくたちを孤独のなかから連れ出し、世界への感情に目覚めさせてくれるからだ。『……絶句』で、記憶をなくし、半ば解離に陥った主人公の素子は、現実への関心を取り戻すときまさにつぎのように叫んでいる。「何よお!何よ何よ何よ、本当にみんなして勝手に思いやってみたり健気になってみたりして何よ! あ、あたしなんか、あたしなんか、あんた達[キャラクターたち]のこと……。/だいっすきだかんねっ!」(注7)

キャラクターは無生物である。だからぼくたちはしばしば、人間への愛には他者性があるけれど、キャラクターへの愛にはそれがないと考える。そして、その他者性の欠如を非難したり、逆にそこに開き直ったりする。

しかしぼくには、新井の小説は、キャラクターの別の利用法を提案しているように思われるのだ。彼女は、人間を愛せ(他者に直面せよ)とも、キャラクターを愛せ(自分のなかに閉じこもれ)とも述べていない。彼女はむしろ、キャラクターから愛されることで世界への愛を取り戻せ、と訴えているように見える。そして新井は、そのような受動的な感情のありかたをつねに家族の表象で捉えている。

(……)

ザ☆ネットスター!6月号収録

おはようございます。娘の件で微妙にご心配をかけている東浩紀です。

結局、娘は肺炎球菌なるものに感染していることがわかり、1週間ほど入院することになりました。もともとうちの娘はいつも陽気で健康で、生まれてからこのかた医者に罹ったことが1回しかなかったぐらいなんですが、先週は40度近い高熱が原因不明で何日も続き、うわごとを言い出したときはさすがにちょっと焦りました。いまはおかげさまで回復に向かっています。

さて、そんなぼくですが、ゼロアカ道場が終わったと思ったら今度はザ☆ネットスター!6月号の収録がやってきました。前回「反省会のほうが生き生きしている」と言われたので反省し、というよりもむしろ開き直り、今回は(どれほど放映されるかどうかわかりませんが、というかほとんど放映されないと思うのですがw)本編で喋りまくっています。『CLANNAD』について語り、『恋空』について語り、そして挙句の果てには野中藍さんに風子の声で美嘉の台詞を読んでもらっています。

今回はぼくがオタ臭丸出しだったので、みんな引き気味だった感じがします。やっぱまじめキャラで売ったほうがいいのか……?

まあいいや。とにかく、そんなこんなで本編収録が終わり、反省会会場に移動しました。今回は出演者は全員制服着用だったのですが、反省会の会場はNHKの外にあり、ぼくたちはコスプレのまま渋谷の雑踏のなかを別のビルに移動です。容赦ないです。

反省会では、ぼくはむしろおとなしめにしてました(自己認識では)。ぼくの今回の反省会の目的はただひとつ、事前の打ち合わせもなにもなく勝手に持参した『CLANNAD』初回限定版付録(でしたよね、これ?)の非売品画集(私物)に野中さんのサインをもらうことであり、それ以外にはもはやなにも言うことがなかったからです。そしてその目的は無事達成されました。以下はそのあとに撮影した記念写真です。

いやはや、今回はいろいろわがままを聞いていただいて、ありがとうございました!>野中さん

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しかし、今回本当に驚いたのはこれ。そんなふうに風子の話しかしない呆けたぼくを見かねたのか、反省会の最後にプロデューサーのA氏よりバースデイケーキの差し入れが! ぼくの誕生日が5月9日なので、お祝いとのこと。そして、談笑さん、喜屋武さん、野中さん、スタッフのみなさんにバースデイソングを歌っていただきました。うう。。あたたかい。。。なんてあたたかい現場なんだ。。。一生、ザ☆ネットスター!に忠誠を誓おうと思いました。

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と、そんな忠誠を誓ったにもかかわらず、実際には次回以降のぼくの出演は未定です。寂しいかぎりです。談笑さん、喜屋武さんの魅力もこの2回の収録でずいぶんわかるようになったので、ご迷惑でなければ、ぜひぜひまたスタジオに呼んでいただきたいです。よろしくお願いします!

とはいえ、ザ☆ネットスター!とのご縁が切れるわけではありません。じつは本編とは別に、ネットで柚木涼香さん(天の声)と一緒に毎月更新の新企画を担当することになりました。そちらの予告動画が、近々ねとすた☆あねっくすにアップされると思うのでお楽しみに。柚木さんが衝撃のコスプレをしてます。なんと尻尾までついていたのですが、あまりにドタバタした収録現場だったので撮影は忘れました(涙)。

その予告動画のなかで、柚木さんとぼくがともに「話聞いてないよ!」とか言って慌てていると思いますが、あれは演出でもなんでもありません。ぼくたちはガチでなにも聞いてませんでした。そしていまでもほとんどなにも聞いてません。とにかくなにかやるらしいです。容赦なさすぎです。フリーダムすぐる。。。

ええと、そんなところですべてかな。。本当はもうひとりゲストがいたのだけど、あれは秘密かもしれないし。

あ、しまった。娘の名前を『CLANNAD』から取ったのを言うの忘れた!