hirokiazuma.comのblogへようこそ

[hirokiazuma.com] [波状言論::はてな出張所] [波状言論] [経歴と著作]

hirokiazuma.com/blog の全文検索



メインサイトの検索はトップページから行ってください

新城カズマと桜坂洋

カテゴリー[literature]

新城カズマの新作『サマー/タイム/トラベラー1』『サマー/タイム/トラベラー2』を読みました。

僕はこのブログでは、基本的に書評や映画評は書かないことにしています。気軽に作品評をアップしていると自分の首を絞めるような気がするからですが、それでも、半年にいちどくらい、首を絞めてもいいやと思う作品に出会うことがあります。この『サマー/タイム/トラベラー』もそのひとつです。

この小説は小品ながらよくできています。一昔前に「レトロフューチャー」という言葉が流行りましたが(いや、流行ってはいなかったかもしれないけど、ともかく)、その倒錯した感覚をみごとにキャラクターとSF設定のなかに落としている。地域通貨とか監視カメラとか、『凹村戦争』的な閉塞感とか、諸処に織り込まれたガジェットもいい感じです。多くを語るのはよしますが、それでもひとつ言っておけば、最後の20ページほどに詰め込まれた未来スケッチにはけっこう感心させられました。「被著作人」や「情報税」というのは作者の造語なのかしら? 僕もほかで借りたいものです。

ところで、この『サマー/タイム/トラベラー』と同時に、同じハヤカワSF文庫から、桜坂洋の『スラムオンライン』も出版されています。

こちらも、大塚ギチの『東京ヘッド』が青春小説に昇華されたようないい感じの作品なのですが、桜坂であれば、やはり、昨年末に出版された『All you need is kill』をお勧めしたい。この作品は傑作です。「メタリアル・フィクションの誕生」(動ポモ2)の(とくにその舞城王太郎論の)読者であれば、僕がこの作品に惹かれる理由はすぐ分かるでしょう。

『サマー/タイム/トラベラー』といい、『All you need is kill』といい、今年は、ライトノベルとSFの交差点で完成度の高い作品が続いているような気がします。『ファウスト』と並びこちらも注視しています。

投稿者 hazuma : 2005年07月27日 03:51
Permalink | Comments (0) | TrackBacks

2つのリアリズム

カテゴリー[literature]

昨日は日本SF大賞授賞式に行ってきました。文芸誌から離れて幾歳月、いまや出席するパーティは日本SF大賞授賞式ぐらいしかなくなっているのですが、最近、いろいろな事情があって、もういちど文学とか批評について考えています。

そのなかでひとつ考えたことがあります。周知のように、大塚英志は「自然主義的リアリズム」と「アニメ・まんが的リアリズム」を分けました。彼によればそれは遠く明治時代にまで遡る分割なのですが、実際にはそれは、1990年代後半の日本文学の光景を反映したものとして理解すると分かりやすいと思います。「自然主義的リアリズム」と「アニメ・まんが的リアリズム」の分割とは、要は、「J文学」と「ライトノベル」(当時はまだこの言葉では呼ばれていませんでしたが)の分割のことだと考えてかまわないでしょう。

「J文学」のブームは1998年をひとつの頂点としていました。『文藝別冊 J文学マップ』の出版が1998年です。当時は何でもかんでも「J文学」と呼ばれていたので総括は難しいですが、そのイメージの中核にあったのは、読者との共感を重視し、ほどほどに社会的な問題提起も絡めた若い世代の都市小説だったと思います。そこで求められていたのは、伝統的な「文学」から遠く離れた20代、30代の消費者が共感できる、新しい「リアル」を写し取る新しい小説技法です。つまりは、J文学の本質とは、消費社会化された日本を舞台にした、リアリズムの復興運動だったわけです。

他方、1998年というのは、清涼院流水の存在感が無視できないものに膨れあがり、上遠野浩平がデビューした年にあたります。京極夏彦・森博嗣以降の新本格や、上遠野以降のライトノベルは、そのあとも、現代社会を舞台とした荒唐無稽な物語(佐藤心のいう「現代ファンタジー」)を次々と送り出していました。公平に見てその動きは、1990年代後半の日本文学を語るうえで、「J文学」に勝るとも劣らない——マーケットの視点で見ればむしろ勝っている——重要性をもつものだったわけですが、ごく最近まで文芸誌や新聞文化欄のレベルでは完全に黙殺されてきました。そのような状況のなか、『文學界』の連載で孤独に2つのリアリズムについて語っていた大塚氏には、やはりすぐれた批評家的センスを感じます。

ところで問題は、J文学の企図ははっきりしているとして、ライトノベルの文学運動(と呼んでしまいましょう)の中核にあるものはいったいなんだったのか、ということです。大塚氏はそれを「アニメ・まんが的リアリズム」と呼び、アニメやマンガのような視聴覚的なオタク表現からの影響が決定的だと指摘しました。僕はこれは正しい見方だと思いますが、他方、そのような捉え方は、内容的な差異を影響の差異にしてしまうことで、問いをずらしてしまっているようにも思います。実際、アニメやマンガの影響を受けたJ文学作家は数多くいますし、逆にオタク的なアイテムには一切触れてこなかったけれどキャラクター小説しか書けない、という作家だっているはずです。

したがって、僕は、大塚氏が「アニメ・まんが的リアリズム」と呼んだものは、単にアニメやマンガの影響が大きいとか、メディアミックス的手法で作られている、とかいった表層的な理解で受け流すべきものではないと考えています。それはむしろ、非リアリズム的リアリズムというか、いわばオタク版のマジック・リアリズムとして、文学の伝統——「伝統」というのはまたネガティブなイメージがありますが、つまりは文学的想像力の一種の必然的展開として——のなかにきちんと位置づける必要がある。『動物化するポストモダン2』でやりたかったのは、そういうことでした。

いずれにせよ、僕は、1990年代末から2000年代にかけての日本文学(の一角)の光景は、「自然主義的リアリズム」=J文学と、「アニメ・まんが的リアリズム」=ライトノベルの二つの潮流がぶつかって作られていたのだ、と考えると、いろいろ見通しがよくなると考えています。そこで争われていたのは、市場というより、観念です。J文学とライトノベルは、おそらく、小説家志望の多くの若者の頭のなかで、ここ数年文学や小説の中心的なイメージを取り合っていたのだと思うのです。

2005年の冒頭には、阿部和重が芥川賞を、角田光代が直木賞を受賞しました。これは、上記の整理に従うと、「自然主義的リアリズム」=J文学が業界内政治的に勝利し、ついに日本文学の嫡子として認定されたことを意味します。他方、「アニメ・まんが的リアリズム」=ライトノベルは、今年はどこに行くのでしょう。僕は、ライトノベルが文学の嫡子として認められる必要などさらさら感じませんが、いまのように加速度的に消費されるだけなのも寂しい感じがしています。

投稿者 hazuma : 2005年03月05日 19:09
Permalink | Comments (4) | TrackBacks

セカイ系

カテゴリー[literature]

おはようございます。というわけで、つぎの話題に移ります。実はこの1週間で、かなりネタが溜まっていたのでした。

まずはセカイ系。このあいだゲーラボの座談会に出席したところ、セカイ系っていま来てるらしいですね、と斎藤環氏に尋ねられました。そんな質問に的確に答えることができるほどライトノベルを読み込んでいるわけではないのですが、この僕も、波状言論の連載で予告したように(といってもそれはあと5日後に配信されるのですが)、「メタリアル・フィクションの誕生」第2章はそこらへんの動きに触れざるをえないかな、という気がしています。

そんななか、出版されたばかりの神林長平氏の新刊『天国にそっくりな星』(ハヤカワSF文庫)の解説で、元長柾木氏が、セカイ系について、短いながらもきわめて鋭い考察を行っているのを発見しました(本体の小説もむろん面白いのですが、僕が神林ファンであることは知れわたっていると思うので特に触れません)。僕が興味をもったのは、具体的にはp.389あたりの考察です。詳しくは触れませんが、

しかし大尽によって説明され天界も経験する死後の世界、ヴァルボスの謎はやがて覆される運命にある。その後に立ち現れる「真の真相」も最終的な解答として安定せず、それもまた一つの独断ではないかという疑いが残る。世界の真相は保障されない。そこで天界がとるのは、ここがどこであろうが、何であろうが知ったことではない、自分にとってただ一つの現実であるこの世界を生きる、という立場だ。
とかいう文章を読むと、むかし『未来にキスを』のプレイ後の感想でも書いたように(ここの1月17日の項目)、まるでこれは自分が書いたのではないか、といった変なクラクラした感覚に襲われます。失礼な言い方かもしれませんが、それくらい発想が似ているのです。実際、途中で力が尽きて書けなかったのですが、僕は今号の「メタリアル……」連載では『九十九十九』についてほとんど同じ文章を書こうとしていました。元長さんと僕はぜんぜん違う性格と嗜好の持ち主なのに、なんでこんなことが起こるんでしょう。

とにかく、僕にはたいへん参考になりました。セカイ系に関心のあるひとにはお勧めです。


この「新刊」という言葉に「?」と思ったひとがいるようなので、追記。この小説はむかし単行本で出たものの文庫化です。でもそれも「新刊」といいます。よく広告で「〜文庫、今月の新刊」とかやってますよね。あれです。

投稿者 hazuma : 2004年02月09日 11:01
Permalink | Comments (172) | TrackBacks

ファウスト賞と血の交換

カテゴリー[literature]

続けてファウスト賞の話題。

太田くんに尋ねたところ、応募作のなかで数作面白いものがあるとか。期待が高まりますが、応募作全体でもいろいろ面白い特徴があったようです。太田くんの許可を得たかぎりで情報公開しますが、ミステリ色はあまりなくて、佐藤心言うところの「現代ファンタジー」が圧倒的多数だそうです。

そしてその現代ファンタジーにもふたつほど特徴があったようです。まずひとつは、吸血鬼ものがきわめて多いこと。もう少し抽象的に言うと、血を流す、血を交換するというモチーフを中心に据える作品が多いようです。しかもそこで「痛さ」の描写はほとんどない。もうひとつは、同性愛ものが多いこと。そもそも異性愛は少数で、しかもセックスを描いた作品はほとんどない。ファウスト賞の応募者は10代、20代ばかりで、しかも男性が多い。そんな若い男性が小説を書いておきながら、100作に1、2作しかセックス描写がないというのはかなり異常な事態です。

吸血鬼に同性愛、と来ると、『月姫』とやおい?なんて思ってしまうのがオタクですが、僕はここにはもう少し普遍的な問題が隠れていると思います。それはコミュニケーションの変容です。僕はむかし『網状言論F改』で「ゼロ個の性」というアイデアを述べ、小谷真理氏に笑われてしまったことがあるのですが、その言葉で言いたかったリアリティとこのふたつの特徴は繋がっているような気がします。

血の交換が描かれながら、痛覚が回避される。それは、血のモチーフが、身体性の回復といった主体の問題系(リストカット)ではなく、むしろ、もっと非身体的な情報交換のメタファーとして描かれていることを意味するのだと思います。サイバーパンク以降よく言われていることですが、現在の私たちは、自分たちの身体を、トラウマを刻まれた性的身体であると同時に、さまざまなデータがそこを通り過ぎる結節点のようにも捉えている。いままで純文学では前者のほうが好まれてきましたが、ここで血の交換という流体的なメタファーが力をもってきたのは、若い書き手の関心が後者のほうに移動しつつあるからなのではないか。だとすれば、異性愛の問題があまり描かれない理由も理解できる。文学の問題は結局はコミュニケーションの問題であり、そして会話(言葉)を超えたコミュニケーションというと普通は性と暴力しかないのでどうしてもセックスやケンカのシーンが多くなりがちなのですが、ここでもし、純粋な情報交換の身体的表現とでも言うべきものがあるとすれば、その表現ばかりが突出して現れてきてもおかしくはない。セックスは必要ない。むろん生殖の必要もない。私たちの身体は、性的な身体以前に、何よりもまず、血液という情報媒体が満ちた流体的なデータバンクなわけで、ファウスト賞応募作の総体が何となく向かっていたのはそういう世界認識なのではないか。

そう考えると、ますます、西尾維新のリスカ作品の重要性が増してきます。実は「波状言論」02号では、上記問題と絡む僕のリスカ解釈を直接西尾さんにぶつけています。購読者のみなさんは楽しみにしていてください。

投稿者 hazuma : 2004年01月21日 21:36
Permalink | Comments (69) | TrackBacks

芥川賞

カテゴリー[literature]

こんばんは。もはや波状言論の告知で患わされることなく、blogを快調に更新できる東浩紀です。先日は、北田鼎談の予習を兼ねてディズニーシーに行ってきました。外界との連続性をあえて残したと言われる、東京の夜景が見れるポイントも見学してきました。……とかいって、これも波状言論の話ですね。ではそれはまたいずれ。

ところで、僕がディズニーシーで遊んでいるなか、世の中は芥川賞で大騒ぎだったようです。そういうわけで、東さんはどう思うの?と尋ねられる機会がけっこうありました。それで記しておきますが、僕は今回の受賞劇には、ちょうど5年前のあのときと同様、ウンザリするだけで何も意見はありません。受賞のお二人には、おめでとう、の言葉があるのみです。

ただし、別に驚いたことがあります。それは、おおかたがネタ的な使い方(ex. そのこ症候群)だとはいえ、ウェブで若い人たちがずいぶん芥川賞に関心を向けていることです。思い出すに、いまから10年前、まだ大学生だったころの僕は芥川賞にはほとんど関心がありませんでした。年2回あることも知らなかったし、当時『批評空間』の言説にたっぷり染まっていた僕は、根拠なく、本当にすごい作家は芥川賞なんて取らないんだと信じてました。そして同時に、本当にすごい批評家は文芸誌にも論壇誌にも書かないものだと信じてました。そんな美学はいまだに僕に取り憑いていて、こうやって書いていてもウンザリしますが、とりあえず、東大表象関係でもサブカル関係でも、当時の僕のまわりで芥川賞なんてネタにすらなっていなかったことは事実です。それがどうしてこうも変わってしまったんでしょうね。そのことには少し関心があります。

他方で、僕のいまの文学的関心は、芥川賞などよりも『ファウスト』の動向に向いています。西尾維新や佐藤友哉は今回の受賞作家と同年代です。マスコミは、かつて平野啓一郎を天才と呼んだように、今度は彼らをもちあげているわけですが、僕は、西尾や佐藤、それに年がちょっと離れますが舞城王太郎を加えた『ファウスト』のコアメンバーのほうが、未来の文学を担う作家として有望だと思います。純文学とエンターテインメントの違いなど関係ありません。そして実際、ここ1、2年、佐藤や舞城は文芸誌にも掲載されるようになりました。ようやく才能ある作家が正当に評価される時代が来たのかと思ったものです。

しかし、今回の騒ぎを見るかぎり、文芸業界はまたもやくだらないスターシステムで延命を図るつもりのようにも見えます。もしそうだとすれば、僕はそれには軽蔑しか感じません。だからネタにもしません。

いずれにせよ、僕にできることは、僕がすばらしいと信じるものが正当に評価される状況を作るべく、言説で多少とも世の中を変えていくことです。僕は、批評家として、別のところから、別の仲間とともに、別の市場を使って文学を変えていくことになるでしょう。『ファウスト』がその出発点となればよいのですが。

投稿者 hazuma : 2004年01月21日 21:03
Permalink | Comments (4) | TrackBacks

このblogについて

このブログは、批評家・東浩紀の近況を伝えたり、未完成のアイデアを公開したりするためのものです。運営者は東浩紀本人です。東浩紀の経歴や仕事については、当ブログの親サイトにあたる「hirokiazuma.com」を参照してください。

このブログは、別の形式で運営されていた近況欄を引き継ぎ、2003年12月にオープンしました。2000年8月から2003年7月までの近況欄は、通常のHTML形式で公開されました。その内容は、上記サイトの「以前の情報たち」のディレクトリに格納されています。

また、2003年8月より11月までの近況欄は、無料の日記サービス上で、「hirokiazuma.com@はてな」として展開されました。現在同ページは、「波状言論::はてな出張所」として、東浩紀が運営している自主流通本プロジェクト「波状言論」の告知ページとして運用中です。

デザイン:西島大介

波状言論では、現在、メールマガジン『波状言論』や評論本『美少女ゲームの臨界点』などを作成・販売しています。詳しくは、上記のはてなサイトをご覧ください。

このサイトはリンクフリーです。

最新の投稿

過去の投稿

カテゴリー

ised [4 items]
literature [5 items]
moblog [28 items]
そのほか [8 items]
アート [1 items]
オタク・サブカル [4 items]
告知 [6 items]
思想 [10 items]
情報社会 [24 items]
最近の仕事 [4 items]
波状言論 [10 items]
近況 [21 items]

運営方針・著作権

このサイトの管理人は東浩紀本人であり、ほかにスタッフはおりません。発言へのコメントは歓迎しますが、すべてに答えられるとは限りません。難しい質問は放置されるかもしれません。発言本文に関係のない投稿や、発展的な議論に結びつかないコメント、無意味なツッコミなどは、予告なく削除されることがあります。あまりに多いコメントが寄せられた場合は、元の発言を含め、すべて予告なく削除されることがあります。

このブログで公開されているテクストの著作権は、各発言(エントリー本文)は東浩紀に、各コメントはそれぞれの発言者に属します。ただし、コメントは発言内に引用されることがあります。その場合は著作権は東浩紀に属し、のち書籍などに転用される場合があります。著作権者の許可を得ていない、引用と個人閲覧の範囲を超えた複製、配布、商業利用を固く禁じます。またこのブログのトップページ以外のページを閲覧した時点で、データの利用に関するこの注意に同意したものと見なします。