このページには、2001年に「経歴と近況」ページの「より近況」欄(6月より単なる「近況」に改称)に書かれた文章が保存されています。
先日18日に、横浜で行われた国際会議で児童ポルノ法でマンガ(絵)を規制することに反対するワークショップに出席してきた。そこでこの近況欄でも、ワークショップの報告がてら、どうしてマンガ家でもない私が児童ポルノ法の展開に興味をもっているのか、なぜ反対の立場に立っているのか、その理由を整理しておこうと思っていた。ところがその矢先に興味深いサイトの存在を知ったので、今日はまずそのことについて書いておきたい。
問題のサイトはThe Internet Archive。数ヶ月前から公開されていたらしいので、知っているひとも多いかもしれない。ここには、なんと、1996年10月以降に公開された100億ものWebページが、言語やドメイン名に関係なく片端から保存されている。そして「Wayback Machine」の機能を使うと、その保存されたデータから、日付を指定して過去のページを呼び出し閲覧することができる。つまり、すでに削除され、現在はウェブ上にないページを閲覧することができる。その強力な機能は一目瞭然なので、ぜひ自分や友人のサイトのURLでも打ち込んで試してみてほしい。保存されているのはHTMLだけではない。画像や関連ファイルも含まれる。ちなみに私のこのサイトは、過去2年に渉って13回保存されており、現在はアップしていない過去の近影画像も含めた昔のトップページがいまでも完全なかたちで見ることができる。そして、収集活動はいまも日々活発に続いている。
このサイトの出現は、新しい便利なツールができたというだけでなく、私たちのウェブへの接し方を根本から変える可能性を秘めている。私たちは普通、ウェブを、印刷媒体のように永続性のある媒体だと思っていない。不用意な情報をアップしてしまったとしても、何か問題があれば、元データを消してしまえばそれで済むと思っているところがある。多くの日記や掲示板サイトがそういう気分で運営されているし、とくにポルノ系サイトはそうだ。
しかし、Internet Archiveが出現したいま、その前提は基本的に通用しない(実際、私はすでに消えてしまったサイトをいくつも発見した)。確かにGoogleのキャッシュ機能が出現して以来、いつかこのようなシステムが作られるのではないかという予感はあった。しかし、予想より遙かに早く、しかも完成度の高いシステムが現れたというのが実感だ。いまはまだ保存情報からの全文検索ができないのが救いだが、早晩その機能も付加されるにちがいない。そうなったとき、ウェブは、従来とはまったく姿を変えたメディアになってしまうだろう。
むかし通信傍受法に反対したときにも書いたし(「通信傍受法と想像力の問題」)、またその後も機会があるたびに繰り返しているのだが、近年の情報技術が可能にしたデジタル化/データベース化/ネットワーク化の恐ろしさは、そこで「時間」の感覚が決定的に変わってしまうことにある。従来の盗聴においては、聴く側と聴かれる側の時間は完全に一致していた。言い換えれば、いま聴かれていなければ、それで安心することができた。
しかしデジタル化された音声やビデオによる監視においては、見られる側・聴かれる側の時間と見る側・聴く側の時間が一致しない。たとえば、いま新宿の町にはいくつか監視カメラがあるが、そこに私の姿が映っていたとしても、私がとくに犯罪者としてマークされてでもいないかぎり単純に監視には繋がらない。現在の時点では、画像解析の技術がそれほど高くないため、莫大な映像情報のなかから特定の人物を適切に選び出すことができないからだ。しかし、それら数年分の監視映像をすべてデジタル化して、片端から保存しておけば、いつの日か、5年後、10年後に、進化した画像解析ソフトを用いて遡行的に私の顔を選び出すことができるようになるかもしれない(というか、それは確実に可能になるだろう)。すると、その時点で、2001年12月の私の行動が、突然簡単に追跡できることになってしまうのだ。
常識的に考えて、これはたいへんなことではないだろうか。ひとは普通、5年前、10年前に何をしていたのかなんて忘れている。しかし現在の社会では、自分の電子的な断片があちこちにばらまかれている。そして、それら断片は現時点ではクズであっても、いつの日か技術の進歩によって突然有益な情報になることがありうる。デジタル社会におけるプライバシーの概念は、そういう時間のずれを考慮にいれて練り上げられねばならないのだ。
そのようなことを考えていた私にとって、Internet Archive の出現の意味はきわめて大きい。使用条件の文書を見ると学術研究のために限るということになっているのだが(そして実際にUsenetやFTPサイトの検索は登録制になっているのだが)、Wayback Machineが一般公開されたいま、その使用条件が律儀に守られるとはとても思えない。今後私たちは、ウェブで文章を書き込むとき、あるいは画像を公開するとき、つねにそのコピーがどこかで保存され、遠い将来、自分が忘れたころに検索可能になり、場合によっては告発や非難の対象になることを考慮しておかねばならないだろう。従来のウェブを知っているひとにとって、それはたいへんに不自由なことだ。しかし、デジタル化とは、実は原理的にそういう不自由さを強いる変化だったのである。
最後にひとつ付け加えれば、以上の変化は、また最初に述べた児童ポルノ法改正問題とも無関係ではない。というのも、この数年、日本のオタクたちは、ウェブ上でポルノグラフィックなイラストをかなりルーズに公開し続けてきたからである。児童ポルノ法が改正され、現在は合法的なそれらのイラストが違法になったとき、それでサイトを閉じればそれでいいのかと言えばそう単純な話ではない、というのがこの変化の教訓だ。しかし、その件はまた別の機会に述べることとしよう。
2ケ月も近況欄を空けてしまった。前回の近況で深刻な問題を扱いすぎて(そしてその深刻さはいまもまったく変わっていない。今度はイラクか!)、その重みで適当な文章を書くのがどうも億劫になっていたのだ。しかしいくらなんでもさぼりすぎだろう。自戒しつつ、これからは気軽に近況を書くことにする。
さて、ここ数日、みなさんのところに「RE:」という主題の不審なメールが届いていないだろうか。各種サイトで警告されているように、それはBadtransという新種のコンピュータ・ウィルス(ワーム)だから気をつけたほうがよい(→シマンテックの情報サイトへ)。私の周囲では流行しているらしく、昨日から今日にかけてだけで10通以上が送りつけられている。仕事でメールを使うようになってもう5年以上経つが、ここまで大きな広がりを目にしたのは初めてだ。
幸いなことに私のコンピュータはMacintoshなので、こういうときは安全だ。しかし、このサイトの閲覧者にも感染者がいるかもしれないので、ここでも警告を出しておこうと思う。Windowsユーザーの方はご確認を。
9月22日付けの近況欄で公開したチェーンメールだが、その後、別の信頼できる筋より悪質ないたずらの可能性もあるという指摘を受けたので、現在は公開を中止している。関心のある方は、近日中であれば、僕宛にメールをくれれば個人的にフォワードする。あとはそれぞれで判断してほしい。情報の信頼度を手探りで判断するほかないというのは、インターネットの本質的な特徴だが、今回の件でも、問題のチェーンメールが本物なのか偽物なのか、結局のところ僕には何も確かなことは言えない。とりあえず僕に回ってきたときには、その前の数人は、別メディアでも存在が確認できる実在の人物の署名だったとだけ記しておこう。
ところで問題の「戦争」のほうだが、メディアを眺めるかぎり、世論のほうはますますヒートアップしているようだ。うちは日本経済新聞を購読しているのだが(そしてたいていの場合僕はこの新聞をたいへん気に入っているのだが)、今日の朝刊の「春秋」欄で、ブレアやシラクや小泉総理のワシントン詣でが「いざ鎌倉」に喩えられているのには暗澹たる気分になった。こんな感じだ。
小泉純一郎首相もはせ参じる。自衛隊による後方支援が手土産だ。米国の要請があれば集団的自衛権を行使するという北太平洋条約機構(NATO)諸国など他の同盟国の支援内容に比べ、具足、薙刀、乗馬の見劣りは免れない。日本国憲法の制約がある、と言えばそれまでだが。
……云々。このような比喩が危険であることは言うまでもない。謡曲や時代劇の美学とアフガニスタン空爆のあいだには何の関係もない。ひとは、理解が難しい局面に出会うと、いとも簡単に凡庸な美談のなかに逃げ込んでしまう。19日の本欄で言論人の「興奮」について語ったのは、まさにこのような雰囲気が予想されたからだ。イスラム原理主義や中東問題の政治的背景などさっぱり分からないが、とにかくテロは悪いし、ビン・ラディンという黒幕がいるのであれば、そいつは最悪だ、こういう簡単な話にばかりひとは飛びつく。同じことは経済問題についても言える。景気後退がますます深刻になっているというのに、小泉の支持率がますます上昇している(日経によると現在の内閣支持率は79%だ)のも、また同じ思考停止に現れにちがいない。
景気対策はともかく、今回の「戦争」については、素人の僕ですら疑問に思ういくつかの問題がある。まず第一に、今回のテロは本当にビン・ラディンの仕業なのかどうか、たとえそうだったとしても、その根拠が公に示され、法的に証明されることなしに(少なくともそれが広く報道され、国民の理解を得ることなしに)大規模な軍事行動を始めてよいのかどうか、という問題。今回のテロがイスラム原理主義者の仕業らしい、というのは、あるていど国際政治に関心をもつひとならばだれでも思いつくことだ。実際、僕は例のビルが炎上し崩れるさまをある友人と電話をしながら見ていたのだが、その彼ですら、事件発生後30分の時点ですでにラディンの名を挙げていた。「ビン・ラディンが悪い」というのは、事件が発生した段階で、すでに大衆的な想像力のなかに組み込まれていた。そして、事件から2週間が経ったいまでさえ、実は、一般大衆には、その想像力以上の根拠がそれほど与えられているわけではないのだ。それなのに、私たちの社会は、すでに彼の犯罪は証明済みであるかのように行動している。これはたいへんに異常なことではないだろうか。
第二は、ビン・ラディンという個人を裁くためにアフガニスタンという国家を攻撃すること、つまり、「テロリストとそれを支援する国家を区別しない」というブッシュの方針がどれほど法的に妥当なのか、という問題。僕はこの点では本気で専門家の教えを乞いたいのだが、ある国家が、ひとりの犯罪者を裁くためにその人間が潜伏する別の国家に宣戦布告する、というのは、近代国際法上どれほど根拠のあることなのだろうか。それとも、今回のケースは、もうそういうレベルを超えてしまっているのだろうか。いずれにせよ、タリバン政権が直接にラディンの組織を動かして今回のテロを行った、という事実関係がきちんと証明できないかぎり(そしてそれを関係諸国に対して合理的に説明できないかぎり)、アメリカがタリバン政権を軍事力で叩きつぶすのは、「坊主憎けりゃ袈裟まで」的な感情だと言われても反論しようがないもののように思われる。そして、もしそうなのだとすれば、私たちの国はそんな感情に律儀に付き合う必要はない。
最後にもうひとつ。従来、国家は「身体」(political body)に喩えられることが多かった。国家間の戦争とは、つまり、二つの身体のぶつかり合い=喧嘩だったわけだ。そのモデルで言えば、カルト教団や過激派によるテロリズムは、今度はウィルスからの攻撃に喩えられる。テロリストは、私たちの健康な国家=身体の内部にいつのまにか巣くい、成長し、あるとき突然に国家=身体を重大な機能不全をもたらす、というわけだ。したがって、21世紀の公安は、外部からの攻撃(敵国からの軍事的侵略行為)を防ぐというより、むしろ、国家内部の健康状態をできるだけ精密に管理し、些細な病気(テロリズム)の徴候も事前に叩きつぶす、そういう役割に重点を置いていくものになると思われる。
そして、このような変更は、具体的には、日本でも「通信傍受法」や「住民基本台帳法改正」や「個人情報保護法案」などの一連の立法で示されているような、国家による情報管理の強化を目指すことになる。緻密な健康管理のためには、緻密な情報収集が欠かせないからだ。実際、今回のテロを契機に、英国政府は、すべての市民に身分証明書の携行を義務づけ、電子メールの監視権やテロ容疑者の銀行口座記録を強制的に開示する権限を政府に与える法案の準備に入ったと言われる。大衆の多くが「世界資本主義とイスラム原理主義の全面戦争だ」などと浮かれる傍らでは、そのような法整備の動きが、日本だけにとどまらず、いわゆる「民主主義国家」のすべてで同時に進行している。このことにはしっかりと注意しておいたほうがよいだろう。そういう細かなことに目を配っておくのが、本当の「政治」というものだと、僕は思っている。
ニューヨークのWTCが崩れ落ちて、1週間が経った。このあいだ、テレビでも印刷物でもネットでも、あらゆる人々がこの事件について語ってきた。おそらくこの狂騒は何ヶ月も続くだろう。この機に乗じて「この状態を予言していた」とうそぶく人々も登場している。湾岸戦争やオウム真理教のときも同じだった。政治について語ること、それは知識人にとって必要なことだ。しかしこの国では、そのような活躍の機会はきわめて少ない。だから少なからぬ知識人が狂喜している。政治について語ること、世界について語ること、それが有効性をもつかのような幻想がふたたび現れたのだから。実際、「戦争」以上に、知識人を興奮させるものがほかにあるだろうか。
私はそのような幻想に与する気がしない。私も報道は見ている。新聞も読んでいる。だから、ジョージ・ブッシュの中東政策には以前から不安を感じてきたし、このテロリズムには怒りも覚える。そんなのは常識だ。だが、私はそれについてとくにコメントを発表する立場にない。だから私は、毎日のルーチンを、ただ淡々とこなしていきたいと思う。
しかしだからこそ、そのルーチンを暴力的に打ち砕くものがあれば、私はそれに抵抗したいと思う。私はイスラム原理主義やアフガニスタンやビン・ラディンについて語る気がしない。しかし、もしこの「戦争」を機に、そしてそのあまりに衝撃的な映像を前にした狂騒につけ込むように、私たちの国家の基本政策が不必要にねじ曲げられ、戦争に巻き込まれるようなことがあるのであれば、それにははっきりと拒否の意志を示しておきたい。
私は、もし今後アメリカによるアフガニスタン侵攻作戦が展開されるとして、その戦場への自衛隊派兵には絶対に同意できない。周辺事態法をどのように拡大解釈したとしても、ニューヨークでのテロリズムは「周辺事態」に入らない。アフガニスタンも同様だ。そして私たちは、そのことでいくら「国際社会」(しかしその実体はどこにあるのか)の批判を浴びようとも、この半世紀間、いちども戦争をしていないという輝かしい伝統を捨てるべきではない。否、たとえその伝統を捨てるにしても、私たちはその決断を自らの手で行うべきである。もし新宿にテロリストの飛行機が突入したのなら、その決断も必要なのかもしれない。しかし、「湾岸戦争の轍を踏みたくない」(政府首脳)などという曖昧な理由で、そのような決定的な決断を下すべきではない。
私は子どものころからアメリカに違和感を覚えていた。第二外国語にロシア語を選び、専攻にフランス現代思想を選んだのはそのためだ。おそらくその感情は、いちども本土を襲われたことがなく、つねに「若い」「新しい」という形容詞をつけて呼ばれてきたこの国家の無意識的な野蛮さに対する、本能的な反発だったのだと思う。それでも私は、同時にその野蛮さを理解したいとも思ってきた。たとえば、ここ数年日本のサブカルチャーについて考えてきたのも、それが同時にアメリカニズム(動物化)の問題だったからだ。しかし私は、この「戦争」を機に噴出した新たな野蛮さについては、まったく理解する気になれない。
アメリカのネットワークはこれを「人類に対する戦争だ」と言う。しかしそれは嘘だ。これはアメリカニズムという野蛮な原理と、もうひとつの野蛮な原理と、そのふたつの野蛮さのあいだの戦争にすぎない。人類の概念はそれには関係がない。だからこそ、逆に、それを調停できる可能性もまた人類の叡智にしかない。運よく暴力の現場から地理的に遠かった私たちは、その幸運を有効に活かすためにこそ、断固としてその叡智の側に付くべきである。(9.19記)
追記。
昨日、以上のような近況を書いたら、匿名でこんなメールが届いた。申し訳ないが、あまりに典型的で徴候的な反応なので無断引用させてもらう(私のアドレスに匿名でメールを投げる読者は、今後、このようなさらし者になる可能性を知っておいてほしい)。
グローヴァニゼイションやアメリカナイゼイションと、アメリカニズムという単語の意味は全然違います。
今日のあなたの近況は、こういった水準で、読むに耐えない。
おかしい。
これは揚げ足とりではない。
単語の定義は根本的な思考力に直結する。
素直に訂正されることを期待します。
ということなのだが、グローバリズムを「アメリカニズム」(自由主義+民主主義+市場経済+消費社会+星条旗……その内実はいかにも混沌としているが)の延長線上で捉え、現代社会の歪みの多くがその性急なグローバル化(アメリカ的理念の性急な世界化)に起因すると考えるのは、とくに参考書を挙げるまでもなく――とりあえず手元にあるのは佐伯啓思の『アメリカニズムの終焉』だが――よく言われていることではないだろうか。それとも、そういう論壇レベルの「アメリカニズム」の用法はすべて間違っているのだろうか。この差出人は何を勘違いしたのか、私にはさっぱり分からない。もしかしたら宗教関係や思想史関係で「アメリカニズム」の特殊な意味があるのかもしれないが、あの近況欄の文脈でそれを誤解することはありえないだろう。私が「アメリカニズムという野蛮な原理」という言葉で意味したものは、このテロの背景に多少とも関心をもってきたひとであれば明らかなはずだ。
昨日も書いたとおり、こと、こういう「政治的」な問題になると、他人の言葉の些細な揚げ足取りをして、何か意義のある活動をしたような気になる愚か者が増えて困る。用語の厳密さに突っ込みを入れる、というのは、真剣にものを考えていない連中が他人の足を引っ張るための一番簡単な方法なのだ。私の近況欄が「アメリカニズム」という言葉を誤用したとはまったく思わないが、百歩譲ってたとえそれが誤用だったとしても、そんな誤用を指摘することがこの局面で何を意味するだろうか。「根本的な思考力」云々といった偉そうな言葉を記すのであれば、せめて、匿名メールで揚げ足取りをするのを止めるくらいの倫理はもってもらいたいと思う。
最後にひとつ。追記ついでにこちらも揚げ足取りを返しておくが、「グローバリズム」はglobalismなので絶対に「ヴァ」にはならない。他人の批判をするのならば、もっと高いレベルでお願いしたい。(9.20記)
追追記。
このようなチェーンメールが私のところに送られてきた。とりあえず、私のもとには信頼できる知人から送られてきた。私も末席に署名を加えることにしたが、主旨から考えて緊急性を要するし、できるだけ多くの人々に検討してもらったほうがよいので、ここで期間限定でファイルを公開してしまうことにした。署名の主旨に賛同できる人々は、テクストをダウンロードして、各自責任をもってチェーンメールを続けていってほしい。(9.22記)
ふと見返すと、2ヶ月も近況欄の更新を放置していたことに気が付く。別に書くことがなかったわけではないのだが、何となく気が進まなかったのだ。その原因はおそらく、今年になって、1980-90年代的な批評や思想の行き詰まりがいよいよ明白になってきたことにあるのだろうと思う。その行き詰まりを逆に「恐ろしい勢いで空洞化の進む日本の言説空間」と言い切ってしまう浅田彰氏には皮肉ではなく感心してしまうが(とはいえ『批評空間』第3期は楽しみにしているし、彼らがウェブサイトを立ち上げたのはたいへんいいことだと思う)、僕は残念ながら、そこまでお気楽で戦略的な態度は取れない。僕はやはりデリディアンであって、ドゥルージアンではないというわけだ。
それでいろいろ考えた結果、上にも記したように、次著の予定を変えることにした。『データベース型世界』の各章として想定していた3つの企画を、それぞれ単著に分解することにしたのだ。もっとも早く出るのは、第3章にあたる『動物化する文化』である。この近況欄での予告は変更が多いが、今回は信用してもらってよい。編集者との打ち合わせも済み、今週中には原稿も上がって、11月には刊行というスケジュールも決まっている。
出版にあたって新書という形態を選んだのは、分量的な問題だけでなく、上述のような言説空間の変貌があるからだ。いま人々に求められているのは、どのジャンルでも、個人のオリジナリティを前面に出した「思想書」ではなく、この混乱した時代をうまく乗り切るための匿名的なマニュアルのような書物ではないだろうか。だから今回は、自分の本もそういうスタイルで出すことにした。いずれにせよ、オリジナルな思想書をまとめるには自分はまだまだ力不足なのだ。
新書の内容はこの春に『ユリイカ』で連載した原稿がもとになっているが、この半年のあいだの意識の変化を反映してか、大量に修正が入っている。『存在論的、郵便的』のときで言えば、さすがに第1章よりは少ないが、しかし残りの3章よりは多い密度で修正が入っていると考えてもらえばいい。こんなことを言っても分からないひとがほとんどだと思うが、つまり、実質的にすべてのセンテンスに赤を入れ、数分の一は全面的に書き替えられているということだ。基本的には、現代思想的なケレン味をできるかぎり落とし、オタク系の作品例にも解説をほどこし、そのどちらにも関心がない読者でも面白く読めるように配慮している。むろん、もともと大きな著作の一部だったという痕跡はどこにもない。
「ポストモダン」「シミュラークル」「データベース」「二層構造」「大きな物語」「過視的」などなど、僕が最近考えてきたことはほとんど入っている本なのだが、従来のタイプのポストモダン論やオタク論を期待しているひとには違和感があるだろう。でもこれが僕の考えていることなのだから、理解されなくても仕方がない。僕としては、2000年代の批評の空間がもしあるとすれば、特定の文学賞を攻撃して論争をでっちあげたりするよりも(せっかくサイトを立ち上げたというのにあの方向は理解できない、ああいうのは新聞で話題になりやすいからか?)、今度の本のようなマニュアルのほうがよほどその役に立つと信じている。
「トリッパー」連載にも書いたのだが、最近僕は自宅にCATVを入れた。僕は一般にあまりテレビを見ないので、チャンネルの多様さよりブロードバンド接続に引かれて導入を決めたのだが、やはりチャンネルが増えるといろいろ面白いプログラムを発見する。そのなかでも僕が感心したのは、詳しいひとには何をいまさらと言われるかもしれないが、「スタートレック:ヴォイジャー」(VOY)である。スタートレックは前々から気にかかっていたのだが、最新のこのシリーズはレンタルにも出ておらず、CATVに入るまで見ることができなかったのだ。
スタートレックのオリジナルシリーズ(TOS)は60年代に放映された。そのあと長い空白があったあと、80年代末から90年代半ばにかけて第2シリーズ「ネクスト・ジェネレーション」(TNG)が放映され、ふたたび人気が復活した。「ヴォイジャー」は4番目のシリーズにあたり、アメリカでの放映はこの春に終わったばかりだ。
僕はもともとTOSよりTNGのほうに関心がある。というのも、外見はあくまでもチープなファンタジーとして作られながら、現実の社会的事件を敏感に(というかほとんど軽薄に)反映したエピソードを多く含み、かと思えばメタフィクション的な遊びが頻繁に挿入されるこのシリーズは、SFにかぎらずいまどうやって物語が生き残っていくべきなのか、そのひとつの典型を示しているように思われるからだ。ひとことで言えばそれは、キャラクターの重視、複雑な設定、社会問題を反映させるためのメタフィクション的な構造、の3点セットである。まずキャラクターの魅力で視聴者を作品に引き込み、作品内部の世界を複雑にすることでその関心をできるだけ引き延ばし、同時にメタフィクション的な亀裂を作ることで、ときに視聴者を現実に引き戻してやる。TOSが単純なファンタジーだったのに対して、TNGはこのバランスをとても意識して作られている。
そして僕が最近知ったのは、どうやら、その3点がVOYではますます押し進められ、精緻に仕掛けられているらしいということだ。僕はまだシリーズの一部しか見ていないので全体については何とも言えないが、少なくとも、今週放映された第130話は、往時の押井守を思わせる幻惑感に満ちた傑作だった。TNG以降のスタートレックには「ホロデッキ」というVR装置がしばしば登場するのだが、この装置は、単なる映像ではなく、実際に物質そのものを作り出す仮想現実装置として設定されている。VOY第130話はこの装置を利用し、地球にいるノイローゼ気味のエンジニアが作る架空のヴォイジャーの話と宇宙を航行する現実のヴォイジャーの話が入れ子になったかたちで進んでいくのだが、おそらくそれはまた、現実におけるトレックファンと作品の関係の寓意にもなっており、そういう点もまた「うる星」のころの押井を思わせるものだった。
そしてむろん、このようなメタフィクション性だけではなく、セヴン・オヴ・ナインの設定をはじめ、VOYの設定には90年代の世界を反映した興味深い特徴がいくつも見られる。TNGのメンバー構成やストーリーはジェンダー論的・社会批評的に見るといろいろ問題があったが(とはいえ僕はその薄っぺらさが好きだったのだが)、その点もかなり改善されているようだ。いずれにせよ、いままではぼんやりと楽しんできたスタートレックだが、しばらく意識して分析的に見てみたい。それだけの重要性はありそうだ。
次号の『Tripper』で掲載される大塚英志氏との対談を修正し終わったところ。対談、といっても原稿用紙150枚におよぶロング対談で(両方とも早口なので)、修正するのも一苦労だった。それなりに面白いと思うので、乞うご期待。
ところで「中央公論」6月号の対談で「ウェブで掲示板や日記ばかりが蔓延するのは困ったものだ」と発言したことに対して、ひとつ補足を。僕は自分自身でこのようなサイトを運営していることからも明らかなように(と信じたいのだが)、大前提としてネットの活動に肯定的だ。さまざまな日記や掲示板からも多くを学んでいる。だから決して掲示板や日記を全否定したわけではない。しかしそのうえであの対談で言いたかったのは、単に批評家気取りをするためだけに書かれている日記サイトや書評サイトは少なくないし、またそういうサイトに限って、内輪で集っていろいろ悪口を言い合ったりする不毛な場所になっているということだ。そんな暇があったら、情報をどんどんアップして、もっと開かれたネットワークを作ったほうがいいでしょう、というのが僕の考え。これはだれでも感じていることだと思う。
というわけで、5月12日のタニグチリウイチ氏の日記で、
体系的でもなければ網羅的でもない単なる1個人の日常を羅列していくだけのweb日記はなるほど、調査なり研究といった分野におけるデータベースとして喫緊の役には立たないけれど、堆積した土が地層を作り埋もれた生命体が化石となって往時の地球を何万年後、何億年後かに伝えてくれているよーに、堆積した日常が何十年後、何百年後かに往時の日本を甦らせる役に立たないとは誰にも言えない訳で、一種ミクロな情報の集約ともいえるデータベースとはレイヤーを異にした、マクロな情動の混沌が今こーして日々積み重なっているんだとゆー、スパンを長くとった理解でもって、web日記にも暖かい目を贈って頂きたいものです「中央公論」6月号で対談の御方々。
と書かれたことに対しては、「まったくそのとおり、僕はそういう仕事を求めているんです」と答えるしかない(んですよ>リウイチさん)。データベースに蓄積される情報というのは「体系的でもなければ網羅的でもない」ものでまったく構わないし、主観的で個人的な偏向があっても構わない。5年前に始まるあの膨大な蓄積を見ればだれでも感じるように、タニグチ氏の日記は僕の考えではまさにデータベースであって(そういう話も実際の対談の場ではしたんだけど切られている)、そういう日記のありかたはネットが開いた新しい可能性のひとつだと思う。
結局、当たり前だけど、問題は「日記」や「掲示板」というシステムそのものではなくて、それをどうやって使うかの意志にある。論壇という場はどうしても「若い世代に警鐘を鳴らす」ことが求められて(僕はこの「警鐘」という言葉は大嫌いだ)、編集部によっていろいろ細部がコントロールされるので、インターネットのように印刷媒体と異なった原理で動く場について話すとどうしても話が単純化されてしまう。むろん、ちゃんと校正も確認したのだからそれで言い訳するつもりはないけれど、このサイトを見ているネットユーザーの方々には、もう少し細かいニュアンスを知っておいてほしい。だいたい、こんなにあちこち巡回しているのに、掲示板や日記を全否定できるわけない!
「ユリイカ」原稿を落としてしまった。最終回は一つずれ込み7月号に掲載予定。せっかく小林秀雄特集にぶつけようと思ったのに……。まあ掲載月がひとつずれても大したことはないといえばないのだが、少し自信を失った。
更新が一ヶ月近くも滞ってしまった。それもこれも「ユリイカ」の最終回が難航しているせいである。僕は話を大きくするのは得意なのだが、どうも締めるのは苦手なのだ。
それなのに久しぶりに更新をしようと思ったのは、実は今日、5月9日が僕の誕生日だからだ。最近のニュースによると、僕はどうやらあの金正男と一日違いで生まれたことになるらしい。僕もついに30歳になってしまった。いろいろと感慨が浮かぶ。なんというか、平凡だが、この10年間はあっという間だった。30代はきっと20代よりもはるかにあっという間なのだろうから、せいぜい精進したいと思う。とりあえず連載原稿を書こう。
去る4月5日、ロスアンジェルスの現代美術館で開かれた「Superflat」展で簡単なレクチャーをするためにアメリカに行って来た。講演の内容は、ほとんどそのままの草稿(英語)があるので、近いうちに公開できると思う。とはいえ、いま『ユリイカ』で行われている連載の要約版になっているので、日本語で連載が読めるひとにはあまり必要ないものかもしれない。
ところでその展覧会の感想だが、それを書くのは個人的に心苦しい。僕は村上隆氏とはこの二年間親しく付き合ってきたし、彼の絵画作品はたいへん高く評価してきた。また、日本版の「スーパーフラット」展も多少の意見の相違はありつつも基本的に支持してきた。その態度が間違っていたとは思わないし、日本のオタク系文化が培ってきた技法がもっと開かれた文脈から評価されるべきだという彼の考えは、いまでも共有している。しかしそのうえであえて記すのだが、僕は、現在ロスで開かれているSuperflat展にはまったく知的な興奮を感じなかった。いや、それどころか、村上がキュレイターとして十分な責任を果たしているとも感じなかった。僕は講演のあと村上本人に会ったし、また彼がこのウェブサイトをしばしば訪れていることも知っている。だからこそ、一般的なメディアで発言を強いられる前に(実際僕はすでにひとつ原稿を断っている)、まずここでその意見を明確にしておきたい。それが、僕にできる最低限の礼儀である。繰り返すが、僕は村上隆自身の美術作品は評価する。実際に僕はこれから『ユリイカ』連載の最終回を書くのだが、そこでも彼の作品を取り上げるつもりだ。また、日本版のスーパーフラット展も支持する。しかし、アメリカでいま開かれている展覧会は評価しないし、支持もしない。
ではどうしてロスのSuperflat展は評価できないのか。それはひとつには、展覧会そのものにまったく迫力と説得力が欠けているからである。そもそも展覧会の規模がそれほど大きくない。床面積こそ東京のスーパーフラット展より大きいが、展示点数はむしろ少ないのではないか。展示方法にも問題がある。会場に入った瞬間に目に入るgroovisionsのインスタレーションは衝撃があるが、タカノ綾の壁面デザインはそのせいでかえって気づきにくい。中ハシ克シゲの作品は存在感こそあれほかのアーティストとの繋がりが見えないし、佐内正史の写真や金田伊功のスティル、富沢ひとし、町野変丸らの原画は壁面に大量に張りつけてあるだけだ。庵野秀明に至っては、事前に日本でもらった資料には参加アーティストとしてクレジットされてはいたものの、結局作品(?)を発見できずじまいだった。
そして問題なのは、それら作品に対してまったく解説が用意されず、またカタログも作られていないことである。日本のスーパーフラット展ですらパネルが付されていたというのに、ロスの展覧会には言語的な説明が完全に欠けている。あれではアメリカの観客は、ただバラバラに並べられた作品を、民族学的でエキゾティックな興味で見るほかない。日本版のカタログは売られていたが、展示作品が異なる以上、別のカタログを用意しなければ何の意味もない。それでも例えば、富沢ひとしが大友克洋や吾妻ひでお(原画が借りられないなら複写でもいい)と並べられるのであれば何か伝わるのかもしれないが、彼を町野変丸や竹熊健太郎と並べても観客は困惑するばかりだ。僕の記憶に間違いがなければ、確か村上隆は、エンターテインメント系の作品は高品質だがアートのコンテクストを知らない、自分はそのコンテクストを用意するのだ、格闘技で言えば「闘い方」を用意するのだ、そうやってアートとオタクとの異種格闘技戦を成立させるのだ、と述べていたように思う。しかしロスの展覧会を見るかぎり、村上はまさにその努力を怠っている。日本のサブカルチャーのコンテクストとアートのコンテクストのすりあわせなど、まったく行われていない。ただモノが輸出されているだけだ。「スーパーフラットとは何か」というもっとも大事な問いに、村上は何も答えていない。これでは「輸出業者」と非難されても仕方ない。
しかしそれでも、日本のサブカルチャーがもつ美的な特異性を現代美術というまったく異なった世界で認知させ、今後の可能性を切り開いたという意味では、ロスの展覧会も評価されるべきかもしれない。何事もパイオニアは欠陥を抱えているわけで、その部分だけとくにあげつらっても仕方ない。僕もそれはそう思う。しかし今回の場合、そういう留保のうえでもさらに疑念が残る。というのも、これがロスの展覧会を評価できない第二の理由なのだが、その実体が日本でジャーナリズム向けに作られたイメージからかけ離れているからである。言い換えれば、日本での村上は事実といささか離れた自己演出をしていて、その口実にロスの展覧会が使われている節があるからである。実際にそれはむこうのスタッフや観客の言動を観察しての印象なのだが、この件については、ここで僕がこれ以上語っても公正さを欠くだろう。ロスの展覧会がどれほどのもので、僕の印象が正しいのか誤っているのか、それは各人で自分の目で確かめてほしい。
とはいえ、事実の歪曲を防ぐためにひとつだけ言っておかねばならない。4月3日付の朝日新聞夕刊ほか、日本のさまざまな記事では、問題の展覧会は「現代美術館新館」で開かれていると記されている。これは嘘ではないが、誤解を与えやすい表現だ。現実以上に展覧会の規模を大きく思わせてしまう。正確には会場は、「新館」ではなく、現代美術館(MOCA)がロスアンジェルスの都心からかなり離れたところに新しく建てた単独の「ギャラリー」である(英語での表記は The MOCA Gallery at the Pacific Design Center、つまり「パシフィック・デザイン・センターにある現代美術館ギャラリー」)。そこには常駐スタッフもいないし、展示スペースもあまり広くない。MOCAの本館と別館は別に都心にあり、そこではそれぞれSuperflat展よりはるかに大きな展覧会が開かれている。とりわけ、別館で開かれている「Public Offerings」展は、1990年代の現代美術のサーヴェイとして教育的にできた素晴らしい展覧会だった。正直言って僕は、村上隆や奈良美智に加え、Gary HumeやDamien HirstやMathew Barneyの旧作も含んだこちらのほうが、Superflat展よりも格段に興味深いと感じた。この両者は、量的にも質的にも、到底比較にならない。Superflat展は、MOCAのプログラムのなかで、あくまでも副次的な小さな展覧会なのである。
最後にもういちど確認しておくが、僕は村上隆が個人として作った美術作品はたいへん高く評価している。また、Superflat展に集められた作品にしても、適切な文脈で適切な概念枠を用意すれば、十分に「アート」として通用するクオリティをもっているとも考えている。そしてそのような文脈の横断や混淆は、これからもどんどん進められるべきだと思う。今回の展覧会で問題なのは、そこで知的で効果的な戦略がまったく用意されず、ただ日本の(あるいはアメリカの、そちらの事情はよく分からない)ジャーナリズムに向けられた宣伝だけが際だってしまっていることである。僕自身としては、この結果は決して村上隆がもともと望んでいたものではないと信じたい。
聞くところによると、Superflat展は、今後ミネアポリスとシアトルをはじめ、いくつかの都市を巡回するとのこと。そちらでは、たとえ参加アーティストや展示点数が減ろうとも、せめて十分なカタログと説得力のある解説が用意されることを強く望む。僕が見かけた観客の何人かは、会場のなかでボーメによる全裸のアニメキャラクター・フィギュアをただニヤニヤして見ている始末だった。Superflat展は、そのような安直なオリエンタリズムをひっくり返すためにこそ企画されたものではなかったのか。もしそれができないのであれば、村上隆に紹介者としての存在理由はない。オタク系にしろサブカル系にしろ、日本のサブカルチャーが作り出す「商品」は、彼の手など借りなくても、すでに事実としてグローバルに消費されているのだから。
『ユリイカ』の連載に興味深い反応が届く。メールの差出人によると、サブカルチャーのデータベース化は視覚的なオタク系文化に限られたものではなく、「そのままそっくりヒップホップやヒップホップ・ソウルと呼ばれるR&Bの作り手やリスナーと、その元ネタとなっている60年代から80年代のソウル・クラシックとの関係に当てはま」るとのこと。僕は残念ながらヒップホップをあまり聞かないので、この意見が正しいかどうかは分からない。けれどもこのような反応は大歓迎だ。あの連載は確かにオタク系文化の例しか挙げていないが、僕自身は、あそこで提出した「文化のデータベース化」の流れそのものはより広くポストモダン文化一般の特徴だと考えている。連載冒頭で前置きしたように、あの原稿は決してオタク論ではなく、あくまでもポストモダン論なのだ。オタク系の作品ばかり取り上げているのは、基本的には、僕のフィールドワークと趣味の範囲がそこに限られているからである。理論的な枠組みそのものは、もっと抽象的に使えるように作っている。
ところで他方、あの連載を書きながら、別の音楽については少し考えていた。データベースだけがオリジナルとなり、作品はすべてそこからの任意な抽出で作られるシステム。その音楽の世界における現れとして、僕が以前から気にかかっていたのは、音響派、というより、オヴァル(oval)ことマーカス・ポップの活動である。僕はほとんど音楽雑誌を読まないし、正直言って音楽に詳しい人間ではない。ただそれでも、彼の音楽は1994年に最初のアルバムに偶然出会って以来、欠かさず買って聞き続けている。それはおそらく、彼の音楽が、僕の耳には、情報の集合=データベースそのものを直に聞こえるものにしたいという一種奇妙な欲望で作られているように聞こえたからである。だれでも聞けばすぐ分かるように、彼の音楽にはきわめて多様な要素が入っている。しかし、その多様さは、あたかも図書館の分類カードのように一様に均らされてしまっている。僕はその均質な多様さという逆説に強く惹かれた。それは実は『存在論的、郵便的』の文体にも影響を与えている。
データベースを直に聞くこと。言い換えれば、データベースそのものをモノとして扱うこと。それは長いあいだ曖昧な直観でしかなかったが、『ovalprocess』(TKCB-71869)のライナーでマーカスの音楽の作り方を知って一種の確信に変わった。佐々木敦氏の文章によると、彼は「既存のCDや、ランダム/意図的に採集した音を記録したCDRの盤面にフェルトペンで細工を施し、それをプレイヤーにかけることで不確定的に起きるエラーをデータとして再び記録、それらを膨大なオーディオ・ファイルとしてコンピュータのハードディスクに貯蔵したものを緻密に構成することによって」音楽を作っている。CDRの表面をフェルトペンで傷つけることで新たなデータを生成する、というその行為は、ナマの音(オリジナル)とデジタル化されたデータ(コピー)を対立させるような考え方の彼方で、すべてが断片的なデータであって、したがってそれら断片をモノとして扱うことでしか新たなモノを生成できない私たちの文化の条件を、きわめてよく映しているように思われる。僕はほかの音響派についてはよく知らない。しかし、オヴァルの試みがつねにデータベースに向かっていることについては、少し自信をもっている。
……とこんなことを考えていたら、なんと、その佐々木氏から連絡があり、5月にマーカス・ポップ本人を交えたシンポジウムに出席することになった。僕は音楽関係では間違った話をするかもしれないが、ただ、データベースの問題だけは投げてみようと思う。詳しい日時はまたトップページで告知するので、そのときはよろしく。
最近は仕事中はずっとCD-ROMを焼いている。ふだん僕はMacで仕事をしているのだが、それと同時に、横にあるWindowsマシンで一枚一枚CD-ROMを焼いているのだ。最近CD-ROMを買ったひとは、表面のシールの下に鉛筆書きで「1」「2」とメモされているのが透けて見えると思うが、あれはほとんど僕自身が書いている。メモ書きしないでどんどん机の上に積んでいたら「1」か「2」か分からなくなってしまったので、途中から書き始めたのだ。地味な作業である。
そもそもUSB接続のCDRを使っているせいで、書き込み速度は4倍が最大。時間がかかって仕方がない。1枚焼けるごとにビープ音が鳴って、トレイを引き出しては新しく焼いているのだが、この単純作業が意外と仕事の邪魔になるので、ずっとやり続けるわけにもいかない。せいぜい売れても100枚が限界だろうとたかをくくって始めたのはいいが、予想以上に好評(といっても外注に出すほどではない)で生産が間に合わない。というわけで、いまは青山ブックセンターの店頭では品切れが続き、通販の注文のみになっている。しかもそれもつねに納品待ち状態でみなさんには迷惑をかけているが、一枚一枚ていねいに焼いているので(せんべいみたいだ)許してほしい。
ある雑誌の編集者からメールが届く。次号に某文芸評論家による僕に対する批判文が載るので、その事前告知らしい。このような告知は異例で、「内容についてはここであらためて触れませんが、(……)(まったく逆の論の立て方も可能だとも思うし、愛憎いりまじる言説ゆえの過剰さもあると思いながらも)、一部のあまり穏当でなく見える表現についての協議のみを経て掲載しました」という回りくどい文章から察するに、かなり攻撃的な内容なので事前に根回しをしなければいけないと感じたようだ。反論の場は用意するのでいつでもどうぞ、とのこと。
反論するかしないかはのち考えるとして、この手の根回しには疑問を覚える。批判そのものは読ませてもらうが、あまりに「愛憎いりまじる言説ゆえの過剰さ」に満ちたものならば、そんなものに付き合っていられないので無視すると思う。それに対してこの事前の根回しを根拠に、「いや、こちらは反論の場は用意したんです。でも東さんが出てこないんですよねえ」などと言われたのではたまらない。
こんな心配をするのは、最近あるシンポジウムへの出席を断ったところ、当の出席者のひとり(彼はまさに上記の某誌にも登場している)から「東さんが出てこないのは困ったもんだ、やっぱりオタクで怒られるのがいやだからか」と攻撃されることがあったからだ。しかし、出席して議論のなかで批判されるならともかく、こんな批判は公正だろうか? これじゃあ、依頼の電話を受けたときから批判されるのが決まっているようなものじゃないか? 僕は単純に、そのシンポでは議論は絶対に盛り上がらないと思ったから、というか、率直に言えば、出席者たちの人間関係に気をつかって疲れるのは嫌だと思ったから出席を断っただけだ。それに対してこんな批判をされても、「やっぱり出席しなくてよかった」と思うだけである。
まあ、こんなのはどうでもいいといえばどうでもいい。もしかしてここにこんなふうに書いてしまったせいで、某誌の批評文を探しだし、さらに反論掲載を楽しみにしてしまう読者もいるのかもしれない。しかし反論の可能性は少ない。僕の悪口を言いたい人間が何人かいるのは知っているが、その党派的な背景があまりにはっきりしているのでほとんど興味がないのだ。僕の関心はむしろ『ユリイカ』や『トリッパー』にある。「過視的なものたち」次号はついに実践編で、エヴァやでじこや清涼院流水に触れる。「誤状況論」次号はポストモダン的な批評のあり方が主題で、あとグレッグ・イーガンの話が少し。こういう話をしていたほうが、はるかに頭がスッキリする。しかし、僕の批判をするという上記評論家氏は、はたしてこのような最近の僕の動きを知っているのだろうか? まさか、まだ「ソルジェニーツィン試論」の話じゃないだろうな。
久しぶりに更新。更新が滞っていたのは、年末に内輪のコスプレ忘年会で燃え尽きたのに加え(僕が何のコスプレをしたかは言うまい)、年始に香港へ行っていたためだ。香港旅行は九割遊びだが、香港中文大学で行われたSF研究者たちの小さな学会を聴講するのも目的だった。その学会の締めのスピーチは巽孝之氏が行ったのだが、これが、『2001年』を題材に、結局は神人同形的な想像力(スターチャイルド)でしかエイリアンを描くことができなかったキューブリックに対し、クラークはむしろモノリスをサイバースペースとして捉えていたのではないか、というきわめて興味深い話。『JM』や『順列都市』の名前も飛び出して、僕としては趣味的に大満足だった。
とはいえひとつ、わがままな注文を付け加えるならば、『不過視なものの世界』の阿部くんとの話とも繋がるのだが、そこはやはりタルコフスキーの『ソラリス』にも触れてほしかったと思う。『ソラリス』のエイリアンは、自分のトラウマを映す鏡としてしか機能しない。その方法は、ぬけぬけとスターチャイルドを映像化してしまうキューブリックよりも洗練されているぶん、「無限の他者に直面したときにひとは自分の鏡像しか見いだせない」という、否定神学的で神人同型論的な袋小路を分かりやすく体現していると思う(これは青山真治氏との鼎談にも繋がっている)。僕はいつもキューブリックをタルコフスキーと比べてしまう。彼らのある種の完璧主義、ある種のナイーブさには、二〇世紀の社会全体が陥った困難(神の失墜)を性急に回避しようとする、ひとつの典型的なパターンが見て取れるからだ。とすればもしかしたら、クラークとレムのあいだにも、何らかの並行性が見出されるのではないか。どうでしょう?>巽さん
あとはいまは『ユリイカ』連載で苦労中。しばらくウェブの更新もゆるやかになりそうだが、そのぶん活字を書いているので勘弁してほしい。CD-ROMも力を入れて作ったのでぜひここで直販したいのだが、なかなかそこまで手が回らない。急ぎの方は、トップページにも書いたとおり、青山ブックセンターにお問い合わせを。