このページには、2002年に「経歴と近況」ページの「近況」欄に書かれた文章が保存されています。
またずいぶんとあいだが空いてしまった。とはいえ、今回は仕事が詰まっていたと言い訳することもできない。一時期の忙しさにほとほと参った僕は、秋口からは原稿依頼や講演依頼をかなり断ってきた。さらに今週のあたまには、次号(2003年2月号)の『中央公論』の原稿もあっさりと落としている(楽しみにしていた読者には申し訳ない)。というわけで、いまはぽかんと時間が空いている。更新を怠ってきたのは、単にここのところ呆けていたからである。
とはいえ、このような充電のための時間がないと、とても面白い文章など書けはしない。とくに情報自由論の連載は、今月発売号で内容的に一区切りついたので、新しいアイデアを探す必要がある。そこで最近は、溜まりに溜まった本を読むのに追われている。
そんななか、つい先日、日本に長期滞在中のローレンス・レッシグ氏の講演を聞く機会があった。情報自由論でも触れているように、彼の『CODE』は名著であり、僕も大きな刺激を受けた。この秋に第二の著書、『コモンズ』の翻訳が出版され、随所で評判になっている。というわけで、その講演も楽しみにしていたのだが、聴衆の性質を考えてのことなのか、意外と単純化された議論で拍子抜けするところがあった。
この講演は一般には非公開で行われたものなので、残念ながらこれ以上はコメントしようがない。とはいえ、実は同じ問題は『コモンズ』にも感じていた。この著作は、乱暴に要約すれば、情報技術が切り開く新しいコモンズ(共有地)の発想と、古いタイプの財産権でコモンズを押しつぶそうとする旧勢力の発想を比較し、前者の側に就くべきだという主張に貫かれている。知的所有権と無線インターネットがおもな例だ。そこで展開される議論は分かりやすいし、またきわめて実践的である。誤解のないように言っておくが、そのかぎりではこの本は必読だ。
しかし、僕のような人文系の読者には、その単純な対立図式から、新しいコモンズ=アーキテクチャの拡大こそが私たちの自由を危機に陥れる、という『CODE』の複雑な問題意識が抜け落ちていることが気にかかる。『CODE』は権力や自由のありかたをかなり抽象的なレベルで扱っていたが、『コモンズ』は随所で、自由を創造性や技術革新(イノベーション)と等置してしまっている。しかし、自由とは、創造性が華開き、技術革新が進んだからといって単純に増えるものではないのではないか。そこにこそサイバーリバタリアニズムの盲目性があったのではないのか。詳しくは、またどこかで論じる機会もあることだろう。
ところで、そのレッシグの講演、話の内容とはまったく関係がないのだが、ひとつ気がついたことがある。それは、レッシグがiBookを使っているということだ。むろん、マイクロソフトに対する批判的な立場を考えれば、彼がウィンドウズ・マシンを使っているわけはない。しかし、何となくLinuxでも駆使しているのかと思っていたのだ(念のため記しておくと、僕はデスクトップ画面を見たわけではないので、iBookにLinuxを入れている可能性はある。でも少なくともハードはAppleだ)。
レッシグのような実践的な人物にとっても、Macを使うことがいまだ「政治的」表明として機能している、というのを再確認できたことは、僕のような揺れるユーザにとっては、大いに勇気づけられる体験だ。『動物化するポストモダン』の図版でも明らかなように、僕は普段の仕事にはMacを使っている。しかし、実は、ここ一年ほど、毎週のようにウィンドウズへの乗り換えを検討し、ぎりぎりのところで踏みとどまり続けていたのだ。とくに、今月の頭には、PDAをPocketPC 2002搭載の新機種に切り替えたせいで、ゲーム専用機と化しているウィンドウズ・マシンが異様に輝いて見え始めていた。もしあの講演がなければ、僕もいまごろは、その誘惑に負けていたかもしれない。これもまた、アーキテクチャの権力に対するマイナーな闘いではある。
とりあえず目前の危機は乗り切った。できれば、2003年も、Macを使い続けていたいのだが、果たしてどうなることやら。負けそうだなあ。
この一年、近況欄がハードになりがちだったのは、あまり更新をしないせいでプレッシャーが大きくなっていたからにちがいない。今後は単なる近況報告コーナーに戻すべく、軽めにさらりと更新をしていくことにする。
秋には催しものが集中する。そのせいで、この1週間ほどは、イベントに行ったり、ひとと会ったり、酒を飲んだりばかりしていた。
10月27日はブロッコリーのイベント「デ・ジ・キャラット&エンジェル隊コンサート」に行った。沢城みゆきよりも何よりも、飯島真理の声に感動してしまった僕はもう歳ということなのだろう。しかし、あのPKOの人気はどうよ……。
31日には「ハヤワカSFシリーズJコレクション刊行記念フォーラム『新世紀SFの想像力』」(長い)に行った。西島大介氏のオープニングフィルムは秀逸。このひとはとても才能があると思うのだが、なぜだれも単行本にしないのだろう。表紙つながりで『暴走するインターネット』の鈴木謙介氏にも紹介してもらう。そのあとは懇親会に紛れさせてもらい、朝まで飲んでいてへたばる。
11月2日には明治学院大学で開かれたシンポジウム「9・11以後の国家と社会 ―― 国家・社会を超えた問題をまえに国家・社会の問題はどう考えらるべきか」(これもまたえらく長いな)を聴きに行った。これまた懇親会に紛れさせてもらい、さまざまなひとに紹介していただいた。思えば豪華なメンバーの懇親会だった。宮台ゼミ院生の面々は男子校ノリ(本当に男子校出身なのかはよく知らないんだけど)を爆発させていて、さまざまな意味で興味深い話が聞けた。
11月3日には「文学フリマ」(短くていい)に顔を出した。トークショーの実施は知らなかったので、着いたときにはもう終わっていた。大塚さんに三木・モトユキ・エリクソンの直筆サイン入り単行本なるものを押しつけられ(失礼!)、佐藤友哉氏&西尾維新氏の新刊を買い(売り切れを予測して取り置いてもらったのだ)、鎌田哲哉氏らと酒を飲んで帰ってきた。しかし、どうなのよ、NAMは……という会話をしたなどと書くと、ふたたびまずいことになりそうなので、今日はここで筆を置こう。とにかく、元関係者として、批評空間グループにはこの危機を乗り切り、これ以上の醜態(としか言いようがない)を見せないでほしいと願うばかりだ。期待していたひとが多いのだから。
ではでは。ちなみに笠井さんとの往復書簡最終回は、掲載が遅れているだけで、続くのでご安心を。これからは、また、イベントのない静かな日々が続く。
追記
そういえば、来年の3月末、村上隆氏主宰の「GEISAI-3」で審査員を務めさせていただくことになった。アートについてはよく分からないのだが(とくにGEISAIは)、関係者のみなさんにはよろしく。
11.6一部訂正
もうトラブルはいやだ。個人サイトぐらい脱力したい。しかしいきなり脱力系の日記を書くわけにもいくまい。とりあえず、近況を短く箇条書きにして対応してみよう。
『新現実』と『哲学往復書簡』は、さまざまな人々に心配(というより期待?)を引き起こしつつ、何とか順調に進行中。『往復書簡』は来年の春にでも集英社新書から刊行される……と編集者は断言しているので、僕は本気にしている。昨年行った網状言論Fの書籍化企画も、ついにゲラを待つ段階に。これまた来春には青土社から刊行予定。他方で大澤真幸氏との対談も、8月のジュンク堂でのものがとても良い出来だった(と本人たちが信じこんでいる)ので、11月の青山ブックセンターでの対談と合わせ、単行本にする予定。以上三冊が、今年から来年前半にかけての出版計画。
他方、週刊現代の連載は、突然、僕が4回に1回担当していたコーナーそのものが消滅し、打ち切りになった。まあそんなものでしょう。中央公論の連載は、いつ終わるのかよく分からない。いまもっとも力を入れているのはこれなんだけど。
ちょっとオタク系のネタも。先週は少し暇が出来たので、9月末に発売された、ニトロプラスの新作『ハローワールド』をプレイしてみた。最初のエンディングまで50時間という噂もあったが、高速クリックを繰り返し、廃人になりながら20時間で何とか奈都美ノーマルエンドに辿り着く。実はニトロのゲームは初めてプレイしたのだが、月姫がリーフへの回帰だとしたら、ニトロは剣乃作品(とくにハロワは『EVE』を思わせた)への回帰とでも言えるのではないか、と思った。アニメの2クール分の企画がそのままゲームになっているような話で、この業界の成熟を感じる。お世辞ではなく、星雲賞に推薦したいぐらいのオーソドックスなSFで、僕的にはかなり満足。僕好みの(だと思われている)メタギャルゲー性やメタ萌え性はないが、それはそれでいいものだ。ほかのニトロ作品も買ってくることにしよう。しかし、これをプレイして、あの隠れた名作『アキハバラ電脳組』のギャルゲー化を夢想したのは僕だけだろうか。
村上春樹の『海辺のカフカ』も読んだ。本当はこの小説についての話を次回の週刊現代で書こうと思っていたのだが、流れてしまった。いずれにせよ、春樹の力量には感嘆する。それに15歳の少女の幽霊だなんて、ギャルゲー的でぐっとくるじゃないか。本当のところ、近年のギャルゲー=ライトノベル的なもの(新海誠を含む)に共通するあの叙情性の起源は、村上春樹と吉本ばななにあるのかもしれない。でもこれは大塚さんが言っていたかな。そんなことを考えた。
ほかは……ジョギングを始めて、3日で止めた。早朝の久我山稲荷はかなり叙情的だったのだが、筋肉痛に問題があった。
10.18一部追記
何がカンに触ったのか、ここのところの大塚英志氏は、『小説 TRIPPER』最新号、bk1のインタビュー、『「ほしのこえ」を聴け』など、機会をつかまえては僕への悪口を口走っている。大塚氏によると僕は、「世界とじっくり向かい合いたくないみたいな価値観」をもっている「ディベート主義」の「バカ」で、「主題とか構造みたいなものはまったく認めない」団塊ジュニアの典型らしい。子どものころから小説が好きで、『カラマーゾフの兄弟』をオールタイムベストとして崇める身としては、いまさら「主題や構造の重要性をまったく理解しない」などと批判されると情けなくて涙が出そうになるのだが、こういうパフォーマンスも業界内で生き残るには必要なのだろう。経験的に言って、明示的な根拠を挙げず、「だれだれは結局なになにでしょう」みたいな噂話口調で他人を批判し始めたら、もうそのひとの話はまともに聞かなくていい。
ただし、そうは思っていても、悪口を言われている身としては、単純に一緒に仕事をするのがキツくなることは確かだ。とりあえず、そのせいというわけではないが(理由はもっと事務的なもの)、『新現実』第2号では大塚氏との対談はなくなり、僕は「責任編集」ではなく「編集協力」に退くことになった(ただしその分、担当ページには僕の意見が反映されている)。第3号以降は大塚氏の気分次第だろう。何といっても春先にはずいぶん好意的で、向こうから対談本(それがいつのまにか雑誌ということになった)を作ろうと言ってきたぐらいなのだから、ふたたび風向きが変わる可能性はある。あまり気にしていない。
しかし、内容面でひとつだけ言っておくべきことがある。『新現実』第1号の対談の席でも感じたし、繰り返される大塚氏の批判を読んでいても思うのだが、彼はもしかして、僕の本をほとんど読んでいないのではないだろうか。
たとえば『「ほしのこえ」を聴け』のp.199、大塚氏は、「ほしのこえ」が僕の枠組みから外れる根拠として、「データベース理論は結局使う側の引用する意識みたいなものが前提になってるでしょう。東は引用する意識があるという前提だから、ああいう評論になるけど」と述べている。しかしこれは、僕が『動物化するポストモダン』で主張したことと、どう考えても逆である。僕のデータベース消費論は、「引用」という意識がなくなったからこそ 、第3世代オタクのデータベース消費(動物性)は第1世代の物語消費(シニシズム)と区別されるという主張に支えられている。データベース消費では「引用」という感覚がなくなることは、『動物化するポストモダン』のp.73以下で、子どもでも誤解のしようのない文章ではっきりと記されている。この部分は『動物化』の中核にある主張で、ほかの箇所でも繰り返し強調されているので、それを読み落としたというのは、少しでも僕の本を開いていれば考えられない。事実、僕の本に文句をつけてきたひとは多々いたが、ここを読み違っているひとはいなかったのだ。
さらに言えば、大塚氏は、僕が現代文化における主題や物語の役割を否定していると考えているようだが、それも思い違いである。『動物化するポストモダン』では、わざわざ一節を設けて、大きな物語から遠く離れたポストモダン的精神が、にもかかわらず「小さな物語」を追い求める二重構造について考察している(p.108以下)。大塚氏の東非難で決定的な役割を果たしているらしい「物語性の回帰」「主題性の回帰」の現象は、僕の本のなかですでに分析されているのだ。『千と千尋の神隠し』などのファンタジーの台頭、すなわち、骨組みしかない物語=民俗学的な説話構造の台頭は、僕の観点からすれば、「大きな物語の凋落」をますます証拠立てるものである。だいたい、オタク系のシーンに限ったとしても、テーマ性や叙情性の台頭は1990年代末の「泣きゲー」から明らかだったわけで、「ほしのこえ」の出現でようやくそれに気がついたというのがおかしい。
いずれにせよ、このような僕の観点からは、「ほしのこえ」は、第1世代的なシニシズムのうえに作られたものではなく、無意味な断片を首尾良く配置して叙情性の最大値を目指すという点で、まさに、ギャルゲーに連なる「動物的」で「データベース的」な作品だと分析できる。このような「ほしのこえ」評価に異論があるのは分かるにしても、東浩紀はシニシズムしか分からない、引用の戯れしか評価できないから現状に対応していない、というのは、どう考えても僕に対して向けられるべき批判ではない。ふたたび繰り返しておけば、第2世代以下では虚構や引用やパロディは重要な問題にならない、動物性という新しい地盤のうえで「データベース化」と「小さな物語への回帰」(最近なら香山リカ氏が言う「ぷちなしょ」もここに含まれるだろう)が同時に進行する、したがってその読解のためには、「理念とシニシズム」「現実と虚構」を対立させる従来の視点とは別の視点が必要だ、というのが『動物化するポストモダン』の主張である。これを少しでも理解していれば、大塚氏が捏造しようとしている「自分は主題重視、東は断片しか分からない」といった対立は出てくるはずがないのだ。データベース論とは、引用万能論、設定重視論ではない。そんな古くさいことをいまさら言うわけがない。だいたい、『エヴァ』以降この世界も長いが、僕がいつ設定の緻密さを重視してオタク批評を書いたことがあるというのだろう?
僕の感触では、大塚氏の批判は、実は自分自身の(というより、彼の考える「同世代」の)過去に向けられている。大きな理念に導かれる「大人の世界」への違和感を提起し、引用の戯れに興じる若者の姿を擁護し、虚構のなかに自閉する宮崎勤に同世代的な問題を感じ取っていたのは、ほかならぬ10年前の大塚氏である。主題や構造を横に置いて、ディテールばかり追い求めていたのも、彼の仲間たちだ。それは、『「ほしのこえ」を聴け』の座談会でササキバラ・ゴウ氏などが述べているとおりだ。その自分たちの姿があるからこそ、いままでオタクたちは虚構の世界に生きていたが、これからは「リアル」な政治に直面するはずだ、というような紋切り型も必要になってくるのだろう。これはこれで理解できる。
しかし僕の出発点は別のところにある。それがいいことか悪いことか知らないが、僕はプロの物書きになってから、大塚氏のようなシニックなオタク的消費の場に身を置いたことがない。僕が1990年代のオタクたちに興味をもった、というよりも強く共感するところがあるのは、彼らが完璧に虚構の世界(断片の世界)に生きているにもかかわらず、しかしそれが同時に完璧にリアルになっている(主題をもっている)ように思えるからである。『新現実』の対談でもどこでも、僕はずっとそのことの意味について語っている。佐藤友哉氏の小説を評価するのもこの文脈においてだ (注)。その逆説を理解してもらいたいとまで高望みはしない。僕の本を読めとも言わない。しかし、とりあえず、自己批判を他人に投影して展開するのは止めてもらいたい。単純に迷惑だ。大塚氏と僕は違う人間なのである。
……といったところだろうか。それにしても、2ケ月ぶりの近況だというのに、どうしてこう面倒な話題になってしまうのだろう。というか、面倒なことが起きたときにしか近況を書いていないのか。なんかこう、和み系の近況とか書きたいもんだなあ……。近所の犬の話とか。そういえば、最近、うちの奥さんはカスピ海ヨーグルトを食べ始めた。
注
つまり僕は、佐藤友哉氏の小説がデータベース的で動物的だから評価しているのではなく(当たり前だ!)、「データベース的でありながら主題が発生してしまう」あるいは「主題があるのにデータベース的になってしまう」という循環を生き生きと描写しているから評価している(そういえば、むかしエヴァ論で綾波の魂云々で似たようなことを書いた思い出がある)。この点もまた各所で誤解されているようだが、サブカルチャーの現状を見た場合、データベース的で動物的な作品しか作れないというのはデフォルトであって、それをいくらスマートに演出してみせたところで、僕は「優秀」だとは思うが評価はしない。こちらのほうは今度は、笠井潔氏との往復書簡に絡む話だが……。
以下に書き記したO氏こと小川びい氏との往復メールの件、さっそく公開が決まったのでお知らせする。
場所は三崎尚人氏の「同人誌生活文化総合研究所」。往復メールの公開ページはここ。協力いただけた三崎氏に感謝したい。
前回の近況欄の追記。その後数日して、ライターのO氏から抗議文が送られてきた。それによると、「東浩紀がセーラームンをチャイルド・アニメと評した」と主張したことにはきちんと根拠があるので、前回の文章は撤回してもらいたいとのこと。その根拠というのは、『SPA!』(1997.4.30-5.7号)の49ページで、
こうして'85年〜'86年から日本アニメは、大資本がバックについて国際的な評価も高い宮崎、押井、大友らのメジャー路線プラス『ドラゴンボール』『美少女戦士セーラームーン』などの子供向けメガヒット路線と、OVA、同人誌、マニア雑誌という非常に閉塞したマーケットの中で堂々巡りの再生産を繰り返すオタク路線に分化していった。
という部分だという。ちなみにこの文章は、『エヴァンゲリオン』特集のなかで、編集部の取材記事の一部としてカギカッコに入って出てくるもの。僕の発言をもとにした記事は1ページのみで、セーラームーンという固有名が出てくるのはここだけ。また「チャイルド・アニメ」という表現はない。
糾弾の根拠としてこの一文が挙げられたことについては、揚げ足取りに近いと感じるので、この点では何も撤回しない。少なくとも、そこには「チャイルド・アニメ」という表現がなかったこと、セーラームーンを主題とした文章や記事ではなかったことは事実である。したがって僕があの日、「セーラームーンをチャイルド・アニメなどと評した記憶はない」と言ったこと、そしてそれを近況欄であらためて強調したことが間違いだとは思わない。
なおO氏のメールによれば、「チャイルド・アニメ」という言葉は問題ではなく、子供向けという整理そのものが問題らしい。しかしそれもまた理解しがたい。セーラームーンが「子供向けメガヒット」だったという認識は、別に僕の独創ではない。それは新聞レベルでの紹介をするときの必然的な表現で、この作品にオタクがどんな思いを込めていたかとは無関係だ。逆にそのような認識すら否定したら、「子供向け」や「メガヒット」という形容詞はどの作品にも使えなくなってしまう。僕はそこでは、ただ一般常識を繰り返したにすぎない。週刊誌での紹介記事で、「大雑把にはこのように整理できますね」的なコンテクストで現れたこのような片言節句を取り上げて、「東浩紀は本当はアニメは分かっていない」と糾弾すること、それ自体が無意味だと思う。
僕の意見はこのようなものである。しかしO氏のほうは、この僕の態度を悪質な言い逃れと感じているようだ。この件をめぐっては、長いメールがいくつも交わされた。興味ある方は、メール全文が近日中にO氏の友人のサイトで公開されるようなので、そちらを参照してもらいたい。公開の手続きはすべてO氏にお任せした (注)。
ただし細かい点は訂正しておきたい。ひとつは、「O氏から指摘されたガンダム小特集の記事」という部分、これは間違いらしい。僕の記憶も曖昧なので訂正しておく。もうひとつ、O氏について、「誇らしげに」「イチャモン」など、感情的な表現が目立った点。感情を害されたらしい。いささか筆が滑ったと反省している。
なお、O氏の名誉のため記しておきたいが、抗議文に始まる一連のメールはきわめて紳士的だった。O氏がなぜ僕の仕事を全否定するのか、その点は理解できない(というより、理解できないことにしておきたい)し、最終的にまたもや「東浩紀は本当のおたくではない」といった話になってしまったのは残念に思うが、メールの交換そのものは無益ではなかったかもしれない。
望みたいのは、東浩紀が本当にオタクなのかどうなのか、そんなことを考えない読者が増えてくれることである。そういえばスーパーフラット関係で仕事をしていたときも、「村上隆は本当は……」的な話が出るたびに、そんなの一般観客にとってはどうでもいいのになあ、と思っていた。こういう風に思うこと自体が僕がオタクではない証拠なのかもしれないが、それならそれで別にいい。僕がオタクでない、と宣言することで無意味な攻撃を止めてくれるのならば、いつでも喜んでそう宣言することにしよう。実際、『動物化するポストモダン』を書いてしまったいまとなっては、そんな自己規定はどうでもよくなっている。
*
ところで、今回の事件を契機にネットについて少し考えた。サブカルチャーの評論はいまや大部分がネットで書かれている。記名のものも匿名のものもあるが、ネットの性格上、境界は曖昧である。さらに、評論と日記と噂話の境界も曖昧だ。
このような状況だと、イベントで笑顔で近づいてきておきながら、あとで匿名で悪口を書き散らす人間が必ず現れる。なかには、楽屋での軽口に耳を澄ませ、「東浩紀はだれだれを批判していた」と「チクる」連中も現れる。実際、前回述べた大塚英志氏は例外であって、いまや、多くの言論人が2ちゃんねるや有名日記サイトを巡回している。そうなってくると、ネットの風評で実害が出ることもある。たとえば、例の「Y氏の友人」の日記には、SFセミナーのあと、某氏が「あのセーラームーン発言で東は見限った」という趣旨のことを喫茶店で話していた、なんてことが書いてある。某氏と僕のあいだには何人もの共通の知人がいるはずだが、こういうのは両者にとって何のプラスにもならない。
悪質な人間は必ずいる。僕の高校時代や大学時代の友人にも、2ちゃんねるで悪口を書いている人間がいる。おそらく仕事の関係者にもいる。それを止めることはできない。ただひとつ、知っておいてもらいたいのは、そういう行為をしておいていつまでも匿名性の影に隠れることができると思ったら、それは間違いだということである。匿名掲示板でも、あまりに「正確」な情報が流れれば、だれが書き込んだのか何となく分かる。それは『噂の真相』と同じだ。まして、ホームページで中傷や非難を繰り返すのは、たいへん危険なことである。ネットには検索がある。どれほどマイナーなサイトに書いていても、本人が読んで、一生恨みに思うことや軽蔑することがありうる。
サブカルチャーの世界は狭い。コミック業界、アニメ業界、ゲーム業界、広いようだが、評論など書きそうな人物はどう考えても数百人しかいない。高校の一学年ていどの人数だ。そしてその人々が、担当編集者やらライターやらサークルの先輩後輩やらアルバイトやら、これまた狭い人間関係のなかでぎっしり繋がり合っている。このような集団のなかで、だれかの執拗な批判をしていれば、必ず実名や経歴がバレる。上に記したように、僕は確かにオタクではないかもしれない。雑誌を主な活動の舞台にしているし、日記サイトなんて読んでいないように見えるかもしれない。でもそれでも、やはりいろいろ聞こえてくる。ときにはクローズドなMLや掲示板の情報まで伝わってくる。現在ネットで活動しており、今後、何らかの意味で物書きになりたいひとたちは、そういうことを覚悟しておくべきだと思う。
注
この近況欄を公開して数時間のうちに、「これではO氏がだれか分からないし、サイト名も分からないので困る」という苦情のメールが数通来た。説明不足だったかもしれないが、O氏は実名公開を望んでいないし、サイトでのメール公開はまだ具体的に動き出していない。メール公開時にはペンネームを明らかにするということだが、詳しいことはO氏とその友人(僕との面識はほとんどない)に任せてあるので、僕としてはサイト名を公開してよいのかどうかも分からない。いずれにせよ、正式な連絡が来たらアナウンスする。
先日、島根・玉泉温泉で開かれたSF大会に行った。その深夜企画で新海誠氏の「ほしのこえ」上映イベントがあり、司会役を急遽頼まれたので引き受けたところ、早くもネットに「東浩紀は最近新海誠にすり寄っている」的な書き込みが現れた。
別にそう書かれたからといって実害もないし、実際それはそうかもしれない(というのも、こういうのは結局他人が判断することだから)のだが、このような書き込みを見てつねに感じるのは、「こういうやつがいるからネットとか日記って侮られるんだよなあ」ということだ。今月末に発売される『新現実』で大塚氏と僕はネットについて話をしており、そこで僕は成り行き上、「いやいやネットも大事なんですよ」という話をしている。というのも、相手の大塚氏が、2ちゃんねるのブラウズどころか、メールもワープロもやらないという反ネット派最右翼(失礼!)なので、立場上僕がネットの擁護をしなければならなくなってしまうわけだ。しかし実のところ、僕自身は、ネットに満ちる噂話にはうんざりしているし、迷惑もしている。とりわけ、ライター経験も編集者経験もクリエイター経験も何もないくせに、業界通を演じている若いやつには吐き気がする。
……というのはちょっと言い過ぎかもしれないが、なぜ僕がここで怒りを表明しているかというと、問題のその書き込みをした人物(仮にY氏としておこう。彼は東大の某サークルの中心人物であり、いちおうは僕の遠い後輩にあたる)が、HPのプロフィールで「東浩紀から原稿依頼を受けたが固辞した」と仰々しく書いている困ったやつだからだ。ここに明確に記しておくが、これは嘘である。この記述は前から知っていたのだが、新海氏など巻き込んで事情通ぶり始めるとほかにも迷惑がかかりかねないので、わざわざ記しておく。
詳しい事情を知りたいひとのため記しておくと、こうだ。僕は昨年の秋、網状言論のイベント終了後、サブカルチャー系の若いライターを集められないかと思って、同年代の評論家二人に声をかけて勝手に新人賞を立ち上げようと模索したことがあった。ちょうどそのとき、問題のY氏より、『シスプリ』をメタフィクション的に読むという長めの評論が送られてきた(それ以前には交流はなかった)。それはそれでけっこう面白かったので、「網状新人賞」(みたいなもの)の立ち上げに協力してくれないか、具体的には、僕のサイトで僕たち3人のコメント付きで掲載したいので、謝礼は出ないがOKしてくれないか、というメールを出した。するとY氏からは、それは別のところに発表したものなので匿名での掲載でお願いしたいという返事が返ってきた。これはこれで筋の通った話なのだが、僕の趣旨と違ったので、「では諦めます」と返事を返した。Y氏はその返事で別の評論を添付し、偽春菜についての企画も提案してきたのだが、こちらは興味がもてなかったので感想を返すことはしなかった。ところがそのあと、Y氏からは長いメールや評論が相次ぐようになり、文面を見るかぎり面倒なことになりそうな予感があったので、以後は返事を返さないことにした。こういう経緯である。これは普通には「原稿依頼」ということにはなるまい。
別にY氏に限らず、あちこちの日記サイトや掲示板には、事情通ぶった書き手によって誤った事実がばらまかれている。ついでなのでSF系サイトで話題にされていることでひとつ訂正しておくと、今年五月のSFセミナー、通称「東浩紀部屋」で、アニメライターのO氏が誇らしげに指摘した「東浩紀はむかしSPA!でセーラームーンを『チャイルド・アニメ』だと言っていた」件、これはO氏の勘違いである。僕はその後、引っ越しに際して自分の記事の掲載誌を整理する機会があったのだが、どのSPA!にもそのような発言は見つけられなかった(すべての掲載号を確認したわけではないので、可能性は残る。しかしO氏から指摘されたガンダム小特集の記事は確認したし、「エッジな人々」のインタヴュー原稿も手元データで確認した。あともうひとつあるとすれば、福田和也氏のコラムに登場したときに何か書かれた可能性だが、これはあくまでも福田氏のコラムであり、僕に責任を求めるのは誤りだ)。したがって、あの場で僕が「そんな発言をするわけはない、もしあるとすれば編集者が勝手に書いたとしか思えない」と即答したことは、単純に正しかったのである。O氏は、僕とほかの人物の発言を取り違えたのだと思われる。でなければ、あの場で僕をやりこめるために、あえて嘘を言ったか。
このような勘違いや勇み足はよくあることだし、何よりもSFセミナーはそのような放言込みでの場なので、そのこと自体は気にしていない。だからいままで黙っていた。しかし、上述のY氏周辺のサークルなど、その部分だけを根拠に「東浩紀はライターとしての大人の常識が分かっていない」などと悪意ある中傷が横行しており、そのくせ書き手が何か僕と親しいかのような幻想を振りまいているので、釘を刺すことにした。ちなみに言えば、その「東浩紀部屋」で、O氏とともにいろいろ僕にイチャモンをつけていた二〇代の男性はY氏と親しい人物で、彼らの周辺では「東浩紀とやりあった」ということでヒーロー扱いらしいが(そして、なんでそんなことを僕が知っているかというと、またそのことを誇らしげに僕に伝えてくるバカがいるからなのだが)、その小さな人間関係ぶりには頭が下がる。というか、もう院生にもなる年齢だというのに、そんなんで威張っていていいわけ? 同じ大学出身として情けなくなるよ。
僕はいままで、そんな若者のお喋りも寛容に聞いてやることにしていたのだが、仕事も忙しくなってきたし、今後は無視することにした。他方で、僕の仕事を妨害する中傷には断固抗議する。最後にこれだけは言っておくが、君たちのような愚か者がいるから、オタク系の評論サイトはいつまで経っても内輪受けを超えられないのだ。そして大塚英志に嘲笑され続けるのだ。ひとのことを批判したいのなら、ちゃんとやれ。こんな言い方をすると、まるで最近の柄谷行人のようだが。
引っ越しから1ヶ月。このページで転居疲れを強烈にアピールしたせいか、そろそろ落ち着きましたか?と訊かれることが多いのだけど、結論から言えばまったく落ち着いていない。というよりも、西荻窪に引っ越してきたという実感が湧かない。おそらくそれは、笠井潔氏との往復書簡でも記した(そうそう、この連載、僕の返信の掲載は2週間遅れて8月頭になりました。すみません)テーマパーク的な雰囲気と関係あるのだろう。4年間川崎市に住んでいるあいだに、僕はもう、郊外型書店やドラッグストアのビカビカした蛍光灯なしでは生きる実感が湧かないやつになってしまったのだ。そんななか中央線らしさを実感したことと言えば、書店に『ラジオライフ』が山積みになっているのを見て、コードレス電話をデジタルに切り替えたことぐらいだ。
それに何より、この1ヶ月は忙しかった。僕は、実のところ、筆も遅いし、頭の切り替えも悪い(一度にひとつのことしか考えられない)。だから1週間に2つも3つも締切が来ると簡単にパンクしてしまう。今年の初め、多忙を極める斎藤環氏から「東さんは仕事したほうがいい、依頼は断らないものですよ」という忠告を受け、真に受けて断るのを止めたのがまずかった。斎藤氏の仕事量は膨大で(最近も分厚い書き下ろしを出版された)、僕など遠く及ばないのだけど、僕は彼とは根本的に資質が違うようだ。
そういう状況なので、批評家としてのアンテナも鈍っていて、もうどうしようもない。本も読んでいないし映画も見ていない。原稿やら授業の準備やら打ち合わせやらイベントに顔を出すやらの合間に、最近買ったハードディスク・レコーダに続々録画されていくテレビ番組(おもにシンプソンズとスタートレックと刑事コロンボ)をこなしていくだけで毎日が過ぎていく。『クリプトノミコン』すら第1巻で止まっているのだ。これが文筆業なのか。なんて厳しい職業だろう。みんな、いったいどうやって、あんなに書評やらコラムやらをこなしているのか? この近況欄で冴えたことを言えるようになるためには、もう数ヶ月かかりそうだ。
最後に少し宣伝。「鏡像から生殖へ」と題された神林論は、それなりに頑張って書いたつもり。この原稿では時間不足で『戦闘妖精』の分析しか行っていないけど、僕は実は、大学時代からの神林ファンで、彼の作品はおおかた読んでいる(SFに詳しくない読者のため付け加えておくと、神林長平の作品はフィリップ・K・ディックに似ているとよく言われていて、僕はその文脈で彼に入ったのだった)。『猶予の月』とかけっこう好きなんだけど、マニア的にどうなんだろう? 『新現実』の巻頭対談は、「どうしてネットの話を論壇誌に書くのよ?」と突っ込む大塚氏に僕が防戦するかたちで、中央公論の連載と重なる話が3分の2、あとは新海誠とブロッコリーと佐藤友哉の話。大塚氏と僕では意見が割れているので、それなりに緊張感はあると思う。「recoreco」のエッセイではテッド・チャンのことを書いた。
3ヶ月も近況欄を放置していたことを、まことに申し訳なく思っている。いや、実際、ここまで放置するなら近況欄をなくしたほうがよいくらいなのだが、他方、この雑文を楽しみにしてくれている読者も少数ながらいるようなので、いちおう残す。正直言って、つぎいつ更新されるのかさっぱり分からないので、まあ、そんな感じの期待低めのコーナーだと思ってくれれば幸いだ。
さて、ではこの3ヶ月間何をしていたかというと、それなりに身辺が慌ただしかった。慶應義塾大学での講義も始まったし、『郵便的不安たち♯』の文庫版も出版された。『中央公論』での新連載と『週刊現代』でのコラムが始まり、大塚英志氏と共同で新雑誌を立ち上げることになり(といっても実態は7:3か8:2くらいの割合で大塚氏管轄の内容なのだが)、SFセミナーにも初めて顔を出した。そんなこんなでつぎつぎ新しい事態が訪れ、それをかわすので精一杯でもあったのだが、何よりも大きかったのは、私事になるが、川崎市多摩区という郊外から都内西荻窪に転居したことである。詳しくは笠井潔氏との往復書簡に書いたのでそちらを見てほしいが、この転居はそれなりの心境の変化をもたらした。
いずれにせよ、引っ越しは単純に疲れる。とくに、ぼくのような、普段まったく運動をしないくせに、本雑誌類を大量に梱包しなければならない人間にとって、引っ越しは地獄である。神経面でも、新しい土地に引っ越すと、とにかく情報量が増えて疲労が溜まる。転居して10日が経ったというのに、まだ疲労と興奮が去っていない。そのせいで仕事に本腰が入らず、いまやかなりスケジュールが煮詰まっている。というわけで、今回もこれで失礼する。
そうそう、最後にひとこと。今度始まる『中央公論』での連載「情報自由論」は、基本的には、前作の『動物化するポストモダン』、構想中のP・K・ディック論とあわせ、「ポストモダン3部作」のひとつになるものだ。この3つはすべて、『InterCommunication』誌でかつて行っていた連載(自分的には失敗作だと思っているので未公刊)からのスピンオフで生まれた。しかし、今度の新連載も、『動物化』と同じくほとんど思想用語を使わないで書くと思う。『動物化』も「情報自由論」も、現代社会に関心のある読者に広く読んでもらいたいからだ。前者が消費社会論だとすれば、後者は権力論として書かれている。前者はサブカルチャー的な問題を、後者は政治的な問題を対象にしているが、読むひとが読めば同じ問題を追求しているということが分かるはずだ。少なくともぼくは、そう信じている。
毎度毎度長い近況欄を書くのも疲れてきたので、今回は短く。数日前に佐藤友哉の新作『水没ピアノ』(講談社ノベルス)を読んだのだが、これは傑作だと思う。ミステリ読みのあいだでは評判が悪いらしいが、僕にはトリックや謎解きの判断基準はよく分からないし、正直あまり興味もない。彼らが佐藤友哉をミステリではないと言うのならそれはそうなのだろうが、そんな判断には関係なく、この若い(1980年生まれ)小説家には何か本物の才能がある。
誰もが感じるように、九〇年代以降の日本社会はかなり悲惨なことになっている。しかもその悲惨さの原因がだれにも分からないほどに悲惨になっている。確かに不況だし失業率も高いし政治も混乱しているが、それだけではこの殺伐とした空気は説明できない。携帯もあるしネットもあるしコンビニもあるのだから、ぼくたちはもっと陽気に生きることができる。しかしそう振る舞っても何かがうまく行かないし、しかもその理由がよく分からない。『フリッカー式』と『エナメル塗った魂の比重』がその不条理をできるだけ薄っぺらな(それこそエナメルのように)文章で書こうとした小説だったのなら、『水没ピアノ』はそこから逃げだそうとした小説だ。ぼくはその勇気は高く買いたい。
ちなみに言えば、いちおうこの小説にもメタミステリっぽいところがないわけではない。それに佐藤友哉の今度の小説は、上遠野浩平と清涼院流水以降の新しいノベルの可能性を、文芸誌から注目を浴びている舞城王太郎よりむしろはっきりと指し示しているように思う。したがってこの作家を批評的に擁護することは可能なはずで、もしかしてそれはそれで批評家としてのぼくの役割なのかもしれない。しかし、『水没ピアノ』を読んでいるとき、ぼくはもうあまりそういうことは考えなかった。これは単純に感動的ないい話なのだ。ぜひ読んでもらいたい。
人間には間違いがつきものだ。とはいえ、自分の文章や発言に間違いを見つけると、それがどんな些細なものであれ、なんとも言えないウンザリした気持ちになる。思えばぼくは、昔から、テストのときは必ず計算ミスや漢字の書き間違いをして点数を失うやつだった。いまは受験シーズンだが、ぼくは12年前、東大二次試験の1日目に古文と漢文のページを、2日目には世界史と地理の解答用紙を間違えて半分以上の解答欄を埋めてしまい、半泣きになりながら消しゴムを掛けてまるまる書き直すという情けない経験をしている。というわけで、また新たな例を見つけたのでご報告しよう……。
問題の箇所は、『大航海』最新号のp.87。斎藤環氏との対談。そこでの話題は例のソーカル事件だ。ちなみにソーカル/ブリクモンの『「知」の欺瞞』へのぼくの評価は、事実の指摘としては正しいし、アメリカの状況で彼らの批判が重要だったことも理解できる、しかし、それをもってポストモダニズム全体を忘却することはできないし、とりわけ日本の言説空間での有効性は疑わしい、というもの。その理由は、第一に、ポストモダニズムとは純粋な学というよりも政治的文化的運動であり、ソーカルたちの批判はその部分に届いていないということ、第二に、日本ではポストモダニズム(フランス現代思想)はもともと特定の世代のファッションでしかなく、彼らの数学的隠喩が「知」として大学内で猛威を振るったという事実もない以上、ラカンやドゥルーズのいい加減さを科学的に証明したところでどのような効果があるのか、はなはだ疑わしいということが挙げられる。これらの点については、対談でもそれなりに語っているのでそちらを見てほしい。
さて、そのような流れのうえで、ぼくはその対談で、そもそも理系的な厳密さという観念がどれほど広く使えるものなのか、という疑問を提示している。そしてそこでぼくは、
だれかが「政治家には力がある」といったとき、「それはジュールで計れるものではないから力という用語を使うべきではない」と言い出したら、切りがないじゃないですか。
と発言しているのだが、もうお分かりのように、この発言は中学生のレベルで単純に間違っている。ジュール(J)は、仕事あるいはエネルギーの単位であり、力の単位ではない。力の単位はニュートン(N)。Nは1kgの物体に働いて1m/s^2の加速度を生じさせる力として定義される。そして仕事の単位は、力の単位と距離の単位の積で与えられる。つまりジュールはニュートンとメートルの積だ。いやはや……。
この間違いは発言の主要な流れとあまり関わりがない。とはいえ、話題が話題なだけに揚げ足とりも予想されるので、まず自分から指摘しておくことにした。理系的な言葉遣いを何もかもに押しつけられても困っちゃうんですよ、と言っておいて、その場で物理の初歩の初歩的な間違いをしているのだから、もう救いようがない。自分でも笑ってしまった。ちなみに言い訳を述べておけば、この対談は、完全にデータで校正を行っており、紙面での最終チェックは行っていない。分量も原稿用紙で130枚以上(つまり5万字以上)あるため、この誤りを見落としてしまったのは、やはり作業量が膨大だったせいだと思う。活字として自分の発言を眺めたら、すぐにこの誤りに気がついた。とはいえ、ぼくの間抜けさが際だつケースであることは間違いないだろう。
*
というわけで、「東浩紀は間抜けだ」的な非難は存分に受けるとして(笑)、ではなぜこんなバカげたミスをしてしまったのか、少し真面目に言い訳してみよう。ぼくはもともと科学史・科学哲学を専攻していた。というわけで多少は大学の授業で学んだのだが、力の概念はかなり思想史的に入り組んだ背景をもっている。村上陽一郎(彼はぼくの教師のひとりだった)の整理によれば、その概念には大きく二つの系譜がある。
ひとつは、力を物質に本質的に内在するものだと捉えず、むしろ他からの働きと考える立場だ。それは、アリストテレスに始まり、ギリシア、イスラム、中世ヨーロッパの運動論において支配的だった。近代科学も基本的にはこの立場を採っている。そしてもうひとつは、力を物質に内在し、それを動的に変化させるものだと考える立場。こちらの力は物質に潜在し、隠れたものだと見なされる。この思考は、古くはプラトン主義にまで遡り、中世には新プラトン主義の魔術的世界観と結びつき、ケプラーやニュートンを含む多くの近代哲学者に影響を与えた。そののちもドイツ・ロマン主義や自然哲学に受け継がれ、19世紀後半に確立されるエネルギーの概念の哲学的な母体を用意する。つまり、「力」という言葉には、思想史的に見て、現在の物理学で「力」と「エネルギー」として区別される二つの概念をともに抱え込むような曖昧さを抱えているのだ。私たちが「力」という言葉を使い続けるかぎり、この曖昧さから逃れることはできない。
おそらくぼくが、力の単位としてニュートンではなくジュールを挙げてしまったのは、この両義性が念頭にあったせい、というよりも、このときまさにその両義性について話そうとしていたからである。だからといってぼくの迂闊さが許されるわけではないのだが、とにかく、ぼくがそこで言いたかったのは、「力」のような複雑な歴史をもつ言葉を両義的あるいは隠喩的に使うこと(たとえばドゥルーズが、puissanceというフランス語を力と累乗の二つの意味で用いたように)は、現在の物理学に照らせば単なる無知蒙昧に見えるだろうが、つい数世紀前まで遡って見れば逆に厳密なこともありうるはずだということだった。ただぼくは、それを分かりやすくするために「政治家の力」なんて不用意な比喩を使い、その両義性に自ら絡みとられて墓穴を掘ってしまった。「政治家の力」というと、ビリヤードの球のような作用反作用の関係よりも、やはり熱量のイメージが近い。だから愚かなぼくのニューラルネットは、ジュールの記憶が蓄積されているニューロンをより強く発火させてしまったのだろう。
あらゆる言葉は曖昧である。その事実から出発した20世紀の人文科学は、自らをシニフィアンの学として規定した。シニフィアンとは、現実との対応関係が固定していない記号のことである。シニフィアンは現実から浮遊している。その浮遊から意味と主体が生まれる。精神分析とハイデガーと構造主義以降、20世紀の人文科学は、そんな浮遊した記号の特性をさまざまな方法で分析し続けてきた(カルスタ、ポスコロと言われている1990年代の学問もその点は変わらない)。対談でも述べているように、ぼくは個人的にはその規定の絶対性と普遍性を疑っている。しかし、前世紀の学者たちが試行錯誤のうえで到達したその結論の深さを、ぼくは十分に尊重している。それに対して、用語の厳密さを性急に求める人々は、要は、人文科学でも現実と一対一対応した記号を使えと要求している。つまりシニフィアンについて考えるなと要求している。それは常識的には正しそうに見える。しかしその主張は原理的には、20世紀の人文科学の達成全体の拒否を意味している。むろん、フロイトもハイデガーもソシュールもラカンもデリダもフーコーも、みんな一緒くたにあくまでも否定だと言い張る覚悟なのであれば、それはそれでも構わない。しかし、ソーカル/ブリクモンの尻馬に乗ってこの国でポストモダニズム批判を書き記した論者の、果たしてどれだけがその喪失の大きさについて真剣に考えていただろうか。ぼくはそういう論者に対しては、あくまでもポストモダニズムの側に立つ。
ちなみに最後に付け加えれば、同じ「力」と訳される言葉でも、英語のpowerは、力(force)でも仕事(work)でもない、「仕事率」という別の概念になるようだ。その場合はニュートンでもジュールでもない、ワットという単位が使われる。政治家の力はニュートンでは計れそうにないが、ワットでなら計れそうだ。もし対談会場で、日本語の「力」ではなく、英語の「power」を使っていたら、ぼくは以上のような間違いをしなかったかもしれない。言葉とはかくもいい加減なものであり、そのいい加減さについて考えるのが人文科学者の使命である。
謹賀新年。今年もこのサイトをよろしく。
---以下『未来にキスを』のネタバレあり--
さて、新年からいきなりオタク系の、しかも時期外れの話題で失礼するが、ここのところの休みを使って、ようやく昨年9月に発売された『未来にキスを』(otherwise)をプレイすることができた。知るひとぞ知るように、このギャルゲーについては、発売当初から、ウェブの一部で、私の『動物化するポストモダン』(より正確にはその『ユリイカ』連載版)の明らかな影響があるという噂が流れていた。そもそもこのゲームのシナリオ担当である元長柾木氏は、前作『Sense Off』でも、ライプニッツやらサイバネティクスやらを匂わせて奇妙な世界を作りあげていた人物だった。というわけで以前から気にかかっていたのだが、どうも時間が取れず、年が明けてようやく現物にあたれたというわけだ。
それで感想だが、このギャルゲー、というより「メタギャルゲー」(としか思えないくらいにシナリオの方向性と乖離したイラストが採用されているだが)にどれほど私の本が影響を与えたのか、率直に言って判断できない。だれもが分かるような引用があるわけではないからだ。ただ、ラストエピソード「Genesis」に登場する抽象的な会話の言い回しが私の言葉使いにとても似ていることは確かで、そういう意味で、このゲームの「元ネタ」として私の本が話題になったのは納得がいった。元長氏は私の連載をゲーム制作前に読んだのかもしれないし、読んでいないのかもしれない。そのどちらであったとしても、このゲームの最後で語られているような世界観、というかコミュニケーション観が、私自身のものと近いのは確かだ。
たとえばこの作品のエンディングには、つぎのような「ポエム」(元長氏自身があるキャラの台詞に託してそう呼ぶのだが)がスクリーン上を流れる。
俺たちは今、現実と歴史が混じり合う場所に立っている
未来へのスタートラインに立っている
この先は、論理も何もない世界だ
文脈も物語もない
あるのはただ、ばらばらで、互いに関連づけられていない
存在しないものたちだけ
その世界に、人間なんていない
彼らは、もう滅び去ってしまった
俺たちもまた、もう人間ではない何かへと変化してしまった
そこは、欲望あふれる荒野だ
ただキャラクターがいて、ゲームがあるだけ
キャラクターたちがゲームを繰り広げる、この新しい世界
そんな世界へと、俺たちは今、足を踏み出そうとしている
そう
圧倒的な楽園に向けて
この文章は、もし私がもう少し怖いもの知らずだったとしたら(笑)、『動物化するポストモダン』の末尾に書き記していたとしても決して不自然ではない。それくらい言葉使いが似ている。だから私は、このエンディングロールを眺めて、嬉しいような気恥ずかしいような、少し奇妙な経験を味わった。
*
というのが元ネタ問題についての私自身の見解だが、それとは別に、この作品をプレイして感じたことがある。上に引用したように、『未来にキスを』は、「ギャルゲー新世紀宣言」とでも言うべき一種の予言、というか、世界観をブチ上げて終わっている。つまりこのゲームは、新しい時代の到来を告げて派手に終わっている。それは一見、新人類/80年代的な振る舞いにも見える。新人類は「新しい時代」が好きだった。実際、当時は「アニメ新世紀宣言」なるものもあった。
しかし同時に、この作品はギャルゲーでもある。つまり、あくまでも主人公とキャラのあいだの疑似恋愛を(そしてそれだけを)描く、閉鎖的で虚構的な箱庭的世界を舞台としたゲームでもある。『未来にキスを』の世界には、国家も政治も歴史も社会もない。したがって、当然のことながら、そこで交わされる「哲学的」な会話のなかにも、国家も政治も歴史も社会も入る余地がない。そこで語られるのは、ただ、「私」と「あなた」のコミュニケーションの性質という抽象的な問題だけだ。
それゆえ『未来にキスを』で「新しい世界」の到来が宣言されることには、ギャルゲーという箱庭の外の世界、いわゆる「現実社会」の動きはまったく関係しない。つまり、元長氏がここで「新しい時代が来る」と叫んでいることには、かつて新人類世代を支えたような、資本主義の段階がどうとか、情報化社会がどうとか、そういう大きな物語=問題意識がほとんど関係していない(携帯ゲームの普及が少し語られるだけだ)。かわりに彼が描くのは、「私」と「あなた」のコミュニケーションという小さな物語のみである。そして、その問題についてグルグルと考察した結果として、あくまでも抽象的に、もはや私たち人間にはゲーム的なコミュニケーションしか残されておらず、それを肯定しなければ生きていけないのだ、という宣言が出てくる。『未来にキスを』のエンディングは、そのような実存的な動機に支えられている。
だから『未来にキスを』の宣言は、80年代的な脳天気さに近いようでいて、限りなく遠い。そこでは、ゲーム的(お望みならばそれをポストモダン的あるいは動物的と言ってもいい)な「新しい世界」が肯定されるのは、それが自明に素晴らしい未来だからではない。むしろ、それを素晴らしいと思わなければならないくらい、私たち自身の能力が貧しいからなのだ。言い換えれば、「私」という人間と「あなた」という人間のコミュニケーションなど、最終的には無理に決まっているからだ。そして、にもかかわらず、たいていの人間にとって、そのギャルゲー的=対幻想的な箱庭を超えるものなどなにもなくなってしまっているからだ。つまり、この21世紀を迎えた日本に住む私たちには、小さな人間的なコミュニケーションも、大きな世界観も、ともに与えられていないからだ。『未来にキスを』がギャルゲー的なコミュニケーションのありかた(お互いがお互いの内面=属性だけを見つめ続けるコミュニケーション)を肯定するのは、それが、この不可能性を迂回する唯一の現実的な方法だからである。この作品の箱庭的世界は、その一点で現実と接している。
おそらくこのような実存的、というか疑似実存的(何と言ってもそれはギャルゲーに仮託しなければ話せないような実存なのだから、「疑似」と付けておくしかない)な思考の道すじは、80年代的な「逃げろや、逃げろ」を知る人々からすれば、ウザくて鈍重なだけに見えるだろう。また見方によっては、古くさい文学性への回帰にすら映るかもしれない。しかし、その鈍重さにはやはり何らかの切実さが宿っている。そこで見えてくる世界がどれほど自閉的で悲惨であろうとも、あえて「圧倒的な楽園」と言い、その「未来」に「キス」をしてしまうぐらいには。そしてその切実さに対しては、この作品がゲームとしてよくできているかどうかといった問題(実のところそういう評価基準は私にはどうでもよい)とは関係なく、私自身は強く共感する。
*
あと少しだけ筆を滑らせよう。私はいままで実質的に2冊の本しか出していない。『存在論的、郵便的』と『動物化するポストモダン』である。この2冊は題材もスタイルもずいぶんと違うので、普通は連続的に読まれないし、また私もそれを期待していない。実際、いまや、私自身ですら、『存在論的、郵便的』で何を書いたのか、かなりの部分を忘れかけているくらいだ。
しかし思えば、その『存在論的』よりさらに以前、デリダはおろか、まだ柄谷行人や浅田彰の名前すら知らなかった高校生のころ、私もまた、「私とあなたのコミュニケーションという小さな物語」ばかりを突き詰めて考えていたのだった。恋愛対象を探すのすら難しい男子校の教室の片隅で、私はただ、「私」はあなたを愛することができるか、私はあなたに「愛」を伝えることができるのか、そもそも「あなた」の唯一性とは何なのか、そんなことばかり抽象的に考えていたような気がする。思えばアブない高校生だが、哲学者なんて志すのはそういうヤツに決まっている。
そしてそのモチーフは、『存在論的』と『動物化』を貫いてずっと生きている。私とあなたは分かりあえるのか。伝統的にこの問いに対しては、2種類の回答しかない。いつか分かりあえるという答えと、絶対に分かりあえないという答えだ。『存在論的』の言葉で言えば、前者が「形而上学的」回答で、後者が「否定神学的」回答ということになる。そして、否定神学的な、つまり「絶対に分かりあえない」という答えには、実はオマケがついている。私たち人間にとってはその「絶対に分かりあえない」ということこそが大事なのだから、その不可能性を正面から見据えて生きて行け、という倫理的な要請だ。別の言葉で言えば、人間間のコミュニケーションは不可能だから、神とのコミュニケーション(内面にしかないコミュニケーション)だけを信じろ、という要請である。
しかし私はその両者とも気にいらなかった。そこで私が『存在論的』で「郵便的」という言葉で高らかに宣言しようとしたのは(当時の私自身の自意識としては、これはもう革命的なアイディアのはずだった)、そのどちらでもない別のコミュニケーションのモデルである。
私とあなたは絶対に分かりえない。したがって、私は私の内面を、あなたはあなたの内面を見つめることしかできない。しかし、にもかかわらず、私の内面に見えるものはひとつではない。つまり神はひとつではない。私のなかには、たくさんの「神々」が、コミュニケーションのモジュール(『未来にキスを』で言う「属性」)が詰め込まれていて、あなたのなかにもまたたくさんのモジュールがあり、それらが勝手に衝突しあうことで、「私」と「あなた」のコミュニケーションは成立している。「私」というひとりの人間、「あなた」というひとりの人間、その両者は決して出会うことがないけれど、しかし、私の手とあなたの手が、あるいは私の唇とあなたの唇が、あるいは(あえてオタク用語を使うならば)私の「萌え要素」とあなたの「萌え要素」が、ほかにもさまざまな局所的で部分的なものたちが勝手に出会い、勝手に離散することで、私たちのコミュニケーションは成立している(ように見える)。私が考え続けているのはそういう問題だ。
オタクたちのジャンクで奇妙な想像力は、ときに、その郵便的なコミュニケーションの本質に肉薄する迫力を見せる。私たちは、ギャルゲーのキャラクターに対するようにしか、ひとと接することができない。肯定するにせよ、否定するのせよ、それが人間の条件なのだ。それは世代とも時代とも関係ない。『動物化するポストモダン』は、徹底してマニュアル的で社会学的で世代論的な分かりやすさを目指して書いたのだが、本当のところ、そういうことが言いたくて書いたような気がする。久しぶりにギャルゲーをきちんと攻略して、そんなことを思い出した。(1.19「ネタバレ」表記加筆)