このページには、2003年に「経歴と近況」ページの「近況」欄に書かれた文章が保存されています。
いま取りかかっている原稿がいっこうに進まないので、逃避のため近況欄を更新する。
例によって前回の更新からかなり時間が空いてしまったわけだが、このあいだ何をやっていたかというと、とりあえず、6月半ばは網状関係者で行くソウル・ツアーに向けて盛り上がり、そのあとは9月発行の「ファウスト」創刊号(講談社)に掲載予定の論考を書いていた。
前者の旅行は、『ゲームラボ』今月号のコラムでも書いたように、マンガ出版社訪問、森川嘉一郎氏ディレクションによるオタクショップツアー、斎藤環氏によるひきこもり事情取材、それに日韓オタク交流会(正式名称は「アジア文化コンテンツフォーラム」)の立ち上げなど、とにかくテンションの高い旅行で、幹事をやった僕はそのあと一週間は廃人と化していた。詳細は、明日25日に行うイベント(トップページの告知参照)でプライベート写真のスライドショーを交えて楽しく報告会をするので、暇なひとはぜひ覗いてほしい。
後者の論考は、初回分が原稿用紙70枚の連載もの。「ファウスト」のメールマガジンでは80枚と予告しているのだが、そのあと区切りのいいところまで削除したので70枚になった。それでも僕としては破格に長いほうだ。タイトルは「メタリアル・フィクションの誕生」(仮)。『動物化するポストモダン』の応用文芸編といったところで、小説とかノベルゲームとかの話。第2回以降も同じ調子で続く。もし途中で挫折しなければ、全部で250枚は超える。
僕は文芸評論を実に久しぶりに書いた。『動物化するポストモダン』や「情報自由論」のような社会批評系の、つまり世の中のためになりそうな仕事(?)と違って、文芸評論を書いていると、途中でいったい何のために書いているのかよく分からなくなってくる。文学なんて大方のひとにとってはどうでもいい存在だし、良い作品はどうせ批評家がいなくても支持されるのだから、文芸評論の執筆は最終的には自己満足としか言いようのないところがある。今回もその点でかなり鬱になった。
しかし、それだけに、僕はこの論考の内容に対してはきわめて真剣である。僕のような出自の人間がゲームやライトノベルを取り上げると、すぐ「文学がサブカルに擦りよってきた」とか非難するひとがいるし、逆に「おいおい、何マジになってんだよ」的に揚げ足を取る連中も多いのだが、それでも僕はこういうものを書いた。まあ、あとは好きに文句でも何でも言ってくれ、という感じだ。申し訳ないのだが、僕は最近、僕に悪意を向ける読者を説得するのに疲れてきた。たぶん年齢のせいだと思う。それとも昨年の経験のせいか……?
そうそう。あと、前に近況欄でも予告していたDVD-ROMが完成した。8月17日のコミケで発売を開始する。ここに予約ページを作ったので、購入するつもりのひとはできれば名前を登録してほしい。というのも、僕の場合、読者のどれくらいがコミケに来る人々なのか分からないので、コミケで何枚売れるものなのかさっぱり予想が立たないのだ。登録数に応じて販売枚数を決めるので、何の特典もないけれど(いや、実はひそかに考え中なのだが)、アンケートだと思って協力してくれるとありがたい。内容的にも、西島大介氏の新作映像も入っているし、斎藤さんや鈴木謙介氏もいるし、メタ板書システムも面白いし、けっこう自信作だ。
実は今日は僕の誕生日で、めでたく32歳を迎えました。
その記念というわけでもないのですが、ここ半年ほど、友人とともにひそかに制作していた自主制作DVD-ROMの告知ページを公開します。ご覧になれば分かりますが、2年前の手作り感溢れるCD-ROMに較べるとかなりまともになっています。これからしばらく、特別収録のインタビューで用いる質問を広く受けつけますので、告知ページの指示に従ってどしどしお寄せください。完成版は8月発売予定です(いちおうは)。
2カ月近く時間が空いての更新である。最近はひとつきに一度は必ず更新していたのだが、今回は、著書が増えて経歴欄が一杯になってきたので、経歴ページと近況ページを分けて、少しサイトの構造を整理してみるか……などと考えていて、いたずらに更新が遅れる始末になった。結局、もとのまま、近況の文章だけを更新することとなった。申し訳ない。
ところで、去る4月にはいろいろ身辺に変化があった。まずは、経歴欄を見ても分かるように、国際大学グローバル・コミュニケーション・センターという新たな組織に併任で所属することになった。併任、というのは、契約にあたってわがままを聞いてもらい個人の批評家活動が本務になっているからなのだが、それでも上司や同僚やオフィスができたわけだし、なにしろ僕はいままで学生としてしか組織のなかに身を置いたことのない人間なのだから、驚くことばかりだ。……なんて書いていると新入社員の日記みたいだが、実際に新入社員なのだから仕方ない。
そして、そのGLOCOMの繋がりで、3月と4月には、実に多くの人々に紹介された。スタンフォード日本センターのリサーチフェローになったのもその縁だ。これほど一気に人間関係が変わったのは、大学入学以来であり、とにかく刺激的だった。今月からは、この刺激を、いかに自分のいままでの仕事と連結させていくかが課題になるのだと思う。
さて、もうひとつ、4月には共著で2冊の本を刊行した。笠井潔氏との往復書簡集『動物化する世界の中で』(集英社新書)と、大澤真幸氏との対談集『自由を考える』(NHKブックス)である。前者は、昨年ウェブ上で連載された往復書簡の書籍化であり、その時点ですでにいろいろな意味で話題になっていたので、あらためて内容を説明する必要はないだろう。そこでここでは後者についてだけ述べておきたい。
『自由を考える』は、決してお気軽な対談本などではなく、著者たちとしてはきわめて真剣に取り組んだ共著である。本書は、1995年以降の動物化や9・11以降のセキュリティ強化などを睨みながら、僕たち2人の現在の仕事(大澤氏の「<自由>の条件」「<公共性>の条件」と僕の「情報自由論」)を相互に検証しあうような内容になっており、対談本としては例外的に読み応えのあるものになっていると自負している。また、マイケル・ムーア監督の『ボウリング・フォー・コロンバイン』(このドキュメンタリーもまたすばらしい!)の話から始まる大澤氏のあとがきは、9・11やイラク戦争の思想的な意味について考えたい読者にとっては、とてもよいイントロダクションになっている。
『自由を考える』については、上記のような慌ただしさに追われて、このサイトでは事前にほとんど宣伝できなかった。しかし、この著作は僕にとってかなり大事なもので、僕の仕事の、批評家的というより研究者的な側面(僕自身はほとんどその両面を区別していないのだが、とにかくそう分けるとして)に興味のあるひとには、ぜひ手に取ってもらいたい。この本を読めば、10年前の「ソルジェニーツィン試論」から、『存在論的、郵便的』と『動物化するポストモダン』を通って「情報自由論」まで、あるていど一貫した問題意識をもって仕事をしていることが、少しは分かってもらえるのではないだろうか。少なくとも、僕としては、そう期待している。
またもや1ヶ月以上あいだが空いてしまった。どうもこのところ、4月に出る2冊の新著の準備に加え、年度替わりということもあって周囲が慌ただしく、原稿掲載の予定が少ないわりには妙に忙しいのだ。
とはいえ、この全身を覆う疲労感については、パーティに出ると必ず二次会まで、ときに朝まで付き合う、という習慣が決定的にまずいのだと思う。実は僕は酒についてはからきし無趣味で、モスコミュールという甘ったるいカクテルが大好きでいつも水のようにバカ飲みしてきたのだが、最近はついに二日酔いが深刻になってきた。今年は僕も32だし、高級ウィスキーでもちびちび舐めて、一次会で姿を消すクールな男になるように努力しよう……。
ところで、この1ヶ月のあいだにもそれなりに仕事はしていた。まずは「網状言論F RePure」だ。やはりこのイベントの総括もしておかねばなるまい。
なるまい……とは思うのだが、それももうずいぶん前になってしまい、タイミングを逃してしまった気がする。鈴木謙介氏と佐藤心氏の発表はそれぞれ示唆的で、あのまま眠らせるのは実にもったいないのだが、いまはとりあえずは、西島大介氏がイベントのため特別に作ってくれた映像へのリンクを張って、読者の寛容を期待することにしよう(西島さんの好意で期間限定で公開してよいことになった)。ヒップホップに乗って「網や紙では キャッチできんTruth / をすくう さっきできた画期的なブルーズ」という言葉が繰り返される、快調なサンプリング映像だ。重層的な引用が張り巡らされているらしいのだが、その解読ができたのはパネラーでは鈴木さんだけという問題作でもある。RePureの討議の内容については、将来何らかのかたちでフォローしたい。
あとは……最近読んだ本でここで紹介しておきたい一冊として、早稲田大学の森川嘉一郎氏の『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』(幻冬舎)を挙げておくべきだろうか。森川さんの仕事は以前より注目していた(『動物化するポストモダン』の注には森川さんの名前が出てくる)ので、書籍のかたちでこのようにまとまって読めるのは実に喜ばしい。この著作は、秋葉原の都市風景とオタク系文化、あるいはインターネット文化(日本ではこの両者はかなり重なっている)の構造的な関係を扱っており、オタク論の文脈だけではなく都市論・東京論の文脈でも大きなインパクトをもつものだと思う。
ところでこの本と関係しての話だが、昨年、筑波大学の北田暁大氏によって『広告都市・東京』(廣済堂出版)という著作が出版され、話題になったのはご存じだろうか。『趣都の誕生』では渋谷と秋葉原が対置されているのだが、その構図に違和感を感じたかたは、つぎに『広告都市』を読むことをお勧めする。こちらは今度は渋谷論である。森川さんの議論と北田氏の議論は、微妙に擦れ違っているのだが、ともに1990年代の東京を総括するうえで外せない視点だ。
こんなところで長く評論を書くわけにはいかないが、僕の見るところ、森川さんの議論も北田氏の議論も、ともに、仮想敵、というか分析(脱構築?)の対象は1980年代の渋谷的=セゾン的=広告代理店的なマーケティングであり、その点で問題意識を共有している。そのときの議論の枠組みを、森川さんは「渋谷対秋葉原」として、北田氏は「1980年代の渋谷対1990年代の渋谷」として切り取ってきているので、表面的には秋葉原論と渋谷論の対立とも見えかねないが、それは戦略上の差異にすぎないように思われる。彼らのモチーフは、要は、1980年代の渋谷をいかに克服するか(あるいは、すでに克服されたことを証明するか)なのだ。そして、それは、僕自身の『動物化するポストモダン』とも深く通底するモチーフである。したがって僕は、この2冊を、とても面白く、かつ個人的な実感を伴って読めた。これはこれで嬉しい経験だ。
しかしひとつだけ気にかかることがある。それは、以上のモチーフが、もしかしたら、きわめて世代的で地域的なものなのではないかという疑いである。森川さんも北田氏も僕もともに同じ1971年生まれであり、しかも、プロフィールなどから察するに、全員が東京郊外の出身のようだ。だとしたら、ここで3人が共有している感覚は、ほんの10歳下の世代、あるいは首都圏以外の人々にとってはまったく無意味な、きわめてマイナーなものなのかもしれない。むろん、僕自身はそうではないと信じている。とはいえ、いままで先行世代の連帯意識を陰に陽に批判してきたからには、同世代のクリエイターや論客が出揃うであろう今年以降、僕はそのような危険に最大限に敏感であり続けねばならないだろう。ひとは、すぐに、仲間内だけの問題を普遍的だと思ってしまうものだ。
ご無沙汰している。また1ケ月以上の時間が空いてしまった。1月は、このサイトで告知している以外の仕事も多くてなかなか時間が取れなかった。いまはちょっと暇になってきている。この近況欄が更新されているときは、たいていは暇なときだ。
ところで、どうせいつか報告しなければならないことなので報告しておくが、昨年の秋以来の懸案事項(?)である大塚英志氏との元・共同編集の雑誌、『新現実』の件、さまざまな紆余曲折を経て、次号の目次には、僕は一切関知しないことになった。つまり共同編集でなくなっただけではなく、編集協力も降りた。その理由は、僕が依頼した3人の原稿が、僕が掲載するべきだと言ったにもかかわらず、結局掲載されないことに決まったことにある。
さまざまな機会に述べてきたように、この共同作業の最初の出発点は、大塚氏か僕か、どちらかがゴーサインを出せば、他方が反対してもその原稿は掲載されるということにあった。僕もまた、その前提のうえで、上記3人の書き手に小説や評論を依頼していた。そしてその依頼内容は、大塚氏と角川書店もきちんと承諾していたのである。
ところが今回は、原稿が揃ったあとになって、その前提が突然のように覆されてしまった。『新現実』はいちおうは角川書店から出版されているとはいうものの、内実は大塚氏のボランティアとコネクションに支えられている個人誌であり(そもそもこの雑誌の原稿料は、僕の編集協力費を含めて、角川ではなく、大塚氏の事務所から支払われる形式になっている)、彼の判断は絶対的に強い。したがって、一部の執筆者に不義理をしても仕方ないし、東浩紀の判断を尊重するという約束を覆してもよい、そのほうがいい雑誌ができる、と彼が判断すれば、もう僕の立ち入る隙はない。角川書店の編集者がどちらの味方であるかは、言うまでもない。というわけで、スジの問題として、僕は編集協力を降りざるをえなかった。そうでなければ、上記3人に申し訳が立たない。『新現実』第2号には、僕が翻訳するレッシグの短い講演と、その解説が掲載されるが、それ以外は一切関係していない。
とはいえ、誤解しないでもらいたい。これは仲違いではない。今回の件は、きわめて穏やかな話し合いで片づいており、大塚氏と僕のあいだには感情的なしこりはない。そういう「プロレス」は何も起きていない。今回、僕が降りるような事態になったのは、むしろもっと実質的な、内容に関わる見解の相違が原因である。もしかしたら、それこそ深刻な事態なのかもしれないが、いずれにせよ、僕は大塚氏の編集する新しい『新現実』を楽しみにしているし、彼もまた別に不愉快な感情を残してはいないだろう。そして実際に、成り行きによっては、第3号での編集協力への復帰の可能性もまだ残されている。上述の原稿は、いまのところ次号に掲載ということになっているからだ。
では、どのような相違があったのか。これもまた、今後あちこちで尋ねられそうなので、あらかじめ報告しておく。もはや『新現実』は僕の雑誌ではないので、あまり情報を漏らすわけにもいかないのだが、次号の目次は創刊号とは大きく変わっている。執筆者の多くが大塚氏と同年代となり、特集や対談のテーマも、天皇や北朝鮮や核問題など硬めのものが中心になっている。新人の評論もいくつか載っているが、彼らはみな大学院生やポスドクばかりである。白倉由美や佐藤友哉がいまや『群像』の作家であるということを考えれば、次号で、文芸編集者や論壇編集者の知らない世界から現れた、純粋にサブカルチャー志向の原稿と言えるのは、僕が半ば強引に押し込んだ佐藤心のTactics/Key論しかないかもしれない。
つまりは、なるほど確かに表紙は有名イラストレイターの描き下ろしだし、アンダーセル関係でコミックも掲載されてはいるのだが、次号の『新現実』はサブカルチャーの読者ではなく論壇の読者を向いているのだ。このような状況のなか、ライトノベル関係で執筆を依頼した東浩紀担当の3人の原稿は、原稿用紙にして250枚近くもの量であるにもかかわらず、みな掲載を見送られることになった。これは、個々の作品についての判断というものでもなければ、感情的な仲違いというようなものではなく、むしろ方向性の違いと捉えるべきだろう。大塚氏(と角川書店?)は、今回は、東浩紀の編集協力を捨てることになっても、『新現実』は論壇向けの戦略で行くべきだと判断を下したわけだ。これこそがおおもとの原因である。
ふたたび誤解のないように付け加えておくが、僕は別に、サブカルチャーの読者が論壇の読者よりも重要だと考えているわけではない。実際、昨年から今年にかけて僕がいちばん力を入れている仕事は、『中央公論』の「情報自由論」であり、それは(表面上は)サブカルチャーとは何の関係もない。僕はオタク系の問題はテーマとしてとても刺激的だと考えているが、昔も今も、僕の主要な読者は思想系や論壇系である。だから、大塚氏が考える新雑誌の方向性はよく分かるし、それはそれで重要だとも思う。
しかし、僕には、そのような「新しい論壇誌」をいまさら大塚氏と僕で立ち上げることの必然性がよく分からない。いや、新しい論壇誌を立ち上げるなら立ち上げるでもいいのだが、大塚氏の選択はあまりに性急すぎるように感じる。彼は、論壇の期待に応えすぎなのではないか。そしてその「期待」も、同年代の論客や記者や読者が共有する期待でしかないのではないか。それは、論壇の文脈においてでさえも、もはや本当に求められているものではないのではないか。
『新現実』創刊号については、何だかよく分からん、という感想が多かった。それはそのとおりで、あれは編集している僕たち自身にもよく分からん雑誌だったのだ。しかし、あの時点では大塚氏と僕には、そのような「よく分からん」こそが面白いのだ、という共通認識があった(と思う)。対照的に、今度の『新現実』は、決して買って損はしない雑誌になるだろう。執筆者には名がある書き手、あるいは肩書きのある新人ばかりで、テーマも話題にしやすいものばかりだ。だから好評で迎えられるに違いない。新聞の文化面でも取り上げられるに違いない。そして僕自身も、読者だったならば、さすが大塚氏、こう来たか、と興味をもって手に取るに違いない。しかし、そのような雑誌は、大塚氏であれば、別に僕がいなくても作れるはずである。
あけましておめでとう。
年末を待たず、12月上旬からすっかり休暇モードだったので、頭も体もなまってしまった。そのせいかいまは風邪をひいている。僕の場合、最初は喉に来て、それから鼻水が止まらなくなり、今度は咳という風に推移しているが、病院務めの妹(僕には妹がいたのだった)によると、いま流行の風邪はむしろいきなり腹にくるらしい。下痢と嘔吐でとんでもないことになるのだそうだ。どうも新年に相応しい話題ではないが、とりあえずみなさんお気をつけて。
ところで、このように休暇ばかりが続くわけもなく、新年にはいきなり原稿の締切が相次いでいる。清涼院流水の文庫本解説、宮台真司+奥平康弘『憲法対論』書評、レッシグの短い講演の翻訳、大澤真幸氏との対談集の脱稿、そして、もはや亡霊のように取り憑いている中央公論の連載、と続くわけだが、そんななか忘れてはならないのが、『網状言論F改』の出版である。
これは僕がはじめて「編者」として関わった書物だ。詳しくは「はじめに」を読んで貰いたいのだが、この評論集ができるまでには紆余曲折があり、こうして書籍のかたちになってみると独特の感慨がある。著者のみなさんも良い原稿を寄せてくれたし、それに何より、西島大介氏の装画とミルキィ・イソベ氏の装幀がとてもよくできていて、自分で言うのも何だが、1年前のイベント時には予想もできなかったようなきちんとした本ができてしまい、編者自身も驚いている始末だ。
さて、それで、この『網状言論F改』、嬉しいことに出版記念イベントが行われる予定になっている。いまのところ都内の某書店で2月15日ということになっているが、年末年始のため連絡がなかなか来ないので、正式にフィックスされたらまたこのサイトで告知する。書店の販促イベントといっても、今回は、単にサイン会とかには終わらせず、いままでの網状言論の流れを受け、新しい展開を予感させるような内容あるトークショーを行うつもりだ。
いまのところ予定されているメンバーは、斎藤環氏と僕に加え、鈴木謙介(『暴走するインターネット』の著者)、西島大介、佐藤心(ライター、別名・相沢恵)の五人。『網状言論F改』では僕がもっとも年下で、なぜか僕が団塊ジュニアから下を代弁して話さねばならないような局面が多かったのだが(『新現実』第一号の対談でもそうだったが、あれは一定の年齢以下の読者にとっては失笑ものに違いない。誰よりも僕自身がそう感じている)、鈴木、西島、佐藤各氏は僕よりも年齢が下なので、異なる種類の問題提起が期待できるだろう。70年代生まれにもいろいろいるのだ。これを機会に、ぜひ、20代の論客が活躍できるトークショーを増やしていきたいものだ。
僕としてはそのイベントのタイトルはぜひ「網状言論F RePure」としたいところなのだが……さて、そこまでわがままが通るのだろうか。それはひとえに『網状言論F改』の売上にかかっている。コミケで余ったお金を、ぜひ『網状』に(笑)!