ほか『図書新聞』『日本経済新聞』『電通報』など多誌で短評掲載。
以下で紹介されているテクストは、原則として入稿時のデジタルデータから抜粋したものです。出版された文章とは細部が異なる場合がありますので、あくまでも本購入のための参考に止め、引用などはお控えください。
第1章第2節「オタクたちの疑似日本」より
<……>そのような浮遊感は、あらためて言うまでもなく、バブル崩壊に始まり、阪神淡路大震災、オウム真理教事件、援助交際や学級崩壊が相次いで話題となった九〇年代にはほとんど消滅してしまった。ところがオタク系文化の周辺においては、その幻想が例外的に生き続けてきたように思われる。というのも、アニメやゲームが世界的評価を獲得し、またその強さが一般に知られるようになったのは、まさに九〇年代に入ってからのことだったからだ。
実際に、九〇年代後半のオタク系の論客の主張は、かつてのポストモダニズムの言説を知る読者にとっては、懐かしさすら感じさせる独特の古さを帯びている。例えば岡田斗司夫は「オタク文化が世界の主流になるつつあるのではないか」と述べ、また村上隆は「日本は世界の未来かもしれない」と記しているが、これらの発言は実は、「この三百年、五百年くらいで、今ほど日本主義がトレンディな時代はないわけで、浮世絵以上じゃないかな」という八五年の坂本龍一の発言とかぎりなく似ている(注16)。オタク系文化をめぐる言説はこの点で、九〇年代のあいだも、相変わらず八〇年代の浮遊感を継承し、甘美なナルシシズムを生き続けてきたと言ってよい。
したがってオタク系文化と「日本」の関係には、二つの点で大きな心理的負荷が掛けられていると言うことができる。オタク系文化の存在は、一方で、敗戦の経験と結びついており、私たちのアイデンティティの脆弱さを見せつけるおぞましいものである。というのも、オタクたちが生み出した「日本的」な表現や主題は、実はすべてアメリカ産の材料で作られた二次的で奇形的なものだからだ。しかしその存在は、他方で、八〇年代のナルシシズムと結びつき、世界の最先端に立つ日本という幻想を与えてくれるフェティッシュでもある。というのも、オタクたちが生み出した疑似日本的な独特の想像力は、アメリカ産の材料で出発しつつ、いまやその影響を意識しないですむ独立した文化と産業にまで成長したからだ。
オタク系文化に向けられる過剰な敵意と過剰な賞賛はともにここから生じているが、結局その両者の根底にあるのは、私たちの文化が、敗戦後、アメリカ化と消費社会化の波によって根こそぎ変えられてしまったことへの強烈な不安感である。いま私たちの手元にあるのは、もはや「アメリカ産の材料で作られた疑似日本」でしかない。私たちはファミレスやコンビニやラブホテルを通してしか日本の都市風景をイメージできないし、またその貧しさを前提として捻れた想像力を長いあいだ働かせている。その条件を受け入れることができなければオタク嫌いになるし、逆にその条件に過剰に同一化してしまうとオタクになる、そういうメカニズムがこの国のサブカルチャーでは働いている。さきほども述べたように、ある世代より以下の人々は、たいていオタク好きかオタク嫌いかくっきりと分かれるというのが筆者の印象だが、その分裂の背景には以上のような構造が窺えるのだ。<……>
第2章第8節「解離的な人間」より
<……> しかしノベルゲームの消費にはもうひとつ別の側面がある。小説やコミックと大きく異なり、コンピュータ・ゲームの本体は、プレイヤーがスクリーン上に目にするドラマ(小さな物語)ではなく、そのドラマを生成するシステムのほうに求められる。アクションゲームにしろロールプレイングゲームにしろ、スクリーン上に表示される画面や物語展開は、プレイヤーの操作に応じて生成されたひとつのヴァージョンにすぎない。プレイヤーの操作が変われば、同じゲームは異なった画面や物語展開を表示する。そしてゲームの消費者は、当然のことながら、ひとつの物語だけを受容しているのではなく、それら異なったヴァージョンのありえた物語の総体をも受容している。したがって、ゲームの分析においては、この消費の二層構造に注意しておかないと、文学批評や映画批評の枠組みをそのまま持ち込んで失敗することになる。
このようなゲームの構造は、明らかに、いままで検討してきたようなポストモダンの世界像(データベース・モデル)をきれいに反映している。したがってコンピュータ・ゲームの発展とポストモダン化の進展のあいだには深い関連があり、実際にそれは時期的な符合でも明らかだが、その点について論じるのはまた別の機会に譲ることとしよう。とりあえずここで重要なのは、ノベルゲームもまたコンピュータ・ゲームである以上、その作品に向かう消費者の意識もまた二層化されているということである。上述のように、ノベルゲームの表層的な消費は萌え要素の組み合わせで満たされ、オタクたちはそこで泣きと萌えの戯れを存分に享受している。これは確かにそうなのだが、しかし、より詳細に観察すると、また別種の欲望の存在が見えてくる。
それは具体的には、ノベルゲームのシステムそのものに侵入し、プレイ画面に構成される前の情報をナマのままで取り出し、その材料を使って別の作品を再構成しようとする欲望である。ノベルゲームの多くの画面は、実際には複数のデータの組み合わせで作られている。図17の左側に並べた三つの図版は『痕』のプレイ画面だが、これらはすべて、それぞれ右側に示したようなさまざまなファイルに分解することができる。例えば、もっとも左上の画面は、和室の背景画像(システムではS10.LFGというファイル名で指定されている)にキャラクターの画像(同じくC31.LFG)を重ね、そのうえにシナリオのテクスト(016.SCNとして指定されているファイルの一部)を重ねて作られていることが分かる。そして図に示したように、同じテクストや画像は、組み合わせによってほかにもさまざまな画面を生み出すことができる。ひとつのファイルの使い回しは、制作過程での省力化だけでなく、九〇年代半ばのハードウェアの条件(記録媒体の限界)から必然的に求められたものでもあった。
画像のこのような使い回しそのものは、コミックやアニメでも頻繁に見られることであり、決して珍しいものではない。とくにアニメでは、ほとんどの画面は複数のセル画の重ね合わせで作られており、ノベルゲームとあまり発想が変わらないとも言える。しかしノベルゲームがアニメと決定的に異なるのは、そこで、画面の断片が制作者によって利用されるだけではなく、消費者によってもたやすく解析され、データベース化されてしまう点である。図で示したようなテクストや画像のファイルは、実は、購入時の状態では圧縮され暗号化されて読めないことが多い。ところがギャルゲーの消費者には、技術的な知識が豊富で、ハッカー的な気質をもったコンピュータ利用者が多い。それゆえインターネット上には、ここで取り上げた『痕』を初めとして、有力なゲームのデータを解析し、シナリオや画像や音声を「吸い出す」ソフトウェアがいくつも無料で公開されている。<……>
第2章第9節「動物の時代」より
<……>ところがそうではないのだ。なるほど確かに、ポストモダンのオタクたちも「人間」であり、欲望と社交性を備えている。しかしその欲望と社交性のありかたは、やはり、かつての近代的な人間からずいぶんと離れている。幾度も繰り返しているように、彼らは現実よりも虚構のほうに強いリアリティを感じ、そのコミュニケーションもまた大部分が情報交換で占められている。言い換えれば、彼らの社交性は、親族や地域共同体のような現実的な必然で支えられているのではなく、特定の情報への関心のみで支えられている。したがって彼らは、自分にとって有益な情報が得られるかぎりでは社交性を十分に発揮するのだが、同時に、そのコミュニケーションから離れる自由もまたつねに留保している。携帯電話の会話にしろ、インターネット上のチャットにしろ、不登校や引きこもりにしろ、そのような「降りる」自由は、オタク系文化にかぎらず、九〇年代の社会を一般に特徴づけてきたものである。
私たちの生きる時代とは、そもそも、たいていの生理的な欲求を動物的にすみやかに満たすことができる時代である。それが個々人の豊かさの実感に繋がっているかどうかはともかく、この点で、現代の日本が先行する時代に比較し圧倒的に便利であることは疑いえない。オタクたちの社交性は、宮台も指摘したとおり、そのような社会に適応して生み出されている。現実の必然性はもはや他者との社交性を要求しないため、この新たな社交性は、現実に基盤をもたず、ただ個人の自発性にのみ基づいている。したがって、そこでいくら競争や嫉妬や誹謗中傷のような人間的なコミュニケーションが展開されたとしても、それらは本質的にはまねごとであり、いつでも「降りる」ことが可能なものでしかないのだ。コジェーヴならばこの事態を、オタクたちは社交性の実質を放棄したが、その形式だけを維持していると述べるかもしれない。繰り返すが、このような傾向は、九〇年代においてはもはやオタクたちに限られたものではなかった。
そして社交性のこのような形骸化を補うように台頭してきたのが、まさに、前節で検討した小さな物語への関心の高まりなのである。ポストモダン=動物の時代においては、世界は、小さな物語と大きな非物語、シミュラークルとデータベースの二層構造で捉えられる。そしてそこでは、深層に大きな物語がない以上、生きる「意味」を与えてくれるのは表層の小さな物語だけである。データベースは意味を与えてくれない。だからこそ九〇年代のオタクたちは、作品を解体し、分析し、再構成する欲望をもっていながら、いや、むしろそれゆえに、作品の表層に宿るドラマに素直に感動していく。
ノベルゲームの消費は二層化されている。データベースの水準で生じるシステムへの欲望と、シミュラークルの水準で生じるドラマへの欲求である。前者ではオタクたちにも社交性を要求される。彼らは活発にチャットを交わし、オフ会を開いて、情報を交換し、二次創作を売買し、新作の評価について議論し合っている。しかし対照的に、後者では社交性はまったく要求されない。彼らの物語への欲求は、きわめて個人的に、他者なしに孤独に満たされている。ノベルゲームは決して多人数でプレイするものではない。そしてそこで九〇年代に急速に高まった「泣き」や「萌え」への関心は、彼らがもはや、データベースを介して作られる擬似的な社交に感動や感情移入を期待していないことをはっきりと示している。
<……>
そろそろ結論に入ることとしよう。データベース型世界の二層構造に対応して、ポストモダンの主体もまた二層化されている。それは、シミュラークルの水準における「小さな物語への欲求」とデータベースの水準における「大きな非物語への欲望」に駆動され、前者では動物化するが、後者では擬似的で形骸化した人間性を維持している。要約すればこのような人間像がここまでの観察から浮かび上がってくるものだが、筆者はここで最後、この新たな人間を「データベース的動物」と名づけておきたいと思う。
近代の人間は、物語的動物だった。彼らは人間固有の「生きる意味」への渇望を、同じように人間固有な社交性を通して満たすことができた。言い換えれば、小さな物語と大きな物語のあいだを相似的に結ぶことができた。しかしポストモダンの人間は、「意味」への渇望を社交性を通しては満たすことができず、むしろ動物的な欲求に還元することで孤独に満たしている。そこではもはや、小さな物語と大きな非物語のあいだにいかなる繋がりもなく、世界全体はただ即物的に、だれの生にも意味を与えることなく漂っている。意味の動物性への還元、人間性の無意味化、そしてシミュラークルの水準での動物性とデータベースの水準での人間性の解離的な共存。現代思想風の用語を使って表現すれば、これが、本章の第二の問い、「ポストモダンでは超越性の観念が凋落するとして、ではそこで人間性はどうなってしまうのか」という疑問に対する、現時点での筆者の答えである。<……>