斎藤です。今回は、まず私の抱いているオタク現在形のイメージを、できるだけ具体的に記述するところからやり直してみます。ついで、オタク論が混乱しがちな理由について、私なりの推測を述べておきます。(本当は「おたく」の表記にこだわりたかったのですが、ここでは疎通性をよくするため「オタク」に変節しておきます。)オタクのセクシュアリティという大問題については、あまり間をあけずに、次のメールで語ろうと思います。
現時点でコンセンサスが得られているのは、新人類とオタクが同一でありうるような共同体、ないし人格類型が存在するということですね。東さんはそれが、すでに人格類型としては無効であるとする。かたや竹熊さんは、オタクの存在を認めつつも、密教と顕教(素晴らしい比喩ですね)の区分があること、そして斎藤が後者についてはふれていないこと、を指摘したわけです。
さて、どうもオタクの捉え方に混乱があるようですね。竹熊さんの指摘にも関わらず、私のオタク記述は、「ごく普通のオタク」を対象としたものです。つまり、ここでの討論に参加されている方々や岡田斗司夫氏、唐沢俊一氏などは、私の記述にはあまり該当しないという意味でオタク・エリートなのであり、したがって典型例ではないのです。その意味で皆さんの周りにも「普通のオタク」は沢山いると思うんですが、どうでしょう。
この本での私の記述はかなり抽象的なものですので、ここでいう「普通のオタク」について、今回はもう少しベタな記述に徹してみましょう。
まず外見的な特徴から。私もオタクファッションだけはさすがに滅亡したと思っていたのですが、2ちゃんねる本で得た情報によれば「奇妙なバンダナ」「片方だけ肩に掛けたリュック」「首周りの伸びたTシャツ」「指先なしの皮手袋」などは、オタクの有徴性を今でも表すらしい。これも現役オタクに確認済みです。このうち、バンダナと手袋は、一種のプチ・コスプレみたいなものらしいんですが。
「昨日の夜はミシン動かしながらインターネットしてました」とは、くだんのコスプレ精神科医の言葉です。この時期ミシンといえばお判りですね。彼はコレクター・ユイのコスプレにむけて、毎晩、自家製のコスチュームづくりに余念がない。しかし、NHK教育のおねえさん情報もこまめにチェックしなければいけないので、BBS閲覧は欠かせないのです。彼こそが私に(だけに?)見えるところの「普通のオタク」です。
現在における「普通のオタク」について、彼の意見も参考にしつつ補足的な記述をしておくなら、下記のようになりましょうか。
あえて岡田斗司夫的な記述にこだわってみましたがどうでしょう。
私が言いたいことは、オタクの拡散と融合を語る上で、東さん伊藤さんのような存在は重要ではあるけれど、ここに記述したような「普通のオタク」はまだまだマスとして沢山居るし、そこには一種の共同体意識も存在するであろう、ということです。オタク内部での嗜好の拡散についてはよく指摘されるようですが、それは今のところ「これに萌える!」という特権的作品が存在しない、という程度の現象みたいです。
私はあくまでも、彼ら普通のオタクの特性として、「虚構コンテクスト」への親和性と「多重見当識」を指摘しました。これが出来ない受け手、つまり虚構そのものにオブジェクト・レヴェルで惚れ込み、18禁パロディは作品に対する冒涜だ、と激怒するようなひとのことは、単なる「アニメファン」として区別することにします。ひょっとして、竹熊さんの「顕教」ないし「ミーハー」とは、こちらの方を指すのでしょうか。もしそうであるなら、私の認識とはこの点で重要な食い違いがありますね。
話の混乱するもう一つのポイントは、議論における抽象レヴェルの混乱にあると思います。例えば人格類型について、何を持って同一と良い、何を持って差異とみなすか。何度も(著書でも)強調してきたことですが、私はわれわれとオタクとの間に、いかなる構造的な差異もないと考えます。これはつまり、神経症という構造においては一致するというほどの意味ですね。だから違いがあるとすれば、神経症という構造内の違い、例えば強迫神経症と不安神経症の違い、のような差異です。これらは構造的には同一ですが、現象的には異なっている。さきほどの「ベタな」記述は、そういう現象面に関する記述です。
その妥当性はともかく、こういうレヴェルの記述的な差異は、まだ存在するであろう、というのが私の前提です。問題は人格類型をどこまで抽象化・形式化するかにではないでしょうか。新人類とオタクを同一にみなすことは、ある抽象平面では十分に可能です。しかし、こうした素朴な現象の記述レヴェルに留まるなら、いまだ類型分類は可能、というのが私の立場です。
つまり私は、戦闘美少女の特殊性を語り得るような抽象レヴェルの議論においては、オタクの特殊性も十分に有効である、と考えるわけです。東さんの論点でどうしても理解できないのは、戦闘美少女の特殊性を認めつつ、オタクの特異性を認めないという点です。そもそも、オタク以外のどんな共同体が、「戦闘美少女」を大量消費し得たでしょうか?
これはやはり記述レヴェルの混同と言わざるを得ない。オタクと新人類が同一であるとする議論の水準においては、戦闘美少女も新人類にとってのDCブランドや現代思想などと同様、フェティッシュへの執着という点では同一物にすぎない。よって「戦闘美少女問題」は存在しない、ということになりませんか?それはそれで「正しい」議論ですが、私はそのレヴェルの正しさは、今回は切り捨てているわけです。
ちなみに東さんの論点を敷衍するなら「戦闘美少女」にはオタク概念を越えた普遍性があるという結論にならざるを得ません。自分で書いておいて何ですが、果たしてそれほどのもんでしょうか?私はオタク論議を戦闘美少女という概念で「補完」し得たというささやかな満足感はありますが、オタク概念を越える普遍性があるとはとても思えない。これは謙遜などではなく、さきほどから述べている「記述のレヴェル」を一定に保つためには、やむを得ない態度であると思います。
東さんの便宜のために、今回の論点を整理しておきましょう。
今回は以上です。
追伸:8月1日のロフトプラスワンのトークライブ「戦闘美少女vsひきこもり」には、 網状言論グループの全員がなんらかの形で出席することが決まりました。主宰者としては 喜ばしい限りです。当日はよろしくお願いします。