発言12

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東です。

あいだに8月1日のトークショー(於:新宿ロフトプラスワン)も挟み、ずいぶん間が空いてしまいましたが、「網状書評」の討議を再び開始したいと思います。

さて、そもそも僕の問題提起が原因なのですが、いままでの討議は「オタクは存在するか否か」、「オタクとは何か」という点に集中してきました。その結果、各人のスタンスの違いは鮮明になったのですが、永山さんが指摘されたとおり、ともすれば世代論に回収されてしまう議論ばかりが交わされていたように思います。

ちなみにその世代論的な図式を確認すれば、まず団塊の世代の屈折があり、つぎにその屈折への屈折として新人類/オタク的なシニシズムがあり、そのあとに、すべての屈折が過去のものとなってしまった世代が来る、という図式ですね。これはおそらく(男性に限って言えば)正しいでしょうし、大澤真幸氏なども基本的に同じかたちの戦後社会論を展開していて説得力があります。しかしそれは裏返せば、その当たり前の図式について、各人がこれ以上語っても仕方ないということでもある。その世代論的な違いで各人の「オタク像」が決まっているのであれば、要は、各人が各人の「オタク」像とつきあっていくしかないわけです。

ただそれでも、「何がオタクか」という点をめぐってこれほどの意見が分かれる、その点を抉り出しただけでも、いままでの話には意義があったと思います。というのも、「何がオタクなのか」をめぐる僕と斎藤さん、竹熊さんそれぞれのスタンスの違いには、単に個人的な体験の違いというだけではなく、サブカルチャー史の一側面が集約されているとも言えるからです。「何がオタクなのか」を語ることは、おそらく各人にとって「何が成長なのか」を語ることのネガであり、そこではそれぞれの「大人観」「父親観」が問われている。「オタクの基準は存在しない」と言った僕は、要は「何が大人なのか」を気にするのを止めようと提案していたわけです。ですから、そのスタンスが反発を呼んだのは、それなりに興味深い経験でした。この討議でも、ゆくゆくはまたその問題に帰っていきたいと思います。


とはいえここでは、とりあえず「オタクとは何か」の問題を棚上げし、もうひとつの「セクシュアリティ」の問題に移りたいと思います。 セクシュアリティといっても、ここで議論したいのは、「僕はアニメに萌える」「いや萌えない」というような個人的な話ではなく(この話はまたもや、アニメに萌えるやつと萌えないやつがいる、というオタク論に戻っていきそうな気配があります)、「そもそもマンガやアニメの絵がセクシュアルってどういうことだろう?」的な原理的で図像的な話です。あるいはもっと広く、マンガやアニメ的の魅力は何なのか、それは単に幼稚ということでいいのか、幼稚だとしても、ではなんでそういうタイプの幼稚さが戦後に爆発的に進化したのか、といった素朴な疑問です。マンガ表現に詳しい竹熊さん、永山さん、伊藤さんの三氏からも、その点で刺激的な議論が窺えれば幸いです。とくに永山さんには、「二次元」のセクシュアリティって何なのか、個人的な話も交えつつ、それを超える話をじっくると伺えれば嬉しいです。

さて、それでここで斎藤さんにまず叩き台を提示してほしいのですが、斎藤さんの考えでは、マンガやアニメにひとがセクシュアリティを感じるのはなぜなのでしょうか? 『戦闘美少女』の内容を僕なりに要約してもよいのですが、おそらく何かニュアンスの違いが出ると思うので、短い説明をお願いします。それに僕が絡み、「網状書評」第二部の議論を展開していきましょう。



『戦闘美少女の精神分析』をめぐって

網状言論たち

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