斎藤です。ずいぶんとお待たせいたしました。いま、ようやくとった夏休み、シカゴへと向かう機内でこれを書いています。愛機Jornada690でシカゴのニフティに接続・送信する予定ですが、うまく行きますかどうか。伊藤さんも竹熊さんも、おそらくは私と同じ仕事で滞っておられたことと思いますが(笑)、終わりましたか?
それにしても、ようやくオタク論の隘路を抜けられ、ちょっとホっとしています。東さんが論点を絞ってくれたので、かなり語りやすくなりました。私の関心も、むしろこちらに核心があります。アニメとセクシュアリティという問題ですね。
精神分析の考えでは、「女」(=ヒステリー)はことごとく表層的な「存在」ということになります。逆に言えば、「言葉によって語りうる本質」といった実体的な担保を欠いており、それゆえに欲望の主体としては、欠如態としてしか可能にならないのが「女性」です。このことを指してラカンは「女は存在しない」と言うわけです。もちろんこの指摘を現実的に反駁することはいくらでも可能ですね。しかしここでは、セクシュアリティそのものが最も根源的な幻想である、という論議の論理的帰結として受け止めておいてください。
女性が本質的な、あるいは実体的な存在を主張できない、ということをひとたび受け入れたなら、セクシュアリティを語る際に、きわめて強力な視点を手に入れたことになります。つまり、人間の性欲に先だって女性が存在するわけではない。これはむしろ逆なので、まず人間は言語とともに欲望を獲得し、そこから欲望の対象である女性という幻想を産出するのです。
このような考え方は受け入れがたいという立場もありうるでしょう。しかし、たとえば性的倒錯を分析的に語るためには、この前提を受け入れるほかはない。そうしないかぎり、たとえばゲイの遺伝的素因が何度も「発見」されるようなことが起こるからです。あるいは、男性と女性とは脳の構造が決定的に異なり、セクシュアリティの問題はすべてそこに還元される、といった素朴実在論に陥ってしまう。私はもちろん、性については精神分析的にしか語り得ないと考えています。それゆえに、まずセクシュアリティの幻想性という地点から出発する必要があるのです。
はじめに欲望ありき、であるなら、精神分析の公準である「人間は本来、多形倒錯的な存在である」という主張もまた、論理的に導かれてきますね。少なくともエディプス期に至る以前のヒトの欲望は、まだ十分にヘテロな構造を獲得していないため、その志向性も混沌としている、と。それゆえ極端な言いかたをすれば、ヒトは倒錯者としてまず産まれ、象徴的なものの介入を受け入れて、神経症者(一般にはヘテロの欲望を持つもの)になる、という言い方も可能になるでしょう。
前置きが長くなりましたが、ここを十分に論じておかないと、私の本の主張は理解されにくい。ある書評に「本書には日本人の倒錯性についての配慮がない」などとありましたが、おあいにくさま、私はそういった日本人論にはうんざり、という地点からこの本を書いている。それは本文中でも慎重に指摘しておいたはずなんですけどね。この書評子が良い例ですが、日本人ないし日本文化の倒錯性という指摘には、日本社会においてポストモダンが先取りされていた、という議論と同様のメンタリティが匿されていますね。つまり、日本特殊論というナルシシズムです。もっとも、これを免れるのはなかなか難しく、私も自分の本がそれを十分に回避できていると断言する自信はありません。
ともあれ、セクシュアリティの幻想性、ということから考えるなら、描かれたものに欲情することがあっても一向に構わないわけです。それが欧米の文化圏に存在しなかったとすれば、むしろこうした欲望が検閲され、抑圧されていた可能性のほうをまず疑わなければならない。
しかし、セクシュアリティの視線のもとでは、映画も写真もアニメも漫画も、完全な等価物となります。戦後アニメの歴史は、この「描かれたもののセクシュアリティ」が、アニメという文脈で再発見され、洗練されていくという過程でもあったと言いうるでしょう。噂を信ずるならば、「ガンダム」のセイラさんのシャワーシーンで一斉にフラッシュが焚かれたという事実から、「くりぃむレモン」シリーズが発案された。ここからは一気呵成です。
アニメ絵、とりわけ美少女キャラクターの消費の速さはすさまじい。絵柄を一瞥しただけで、私ですらおおよその年代が推定できるほどです。このあたり、図像的なテクニックや形式については、ほかの方々のプロとしての発言を期待したいところです。「アニメ絵」の出現、さらにその洗練、という過程がいかにして起こったか。技法論として、それはどのように論じられうるか。このへんは、いまだきちんと論じられていない領域ではないでしょうか。個人的には東さんも好きな「ことぶきつかさ」氏の表現が、ひとつの極北であるように思いますが、あれほど異様な造形が何故に可愛いく感じられるのかという視点から、どなたか論じていただきたいと考えています。
さて、あくまでの個人的かつ大雑把な感想を記すなら、アニメ絵については、やはり少女漫画と少年漫画の幸福な融合、というコンテクストを無視できないように思います。私はアニメ絵の真髄が、シリアスとギャグの転調を瞬時に可能にする、その可塑性にあると考えています。つまり、デフォルメの契機があらかじめ畳み込まれた図像装置、ということですね。みなもと太郎や赤塚不二夫がギャグとして試みていた、こうした転調は、まさに一発ギャグのインパクトを持っていました。しかし、アニメ絵の転調は、もっとカジュアルなものです。こちらはむしろ、少女漫画にルーツがあるとみなされるべきかもしれない。赤塚らの転調が、図像それ自体のインパクトによって笑いを生むなら、アニメ絵のそれは、たんなるモード・チェンジでしかないからです。つまり、それ自体が可笑しいわけではない。むしろお約束の安心感というか、ちょっとメタ的視点を介入させて、読者をリラックスさせる機能が大きいように思います。
ここで突如話が飛びますが、私は現在の「ショタもの」を検討することで、アニメのセクシュアリティは解釈できると考えています。
伊藤さんに先日いただいた「ぽーじゅ」氏の「Maidoroid」のような、非常に良くできたショタ物を見ていると、私にも「ショタ萌え」が、だんだん感覚的に判ってくるのです。これは、状況如何によっては、頑張れば(笑)この作品で私にも抜けるかもしれない、ということです。
それでは私はこの作品で、一気にペドファイルとして、あるいはホモセクシュアルとしての己を見出したのでしょうか。それなら面白い気もしますが、もちろんそうではない、残念ながら。むしろ私は身をもって精神分析の正当性を実感した、というべきかもしれません。つまり、みずからに潜在する多形倒錯性を発見しえたという限りにおいて。
もっとも、男性作家によるショタ物において、少年はほぼ確実にペニスを持つ女の子という位置に置かれています。まさにこれも、Phallic Girl の変種に当たるわけですね。だから、ここでは倒錯性は問題にならない。むしろ図像にかかわる問題意識です。
ショタ物において萌えが起こるとするなら、それは図像的には顔しか拠り所がないわけですね。そこには魅力的な乳房も臀部も描かれない。なぜか年齢設定の割には異様に巨大なペニスが描かれているくらいです。この「描かれたペニス」というものも、かなり興味深い問題をはらんでいますが、それは後日論ずるとしましょう。ここではむしろショタにおいて、セクシュアリティの記号がほとんど描かれないこと、それにも関わらず「萌え」が可能になることを重視しておきます。
「ショタ」で興味深いのは、このジャンルを支持する層の性別です。戦闘美少女が男性オタク向けなら、やおいは女性向け。しかし「ショタ」にはいずれのファンもついている。もちろんジャンル内での描写を細かくみていくなら、そこには歴然たる差異があります。しかし、やおいが抽象化された関係性(東さん的に言えば「キャラ立ち」)を主題とするなら、美少女萌えはビジュアルに支えられた「キャラ萌え」ですね。いずれにせよ、ショタというジャンルにおいてこの二つの視点が両立していく経緯は検討に値します。あるいはここから、セクシュアリティの本質に関わる論議が可能になるのではないでしょうか。
やおいにおいては、ネタ元の作品が背景にあるため、物語性は最小限で済みます。つまり、「攻め」「受け」の分担さえ割り振られれば、それが自動的にミニマルな物語を生成してくれる。最近読んだ「実録企画モノ」という素敵な漫画に、作者が思春期にキャプ翼か何かのやおい本(済みません、いま資料無くて…)に出会って人生最大の衝撃を受け、そのまま自慰行為に走ったというエピソードが描かれていました。ここで彼女の自慰ファンタジーを支えていたものは、いったい何だったのでしょうか。図像的には比較的単純な当時のやおい本の絵が、その直接の原因であるとは考えにくい。むしろそこに描かれていた攻め×受けという関係性と情緒性こそが鍵を握っているのではないでしょうか。
図像について論ずることは、アニメ絵のフェティッシュとしての価値を論ずることにつながるでしょう。しかしここまでの論議で見えてきたことは、アニメ絵のセクシュアリティというものが、それが現実の反映であったり、それ自体がフェティッシュであることに必ずしも依存していない、ということです。アニメ絵の可能性は、むしろそれによって初めて描かれうるような関係性や情緒、あるいはキャラクターの機能によって拓かれてきたのではないか。それが私の、目下の問題意識です。
すでに十分長すぎる文章になってしまいました。シカゴまであと4時間、ちょっとひと眠りしようと思います。また活発な論議が再開されることを楽しみにしています。