東さんの仕切直し、斎藤さんの原理原則に立ち返っての整理で、ずいぶん議論の見通しがついたと思います。
斎藤さんの「器官なきセクシャリティ?」は、その挑発的なタイトルも含め、示唆に富むものでした。斎藤さんの手つきの鮮やかさには感嘆するものなのですが(念をおすまでもないと思いますが、これは皮肉ではないですよ)、しかし同時に、その鋭さには事態の単純化をもたらす可能性があるのではないのでしょうか。
フロイト-ラカン的なスキーマを「戦闘美少女」や「萌え」にあてはめ、それで<すべてが>クリアになったかのような錯覚に陥ること─あるいは知らず知らずのうちに粗雑さに陥ってしまうこと─これは慎重に避けなければならないでしょう。そこで、この発言に直接言及する前に、僕は僕なりに仕切直しが必要であると思ったのですね。議論の流れとしては少々、迂遠になるようですが、結果的にはこうしたほうが効率的に議論を進めることができると考えています。
そのためには、まずこの「仕切直し」に際し、「網状書評」での僕自身のスタンスを明らかにするとともに、整理を行う必要があるわけです。
現状で何が起こっていて、それがいまある形になっているのはどういう歴史的な蓋然性によるものなのか、また一方でどういった理論的な必然性が考えうるのか、ということがまず考えられるべきではないのか。また、それをするにはどうすればよいのか、ということです。それは、とりもなおさず、我々は何を見るべきなのかということの確認でもあります。
また一方で、東さんは哲学者、斎藤さんは精神科医ですから、その思考においてよって立つ足場を有しています。これは権威がある云々という意味ではなく、先人の知の蓄積や思考のメソッドが使えるという、きわめて単純な意味でいっています。
他方、僕自身はどうであるかといえば、漫画表現論の立場に軸足を置くことになります。
漫画の表現をどういった制度が支えているのか、ジャンルを成立させているのは何であるのか、といった観点ですね。無論、アニメやゲームへと連なるキャラクター文化一般のことも考えていますが、あくまでもそれが「表現」であって、そこで何がなされているか、クリエイター達は何をなしているか、を考えるのが基本的な立ち位置であることを明言しておきます。無論、論題がセクシャリティに関することであるので、適宜、ジェンダー・スタディーズ的なスタンスを取ることあるでしょう。しかし、あくまでも基本は表現論にあります。場合によっては技術論にまでブレイクダウンした議論を展開することもあります。
もっとも、キャラクター文化全体に関わる言葉は、まだまだ非常に未開拓なものであって、たとえば、レビュー、ジャーナリズム、批評、学術的研究の4者が混在して語られているのが現状です。一般に漫画やアニメの業界、受け手の間では、この4者が漠然と「評論」と呼ばれているというわけですね。つまり、僕は(おそらく竹熊さんや永山さんも)、先人の蓄積をあまり使えない─そもそも、漫画評論にしたところでせいぜい40年ほどの歴史しかなく、またアーカイヴも整備されていないという事情もある─という状況に置かれているわけです。
なぜ、こうしたことを問題にするかといえば、僕たちの問題提起や、事実の摘示に対し、東-斎藤の両氏が分析を加えるという図式になってはよくないと考えるからなのです。それは単純に退屈だし、重要なことが見落とされる可能性がある。さらに、この「網状書評」を展開する目的には、我々討議に加わる者自身が「戦闘美少女」ひいてはキャラクターというものとどう関わっているのか、そこに何を見い出しているのか、何を欲望しているのか、について相互に分析しあうということもあると思うのですね。
真にスリリングな討論は、そうした相互の「よって立つもの」への侵犯によってなされるものでしょう。そういう緊張感は常に持っていたほうがよいと思っています。また、我々がこの緊張感を維持できれば、読んでいる人々にも伝播していく筈です。それがこの議論をホットな、アクチュアルなものにすることということは疑いのないことだと思います。場合によっては、誰かのアイデンティティ・ポリティクスを刺激し、激烈な反応を引き起こすかもしれない。まあ、そうなったらなったで、それもまた分析の俎上に上げてしまえばよいわけですが(笑)。
もちろん、そうしたあまり愉快でない事態が予測できてしまうということは、そのまま漫画やアニメなどのキャラクター文化を取り巻く状況が混迷し、部分的にはシリアスな事態も起こっていることを指し示しているわけですね。この問題については、後の状況整理とも密接に絡んでくるので、またあらためて詳述します。
次に、我々のここまでの議論とその反応、先日のトークライヴ(8月1日、新宿・ロフトプラスワンで行われた斎藤環主催のトーク「戦闘美少女VSひきこもり」→トークのルポは参照)への反応を含めた、「戦闘美少女」をとりまく状況の整理を試みることにしましょう。
まず、「なぜ、我々は『オタク論』の隘路に陥ったのか」という問いを片付けておかなければならない。せっかく「仕切直し」があったのに、議論を後退させるというのではありません。我々が再び隘路に陥らないために、ちょっと問題を整理しておく必要があるというわけです。また、ここまでに行ってきた議論の成果を今後につなげるという意味もあります。
この文章のなかで「オタク文化」という語を使うことをとりあえず避けたのも、同じ意図によるものです。
長くなるので、ここで一旦、発言を切ります。