発言15

前の発言

次の発言


東です。

こちらも、たいへんに遅い発言で申し訳ありません。

当初の予定ではひとり一週一発言くらいを想定していたのが、いつのまにか、ひとり一月一発言くらいになってますね(笑)。まあとはいえ、そのほうがゆっくりと腰の落ち着けた議論ができるのではないかと、司会者としては満足しています。こんな調子でぼちぼちと続けていきましょう。

とりあえず今回は、伊藤さんの発言をとばして、斎藤さんに返します。伊藤さんの発言は続きを待ちます。


さて、僕の見るところ、斎藤さんの発言には3つの核があったと思います。

  1. セクシュアリティは幻想である。
  2. したがってその視線のもとでは、マンガもアニメも映画も写真もすべて等価であり、絵に「萌える」ことを特権化すべきではない。
  3. このことを証明するように、ショタ作品ややおい作品においては、図像レベルでのセクシュアリティの記号は少ない、あるいはない。つまり、ショタ作品ややおい作品の読者は、図像に萌えているのではなく、状況設定や物語に萌えているのだ。

さて、これはきわめて強く、かつ一貫した主張です。したがって今後は、この斎藤さんの主張がどれほど状況を説明できるのかどうか、それを問うかたちで以下の議論を進めていきましょう。

ですから以下では、もう原理論は止めようと思います。例えば(1)の主張、斎藤さんはそれを「女は存在しない」というかたちで書かれましたが、この主張には当然、女性の読者からいろいろ反応があると思います。そしてそれはいまに始まったことではなく、ラカンの「ファルス中心主義」は、すでに、ラカンの弟子を含む多数のフェミニストによって批判されているわけです。斎藤さんもそれはご存じで、そのうえであえて上記のテーゼを押し出したのでしょうから、このレベルでの批判・再批判は、あまりオタク文化の現状と関係がなくなる可能性があります。むろん、本質的には日本のオタク文化のホモソシアル性=オヤジ性が問題になるので、繋がってくるはずなのですが、とりあえず議論を絞り込む必要があります。

というわけで、この点での議論はしばらく棚上げにします。ただ、「女は存在しない」というラカン/斎藤さんの表現は女性読者の不必要な反発や誤解を買うおそれがあるので、ここでは「セクシュアリティは幻想である」と言い換えることにしましょう。つまり、男性も女性も幻想だ(ラカン風にさらにアレンジすれば、ファルスを核とする主体だけが存在し、実体としての男性も女性も存在しない)ということで。よろしいでしょうか?>斎藤さん

とはいえ、それでも、もしこのテーゼに反論があるという方が読者でいらっしゃったら、遠慮なく僕、東浩紀のほうにメールを寄こしてください。何らかの対応を考えます。網状書評の討議メンバーはいまは男性しかいませんが、これは単に僕の交友範囲の狭さを物語っているだけで、「女性のオタク」を排除し、「男性のオタク」だけの閉じたサークルを作るつもりはまったくありません。


以上の前提のうえで僕の立場としては、

  1. (1)はあるていど認めてもよいが(あるていど、というのは、生理学的なセックスから完全に離れた、幻想としてのセクシュアリティを想定するのは、一時期のセックス/ジェンダー二元論と同じく不可能だと思うからです)、
  2. (2)には反対で、
  3. (3)は例外が多い議論だと考えます。

まず(2)についてですが、いきなりこれに向かって反論を立てるのは難しそうなので、以下では(3)に焦点を絞っていきたいと思います。

(3)のポイントについては、ショタは永山さんの、やおいは伊藤さんの専門なので、ぜひともこの二人からコメントが欲しいところです。

それで(3)が「限定されている」と僕が考える理由ですが、議論を現状に即して進める、といった以上、具体例を出しましょう。

これは、あるレディース・コミック誌の見開きです(『コミックアムール』2000年10月号、80-81ページより引用、たかみしほ画)。パッと見ておわかりのとおり、ここには実に多量な情報が書き込まれています。フキダシ、漫符、左下に直角に配置されたアオリ文句、あちこちに斜めに飛んでいるよく分からない描写説明、それにやたらと多い擬音。肝心の絵はこれらの文字のあいだにほとんど隠れてしまっていますし、右端や左上にある顔の列も気になります。しかも、これはこの短編(?)「スキャンダラスなSEX噂の真相知ってるつもり!?」の最初のページです。連載などではありません。まさにこのページから、物語が始まっているわけです。

レディース・コミックを少しでも眺めれば明らかなように、このような図像はレディコミには頻繁に見られます。ほかにも例はいくらでもスキャンできるのですが、その特徴は一言で言えば、徹底して文字が多いということです。文字がまるで絵のように使われて、地の部分を敷き詰めている。そしてそのうえに、絵は申し訳ていどに乗っている。文字と絵が逆転しているのです。こういうレイアウトを誰がやっているのか(漫画家か編集者かそれとも印刷所か?)も気になりますが、いずれにせよ、このラジカルさは10年前にはなかったものです。

それで、男性向けのエロマンガが「絵」「イラスト」に対する萌えを強力に組織していったのに対し、なぜ女性向けのエロマンガは、こんなふうに、「絵」すらも解体して、ページを埋め尽くす記号のなかに埋没させてしまう方向に進んだのでしょう?

確かに斎藤さんがおっしゃるように、やおい作品には、ストレートなセックス表現は少ないのかもしれません。そのかわりに、やおいの読者は、物語で自分の性欲を駆動している。これはこれで正しいのでしょうが、しかしそれならば、このレディコミの世界はどうでしょう? 付け加えますが、これを読んで、レディコミの読者は図像そのものではなく、その背後にある物語や設定に萌えているんだとはとても言えないと思います。というか、物語や設定を読みとるのはきわめて難しいのです。それ以前にここには、文字も絵もすべてが解体した一見カオス的にも見える平面が引き起こす、一種のドラッグ感覚というか、幻惑性があって、それが読者のセクシュアリティと直接に結びついている。こういうありかたを、斎藤さんはどのように考えますか?



『戦闘美少女の精神分析』をめぐって

網状言論たち

INDEX

Valid HTML 4.01!