さて、仕切直しの上に仕切直しを重ねるような発言をしたため、議論自体のスピードを減衰させている印象を持たれている方もいるかもしれません。
とはいえ、なるたけ「オタク論」に戻らずにすますためには、できるかぎりのことをいっておく必要があるわけです。少なくとも「とらえにくさ」問題だけでもクリアにしておかなければならない。
そこで書きだしてはみたのですが、今度はひじょうに長くなってしまった(笑)。あまりにも冗長になってしまったために急遽、サマリーを作り、そちらだけアップすることにしました。具体的な検証の部分は、必要があれば公開します。その場合には、僕の個人のサイトのほうに掲載することもあると思います。
しかし、いっておくべきことはいっておこうと思います。
問題は人が自分の「アニメ、漫画とセクシャリティ」について語ろうとする際、「萌え」や「戦闘美少女」について語ろうとする際に、対象が「オタク」という人の存在の話にすりかわっていくのか? ということですね。
ここまでの討議と、ウェブやトークでの反応、それから過去に僕が経験したり読んだりしたなかから考察した結果、そのような意見を持つにいたったわけです。
まず最初には、斎藤さんに情報を提供した人々が、「自分はオタクである」という自己規定をしていたということがあるのではないのでしょうか。彼らは趣味嗜好の話である筈なのに、「私はアニメが好きです」ではなく、「私はオタクかどうか」ということを語ってしまう。また、「私」の話だったものが「オタク」の話へとズラされていく。これは斎藤さんの誘導の問題だけではないでしょう。
たとえ、彼らが意識の上ではたとえ「自分はオタクである」という認識を強く持っていなかったとしても、人間の集団を「オタク」と「非オタク」に分割して考えるのであれば、「オタク」という語が自己の規定に使われるという意味では同じことです。極論をすれば、「オタクは〜」という主語を使った時点でもうこの枠組みに取り込まれるわけです。それは我々も同じです。
また、一方で現状では、たとえ、アニメやゲーム以外に多岐にわたる趣味を持った人であっても、美少女の図像に「萌え」た途端、なにか有徴のものにされてしまうのではないでしょうか。そこで「オタクになる」とか「ならない」とかが問題にされてしまうわけです。このように、さまざまな形で、この「趣味嗜好→自己規定」のすりかえ(あるいは短絡)が行われているように思います。それをわれわれに強いているのは何であるのか。
このため、「戦闘美少女」のような図像がどういうもので、どういう影響を及ぼすか?という問いが、いつのまにかある人格類型の話にすりかわってしまったのですね。そしてそれは、全体の問題だと思うのです。
とりあえず、以下のことを主張しておきます。
たとえば─やおいに対する男性の嫌悪、一連の有害コミック規制に対して語られた没論理の数々、そして「美少女」の図像と深く関わっている人々の自己評価の低さ─などが説明できる。また、もっと具体的には高校生の頃に女児向けのアニメを見て、登場する美少女に強く魅力を感じたことを気に病み、「僕は頭がおかしくなってしまった」とまで考えた後、「ではオタクになればいいのだ」という自己救済を行った男性の例を知っている。これは「フォビア」が自己に向かったということではないのか。もし、こうした「フォビア」があるとしたら、それは一体何であるのか。ここには考察されるべき核心があるのではないか。
……とりあえずはここまでとします。
ここを読んでいる人々の反応も見ているのですが、とくに「自分はオタクである」という認識を前提にしている人、あるいは「そんな美少女絵が好きなヤツは気持悪い」とア・プリオリに思っている人は、上記の問題について、とくに考えてみてほしいと思っています。せっかくのウェブ討論なのですから。