はからずも、斎藤さんが潜在する多形倒錯性をカミングアウトしてしまったわけなんですが、私自身、男性読者のショタ受容は「多形倒錯」なしにはあり得ないというのは前から感じていました。さらにいえばエロ漫画全体が読者全体の多形倒錯を映す鏡であり、ショタもまたその一側面であるということです。これはモザイク状に様々なセクシャリティの持ち主が混在している「読者全体」であるだけではなく、個々の読者がそれぞれの内面が多形倒錯的であるという考え方です。
さて、斎藤さんの「器官なきセクシュアリティ?」についてコメントする前に私の男性向けショタに関する考えを述べさせていただきます(これは今夏(2000年8月)開催されたSF大会の「やおいパネルディスカッション」用のレジュメ「たおやかなるファロス〜男性向けエロ漫画におけるショタコン概論」を作成中に気付いたことと内容的に重複することを前もってお断りしておきます)。
まず、私がショタに惹かれたのは元々、私自身の中に少年愛的なるものがあったからに他なりません。これに気付いたのは14〜5歳の頃でした。この件についてはあちこちで書き散らしているのでここでは繰り返しませんが、私が「素」の読み手ではないこと、以降の論にバイアスがかかっている可能性があることを明示して起きます。
男性向けエロ漫画、それも80年以降のロリコン漫画に始まるアニメ絵系エロは、それ以前の70年代エロ劇画とは豊穣なまでの倒錯性という意味において革命的変化をもたらしました。なにしろ最初から、ロリコンでメカと美少女で、中心になる作家が描くものがオムツと少女下着へのフェティシズム(内山亜紀)であり、ピュグマリオニズム(千之ナイフ)だったわけですから、これはもう別物ですね。で、乱暴にまとめるとこの初期ロリコンから童顔巨乳という変化があり、その次にシーメールやショタが登場することになります。
ここで無視できないのが、読者と作者を含めた我々の脳内にあるポルノ・レセプターの動作です。例えばレイプがテーマのエロ漫画を見る場合、我々の眼はどの位置にあるのでしょうか?
(B)には登場人物分の視点が含まれますが、分類すればこの三つとなります。我々の視点は、これらの複数の視点の中の一つに限定されてしまう場合もありますし、意識的あるいは無意識的に複数の視点を切り替えるというスィッチング動作を反復している場合もあります。(*1) (*2)
こうしたマルチ・セッションを前提とする時、描かれた身体の持つ意味もまた重層的なものとして読み解くことが必要となって来ます。この意味合いにおいて、美少女系エロ漫画の豊穣なまでの倒錯性=多形倒錯的展開を、私は(B)視点における「ワタシにとってキモチいい身体モデルのプレゼンテーション」と考えます。そこには、
の4パターンが想定できます。
例えば通常のエロ漫画の場合のマルチ・セッションは(A)視点と(B)視点の(1)と(2)という組み合わせと考えられるわけですね。数々の例外を含みながらも、ここまでが70年代エロ劇画です。それが80年代以降の美少女系エロ漫画では(2)が質的にも量的にも強調されることになるわけです。
ここで面白いのが、「過剰なる身体」の登場でしょう。一方ではこの過剰さがプラス方向に働いて、巨乳化し、さらには全部入りのシーメール化という見た目の過剰さへと至り。他方、マイナス方向に働いた「過剰さ」のあらわれがロリ、ショタという「小さい人」なのではないか? 結論を先に云えば(3)の極にあるのがシーメールで、(3)の他方の極であると同時に多分に(4)の要素を含んでいるのがロリとショタではないのか? ということです。
ショタ漫画・図像に対する視線もまた個人の中で複数存在することになります。つまりショタ図像は萌えの対象であると同時に、かくありたい(愛されたい)ワタシでもあるわけです。
この構図は当然ながらショタキャラ以外、少女キャラにも成立しますが、ショタキャラは性別的に「男性」である分、男性読者にとってはより飛躍度が低く「ワタシ」としやすいという意味では「特殊」と言えるでしょう。
商業的な男性向けショタ本の小ブームは95年の『アンダカバー・ボーイズ』(茜新社)に始まり(この年は第一回ショタケットの年でもありました)、99年に至って全滅状態となります。
この男性向けショタの短い季節は何を意味するのか? 結局、男性向けショタ本を支えていたのは「美少年は好きだけど、男×男の関係性」にはこだわらない層だったのではないのでしょうか? もちろん、そこにはゲイフォビアもあったでしょう。
「彼らにとっては『攻め』がカッコイイお兄さんであろうが、色っぽいお姉さんだろうがどちらでも良かった。そのことに送り手側も気付いたのかどうかは別として、ショタブームの美味しい部分(要するに可愛い男の子、受け身の男の子)だけが、エロ漫画全体へとフィードバックされ、敢えて突出したエッジに手をだす必要がなくなってしまったのである。ショタ的なるものの浸透と拡散現象と呼んでもいいだろうし、ショタとゲイの差異を浮き彫りにした現象と見ることもできるだろう。
やおい系ショタがあくまでも男×男の関係性の世界であるのに対し、男性系ショタは『攻め/受け』に象徴される関係性以前に男の子が可愛いかどうかというあたりがキモになっている。
つまり、読者であるボクの自己投影の器のメインとなるのはあくまでも可愛い少年なのだ。要するに『可愛いボク』『愛されたいボク』がそこにいるだけで、後はすべてオマケなのかもしれない。」
(拙稿『たおやかなるファロス』より)
とまあ長々と引用しましたが、男性向けショタの中には、こうした男性読者のオートエロティシズムを喚起する要素が強く、泊倫人(伊藤剛)の如く「ショタは『私と私のセックス』である」(「美少女エッチ漫画の基礎知識」より。『コミックゴン創刊号』97年・ミリオン出版)とすら言い切れるのです。
(PART 2 へ)
これは読み手側だけではなく描き手側にも起きている現象で、男と女の性行為を描く場合、女の側に自己投影して描いていると証言する男性作家も少なくありません。
ポルノの読み方としてさらに指摘しておくべきことは、そこには常に意図的な誤読ないしは読み替えが行われうるということです。その例として私が以前述べたのが「少女を去勢され、性転換された少年と読み替える」=スリット・ボーイズでした。これは単純にいってしまえば、第二次性徴以前の性的に未分化なプロポーションの少女像の股間を隠くせば少年と見なすこともできるということです。こうした読み替えは「ロリ←→ショタ」間のみにとどまりません。欧米のTV、TS、Sissy Boy系サイトには「グラマーなお姉ちゃんの写真」に「女装し(あるいはさせられ)た男性の物語」を付加して、一種のポルノとする「キャプションド・ピクチャー」という遊びがあります。ただ、イラストレーションや少女写真ならまだしも、「グラマーなお姉ちゃん」ではかなり無理があることも事実でしょう(無理がある分イマージナリィともいえますが)。これを考えはじめるとまたキリがないので、ここでは、現物と図像の距離、つまり現物→写真→フォトレアリズム→絵画→イラスト(漫画・アニメ絵)と現物からの距離が開くほど、その図像はより読み替えやすいフレキシビリティを持つのではないか? と指摘するにとどめますが、それを考えはじめると斎藤さんの論、
「セクシュアリティの視線のもとでは、映画も写真もアニメも漫画も、完全な等価物となります」
には違和感を憶えます。「セクシュアリティの視線のもとでは描かれた物も現物も等価物となる」という言い方も可能だし、なんでも言えてしまうのではないか? 確かにこれもまた我々のエロ視線の有様としては一面の真理ではあるのですが…。
(PART 2 へ)