さて、斎藤環さんの「器官なきセクシュアリティ?」です。ここではショタに関する部分に限ってコメントします。
もっとも、男性作家によるショタ物において、少年はほぼ確実にペニスを持つ女の子という位置に置かれています。まさにこれも、Phallic Girl の変種に当たるわけですね。だから、ここでは倒錯性は問題にならない。むしろ図像にかかわる問題意識です。ショタ物において萌えが起こるとするなら、それは図像的には顔しか拠り所がないわけですね。そこには魅力的な乳房も臀部も描かれない。なぜか年齢設定の割には異様に巨大なペニスが描かれているくらいです。この「描かれたペニス」というものも、かなり興味深い問題をはらんでいますが、それは後日論ずるとしましょう。
まず男性作家によるショタ物という前提が果たして妥当かどうかということです。
些末なようですが、読み手の側からは描き手の性別を特定することは不可能に近い以上、この前提から成り立ちません。むしろ、斎藤さんが何故「男性作家」という限定を持ち出されたのかが気になるところです。
私がショタ物に限定をかける場合は作者の性別ではなく、その作品が掲載されている媒体が主にどの性別の読者を想定しているかというあたりで「やおい系ショタ」「男性向けショタ」と切り分けます。ただ、これすらも絶対ではありません。というのも、これはやおいでもショタではない「男性向け」美少女系エロ漫画雑誌ですら、雑誌によっては目次に並ぶ作者の半分以上が女性作家であり、無視できない女性読者層を抱えているという事実があるからです。またショタオンリーのアンソロジー本にしても細かく見て行くと
というゆるやかなグラデーション分布が見られます。しかしこの分布が一般読者にとってどれほど意味を持つのかは不明ですね。余談になりますが、私が別名でショタ小説を書いていたかなりショタ寄りのやおいアンソロジーには私以外にも男性作家や美少女系の作家が寄稿していましたが、男性読者は極少数派でした。
さて、物語の構造上、少年がペニスを持った少女の位置に置かれるというのはごくありがちなことです。ただし、あっさりといってのけられる「少女の位置」とは何かということも考えたい。というのもエロ漫画における少女の属性自体がヴィジュアルも含めてひとくくりにできるほど単純ではないということです。「少女の位置」というよりはむしろ「受け身の役割」と置換した方が適切ではないのか?
さらに、ここで注意しておかなければならないのは、「ショタ萌え」を駆動するものが「物語上の役割」や「関係性」だけではないということです。もちろん、役割を付与されたトータルとしてのキャラに萌えるという側面も大きいでしょう。しかし、図像そのものへの「萌え」もまた大きいわけです。PART1で書いたように、私は男性読者のショタ萌えには、やおい系女性読者の「関係性」萌え以上にオートエロティックを起動するトリガーとしてのキャラ萌えがあると考えます。
斎藤さんが例示されている、ぽ〜じゅの少年図像は、ペニスを持った少女ではなく、中性的ではあれ、少年の骨格と筋肉を持っています。そして、その少年体型こそがショタ萌えの人間にとってはセクシャリティの記号として成り立つのです。「魅力的な乳房と臀部」のみをセクシャリティの記号とするならば、ロリはどうなるのか? ということです。ですから、
ここではむしろショタにおいて、セクシュアリティの記号がほとんど描かれないこと、それにも関わらず「萌え」が可能になることを重視しておきます。
という論は納得し難いのです。というか斎藤さんが「描かれたペニス」に触れつつ、それを一旦脇に置いて、「セクシャリティの記号がほとんど描かれない」と結論づけらるのが、これもまた気になってしまうのです。
特に男性読者を想定したショタ作品には、各種ペニス(いかにも少年らしい包茎短小からモンスター・ファロスまで)、引き締まった小さなお尻、小さな乳首、空手チョップ一発で折れそうな鎖骨、細い手足、程良い筋肉といった「男の子好き」の煩悩を直撃する性的記号が過剰なまでに盛り込まれていますし、ぴっちりした半ズボン、学校制服、BVDの白ブリーフ等といったフェティッシュもまた散りばめられています。性行為もまた、ピンキリで、半ズボン少年がちょっとおちんちんの触りっこをする程度の微笑ましいもの(これはこれで私にとっては激エロですが)から、ハードなエロ漫画を見続けて来た私ですら息を飮んでしまうような作品まであります。
「ショタ」で興味深いのは、このジャンルを支持する層の性別です。戦闘美少女が男性オタク向けなら、やおいは女性向け。しかし「ショタ」にはいずれのファンもついている。
これは拙速に映ります。PART1でも書きましたように、少なくとも「男性向けショタ」は「美少年物」という形で「浸透と拡散」し、商品として成立しないところまで来ています。少年系などのショタオンリー即売会に来る客の半数以上が男性だったとしても、それはあくまでもコアな読者層に限定されるのではないでしょうか? 無論、それでも「いずれのファンもついている」は成り立ちます。しかし、そのファンが作家的作品的にどこまで重なるのか? そこを考えると、
いずれにせよ、ショタというジャンルにおいてこの二つの視点が両立していく経緯は検討に値します。
とはならず、「結局は一部の例外を除いて同床異夢であった」と、なる可能性も大きいと思うのです。
私としてはショタ物は好きだし、「セクシュアリティの本質に関わる議論」のとっかかりとなると考えてもいます。ただ、それはあくまでも入り口で、ショタを特権化するものではありません。萌えキャラという意味では少年も少女も代替可能ですし、「ショタ」をオートエロティックな「私と私のセックス」(伊藤剛)と考えても、突き詰めれば
「身体的には男であるワタシがイマージナリィなセックスの中でまで、男(少年)である必然はない」
という結論が待っています。
ペニスを持った少女、とペニスを失った少年としての少女の距離はほとんどゼロなのかもしれません。