斎藤です。今回は、東さんと永山さんに出された宿題にまず答えておこうと思います。
東さん、素晴らしいサンプルをぶつけてきましたね。笑いすぎて反論する態勢をとるのに時間がかかりました。それにつけても、やはり「女性」は存在しない。つまり、この爆発的な下品さと女性的崇高さとの振幅はあまりにも大きく、そのすべてを同居させうる「女性」なる個人を測定するには、言葉があまりにも不足しているということです。
冗談はともかく、この図像についての私なりの解釈を述べておきましょう。なるほど、確かに一見したところでは、これは文字と画像がほとんど等価に混在する異様な空間にみえます。そこにはカメラアイはおろか、およそ構造や統制と呼びうるような作用の痕跡すら指摘しがたい。
しかし、しかしですよ。東さんはこの画面を「ドラッグ的」「幻惑的」と言われる。それは、本当にそうでしょうか。私にとっては、こうした画面はずいぶんなじみ深いものにも思えます。そう、例えば女性週刊誌の表紙なんかが良い例ですね。幻惑的ならぬ「ゲロ状態」とまで揶揄される、あの文字と画像のもんじゃ焼きは、みかけに反してかなり読みやすいものです。これは東さんが提出された漫画の例も同様で、すくなくともそこで描かれている物語や作家の意図は、過剰なまでに判りやすい。視点を変えれば、そこで喚起される情緒性は、きわめて単純素朴なものです。これを異様と感ずるときのわれわれの視点のほうが、むしろ文化人類学者のそれに異化されてしまっているのではないか。
確かにこの空間において、文字と図像の対立といった構造らしきものを指摘することは難しい。しかしそれにも関わらず、われわれはそれを簡単に読むことができる。何故でしょうか。この空間において統制的に働くのが、構造的なものではなく、その対極にあるコンテクスト的なものであるからです。私の考えでは、「スーパーフラット」空間においては、コンテクスト的統制が圧倒的に優位になります。この漫画においては、まさに女性週刊誌的コンテクストの導入によって、きわめて異様でありながら、おそろしく解読の容易な画面が成立しているのです。
次回の発言では、このコンテクスト性について、入念に論ずる予定です。
永山さんのご指摘、またまた感心させていただきました。少年愛の王道をゆく微に入り細を穿つその記述には、もちろん反論の余地はありません。ひたすら勉強になりました。読み手の感情移入の姿勢に関する分類も論議したいところですが、それは次回以降に回すとして、以下、反論というよりは弁明を試みたいと思います。
私の理論的関心は、あくまでも「日常においてヘテロな男性の欲望が、アニメ絵によって媒介された空間では少年愛にも向かいうる」という事実のほうに重心があります。それゆえの「器官なき」なのです。永山さんが述べられた「少年の器官」が日常の私を撃つことは、いまだ殆どありません。それゆえに、ここに描かれた少年の身体についても、どうもそれが萌えのトリガーになり得ているか疑問だったのです。要するに、ヘテロな日常的欲望が、アニメ絵の空間においては多形倒錯化するという、その過程こそが「戦闘美少女」の生成に関わるものだと私は考えているのです。
もちろん私にとっても、セクシュアリティに「日常」と「虚構」の区分を立てること自体が無意味である、ということが最終的な結論となります。これは私の著書でもかなり強調してきた部分です。ただ、多くのオタクが「日常世界」で裁かれてきたのは、つまるところ彼らの虚構への嗜好性がそのまま彼ら自身の倒錯性を証していると誤解されたためでしょう。宮崎駿氏ですらアニメファンのことをロリコン青年と断じて切り捨てようとする。本人が一番の責任者なのにね。
さらに言えば、いまだ執拗に反復される「オタクは現実に還れ」というスローガンも、そのヴァリエーションです。そこには「還るべき現実」そのものへの懐疑が全く欠けている。すでにお気づきのことと思いますが、私は「現実」の語を慎重に避け、「日常」と言い換えています。こうした配慮のもと、私がオタクのセクシュアリティに日常と虚構の区分を持ち込むのは、こうした鈍感さに対する政治的抵抗を企図するためでもあります。
さて、日常と虚構の区分が可能であるとして、人はなぜ自らのセクシュアリティにその区分を持ち込むのか、という疑問が浮上してきます。この問題を論ずるには、ひとまずオタクの多様性を切り捨てたほうがうまくいく。私によるオタク論が偏っているように見えるとすれば、おそらくそのためもあるでしょう。つまり、私がこの論議で想定しているオタクの典型においては、日常生活においてヘテロであること、つまり性的に「健全」であることが重要な前提となるからです。ここで「反証」を挙げるのは、ちょっと待っていただきたい。今はそうではない実例を持ち出して「現実の複雑さ」を指摘するより、理論的な単純さのほうをあえて優先しましょう。それに、かなり多くのオタクがヘテロである、という事実については、頭ごなしに否定はできないはずですから。
そこで永山さんに質問したいのは、以下の記述についてです。
少なくとも「男性向けショタ」は「美少年物」という形で「浸透と拡散」し、商品として成立しないところまで来ています。少年系などのショタオンリー即売会に来る客の半数以上が男性だったとしても、それはあくまでもコアな読者層に限定されるのではないでしょうか?
ここで言われる「コアな」方々は、日常においてもペドファイルなのでしょうか? 私は傾向としてはそうではないことを信じたいのですが。お望みなら、私自身が症例になっても構いません。出来のいいショタ物のいくつかによって私の内面に喚起された「もやもや感」、あれこそは「萌え」の端緒に違いない(笑)。どうでしょうか。
「身体的には男であるワタシがイマージナリィなセックスの中でまで、男(少年)である必然はない」という結論が待っています。
ペニスを持った少女、とペニスを失った少年としての少女の距離はほとんどゼロなのかもしれません。
この結論にはもちろん全面的に賛成です。ただ、こう断言しただけでは、それはあくまでも「直観の正しさ」あるいは「箴言的正しさ」に留まってしまう。この「正しさ」に、いかに論理的に迫りうるかということが、ここでの議論のテーマではないでしょうか。それと東さん、この永山さんの直観の正しさは、かなり精神分析的、すなわち「否定神学」的なものだと思います。それゆえ東さんには、この結論に抵抗する義務がある(笑)。私はとても期待していますよ。