斎藤です。まず、スリリングな討論の場にお招きいただいたことを感謝します。
本書の企画はおよそ五年前に生まれ、その後臨床の合間を縫って、細々と書きついできたものです。当初は東さんの存在も知らなかったわけで、しかし96年に東さんがユリイカのエヴァ論で、何というか、カムアウトしてからは、当然のことながら東さんのような立場の人にどう読まれるかを意識しつつ書いてきたところもあります。本書の文章は、扱う対象のわりには難解だと評されることもありました。しかしそれは当然のことで、浅田さんではありませんが、私は常に「最高の読者」に宛てて書いてきたつもりです。その意味で、東さんにこのような評価をしてもらうことは、何といっても大きな喜びには違いありません。個々の問題について、確かに私の見解は東さんのそれとは食い違う点も少なくないのですが、今はその点にこだわるよりも、問題意識の共有という喜びをひとまず表明しておきたいと思います。
書き始めて気付いたのですが、引用→コメント→引用とやっていくと、どこまでも冗長になってしまいます。そこで私なりにルールを決めました。
引用は最小限にとどめる。
私なりに東さんの論点を何点かに整理する。
その一つ一つにできるだけ速やかにコメントする。
という「せき立て」方式をとろうと思います。はじめはじっくり考えてから、とか思っていましたが、せっかくの「網状言論」(良い言葉ですね)の場です。スピードに真実が宿る勢いで、書きとばすことにしましょう。
今回は、まず「おたく」概念の有効性から論じてゆきたいと思います。とりわけ、「おたくというトライブ」が実在するかどうか、という点について。
最初に東さんの誤解?を訂正しておきます。私はこの本で「おたくの精神病理」というタイトルを冠してはいますが、そこでの結論は「おたくは我々と精神構造においてまったく差異はない」というものです。つまり「正常」という基準を立てることを放棄している。これは精神分析、とりわけラカン派なら当然の手続きです。治るということは一種の忘却であるとするような理論において、「健康」や「正常」という概念はことごとく無効になります。おたくもわれわれも、神経症者という点では同胞である。こちらが前提となります。
「精神病理」という表現が不適切だったかもしれませんが、これはわれわれの業界内の慣習みたいなもので、なんにでもくっつく言葉ではあるんです。「新人類の精神病理」とか、「精神科医の精神病理」みたいに。要するに私は、われわれすべてが平等に何らかの精神病理を抱えている、という視点から語ろうとしているわけです。
そうした前提のうえで、私は「おたくという幻想」について語っているに過ぎない、とは言えるでしょう。こうした分析が当事者からすれば不当にみえる、という現象は、何も「おたく」に限りません。現に東さんと山根信二さんとの対談(初出が「論座」、HPに掲載されているもの[東注:→公開中])では「ハッカー」の用語をめぐって同様の対立がみてとれる。当事者は「現場はそうではない」と言い、部外者は「私は、おたくらは社会的にそう見られている、という『幻想』について語っているのだ」と言う。私はこの議論に、結論はないと思っています。両者のロジカルタイピングが異なる以上、これは仕方がないことです。当事者はオブジェクトレヴェルにあって、みずからについて俯瞰的に語れないし、部外者はメタレヴェル、つまり俯瞰的であるがゆえに、現場のディテールを切り捨てざるを得ない。両方を無理に語ろうとすると、およそ意味をなさない議論になる。
実はこの書評も、そのような平行線に至る可能性を秘めています。著者がみずからの本について語ることと、読み手の立場から分析を加えることには、ついに幸福な融合はありえないのではないか。いかなる批判を加えられても、著者は「実はこういうつもりだった」と反論できてしまう。よって私も、舞台裏のことは禁欲し、あくまで「書かれたもの」について議論を展開したいと考えています。
80年代のサブカルシーンを代表する雑誌が月刊『宝島』だったとすれば、90年代のそれは『QJ』ということになりますね。宝島はほとんどアニメには言及せず、「おたく」に対立していたのは事実です。しかし『QJ』に至って、これらはほとんど等置されるようになった。あるいは『スタジオボイス』も然り。その意味では、東さんの指摘する「融合」は事実かも知れません。
しかし例えば、庵野秀明監督が、アニメフォーラム等でのエヴァに関する書き込みを読み、「ぜんぶ予想できることばかりで、こいつらはもうどうしようもない」と腹を立てたという話は有名ですよね。あまつさえ彼は、そうした発言者に向けて「現実に還れ」という意味の挑発を繰り返した。この、彼の怒りの対象こそが、現代の「おたく的言説空間」ではないでしょうか。私はそういう言説空間はまだあり得ると思うし、そうした言説の主体としての「おたく」も、まだ存在していると思います。
東さんや伊藤さんのように、境界的−−「境界例的」じゃありませんよ(笑)−−な感性や知性のあり方が、今の先端であるということには完全に合意します。ただ、東さんは、すでに部外者としての視点からアニメを観ていませんか?例えば東さんは「スレイヤーズ」(例が古くて恐縮です。今なら『ラブひな』?)みたいなアニメにも熱中できますか?つまり「出来は悪いけど、つい観てしまう自分が情けない」という見方が、今でも出来るだろうか?
私が想定する「おたく」とは、例えばリナ・インバース(あるいは「なる」とか?)に萌えることができ、なおかつそうした自分が社会的にどう見られるかを理解している成人男子という存在です。私は少なくとも、そういう実例を何人か知っていますし、彼らはそれほど「融合的」ではありません。後輩のコスプレ精神科医(「カードキャプターさくら」ファンです)など、まだ二十代ですが、むしろ典型例ですし、私の分析も苦笑しつつ納得していました。また、先日対談した榎本ナリコ氏によれば、「やおい」の実体性はさらに強力のようです。「やおいマンション」(笑)なるものまで存在するとか。
ただ、こうした実例主義はあまり意味がないのも事実です。所詮は身辺にこんな人も居ます、という話に終始してしまう。われわれはもっと、一般的な語り口をとるべきでしょうね。
東さんの指摘は、精神医学でもしばしば問題とされる「人格類型は有効か?」という問いに重なります。それなら私も、まったく同感です。私は実体としてのおたく人格を完全に語ることは放棄せざるを得なかった。こういうゲームは所詮はナルシシズムの所産ということになりがちだからです。むしろ「おたくという幻想」をできるだけリアルに、しかも共約可能なかたちで描出することのみを目指しました。その試みは、少なくともマニアとの対比においては成功していると思うのですが…。
次回は「おたくvs新人類」について書きます。が、このテーマ(「おたく」というトライブは実在するか)についての皆さまのコメントを、早速開始していただければと思います。今回の私の結論は、おたく部族のコアの領域は、いまなお実在するであろう、ということです。それゆえにわれわれは『おたくという幻想』について語りうるし、語らねばならないのです。