展開、早いなあ。おいてきぼりされないうちに、斎藤さんに返しておきます。
「少年愛の王道」には参りましたね。確かに少年愛傾向は強い方だと自覚していますが、私の萌える/アディクトする/欲望する対象は無数であり、露悪的にいえば「無節操」なんですよ。一応バイセクシュアルであるとカミングアウトしていますが、実際のところはそれすらも怪しいくらい「なんでもあり」なので、私は自分を「私」という名のクラスターだと考えています。さて…。
私の理論的関心は、あくまでも「日常においてヘテロな男性の欲望が、アニメ絵によって媒介された空間では少年愛にも向かいうる」という事実のほうに重心があります。それゆえの「器官なき」なのです。永山さんが述べられた「少年の器官」が日常の私を撃つことは、いまだ殆どありません。それゆえに、ここに描かれた少年の身体についても、どうもそれが萌えのトリガーになり得ているか疑問だったのです。要するに、ヘテロな日常的欲望が、アニメ絵の空間においては多形倒錯化するという、その過程こそが「戦闘美少女」の生成に関わるものだと私は考えているのです。
物語性や他の性的記号から切り離された「キャラの顔」だけに萌えるなんてことは日常的に起きています。私自身の萌えパターンとしては「顔」と「全体のフォルム」がまずあって、他の性的器官や物語性がオプショナル・パーツとして加算されていきます。だから、私にとって「器官」はフェテシズムの対象ではあれ、「萌え」のトリガーではなさそうですね。ただ、それでも「器官なき」と断言するにはためらいがある。「顔」も(性的な)器官ではないのか? というあたりでひっかかってしまう。
日常においてヘテロな男性の欲望が、アニメ絵によって媒介された空間では少年愛にも向かいうる。
これは一般論的には「事実」として受け止めることができます。ただ、気になるのは、斎藤さんがそこでショタや少年愛を特権化し「ヘテロな男性の欲望」と対置させているように読み取れる点です。もちろん、斎藤さんの意図はそんなところにはないのでしょうが、「ショタ・少年愛特殊論的」な誤読を誘発する可能性を無視できない。さらにいえば「ヘテロな日常的欲望」が何を指しているのか? いや、これも斎藤さんの戦略を判っていて敢えて云ってる部分もあるわけですが、そこを判ったフリで看過したくない。私自身は日常と非日常、ヘテロと非ヘテロと云った二分法には疑問を持っています。類別し、区分した方が理論的にはクリアになりますが、そこで行われる類別作業の基準が「一般論」という曖昧な形のコンセンサスでしかないとすれば、そこから導き出されるクリアな「論理」には、疑問を抱かざるをえない。その「疑問」の喚起すら戦略の内としても、です。
日常的欲望が、アニメ絵の空間においては多形倒錯化する
ということも私なら愚直に「本来的には無限定で多形倒錯的な欲望がアニメ絵の空間では解放される」と書きます。無論、これもまた「直感的正しさ」以上のものではないのかもしれませんが、これに「いかに論理で迫りうるか」ということは、今現在は見当がつかないというのが正直なところです。その意味でもこの議論の場には多大な期待を持っているわけですよ。自分の宿題を他人に廻しているようなところもありますけどね。
ここで言われる「コアな」方々は、日常においてもペドファイルなのでしょうか? 私は傾向としてはそうではないことを信じたいのですが。お望みなら、私自身が症例になっても構いません。出来のいいショタ物のいくつかによって私の内面に喚起された「もやもや感」、あれこそは「萌え」の端緒に違いない(笑)。どうでしょうか。
その手の統計資料がない以上、推論の域を出ないことを前提に話を進めますが、ここで私が「コアな」という表現を使っているのはあくまでも比較級であり、特定のトライブの存在を仮定しているわけではありません。ただ、ある種のクラスターを形成していることは「実際のイベントに来る男性」という形で確認できるわけです。このクラスターを構成する個々の人々がいかようなプロフィールを持っているのか? ここから先が推論になるわけですが、私としては、「多少は濃い」程度だと考えています。つまり、大雑把に「比較的ゲイ・フォビアが弱い人々」と括ることは可能だと思いますが、それ以上の括りはあまりにもこぼれ落ちるものが多すぎて、かえって全体像を歪める結果になります。その意味で「日常においてもペドファイルなのでしょうか?」という質問に対しては「存在するでしょうが、社会全体における存在率より高いかどうかは判りません」としか答えようがありません。
斎藤さんの内面に喚起された「もやもや感」がどのようなものかは知るすべもありませんが…、いや、「(笑)」をつけて照れるあたりにすでに症状の一端が出ています。それは、やはり「萌え」ですね。もはや「もやもや」ではなく「萌え萌え」ですよ。