東です。
本当は竹熊さんの発言を待ってから、と思っていたのですが、発言2には僕に直接向けられた項目があったので、そこへの答えだけ記しておきます。
まず、以下の点。
そうした前提のうえで、私は「おたくという幻想」について語っているに過ぎない、とは言えるでしょう。こうした分析が当事者からすれば不当にみえる、という現象は、何も「おたく」に限りません。現に東さんと山根信二さんとの対談(初出が「論座」、HPに掲載されているもの)では「ハッカー」の用語をめぐって同様の対立がみてとれる。当事者は「現場はそうではない」と言い、部外者は「私は、おたくらは社会的にそう見られている、という『幻想』について語っているのだ」と言う。私はこの議論に、結論はないと思っています。両者のロジカルタイピングが異なる以上、これは仕方がないことです。当事者はオブジェクトレヴェルにあって、みずからについて俯瞰的に語れないし、部外者はメタレヴェル、つまり俯瞰的であるがゆえに、現場のディテールを切り捨てざるを得ない。両方を無理に語ろうとすると、およそ意味をなさない議論になる。
これは了解しました。僕も一般的には同意見です。
ただし、ここで山根氏との対話を引き合いに出されたのはいささか正当ではない。というのもあの対談は、一方で山根氏はハッカーとして、他方で僕は人文科学者として、はっきりとした立場の違いを前提にして行われたものだったからです。そしてその立場の違いは、言ってしまえば大学制度が与えている。「真のハッカー」を山根さんが主張できるのは、彼が技術者として訓練を受けたからだし、それに対して僕が「とはいえハッカーという幻想はある」と答えを返せるのも、また僕が別種の訓練を受けたからです。
それに対してここで、例えば竹熊さんは真のオタクだが、僕や斎藤さんは真のオタクではない、とそのように話の前提を作ることはできない。斎藤さんはそれを望んでいるようですが、少なくとも、僕はそんな立場は取れません。なぜなら、「自分がオタクかそうでないか」を定める制度や基準など一切ないからです。ロジカル・タイピングが分けられるのは、自分の立ち位置が明確な場合だけです。そしてそれを明確にするのはつねに制度です。しかし僕たちは、制度のないところで討議を行っている。
というわけで僕たちは、斎藤さん流に言えば「意味をなさない議論」を続けざるをえないわけです。
さて、それで斎藤さんは、
ただ、東さんは、すでに部外者としての視点からアニメを観ていませんか? 例えば東さんは「スレイヤーズ」(例が古くて恐縮です。今なら『ラブひな』?)みたいなアニメにも熱中できますか? つまり「出来は悪いけど、つい観てしまう自分が情けない」という見方が、今でも出来るだろうか。
と質問されているのですが、それに対する僕の答えは、当然、「できる、しかもよくしている」というものです。そうでなくて、なぜ『アキハバラ電脳組』を発見できたでしょう(笑)?
『スレイヤーズ』はともかく(とはいえ、僕はこのシリーズもけっこう見ていたのですが)、例えば僕は、『セイバーマリオネットJ』や『ラムネ40』のような、一般に寒いと思われがちな作品もバッチリ楽しんでいます。そして僕が僕である以上、やはりあれらの作品にも妙な自己言及性を発見しそれを喜ぶことにはなるのですが、しかし、まず初発の欲望としては、ことぶきつかさの絵が好きということでしかない。『アキ電』への注目はその延長線上にあるものです。そして僕は、ことぶき以上に危険な牌もたくさん抱えています。例えばたまき聖とか。
というわけで、僕もまた「部外者」に引き込もうという斎藤さんの誘惑に対しては、丁重にお断りしておきます(笑)。僕はオタク的な欲望に対して、決して部外者にはなれません。にもかかわらず、僕は、自分の別の趣味の問題として「部外者のような語り口」でその欲望について語るしかないのですが。
で、そのようにお答えしたうえで逆に伺いたいのですが、上記のような「平行線」を避けるのが大事だとして、それで結局、斎藤さんは『戦闘美少女の精神分析』で「オタク」について語ろうとしたのか、それとも「オタクという幻想」について語ろうとしたのか、どちらなのでしょう?
もし「オタク」について語っていたのだとしたら、僕の疑問は前の質問のとおりです。僕にはオタクというトライブは1990年代に決定的に変質していて、もはや昔のようにオタク全体をひとまとめには捉えられないと考えている。
他方、「オタクという幻想」について語っていたのだとすれば、斎藤さんの著作はその方向ではいささか不十分だったように思える。というのも、斎藤さんの分析は一般に、岡田斗司夫氏の著作や友人の手紙たちなど、オタクの側の自己規定をそのままストレートに資料として使っているからです。しかし僕は前回も書いたように、90年代の「オタク」はもはやメディア的なイメージだったのであり、岡田氏や友人氏は、その流通する「オタク」イメージをそのまま演じていただけのように思えるのです。
「オタクという幻想」について語るのなら、オタクの発言をそのまま聞いていても何にもならない。むしろその幻想を分析するためには、なぜこの時期に「オタク」が突出して語られるようになったのか、そして「オタク」について語ることで誰にどんな利得があったのか、いささか社会学的に考える必要があるでしょう。最初に僕が宮台真司から話を始めたのは、そのためです。
以上です。今度こそ、ほかのみなさんの発言を待ちます。