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●東−斎藤討論の「噛みあわなさ」について

さて、実をいうと「オタクという共同体」について書き始めていたのですが、かなりの長文を費やしたにもかかわらず、まとまらないので一時中止にしました。理由は斎藤さんの『戦闘美少女の精神分析』にもある通り、オタクを定義づけることの困難性によるものがひとつ。それからもうひとつ、既に始まっている東−斎藤討論が、見事に噛みあっていないためです。

斎藤さんは「おたく」を定義づけることの困難を承知しつつも、「おたく的なるもの」そして「共同体としてのおたく」が実在することは疑いえないとして、それを自明の前提として『戦闘美少女』を執筆されている。他方、東さんは、宮台論文を引用しながら「共同体としてのおたく」はかつて存在したが、それは90年代に入って事実上消滅したのであり、現在メディアに流通しているそれは「オタクという幻想を共有する集団」に過ぎないのだとするわけですね。

さあ、この議論に僕はどう絡めばよいのか(笑)。正直すごく困っているのですが、この「立脚点の相違」は、これはこれで90年代以降の文化状況の混乱を読み解くうえで、きわめて面白い問題を内包していると思うんですよ。今しばらく「この議論はどうして噛みあわないのか」という点に着目して、僕の意見を述べてみたいと思います。

最初に僕の立場を表明しておきますと、「共同体」問題に関して言えば、おおむね東さんの意見に賛成です。ただし、僕は「共同体としてのおたく」が「消滅した」とまでは思わないのですが。それが「消滅しつつある」ことは認めつつも、現在もそれはまだ存在するだろう、とは思うんですね。

かつて全共闘運動が華やかなりし頃、「学生運動」は確かに実在した。それが70年代以降の政治的・経済的諸条件の変化によって、学生活動家は肝心の学生たちの支持を失い、80年代に入る頃には完全にその存在意義を失墜させている。しかし「学生運動」はいまだに存在するわけです。中核や革マルのような「職業的革命集団」だって存在している。たとえそれが生ける化石にすぎないにしてもですね。あるいは「ニューエイジ」や「ヒッピー」でもいいですよ。70年代中盤をピークに、日本のニューエイジ文化は失速していきましたが、それでもある種の市民運動(エコロジーとか)のかたちでは現在も残っている。ハードコアなヒッピーだって、ほとんど一般市民の目には触れないけれど、今でも長野や沖縄にはそれなりに住んでいるわけです。

この意味では「オタクという共同体」だって、まだ存在していると思うのですよ。ただ、それが今後マスとして発展していくかといえば、たぶんないでしょうけどね。したがって、東さんがそうした「消え行く共同体」を語ることに積極的な意義を認めないというのなら、それはそれで分かります。

しかし東さんは、「共同体としてのオタク」を否定する一方で、「個としてのオタク」ないしは「オタク的なるイメージ」は今でも存在していることを認めているのでしょう?仮に「純オタク」(それがどんなものであるかは、今は脇に措いときます)が消滅しているとしても、「オタク的な要素をもった人間」が今でも存在することは認めているわけですよね。他ならぬ東さん本人がそうなわけですし(笑)。

となればこれは、あらゆるカルチャーにつきものの「浸透と拡散」ってやつで説明はできないでしょうか? 70年代初頭、たしか筒井康隆が「SFの浸透と拡散」という言葉で「純SF」の未来を悲観したことがあります。70年代のある時期までのSFは、一部のセンス・エリート(SFマニア)たちの特権的な読み物でした。しかしこれが商業化する過程で「SF的ガジェットを散りばめた通俗読み物」に変化し、「SF的な要素」は小説のみならずマンガ・映画・TVに浸透していく。その一方で、SF特有の知的な面白さは限りなく薄められていったわけです。これを「浸透と拡散」という言葉で嘆いたわけですね。(結局それは80年代以降に現実となりました)

しかしそれでもSF大会というかたちでコアなマニア集団は存在しているし、読むべきSFもまだ存在するわけです。「エリート集団としてのSFマニア」はさておき「SF」それ自体を語る意義はまだあるわけですよ。学生運動が失墜しても、マルクスを語る価値はまだあるように。

同様に「オタク」について語る意義はまだ大いにあるのではないか。過去に精神医学の立場からそれを研究したものはほとんどなかったわけですし、現在、それを語りうる最良の位置にいるのが斎藤さんであることに異論はないでしょう。また東さんは「オタクという幻想」とおっしゃるが、共同体が共同体であるためには何らかの価値観(幻想)が必要なわけで、こうした意味からも「幻想共同体としてのオタク」を語りうることは、充分可能なのではないでしょうか。

とはいえ、斎藤さんの本を読むと、「オタクが成立した歴史的過程」をあっさりやり過ごしている感は否めません。まあ斎藤さんの関心が「オタクの歴史」ではなく、「いま、そこにいるオタク」にあるのだからやむをえないとは思いますが。これについては、斎藤さんが宮台論文をどう考えるか、ご意見を待って続けたいと思います。

ちなみに斎藤さん、僕も東さんに指摘されるまでくだんの宮台論文は未読でしたが、読んで驚きました。オタクと新人類の成立過程について、これほど明快に論じられた文章を読んだのは初めてですし、「オタク第一世代」である竹熊の立場からも、大いに頷ける内容でした。もし未読なら、ぜひ読んでみてください。僕や東さんの言っている意味がすっきり理解できると思いますし、斎藤さんの今後のお仕事にも有益と思いますので。


●オタクにおける「密教」と「顕教」について

以下は雑感的に、斎藤さんの「おたくの定義」について思うところを述べます。

斎藤さんは「私はマニアの一部がメディア環境の変化に対応して一種の『適応放散』を遂げた形が、現在のおたくなのではないかと考えている」(p31)と書かれています。これには僕もまったく異論はありません。ところが「おたく」そのものを定義することについては、かなり苦戦されている。僕から見ても、斎藤さんの定義づけは、いささか混乱しているのではないかという気がしてなりません。

たとえば斎藤さんは岡田斗司夫氏を例に挙げて「『おたく』を自認するためには、おたくを逸脱しなければならない」(p25)「この『自認が逸脱につながる』ところに、おたくの定義が困難であるひとつの原因があるのではないだろうか」(p26)と書かれています。

ここからわかることはオタクには「オタクを逸脱するオタク」(斎藤さんの言葉を借りればオタク・エリート)と、「自認に至らないオタク」(普通のオタク)の二種類がいる、ということですね。ところが斎藤さんのその後の文章を読むと、もっぱら「オタク・エリート」について書かれていて、「普通のオタク」についてはきちんと定義されていないように思うのです。

斎藤さんは「おたく」と「マニア」の違いについて、マニアは「実体志向」、おたくは「虚構志向」とし(これについては異論はないのですが)、続けてこのようにオタクを定義されます。

「彼らは自分の執着する対象に実体と呼べるものがないこと、その膨大な知識が世間では何の役にも立たないこと、あるいはその無駄な知識が(とりわけ『宮崎勤』以降)軽蔑され、警戒すらされかねないことを知っている。そして、それを承知の上で、ゲームのように熱狂を演じて見せ合うのだ」(p34)「この『斜に構えた熱狂』にこそ、『虚構コンテクストに親和性の高い』おたくの本質があるだろう」(p34)「おたくはたんに多くの情報量を持っているだけではなく、こうした虚構の水準を瞬時に固定したり、鑑賞するレヴェルを切り替えたりする技術を持っていなければならない。これはひとつの作品世界にのみべったり惚れ込んでしまうのではなく、どこか醒めつつ熱狂しているような姿勢につながる」(p44)

斎藤さんは「虚構コンテクストを自在に切り替え、醒めつつ熱狂する存在」としてオタクをとらえられている。これ自体には僕にも思い当たるふしがあり、、実に見事な指摘だと思います。しかし……不当な揚げ足をとるつもりはないのですが……やはり、最初の疑問に僕は戻ってしまうのです。つまり、これはどこまでも「オタクを逸脱したオタク=オタク・エリート」の定義であって、これ以外にも、量的にはこれより膨大なはずの「虚構コンテクストに親和性の低い、普通のオタク」がいるのではないかと。

たとえば僕自身、『私とハルマゲドン』で幾度も自分が「オタク」であることを強調しています。つまり斎藤さんの言葉を借りれば「おたくを逸脱したおたく」です。そして自分自身、実はその通りだと思うのです。僕は昔から「キャラ萌え」がよくわかりませんでしたし、セル画マニアや声優など、僕に言わせると「作品の枝葉末梢」に一喜一憂する周囲のオタクを「ミーハー」と呼んで軽蔑してきた過去があります。それでは僕にとってのマンガやアニメに熱狂する行為の意味は何かといえば、それはなによりも「大人社会への反抗のかたち」だったと、振り返って思うのです。

これは僕だけではなく、「オタク第一世代」に属する人間で、今でも「オタク」を自称する人間の、共通の傾向だと僕は思います。どういうことかというと、およそオタクには「オタクを逸脱するオタク」と「ミーハー・オタク」の二種類がいると思うのです。そしてそれは最近できあがった構図ではなく、最初からそうだったのだと。

オタクの「名付け親」である中森明夫というのがいますね。僕は昔から彼を知っているのですが、彼も典型的な「オタクを逸脱したオタク」でした。そして彼と大塚英志が喧嘩した『漫画ブリッコ』事件というのは、「オタクを逸脱したオタク(エリート)」である中森明夫が、「ミーハー・オタク」を「おたく」と呼んで差別したというのが真相なのです。

その後中森氏は野々村文宏氏らと共謀しニューアカ方面に接近して「新人類」と呼ばれたのはご存知の通りです。野々村氏もまた熱狂的な「ウルトラマンおたく」でした。このことから何がわかるかというと、現在オタク・エリートをもって任じている30代後半〜40代前半のオタクたちの正体とは実は「新人類」そのものだということです。ただ「商売」の対象がニューアカではなくマンガやアニメや特撮であったので、そのため80年代は単に「出遅れていた」にすぎません。

僕は斎藤さんの言う「おたくを逸脱したおたく」のことを「オタク密教」と呼んでいます。あらゆる思想には密教と顕教があるわけですが、顕教のみでその思想の全体を語ることはできませんし、逆もまたしかりです。僕は、斎藤さんのオタク定義の混乱は、「密教」と「顕教」がごっちゃになったところから来る混乱ではないかと思うのです。

長くなってしまったので、本日はこのくらいにしておきます。



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