発言6
- 発言者:東浩紀
- タイトル:ちょっと交通整理
- 時間:2000/7/21/ 5:55 AM
東です。ちょっと司会的に議論を整理します。といっても、僕もまた発言者なので司会も辛いところですが。
まず発言1においては、東浩紀は、
- オタクについて語ることの有効性について
- セクシュアリティを特権化することの有効性について
の大きな二つの方向を示したうえで、
1の傍系として
- オタクという部族は存在するか?
- むしろ斎藤さんのオタク論は実はサブカル一般についての議論ではないか?
- したがって「戦闘美少女」の特殊性が、斎藤さんの議論だと実は取り逃がされていないか?
の3つの質問をしています。
しかし、斎藤さんのお答え(発言2)、僕の返答(発言4)、竹熊さんの返答(発言5)はすべて1-a あるいは1-b が問題になっているので、ある段階で1-cにも移行しましょう。そうでないと、オタクの定義をめぐる歴史的な考察に話の重点が移り、斎藤さんの本の内容から議論がどんどん離れていくように思います。
さて、で、僕は決してオタクについて語ることの有効性を認めないわけではないし、また「オタクはいない」などという極論を言ってみているわけでもないのですが(そんなだったらこのメール書評をやっているわけがない!(笑))、斎藤さんのオタクの捉え方には、いささか強い疑問を覚えたわけです。だからその疑問からこのMLも始めたわけですが、その結果、オタクの定義に関わるいくつかの立場が明らかになってきたように思います。
話を簡単に整理すると、どうやら僕と斎藤さんと竹熊さんの立場の違いは(自分の部分をちょっと補うと)こんな感じです。
東浩紀:
- オタクという部族の出現はきわめて80年代的な現象で、90年代にはそれは消滅と拡散に向かっている。
むしろ90年代には「オタク」とは特殊なメディアイメージで、オタクについて語ることがクリシェになっているフシもある。だから、いまオタクそのものについて語るとき、オタクを自称する人々の自己規定をそのまま参照しても、あまり分析にはならない。
他方、90年代には「オタク的」な作品や商品は社会に蔓延しだしているわけで、そちらの構造は分析する必要がある。つまり現在必要なのは、オタク論(人についての議論)ではなく、「オタク的なもの」論(作品についての議論)である。
斎藤環:
- オタクという部族はいまでも存在している。現に斎藤氏の周辺には、典型的なオタクが何人かいる。
オタクについて語ること(内部から語ること)と、オタクという幻想について語ること(外部から語ること)に違いがあるのは認めたうえで、現在、外側からオタクについて語ることは必要である。
ただし、斎藤氏のオタク論は決して人格類型論ではない。むしろ斎藤氏は、オタクが「オタクである」ための幻想の構造を分析している。
竹熊健太郎:
- オタクという部族は消滅しつつあるが、他方そのコアはまだ存続しており、それについて語る必要は十分にある。
90年代に「オタク」は特殊なメディアイメージとして流通したが、そのイメージを自己規定として共有する共同体がある以上、オタク論はいまでも必要である。そのうえで斎藤環のオタク像には、重要な混乱があると思われる。
斎藤氏は「オタクを逸脱するオタク」(オタク・エリート)と「自認に至らないオタク」(普通のオタク)を分けているが、後者については語っていない。しかし竹熊氏の実感としては、オタクエリートは、80年代の段階でも新人類と融合している。他方、普通のオタクはむかしもいまも大量に存在しており、こちらには斎藤氏の分析は当てはまりにくい。
それゆえ私たちは、「オタクエリート」について語るのか、「普通のオタク」について語るのか、その区別を明確にする必要があるだろう。
以上です。これを叩き台にして、以下議論を進めてください。