竹熊さん永山さんの文章、ひたすら感心して読みました。こんな濃いものをタダで読ませてもらって感謝します。それとともに、網状言論グループの、だいたいの立場の食い違いは判ってきました。
このメールでは、まず東さん、竹熊さんからの異義ないし質問について回答します。これに続くメールで、私なりのオタク幻想について、できるだけ整理して述べておきたいと思います。
まず東さんの疑問から。
したがって僕は斎藤さんの問題は、オタクの病理というより、日本のサブカルチャー一般の、あるいは国際的なポストモダン文化一般の特性として問われるべきだったように思えてなりません。「ヒステリーの症状が虚構空間、すなわち視覚的に媒介された空間的に鏡像的に反転したもの」(p.272)というオタク文化の精神分析的な特性――これを僕流に乱暴に言い換えれば、「象徴界の欠如をイメージの操作によって何とか補おうとしたもの」ということになるわけですが(象徴界の欠如という概念を認めるかどうか、というクリティカルな話はちょっと横に置いておきましょう!)、この特徴は、ジジェクも示唆するようにアメリカのサブカルチャーもまた規定しているものではないでしょうか?
オタクとサブカルが、あるいはポストモダン文化が同一物であるかどうかについては、次のメールで触れたいと思います。簡単に言うと、この議論にはやはり抽象のレヴェルで混乱があるように思います。それから、拙著からの引用部分「ヒステリーの症状が…」以下は「オタク文化の特性」ではなくて「戦闘美少女という表象物の特性」です。原因と結果は違う、という意味では、両者は別物ですので、いちおう念を押しておきます。
象徴界の欠如をイメージ操作で補う、という視点は、おそらく精神分析家はとらないと思います。この点で東さんの議論は、実はラカン派の異端である藤田博史さんの発想ときわめて近いものがあります。詳しくは例えば「人間という症候」(青土社)p.176- の議論をご参照下さい。
簡単に言うなら、われわれ日本人は、日本語という「言語に似て非なるもの」を語る存在であるがゆえに、想像的なものに親和性が高く、よって日本人は倒錯的なのである、という議論です。この解釈が正しいかどうか、それはともかく、この種の議論は、実はあまり新鮮味がない。もちろん戦闘美少女をこの文脈で語ることも、十分に可能だったけれど、しかし、それではつまらない。この本は、この種の議論に対する精神分析的な抵抗として書かれているという点を、あらためて強調しておきます。
で、そのようにお答えしたうえで逆に伺いたいのですが、上記のような「平行線」を避けるのが大事だとして、それで結局、斎藤さんは『戦闘美少女の精神分析』で「オタク」について語ろうとしたのか、それとも「オタクという幻想」について語ろうとしたのか、どちらなのでしょう?
そのいずれも、というか、これらはそもそも分割不可能なのではありませんか?というのも、「オタク」と「オタクという幻想」は、一種のフィードバックループを介してカップリングされ、自己生成的に変容する存在として私には見えるからです。
もし「オタク」について語っていたのだとしたら、僕の疑問は前の質問のとおりです。僕にはオタクというトライブは1990年代に決定的に変質していて、もはや昔のようにオタク全体をひとまとめには捉えられないと考えている。
これについての異義は、次のメールで書きます。
他方、「オタクという幻想」について語っていたのだとすれば、斎藤さんの著作はその方向ではいささか不十分だったように思える。というのも、斎藤さんの分析は一般に、岡田斗司夫氏の著作や友人の手紙たちなど、オタクの側の自己規定をそのままストレートに資料として使っているからです。しかし僕は前回も書いたように、90年代の「オタク」はもはやメディア的なイメージだったのであり、岡田氏や友人氏は、その流通する「オタク」イメージをそのまま演じていただけのように思えるのです。
オタクはオタクを演ずるもの、という部分はないでしょうか。「新人類」はこうした 「病識」に乏しかったような気がしますが、オタクは自らに関わる幻想に、かなり自覚的 なひとが多いように思います。
「オタクという幻想」について語るのなら、オタクの発言をそのまま聞いていても何にもならない。むしろその幻想を分析するためには、なぜこの時期に「オタク」が突出して語られるようになったのか、そして「オタク」について語ることで誰にどんな利得があったのか、いささか社会学的に考える必要があるでしょう。最初に僕が宮台真司から話を始めたのは、そのためです。
逃げを打つようですが、私の関心事はあくまでも、オタク共同体から「戦闘美少女」という表象物が生成してくるプロセスです。オタクについて記述したのは、それが不可欠な前提であったためで、執筆当時はオタク論自体が関心事ではなかった。こちらの問題系は、むしろ東さんや伊藤さんの自己分析に期待したいのです。なぜあなたがたは、自らのオタク性を否認しようとはせず、積極的に語ろうとするのでしょうか?私に言わせれば、この身振り自体がすでに、オタク的ではないのですが。
次に、竹熊さんの疑問に答えます。
とはいえ、斎藤さんの本を読むと、「オタクが成立した歴史的過程」をあっさりやり 過ごしている感は否めません。まあ斎藤さんの関心が「オタクの歴史」ではなく、「いま 、そこにいるオタク」にあるのだからやむをえないとは思いますが。これについては、斎 藤さんが宮台論文をどう考えるか、ご意見を待って続けたいと思います。
宮台さんの論文は、たいへん参考になりました。ただ、かつて私も多変量解析で論文を書いた経験から言うなら、統計の結果と幻想の記述は一定の距離を置いて語られる必要がある、とは思いました。
東さんの引用した箇所や、全共闘世代以降、コミュニケーションの共通の前提をなくした結果として島宇宙化が起こり、新人類やオタクはその点では同一である、という議論にも一定の説得力は認めます。ただ、その細かい検討はひとまず措くとして、宮台氏の論調は、ちょっと目的論的すぎないか、という疑問はあります。宮台氏の依拠する社会システム理論は、私の記憶が確かならルーマンのそれですが、そのルーマンが依拠するマトゥラナらの「オートポイエーシス」理論は、こうした目的論を排除したところから出発します。宮台氏がルーマン派であると仮定して、それに忠実である必要は必ずしもないわけですが、それにしても目的論の排除は、システム理論の重要な前提ではなかったか。
コミュニケーションの前提がない、同一性が混乱する、そうしたことの帰結が島宇宙化とされるのは、流れとしては判りやすい。しかしこうしたことは、受け手の側ではなく、むしろ作り手を変容させた可能性はないでしょうか。つまり、イデオロギーの喪失は、表現の前提の喪失であった、と考えること。山上たつひこの表現の変遷ぶりは、こうした点から興味深いものがあります。宮崎駿にもこうした喪失感はあったはずです。そのことが表現の質を変え、受け手の感受性を変化させた、という方向性ですね。
斎藤さんは「虚構コンテクストを自在に切り替え、醒めつつ熱狂する存在」としてオタクをとらえられている。これ自体には僕にも思い当たるふしがあり、実に見事な指摘だと思います。しかし……不当な揚げ足をとるつもりはないのですが……やはり、最初の疑>問に僕は戻ってしまうのです。つまり、これはどこまでも「オタクを逸脱したオタク= オタク・エリート」の定義であって、これ以外にも、量的にはこれより膨大なはずの「虚構コンテクストに親和性の低い、普通のオタク」がいるのではないかと。
議論がかみ合わない一つのポイントがこれですね。「普通のオタク」をどう捉えるか。
私はこの記述を、あくまでも普通のオタクの記述として書きました。逆に言えば、こういうメタ的視点の転換を自在に行えるマスとしての「普通のオタク」が存在しなければ、「ナデシコ」があれほどヒットした理由が説明できないのではありませんか?
と、いくつかの疑問に回答したところで、いったん終わります。次のメールでは、もう一度「普通のオタク」を見つめなおす(笑)ところから、出発したいと思います。